ギースはとても幸せな家庭に生まれた。
母はマリア・ハワードという美しいアメリカの女性で、
父はルドルフ・フォン・ザナックというオーストリア人。
生まれも良く、貴族の血を引いていた。

ルドルフは仕事で海外に行くことも多かったが、
収入は多く、3人の暮らしは裕福と言えただろう。
そこには何もかもがあった。

今は失われてしまった、何もかもがあった。

ルドルフは屈強な総合格闘技の使い手でもあり、
ギースが4才の頃、ヨーロッパ格闘技選手権を圧倒的な強さで制した。
それは同時に父がヨーロッパで最強の男であったことを意味していた。

その写真が今でもアパートに、神棚に奉るように飾られてあるから、
幼年期に見たその逞しく輝く父の姿を実際、あまり記憶していないにも関わらず、
目を瞑ればギースはいつでも鮮明に思い出すことが出来た。
美化していたのかも知れないが、少年にとってはそれが真実だった。

ルドルフは選手権を制し注目を浴びるまで
王室のボディガードをしており、凄腕で鳴らしていた。
歴史と実力を備えた名門、アムステルダム・ジムで肉体を鍛え、
貴族、王族を身を呈して守り抜く。
ただの一度も主人を危険に巻き込むことはなかった。

そんな話を母から何度も聞かされたから、
父がテロリストの凶弾に倒れたと聞いても、
名誉の戦死だと、ギースにはそれすら誇りに思えた。

人を守るために強くなり、強くなって人を守った父。
ならば自分も強くなり、大切なお母さんを守ろう。

それがギース・ハワードの、最初の誓いだった。

お父さんはもういないから、ぼくはお父さんのぶんまで強くなって、お母さんを守ります。


ただその誓いを守り通すには、その街はあまりに過酷だった。
なぜ自分達がこんなところに流れ着いているのか母は教えてくれなかったし、
母が教えてくれないことはあまり考えたりはしなかった。

ともかくギース少年は5才の時に母、マリアと二人、
この危険な街、サウスタウンでの生活を余儀なくされたのだ。



世は戦火に包まれていた。

忘れてはならない人類の過ち、
第二次世界大戦中に建設が熱望されたその街は、
戦いで傷つき、家族を失った者達のために朝鮮戦争の最中、
1950年頃に北アメリカ大陸の東南部に完成し、
孤児が、未亡人が、身障者が、こぞって保護された。

アメリカの人々は散っていった戦士達を尊敬し、その街の人間を哀れみ、
そして無慈悲な敵国に激しい怒りを募らせた。

初めから全ての負が詰め込まれた街だったのかも知れない。


名を、

――サウスタウンと言った。


第二次世界大戦終了後も愚かしい戦争は続き、
そしてその度にサウスタウンに人が溢れた。
例えようのない哀しみと、天を衝くような怒りがその街を形作る。
死んだような瞳の人間達が死んだように生きていた。

だがやがてベトナム戦争が泥沼化すると、アメリカという大国の心も疲弊し、
その街へ向けられていた怒りも、風のように消えていった。
サウスタウンはもう誰の興味も惹かない、忘れられた街となっていた。

ただ傷ついている、忘れられた街となっていた。

傷を舐め合うために他国の浮浪者が移民として漂着し、
その弱者を食い物にすべくマフィアが根を下ろす。
サウスタウンは、暴力が支配する犯罪都市となった。

セントラルシティを中心に、西に貿易港ポートタウン、
東に人工島イーストアイランド、北に大西洋に面した港口、サウスタウンベイ。

どこを探しても、平和などはない。



母マリアは、サウスタウンの中でも最下層の人間が住むポートダウンタウンで、
なんとか女手ひとつでギースを立派に育て上げようとやっきになって働いた。
どうしようもなく我が子が愛しかったし、亡き夫との唯一の絆を守りたかった。

その様子はまさに“溺愛”といった形容が相応しく、
母に似て美しい顔立ちをしているギースが笑うと、
やれ、天使の笑顔だとか、100万ドルの笑顔だとかそんな言葉で職場の人間に自慢し、
微笑ましく失笑されていた。

そこにはサウスタウンへ流れざるを得なかった悲しみなどは微塵も感じさせない、
力強さがあった。
ギースが母を守りたいと思ったように、母、マリアもギースを守りたいと強く思っていた。

貧しいアパートでの生活になったが、
互いに父の思い出に包まれながら、二人は幸せな日々を送っていた。
窓の外で絶え間なく鳴り響くパトカーや救急車のサイレンも、
そのぬくもりの中では気にするに値しない騒音。

