サムライスピリッツ 破天降魔の章 小説版 サムライスピリッツ 破天降魔の章

著者、岸間氏の描かれるサムスピ世界はメディアミックスの枠を超え、
本格的な歴史小説を読んでいるかのように錯覚させる。
表現力豊かな筆運びからは、山の描写では土の匂いが、海の描写では潮の香りが、
そして何より江戸の気配がそこには感じられるのだ。

これだけの筆力を持つ作家があの支離滅裂な破天降魔の章を黙って見ていられるはずもなく、
この小説版では基本、原作アニメをなぞっていながらも随所に修正の手が入っている。
実際、アニメ版のツッコミポイントのほとんどを潰されているのだから、
驚かされると共に納得させられてしまうのだ。
もはやこの小説版こそが本当の破天降魔の章と言えよう!
ここでは原作アニメの違和感がどのように修正、または解説されているのかに触れてみよう。
岸間さん天才!



と思ったらアニメ版の脚本も同じ人じゃないの(゚□゚ノ)ノ
やはり作者も出来上がった物を見てオレは間違った、と思ったのだろう。
作者が本当に描きたかった破天降魔の章はきっと、この小説版のはずである。



どうして牛を素手で倒すの?

冒頭、覇王丸が暴れ牛を止めるシーン。
サムライアニメで、主人公の最初の見せ場なのだから当然その豪剣を見せてくれるのかと思いきや、
彼は「うりゃあ!」と叫びながら素手で牛を投げ飛ばしてしまう。そして自信満々に「参ったか!」
これは空手のアニメか? そんな違和感を持った人も多いだろう。
だが、この小説版では覇王丸はきちんと刀を抜き、牛の眉間に刃を突き立てる。
映像化するには少し残酷な演出だけに変更されたのだろうか?
いずれにせよ、剣士覇王丸の強さを印象付ける見事な変更である。

どうして天草は半蔵に気づいてたのに無視したの?

江戸城、将軍徳川吉宗の行く隠し通路の先には天草四郎時貞と邪神兵達が潜んでいた。
それを陰から見張る服部半蔵。
しかし、天草はそれに気づいていたにも関わらず、「いずれ退治してくれよう」とスルー。
結果、服部半蔵らの先導で民衆が立ち上がり、天草は敗れるのだから、
余裕だったにしてもあまりにも情けない話である。アホである
だが、この小説版では、

「ネズミがおるか……まあよい。いずれ退治してくれるとしよう……。
 沈む前の船からはネズミがいちはやく逃げだすと言うからな。
 ネズミがいるうちは、この邪神城も安泰と言うわけだ。ふふふふ……」


と、一種の願掛けと引っ掛けて粋な余裕を見せた、ということになっている。
どちらの天草にボスとしての格を感じるかと言われれば、考えるまでもないだろう。

茂一郎氏は何がしたかったの?

茂一郎と言えば言わずと知れた覇王丸の村の住人なのだが、
アニメ版だと彼は自分の家だけは焼かない約束で、
自分の村を襲う手配をしたように描かれている。
その後、アースクェイクに約束を破られ、死亡。
なぜそんなことをしたのかがイマイチよく判らなかった。
だが、この小説版では天草の目安箱に覇王丸に聖剣士の疑い有り、
と紙を投げ入れたのが他ならぬ彼
で、
その結果、村を襲う手引きに繋がってしまったと解説されてある。
さらにアースクェイクに殺されることなく生き延びて、
江戸城で覇王丸を罠へ追い込む手引きまで行った(アニメ版では名もない女性が同じことをする)

と、こう書くとますます茂一郎氏は酷いヤツだ。腐れ外道だな、茂一郎氏ねと思われるだろうが、
その後、邪神軍が再び覇王丸の村(まだ半死半生の覇王丸と子供達がいる)を襲うシーンで、
何と茂一郎氏は半蔵らと共に立ち上がった民衆軍の一員として、今度は村を守るのである。
臆病さ故に間違いを犯した茂一郎氏が勇気を振り絞り、
戦う姿に打たれた覇王丸は暗黒神の誘惑を断ち切り、復活。
しかし、茂一郎氏はすでに致命傷を…… 涙なくしては読めない名場面を演出した。
茂一郎…… お前もまさしく強敵だった……!