化粧をやめても尚、美しく眩しいマリアの容姿に
言い寄る男もいないでもなかったが、
マリアはその度にギースと二人で生きていく覚悟を新たにした。

ギースがいれば、他人からのぬくもりなど必要なかった。
ぬるま湯に浸かれば、幸せも逃げる。


だが、無理がたたった。

お嬢様と言って良い育ちのマリアに、その生活はあまりに過酷すぎた。
幸せのために昼夜問わず働いた結果が幸せの破壊だったとは、皮肉とも言えない、
ただ、絶望的なだけの悲劇である。


衰弱し、もうぬくもりの詰め込まれたアパートにも戻れないマリアの側にはいつもギースがいた。
15になる我が子の綺麗な髪を撫でる、かつてしなやかだった指にも、もう張りはない。
ギースが母の顔に目を向けると、大きく頬がこけ、
あの美しかった頃が何百年も昔のような気がした。

――10年間、よくやったかな?

マリアは自問したが、頭の感触をくすぐったく感じたのか、
哀しい笑顔を浮かべてリンゴを剥くギースの姿を見ていると――

ここでこの子を一人にしてしまう自分がよくやったとはとても思えず、
涙と共に、謝っていた。



「ギース…… お前には何ひとつ、母親らしいことは、してやれなかったわね……」

薄暗い病院の、決して清潔とは言えない錆び付いたパイプベッドの上で母が言った。
リンゴを剥いていた手が止まる。
身体に寒さを感じた。

――そんなわけない。母さんはいつもやさしかった。
守れなかった、オレが悪いんだ――

母が倒れてから、ギースは何度も何度も神に祈ったが、
やがて運命を知ると、祈りは父への謝罪へと変わった。

守れなかった――
母さんも、父さんに誓った約束も――

オレは父さんにはなれなかったよ――


貧しい食生活を行って来たとは思えない、
逞しく付いた筋肉を両手で押さえ付けて、ギースは咽ぶように泣いた。
少しでも母に楽をさせようと肉体労働をしたが、その度に母は怒った。

「お前は私を信用できないのかい?」

自分一人の力で自分を育てることがこの人の誓いだったのだろう。
怒りながらも涙を浮かべる母に、ギースは返す言葉がなかった。

そもそもギースは身体の成長が早いとは言えず、絶えず小さい方だったので、
あまり大きな仕事はさせて貰えず、稼ぎも微々たる物だった。
ならばせめて父のように凶弾から母を守ろうと、毎日身体を鍛えた。
身体が大きくなれば、大きな仕事も出来る。一石二鳥だ。

母からの、自らの食事を削ってでも毎月、規則的に与えられる僅かな小遣いを、
ギースは全て格闘ジムのオーナーに渡した。
人並みの娯楽なんて要らなかった。

父の写真を見た。

最強の男の父。

この人ならきっと母さんを守れるはずだ。
なら、自分にだって出来る。
だってぼくは、この人の子供なのだから――


この絶望の街にあっても、ギースは希望に輝いていた。


だが、やがて輝いていた希望は、すがりつく、置物の希望となった。
過労という凶弾はギースの身体をすり抜け、マリアの胸だけを残酷に貫いた。

母が倒れて、もう三ヶ月になる。
やっと、働けるようになった身体も、もう、意味がない。


ごめんなさい、父さん――


――――……

声に出た。
耳に届いていた。

我が子ギースはここで、父に謝罪していた。
ギースが夫、ルドルフに心酔し、同じ様に身体を鍛えていたのは知っている。
だが、ここへ来て息子が夫の名を口にしたのが、マリアには何よりも嬉しかった。

私と同じ様に、ギースもまだ、深く、深く、ルドルフを愛している――

そう思うと、何も知らない我が子が可哀想で、申し訳なくて、
絶対に言わないと心に誓っていた真実を――

その痩せこけた口から、こぼしていた。


それが、ギース・ハワードを、悪魔にするとは、夢にも思わず――




ギース・ハワードの父、ルドルフ・フォン・ザナックは家族を養いながら、
アムステルダム・ジムで格闘技の技術を磨き、
ジムの歴史上最強という名声を雷鳴の如く轟かせていた。

もっともボディガードという仕事を優先する彼は
それほど大きな大会には出場出来ていないのだが、
それでもその傑出した力と技術は、解る男が一目でも目にしたならば
隠れた最強の格闘技者だと騒ぎ立てるに充分だった。

今はジムのオーナーからの紹介で、ドイツの、ある城で仕事をしている。
シュトロハイム城と言う、とても歴史のある威圧的な城だ。
アムステルダム・ジムはシュトロハイム家の経営で、紹介はその繋がりだったようだ。

家族と離れるのは辛かったが、ヨーロッパで格闘技に携わる者で、
シュトロハイム家の権威を知らない者はいない。
それに長い間、お世話になったオーナーの頼みだ。
ルドルフは逡巡したが結局、承諾した。


厳格な城だった。
異国に来たというよりも、異世界に来たようなイメージがある。
ルドルフが警備する貴族は、エルザ・シュトロハイムという、
当主、ミハエル・シュトロハイムの孫娘だった。
年の頃は20前後か、厳しいが美しい顔をしていて、マリアを思い出した。

想像の中のマリアは可愛い盛りのギースを聖母のようにあやしている。
思ってはいけないことだが、任期が切れる日を待ち遠しく感じた。
愛する妻と、可愛い息子に会いたい。

エルザを見る度にそんなことを考えていたので、
「スケベーな顔してますわよ」と、
ミハエルに聞かれたら文字通り首を飛ばされそうなことを度々言われ、
ルドルフは、彼女はテロリストよりよっぽど怖いと肝を冷やしていた。

「お姫様の物言いではないですよ」

そんなことを言って誤魔化した。

雑用を押し付けられ、
――自分を召使いか何かと勘違いしているのではないか?
そんなことを真剣に考えさせられる。
わがままなお姫様に振り回される毎日だった。


エルザのことはともかく、
中に入ってみるとシュトロハイム家は想像以上に厳格に感じた。
空気が重く、なんとも息苦しい。

――こんな苦しいところにはテロリストも来ぬだろう。

そんなことを冗談とも思えずに考えていたが、どうもこの重さには理由があるらしい。
出立の喧騒でニュースも新聞も目を通していなかったルドルフは、
同僚のボディガードから事情を聞いた。

何やら次期当主のアドルフ・シュトロハイムが事故死したらしいのだ。
仕事が仕事なだけにテロの可能性を問い詰めるが、
本当にただの飛行機事故だったようだ。
ということは今、シュトロハイム家の血を継いでいるのはすでに高齢の当主ミハエルと、
孫の女性、エルザのみということになる。

女性が当主になるのか?
そんなことを考えたが、それは有り得ないと思った。

シュトロハイム直系のジムで格闘技に携わる者が
シュトロハイム家を恐れるように神聖視しているのは、
漠然としたその家系の権威や強さではなく、そこに誰も見たことのない、
最強の総合格闘技が連綿と受け継がれていることを知っているからなのだ。

シュトロハイム家はその格闘技を以って、
中世から現代までの永きに渡りヨーロッパの王室を警護して来た。
そんな家にボディガードが要るのだから、そもそもが非常事態なのである。


思えば、この時に――
気付くべきだったのだろう――




当主、ミハエル・シュトロハイムは突然に、シュトロハイム家が経営する、
ヨーロッパ26のジムの中で最強の男を決める大会を開くと宣言した。

まず各ジムで独自に最強の使い手を取り決め、
その男が本戦にて真の最強を決定すべく闘う。
シュトロハイム家の根回しもあったが、これが盛り上がらないはずはなかった。

シュトロハイム家の統括する格闘ジムはその全てが世界トップクラスの実力を備えた、
チャンピオン養成所とも言うべき最強格闘家製造工場なのである。
この大会で最強の男はすなわち、世界最強の男。
ここに夢を感じない格闘技者はいなかった。

その大会の名は、

――ヨーロッパ格闘技選手権

と、言った。


すぐさま25のジムで骨肉の代表選手選出試合が行われたが、
ただひとつ、アムステルダム・ジムでは何も行われず、
すんなりと、電話一本で代表選手が決まっていた。
当然だ。
予選をやるまでもなく、その実力も、そして人望も、
全て別格の男がそのジムにはいたのだ。

もし何かの間違いで予選でケガでもさせたら――
そんな心配をオーナーも、また同じジムの仲間すらもしていた。

その男とは勿論、ルドルフ・フォン・ザナックのことである。

ルドルフはあまりの気遣いに頭を掻いて苦笑したが、
興味がないわけでも、自信がないわけでもない。
むしろ何か一度、こういう大きな大会で力を試してみたいと常々思っていた。

ミハエルに一時、任を離れる不備を詫びる。
ルドルフの実力を知っているミハエルはむしろ望んだように承諾してくれた。
障害はない。
「ヨーロッパ格闘技選手権には出場しますわよね!?」
大声で怒鳴りながら控え室に乗り込んで来たエルザが、ただ喧しかっただけだ。