五郎は何がしたかったの?

五郎と言えば言わずと知れた覇王丸のケンカ友達であり、
天草に拉致されて邪神兵と成り果てた男である。
必死に息子を捜す母、お種とついに再会する五郎だったが、洗脳された彼は母を認識できず、
縋り付く母にもぞもぞと抵抗した後、結局、母は背後から別の邪神兵に刺され、死亡。
どうも中途半端な演出に終わった。
が、しかしこの小説版では、五郎自身が母を斬るという衝撃の変更がされてある。
やっと息子と再会し、息子の手にかかって逝けた母はどこか幸せそうだったという……
演出として意味のあるエピソードへと昇華したと言えよう。
親殺しは放送できなかったのだろうか?

どうしてナコルルお姉さんは笑顔なの?

親を失い、村を焼かれ、涙を流しながら村人達の墓を作る覇王丸。
そこへやって来たナコルルは一部始終を知っているにも関わらず、
「やっと巡り合えたわね!」と満面の笑みで語り掛け、
激昂した覇王丸に斬られそうになる。幾ら何でも空気を読め。
空気読め、ナコルルと言わざるを得ない迷シーンである。
だが、小説版ではこのシーンはカットされている
まぁ、当然と言えば当然だろう。
スポンサーから「ナコルルはかわいく笑顔で!」と指示でも入っていたのだろうか?

聖剣士達の移動手段はどうなってるの?

突然ワープしたり、空を飛んだり、しかし急いでいる場面に限って普通に走っていたりと
まるで意味の判らない聖剣士達の移動手段。いや、移動能力か。
特に村を滅ぼされた覇王丸が怒り、江戸城へ向かうシーンなどはオーラが爆発し、
目が慣れた頃にはすでに忽然と姿が消えていた。これは瞬間移動に見える。
が、次のシーンでは普通に走っている。追う聖剣士達も走る。これは一体どういうことなのか?
小説版の解説によると、覚醒した聖剣士は一山くらいなら瞬時で駆け抜けることが可能らしい。
なので、映像ではただ走っているだけに見えても実際は物凄いスピードで走っているのだ。
空を飛ぶシーンについては後述とする。

覇王丸は「天草!」「天草!」と言いすぎじゃないの?

小説ではそんなに言ってなかった。

洗脳されただけの邪神兵を斬って良いの?

五郎のエピソードの通り、天草の私兵にして今作におけるザコ兵、
邪神兵は拉致され、洗脳されただけの何の罪もない若者達である。
それを善なる意思の集合体であるアニスレイザの聖剣士達がバッサバッサと斬り殺す。
……良いのか? 誰もがそう、良心を痛めたことだろう。
その辺の部分はこの小説版によると、
「言ってきくような連中じゃないぜ!」(ガルフォード談)ということらしい。
最終的にはパレンケストーンの力で彼らも元に戻ったようだ。生き残りだけ……

どうして天草は捕らえた聖剣士達を殺さないの?

首尾よく覇王丸とシャルロット以外の聖剣士達を捕縛した天草だが、
彼は捕らえたまま聖剣士達をずっと放置し、結局復活した彼らに敗れている。
「貴様等六人の魂を取り込んで、我が暗黒神は完全体となるのだ」
とのことだが、それならなぜさっさと取り込まなかったのか? これではあまりにもアホである。

この辺、小説版によると聖剣士は例えこの場で殺したとしても、
すぐにまた転生して来るために意味がないとされている。
ある意味で彼らは不死身なのである。実にタチが悪い
その為、天草は“暗黒神に取り込む”という儀式で滅ぼさねばならないわけだが、
それを全員同時にやりたかったらしい。
きちんと覇王丸とシャルロットも捕らえて、一度で終わらせたかったようだ。
六人揃えないと行えない儀式だったのか、あるいは何回も同じことをやるのが面倒だったのだろう。
一度で済むならそうしたいと思うのが人情である。その点で天草は責められまい……

どうやって覇王丸の村へワープしたの?