賞金は、信じられないほどに莫大だ。
もし優勝でも出来れば家族も喜んでくれるだろう。
マリアには煌びやかなドレスと、ギースにはそうだな、海外の鎧兜でも買ってやるか。

そんな夢を抱きながら大会に出場したルドルフは、
会場に駆けつけたマリアとギースに見守られながら、いともあっさりと、
たいした怪我さえも負わずに、本当に冗談のように簡単に試合を勝ち抜き、
エルザ・シュトロハイムから、黄金のトロフィーを手渡されていた。


それが、呪いの薔薇だとは気付かずに――




信じ難い申し出を受けていた。

つい先程、久々に会った会場で怪我の心配をする妻マリアに、
「ヒゲが数本抜けた」とおどけて答え、
興奮する息子、ギースを抱きかかえて笑っていたのにだ。

なのに何だ、それは。冗談じゃない。

「低俗なしがらみなど、縛られるに値しないわ」

冷酷にそう言い放ったエルザ・シュトロハイムは妖女のようであった。
今までとはまるで違う表情をしていた。
ルドルフはゾッとし、シュトロハイムという魔物が、彼女の中に降りたように思えた。


ルドルフ・フォン・ザナックは、優勝した瞬間、

エルザ・シュトロハイムの夫として、

シュトロハイム家への帰属が決定していたのだ。


「断る!」

だがルドルフはハッキリと言った。
ミハエル・シュトロハイムの眼光が鋭い。
この男が今、最強の、シュトロハイムの格闘術を継いでいる。

「私にはマリアとギースが全てだ! 捨てることなど出来ない!」

それでもハッキリと言った。
エルザの眼がミハエルとは異質な鋭さを持った。
睨まれるだけで毒殺されそうな、そんな視線。

「俗な民の分際で…… 私の申し出を断るとでも……?」

神話のメデューサのようだと、ルドルフは思った。

このヨーロッパ格闘技選手権は裏では初めから、
不慮の事故により次期当主を失ってしまったシュトロハイム家が、
苦肉の策としてヨーロッパ最強の男を当主に迎え入れるべく行った、
養子、エルザの婿を選出する大会だったのだ。

それに圧倒的な強さで優勝したルドルフを、シュトロハイム家は逃がさない。
この男を逃がしたら、シュトロハイム家は滅ぶ。
それだけ切羽詰っていたし、ルドルフという才能は果てしなく大きい魚だった。
必ず迎え入れる。


その時は釈放されたが、莫大な賞金をさらに10倍超える金と、
シュトロハイム家に伝わる格闘術を全て授けるという条件で
ルドルフは誘惑され続けていた。

ルドルフが一時帰国を許されたのは、ミハエルのせめてもの情だったのだろうか。
戻って来た夫の苦悩の姿を、マリアはいたたまれない気持ちで見つめていた。

その最強の格闘技にどんな価値があるのかマリアには解らなかったが、
ルドルフの格闘技へのこだわりは今回の大会で見たばかりだ。
あんなに生き生きとした夫は見たことがなかった。
それを考えると、身を退こうという考えさえ浮かぶ。

それに自分と、シュトロハイムのご息女では、
あまりにも、違いすぎる――


ふと、4才になる息子が呂律の回らない子供特有の声で、
父に何か紙を差し出して来た。

――写真だ。

その写真の中でルドルフ・フォン・ザナックは、黄金のトロフィーと共に輝いていた。
今とは大違いの、とても充実した顔だ。

「この写真はギースが撮ったのよ」

その顔を見るのが辛くて何か話題を変えようと、
マリアは苦しそうに笑いながら、我が子の話を持ち出した。
ギースは肉はレアで焼くのが好きだとか、
玩具を与えると一時的に熱狂するのだけど、飽きると目もくれないだとか、
そんな他愛もない話。

ギースはコロシアムの興奮を思い出したのか、
父の腹にパンチをシュッシュッと繰り出している。


――写真が、濡れた。


どうして自分にこの最愛の家族が捨てられようか。
天使の産毛のような美しい、母親譲りのギースの金色の髪を、
ルドルフはやさしく、やさしく撫でた。


ドイツに戻ったルドルフには覚悟が決まっていた。
再び「断る」と返答したルドルフに、ミハエルは何も言わず、
エルザは「そう」と、こともなげに答えた。

これで終わった。

熱に侵されていたのだ。
シュトロハイム家という異世界に足を踏み込んで、
そのまま自分もファンタジーの世界に迷い込んでいた。

だが私には大切な現実がある。
私は格闘技者だが、魔王と戦うよりも、家族との語らいを選ぶ。

勇者にはなれなかったが、せめて良き夫であり、良き父であり続けよう。


そう思っていたのに――


国境を越えて帰って来た家は竜巻に襲われたようにボロボロで、
ギースを腕に抱き、流れ落ちる赤い水滴をメトロノームに、

マリアが、


子守唄を歌っていた。



うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!!




妻子へ終生に渡り援助を行うこと。

それがルドルフの条件だった。
ミハエルがそれを承諾すると、エルザは少女のように笑った。
その笑顔が悪魔に見えた。

表向きはマリアの方から別れた、ということにされた。
マリアはマリア・ハワードに戻り、ギースはギース・ハワードという名に生まれ変わった。

優勝賞金は全て家に置いて来た。
援助も確約させた。
後は俺がこの呪われた家に居るだけで全てが丸く収まる。
よくよく考えれば簡単なことだ。

だから生きろ、ギース。
狼のように逞しく生きて、この愚かな父を殺しに来い。

ルドルフもまた、ルドルフ・クラウザー・フォン・シュトロハイムという、別の人間になった。


これよりわずか半年後のミハエルの死により、
唯一の血族となり、暴走したエルザの命令で援助は打ち切られ、
マリアとギースの元へ殺し屋が向かったことを、ルドルフは知らない。

幸運だったのは仮面を付けた殺し屋が現場でターゲットを見ると、
女子供を刺す爪は持っておらぬ、と踵を返し、
彼女らをサウスタウンへ落ち逃がしたことだろう。

マリアはギースを胸に抱えて、着の身着のままサウスタウンへ逃亡した。


そして年が変わった1959年――

エルザ・シュトロハイムは待望の男児をもうけていた。



抜け落ちた髪が白いことに気付いたが、そんなことはどうでも良かった。

ギース・ハワードは今、船に乗っている。
船と言っても、チャチな観光船だ。
それを浮かばせている液体は、群を成してライン川と呼ばれているらしい。

だがそんなことはさらにどうでも良かった。
吐き気がする。
船酔いなんてもんじゃない。もっと深い吐き気だ。
吐く物なんて何も入ってないから、出るとしたら胃液だろう。

母が残してくれた財産は全部、ここへ来るために使った。
ギースは今、ドイツの川の上に居る。
母はすでに死んだ。父はシュトロハイム城で、当たり前に生きている。

「父さんは生きてるの…… 死んだって言ったのは、嘘だったの……」

母の涙を、ギースは恨みの声と解釈した。


ほどなくして城が見えた。

あれがシュトロハイム城か。

何の冗談だろうかと、ギースは15の少年とはとても思えない、
鈍く渇いた笑いを浮かべた。
自分が過ごしたカビ臭いアパートとも、母が死んだ薄汚い病院とも、
あまりにも、あまりにも違いすぎる。
この城を手に入れるために、ルドルフは裏切り、母さんとオレを捨てた。

その雄大に天へ挑戦する背の高い城は、ギースの憎悪をさらに掻き立てた。

――こんな城に住めていたら、母さんは死ぬことはなかった。

船から降り、観光客と同じ様に城を眺める。
老紳士に中へ案内されると、そこは至る所で黄金が反射していた。

――この金が一欠けらでもあったら、母さんを救えた。

憎い。憎い憎い憎い憎い憎い。

ニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイ
ニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイ
ニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイ

あいつのせいで母さんは、ミイラのようになって死んだんだ。


隙を突いて観光客の群から抜け出し、物置に隠れた。
暗い場所だったが、外には川のせせらぎが聞こえる。
サイレンが鳴り響いていたアパートに比べれば、上等な客室だ。

夜を待つ。

手を忍ばせた左ポケットの先には、ナイフの感触があった。


父を、――殺す。


暗い物置がさらに暗くなるまで、ギースは憎悪を燃やし、募らせて待った。
どうしようもなく憎い。ルドルフも、自分も。
アパートのルドルフの写真は、野獣に食い千切られたようにズタズタに裂けていた。
憧れて、同じ様になりたいと鍛えた筋肉が、今は父の腕のようで汚らわしい。
ナイフを突き立てても痛みがなかった。

なんだ、オレの腕じゃないんだ。

そんなことを考えると、これから人を殺すことも何とも思わなかった。
母の死を看取った時から喉はずっとカラカラだったので、
右手から流れる赤い汁をすすって舌を潤わせた。

美味しい。
母さんにも飲ませてあげたかったな……


――夜

あまりにも静かなのでそうとは気付かず、もう明け方近くになっていた。
馬鹿みたいなミスだった。
夜と言えばサイレンが一層騒がしくなり、時折悲鳴の聞こえて来る時間だろう。
この城は間違っていると、ギースは責任を擦りつけた。