聖剣士達の移動能力は一山を一瞬で超える瞬歩だと判明したが、
シャルロットが覇王丸を連れて邪神城から脱出するシーンで確かに彼らはワープ、
もしくは飛行して覇王丸の村で意識を取り戻す。
「無意識の内に村まで戻りたいという思いがここまで運んだのか」とのことだが、
それでは結局ワープが可能ということになってしまう。これはどういうことか?
これについては正直、小説を読んでもよく解らなかった聖剣パワーだろう
複数人の聖剣パワーを結集すればワープのようなことも可能なのだ。

どうしてシャルロットは覇王丸を一週間も放置したの?

意識を暗黒神に囚われた覇王丸を救い出す唯一の手段。
それは、シャルロットが精神感応で覇王丸の精神へと入り、直接連れ戻すことだった。
しかし、シャルロットはそれを覇王丸が倒れて一週間も経った後に突然言い出す
その為に邪神軍に見つかり、子供達がピンチに陥ってしまった。
んなことできるならもっと早くやってろよ…… と脱力した視聴者も多かったことだろう。
これは小説版によると(小説版では三日後になっている)
シャルロットはまだ完全に覚醒していたわけではなく、彼女自身、
三日後にしてようやく自分の能力を思い出した
のだという。これで意味が通った。

どうして弧月斬が飛び道具なの?

小説では原作ゲーム通りの技に変更されていた。
主人公の必殺技は絵的に飛び道具っしょ! というお偉いさんの指示でも入っていたのだろうか?
尚、天覇封神斬は小説版には登場しない。

どうしてシャルロットがヒロインなの?

ナコルルという大女優を差し置いて今作のヒロイン役を射止めたる女傑の名はシャルロット。
これはどういうことかと誰もが首を傾げたことと思うが、
小説版では覇王丸とシャルロットは前世からの恋人同士ということらしい。
清純派のナコルルを同じ設定に置くことはできなかったのではなかろうか。
ヒロインの座を逃しても尚、彼女の影を感じてしまう私である。

どうしてサムライが空を飛ぶの?

いざ邪神城へ! と目覚めた聖剣士覇王丸は決意を新たにする。
しかし、邪神城は空中に浮いており、普通には侵入できそうにないのが視聴者にも解る。
そこで彼らは何の説明もなく発光して空を飛び、私達の度肝を抜くという
今作で一番意味の解らない行動を取ってくれるわけだが、
小説版では半蔵の忍び凧によって飛行、ということに大幅変更されている。
よく忍者ヒーローが空を飛ぶ際に使っているアレである。

そんな簡単に飛べるものなのか? とは思うが、
唐突にサムライが空を飛ぶよりはよほどまともな展開だろう。
後に彼らが穴に落ちそう(上空から放り出されそう)になるシーンの意味もこれで通るというものだ。

どうして結局、聖剣一本でアンブロジァに勝ったの?

天草の遺体より現れた暗黒神アンブロジァの黒い霧のような正体。
六人の聖剣士達は聖剣に祈りを込めてアンブロジァを封印しようとするが、
本来、七本あって完全の聖剣の内、天草の一本が抜けているためにそれが適わない。
「元より聖剣士は七人。天草亡き今、六人では封印できぬということか!?」
しかし、民衆の声に引き寄せられるかのように現れた天草の聖剣を手にした覇王丸は、
結局一人で聖剣一本でアンブロジァを「死ねぇ!」と斬り伏せてしまう。意味が解らない

ここは小説版では七本の聖剣がひとつとなり、
一本の剣、アニスレイザの古剣となった物を手にした覇王丸が、
邪神を消滅させるという妥当な変更がなされている。これでやっと意味が通ったと言えるだろう。
まぁ、当たり前と言えば当たり前の変更である。

橘右京氏はどこへ行かれたの?

アニメ版ではスタッフロールにしか出番のなかった彼だが、
小説版では服部半蔵らの率いる民衆軍の一兵卒として志願、参加なされている。



と、このように、世界中を見渡せる天草の情報源がどうして目安箱なのか?
という点以外はほとんどが解答、もしくは変更によって意味の通る作品に仕上げられているのである。
これはもう、サムライスピリッツ 破天降魔の章という作品はアニメ版で評価するのではなく、
脚本家自ら改訂された小説版を“サムライスピリッツ 破天降魔の章 完全版”と見なすべきだろう。
そして、その上で私達サムスピファンは言わねばならぬのだ。

この話はなかったことに、と……