あれから一睡も出来なかったのに、こんなときに限って眠たい。
ここは静か過ぎる。気が狂ってしまいそうだ。

人の気配を探して歩き出す。
何人かガードの男がいるだろうが、全て殺そう。

そう思っていたのに、誰もいなかった。

どんどんと上へ上がり、大きな扉を見つけた。

ここは大きいから、こういう所にきっとあいつはいるんだろうなぁ。

呆っとそう思うと、意識が覚醒した。


――コロス。


なぜ鍵が開いているのか、ギースはそこまで考えることはなかったが、
触るだけで呆気なく開いた、見たこともない大きな扉に多少の違和感は感じた。
だがすぐ目に入った豪華なベッドに殺気を持つと、そんなことはすぐに忘れた。

人が寝ていた。
母が永眠した、絶えず耳障りな軋みが聞こえるあのパイプベッドとなんという違いだ。
ベッドが軋まないのならば、お前の身体を軋ませてやる。

首筋を狙って刃を構える。

と、

――女?


寝ていたのは女だった。
顔を見ると美人だったが、ひどく痩せている。
寝ているにも関わらず目の隈がひどい。

醜悪な魔女を見たようで気分が悪くなった。
その醜さが死に際の母のようで、吐き気を感じた。

危ない。母さんを殺すところだった。

母をこんな姿にしたルドルフがますます憎くなった。
ギースは布団を掛け直してやった。

そのまま離れようとすると、それを拒むように女の手がギースを抱き寄せた。
驚いたがしがみ付いてくる感触がやさしくて懐かしかったので、
何をしに来たのかも忘れ、受け入れていた。

が、それも一瞬だった。

女の口から漏れ聞こえた名前が、ギースに最初の殺意を呼び起こす。


「ルドルフ……」



こいつが、

ルドルフの……!


そう思うともうナイフを突き刺していた。



ギギギィィギィアァ――ッ!!


吐きながら叫ぶような魔女の絶叫。
殺し損ねたがその気の狂った慟哭が恐ろしくて、ギースは走り出していた。

「おぉまぁえぇかぁぁ!!」

女の言葉は、何か自分に心当たりがあるように聞こえた。
とても気持ちが悪くて、走りながら、
早くルドルフを殺さなくてはと、ただそればかりを考えていた。

早く会いたい。父さんに会って、そして殺したい。
父さんもきっとぼくに殺されるのを待っているはずだ。


城の中を走っていたのだが、窓からの光が明るくて眩しかったので、
小さなドアを開けて、外に出ていた。

庭か――薔薇の花壇がある。
綺麗だな、とギースは思った。
朝日が差し込んで、こんなにも綺麗だ。

ふとナイフに映った顔を見ると、自分の汚らしさに愕然とした。
髪は真っ白だし、隈だってあの魔女に負けてはいなかった。
頬もこけて、何かに憑かれたような、そんな眼をしている。

その現実から逃げるように目を瞑ると、

そこには――

幼き日、自分の髪をやさしく撫でた――

尊敬する父の姿が――



――そんな時だった。

朝の散歩なのだろうか、10にも満たない程度の少年を引き連れて、
飽きるほど写真で見た顔の男が、大袈裟な鎧に身を包んで歩いて来る。
年老いてはいたが間違うはずがない。

映像の中の父の心臓には、薔薇の花を映した綺麗なナイフが刺さっていた。


コ、ロ、ス……

コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス
コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス
コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス


「ルゥドルフゥゥーッ!!」


胃液を吐くような苦しさで喉の奥から振り絞られた絶叫。

「捨てられた母さんの痛みと、オレの憎しみを思い知れぇぇ!!」



ああ――
この子がギースなのだと、ルドルフは理解した。

一目で解ってやれなかったことが心残りと言えばそうだが、
あの美しかった金色の髪がこうも色を失ってしまっていては――

言い訳か。
マリアは死んだのだろう。
ギースのこの壮絶な姿を見せられれば嫌でも何があったか解る。

エルザの暴走を恐れて決して連絡は取らなかったのだが、それも無意味だったか。
いや私に勇気がなかったばかりに、逆効果となってしまったようだ。

すまない。だがよく来たな、ギース。
さぁ、私を殺してくれ。
葬式なんて出して貰える父ではないが、また写真を撮ってくれると嬉しい。



その時――

9才を数えるルドルフとエルザの子、ヴォルフガング・クラウザーが、
ナイフを構えるギースの前に、無造作に立ちはだかった。



「父上、この男ですか? 母上が言っていた、下賎な女に父上が生ませたという子供は」

あまりにも静かで、冷酷なクラウザーの声にルドルフはうろたえた。
唇から冷気が発せられて氷付けにされたような感覚に、
エルザが妖魔となった時を思い出し、何も言い返せないでいた。

「なんだお前はぁ! お前も死にたいのかぁぁ!!」

30mほど先から叫びながら亡者のように駆けて来る汚らしい男を、
クラウザーは兄とは思わなかった。
ただ話に聞く以上に醜い男だと思った。


こいつを殺せば――

母上も――

そして、父上も――


跳躍。

クラウザーはギースの頭上に現れた。
その子供が行った有り得ない動きがギースには恐ろしく奇怪に見えた。
が、視認する間もなく、首が吹き飛んだような衝撃を受け、
うつ伏せに地面に這いつくばっていた。

無様。
転がるナイフ。


それが目に入り、再び手にしようと思考したところで顔面を踏みつけられた。
胃液の混じった赤黒い血反吐を雑巾を絞ったようにひり出し、ギースは喘いだ。

「が、あぁ……!」

「汚いなぁ、兄上。ボクの家を汚さないでくださいよ」

クラウザーは無表情にそう言った。
口元は笑っていたのかも知れないが、ギースにそれは能面に見えた。
ただ自分を見下し、虫の死体を見るような蔑んだ眼で侮辱していることだけが解った。

――薔薇の花はこんなに、綺麗なのに。

クラウザーは汚らわしい兄を、子供が空き缶を蹴って遊ぶように蹴り上げた。
同じゴミなのだから、同じ様にしてやらなければならない。
蹴り上げた。何度も、何度も何度も。

いつの間にか雨が降っていた。

フフ…… フフフフ……

クラウザーが笑っているのを見て、ルドルフは決意した。
その笑いは、残酷に虫を解体する子供のそれだ。
このままではギースは殺される。
ならば、自分の取る手はひとつだけだろう。

この悪魔のような子を殺し、私は全ての罪と共に天使に討たれよう。

目を瞑れば、そこに浮かび上がるのはいつも美しかったマリアと、
本当に、本当に天使のようだった、ギースの、無邪気な微笑み――


左手に闘気が収束していた。
もう意識のないギースを尚も笑いながら蹴り続ける異常者の胸へ照準を定め、
突きを――――……


!?

「下賎な! 下賎なあぁぁああああ!!」

その耳が割れるような甲高い声は、ルドルフの後方から響いた。

エルザ……!

顔を見るのも久しぶりの妻は寝巻きのまま、人を喰らう妖婆のような形相で、
肩口から流れ落ちる血を右手て止めながら走って来た。

シュトロハイムという魔界の主が、侵入した天使を喰うためにやって来た。
脇を駆け抜けるエルザを止めようと伸ばした手は空を切り、
クラウザーをも押しのけたエルザは土のコビり付いた素足でギースの顔面を踏み砕いた。
とても細身の女が立てたとは思えない、グシャ! という生々しい音が鳴った。

そして女はクラウザーを中腰に抱きしめ、
よくやった、よくやったわね――と、
息子が、世界を苦しめる魔王でも倒して来たかのように、
頬を撫で、頭を撫でて、涙を流して喜んだ。

その親子を、強くなった雨が祝福するように打ち付けている。


ルドルフがその妖怪達の光景を凍った背筋のまま見ていると、
エルザは起き上がり、息子ヴォルフガングを傍らに、
ギースの白い髪を乱暴に掴み、引き摺って歩き出した。

妻と息子であるはずの人間から受けた、刺すような軽蔑の視線が、
再びルドルフの肉体を鎖で縛った。
最愛の我が子、ギースの名前を、口に出して呼んでやることさえ出来ない。

ルドルフはすれ違って引き摺られていくギースに、目をやることも出来ない。



ギースは薄暗い部屋で鞭に打たれていた。
鞭には棘が付いており、一撃ごとに鮮明な赤い線が走る。
それを振るっているのは女だったが、
その非力な力でも充分ギースに苦痛を与えることが出来た。

もう何十年も使われていない、罪人を凌辱する、地下の拷問部屋だ。
この場所はエルザ・シュトロハイムしか知らない。

だがギースは痛みを感じなかった。
ただ全てを失った虚無感に包まれ、夢心地のまま女の狂声を聞いていた。


お前が! お前がいるから!
お前がいるから私も、ヴォルフガングも!
あの人に目さえ見て貰えない!!
城中の鍵を金槌で壊しても、あの人は私に会いに来てはくれない!
お前が! お前がのうのうと! お前がのうのうと生きているから!!

お前がぁぁあああ――――っ!!


そんなことを繰り返し繰り返し言っていた。
なるほど、あの子供はこの女とルドルフの子で、だからオレが“兄上”なのか。
目の前の女は確かに狂っていたが、ギースの目にはどこか哀れに見えて、
ルドルフに持ったような憎しみは感じなかった。

この女の、子供――
呆っとヴォルフガングという少年の顔が浮かんだ。

クスクスと、笑っている、侮蔑的な眼。

眼が合うと、血も汗も、全身の水分が全部石になって、
身体を侵して行くのを感じた。


うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!!


怖い! 怖い怖い怖い怖い!
何だ! 何なんだ、あの眼は! オレは人間だ! オレをゴミにするなよ!!
離せ! そんな眼でオレを見るな!!
お前の眼は熱くて、冷たくて怖くて……!!

ヒィイイィィィイイイイィィイ―――ッ!!

両手両足を拘束する鎖がガチャガチャと鳴った。
泣きながら叫んだが轡に邪魔され、喘ぐように空気を吐き出すだけだった。
暗い。暗い部屋には慣れていたはずだったがこの薄暗い空間は気持ちが悪い。
出せ! ここからオレを出してくれ! こんな場所にいては気が狂う!

暴れ出したギースを女は悦んだように打った。
痛い!
イタイイタイイタイイタイイタイ
イタイイタイイタイイタイイタイ
イタイイタイイタイイタイイタイ

その痛みはまた、クラウザーの映像を引き摺り出した。


ああ……! あああぁああ――――っ!!



――――……

どれくらい時間が経ったのか、
意識が戻ると、女は部屋に転がる別の拷問器具を漁っていた。
使い方の解らない複雑な器具を、とても楽しそうに選別している。

――こんなにオレをいたぶったのに、まだ飽きないでいる。

面白いなぁ、と、まだ覚醒し切らない意識でギースは思った。
見れば女は自分が刺した肩の傷に、ほとんど治療を施していない。
足下でぬかるむ赤い水溜りも、自分の物だけではないだろう。
なのにその笑顔は本当に楽しそうで、
目移りする物騒な鉄の器具を、デートに着ていく服のように選んでいた。


そうか、この人も、憎いんだ。


そうだ。

何もかも失ったと思っていたけれど、それは違った。
母は死んで、父には裏切られて、弟には打ちのめされた。

でも、オレは――


呪いを、テニイレタ。


まだ何もしていない。まだ目的を達してもいない。
必ず、必ず強くなって、殺してやらなくてはならない。
標的が二人に増えたということは、生きる目的が増えたということだ。

この憎しみはオレの命だ。
簡単に殺すだけではオレの命は渇いてしまう。

八つ裂きにしても満たされない。
引き裂いて、人形みたいに腸を引き摺り出して、それに喰らい付いて、
噛み砕いて、踏み砕いて、握り潰して、サウスタウンのドブ川に捨ててやる。

カラカラだ。
地獄に堕ちても構うものか。
この赤い涙を忘れない。


虚無感は飢餓感に変わった。


――今、最初の餓狼が、暗く、赤い世界の中で、

――呪われながら産声を上げた。


女の声も、もう聞こえない。




その後はどうなったのだろうか。
気が付いたら、鎖は人外の力で引き千切られたように外されていた。

女はもう飽きたのだろうか? すすり泣く音がした。
憎いのなら遠慮することはないのに。馬鹿な女だ。

そんなことを思ったが、まだ身体が動くことを確認すると、もう帰ろうと思った。
今はまだ怖いから、怖くなくなるまで強くなって、そしてまた来よう。

しばらくのお別れだ、ルドルフ、そしてヴォルフガング・クラウザー。
それまでどうか幸せに生きてください。
その幸せを牙で噛み千切るのが、オレの幸せなのですから。


遊びに来た家から帰るように、ギースは正面玄関を出た。
邪魔する人間は誰もいなかったし、鍵も全くかかっていなかった。
そうか、全部壊したって言ってた。

外に出ると、空は染み渡るように綺麗な黒だった。
次に湖が目に入ったが、身体中傷だらけで、
水がそれに染みるかと思うと嫌な感じがした。
そんなときに目に映った立派なボートは、天国から降ろされた蜘蛛の糸のようだった。

幸運なことにキーも刺さっていた。
使い方を知っているわけではなかったが、使えないこともないだろう。

ギースはボートに乗って、水の上を走った。
決して好きな街ではなかったが、今は一刻も早くサウスタウンの空気が吸いたかった。


1968年、春――

雪解け水が月の光に反射し、キラキラと輝いていた。



【4】

戻る