八極聖拳の道場は、三つの話題で持ちきりだった。

一つは、タン・フー・ルーの後継、
八極聖拳の新しい伝承者は誰になるのか、という話。

タンは幼い頃から中国拳法を学び、
それを元に八極聖拳を完成させたが、当年とって52才。
そろそろ後継者の事を口に出すようになっていた。

候補は、まず真っ先に挙がるのがジェフ・ボガード。
そしてそれに次ぐのが、今やその彼に迫る実力を持つ男、ギース・ハワードである。
他にも年長の門下生は居たが、彼らの強さは別格で、
チン・シンザンの居ない今、実質候補はこの二人に絞られていた。

後継者に与えられる王冠はその栄光とは他に、
奥義の記された、秘伝書と呼ばれるとある巻き物がある。

そもそもタンはこの巻き物と出会ったことにより、人知を超えた気功術を得、
八極聖拳という神域の拳を創り出すことに成功したのである。
逆に言えばこの巻き物の気功がなければ、八極聖拳はただの太極拳と大差はない。

八極聖拳とは偶然、神が落とした魔道書を手に入れてしまった男が、
それに魅入られるように作り上げた魔拳、というのが正しい解釈なのかも知れない。
タンがこの魔術のような拳を世に出したがらない最大の理由は、実はそれなのだろう。
タンもまた怖いのだ。

それだけ、このタン・フー・ルーしか知らない巻き物の神秘は
門下生達の話題の的であり、実質、新しい後継者の座よりも、
一体誰がこの魔法の巻き物を手にするのかという話がその焦点だった。

一体誰が、魔術を継承するのか……?


二つ目の話題も、先に名前の出たある男が絡んでいる。
そう、ギース・ハワードが帰らないのである。

実際にはたまにしか帰って来なくなった、という事で、
週に一度程度は戻ってジェフと手合わせをしていた。
だがその後はまたどこかへ失踪である。
こんな行動が数ヶ月続いた。

下世話な門下生は女でも出来たのだろうと話の種にしていたが、
治療箱の少年は水を持って行って追い出されたあの日の事を思い出し、
自分のせいではないかとジェフに相談した。

ジェフはすぐにそれは違うと答えた。
むしろギースが何か変わってしまったのは、自分の話を聞いた直後からなのだ。
ジェフには少年以上に、ギースの奇行が気になっていた。

聞けば、「レストランでバイトをしている」と言う。
何故かとさらに聞けば、「欲しい物がある」と言う。

何も問題のない受け答えにジェフも追及出来なかったが、
その眼にあの時の、昔に戻ったような狂眼の影を見て嫌な予感が広がった。

ギース、何をしている――



海に面したポートタウンにある、アメリカ海軍のシーグラップスという空母から
数kmほど離れた所にある寂れたバーに、Mr.BIGは居た。

部下は連れておらず、隣りに座っている、金髪をオールバックにした
サングラスの男と何事か話している。
ポケットの付いた黄緑のシャツを着ているその男はどうやら軍人のようだ。
Mr.BIGと対等に話しているところから見てもその実力が窺い知れる。

「上手くやってくれたな、ジョン。ペイだ、取っておけ」

膨大な額が書かれてある小切手を、ジョンと呼ばれた男はポケットに入れた。

「あんたの頼みなら断れんさ」

「すまんな、俺には金が要る。
 いつまでもマフィアのお坊ちゃんを上に置いておく意味はない」

それを聞くとジョンはサングラスを外し、BIGの眼を見て言った。

「やめてくれ。部下に命令をするときに謝る上官はいない」

俺はもう大佐じゃない――
そう言おうと思ったが、ジョン――
ジョン・クローリーの好意を受け入れ、BIGはただ笑った。

軍人、ジョン・クローリーは、BIGの頼みで武器の横流しを行っていた。
流された武器はBIGが所有して私兵を強化したり、
売り捌いて多額の利益を得たりと、今の彼にとってなくてはならない物だった。
そして、このジョンという男もまた、BIGにとってなくてはならない存在である。

BIGは組織の中の誰よりも、海軍教官のジョン・クローリーを信頼していた。
そこには軍人時代の上下関係はまだ確かに残っていたが、
互いに“親友”と言って良い、そんな空気が漂っている。

「チャイニーズマフィアの豚共はどうだ?」

BIGが話を変えた。
BIGは彼とこの話をするためにポートタウンにまで足を運んでいる。

「駄目だな。手っ取り早い方法は使えそうもない」

…………

「リー・ガクスウか……」


チャイニーズマフィア――

かつて、ニューヨーク流れのマフィア、サウスタウンの組織と共に
三つ巴の争いをしていた、中国の犯罪組織である。
やがて、BIGの影響もあってニューヨークマフィアと組織が混ざり、
取り残された感のあるチャイニーズマフィアだったが、
彼らは今尚、サウスタウンを組織から奪おうとゲリラ的な反抗を行っていた。

それを掃討するのが、今回のBIGの計画である。

組織のチャイニーズマフィアに対する最大の強みは、
その単純な戦闘力ではなく、金で手にしている、市長、警察署長との繋がりだった。
これがあるからこそ、組織は街の中で表立って彼らを殺すことが出来る。

だが、ゲリラ的に潜み、狂気的な執念を見せるチャイニーズマフィアを
全て武力で制圧するのは不可能とも思える膨大な作業で、
そこにBIGは暗中模索していた。

ならばもっと簡単に、警察を使って彼らを全て収容してしまおう、
というのがBIGの策であり、ジョンの言う“手っ取り早い方法”だったのだが、
チャイニーズマフィアにも強みがあった。

サウスタウン最大の、多大な権威を誇る監獄、
サイクロプス刑務所の所長がチャイナタウンの人間なのである。
名を、リー・ガクスウと言う、齢90を数える老人だ。

だが、ただの老人ではない。仙人と言うのも違和感がある。
その老人が女ならば、“ヤマンバ”などと言った言葉で揶揄されたであろうか。
その刺すように鋭い眼光と拳は、リー・ガクスウを現代に生きる、妖鬼の化身としていた。

しかもそのリーという名前が厄介で、
この名はチャイニーズマフィアとは別にチャイナタウンで勢力を持つ、
リー一族という広い血族の証なのである。
ガクスウは彼らにとっての父であり、崇拝の対象だった。

“チャイナタウンの虎”と畏怖される男、
リー・ガクスウが存在する限り、チャイニーズマフィアは滅ぼせない。


「なら、リーの方から消すか」

BIGが葉巻を咥えながら言った。

「冗談でしょう。
 リー一族と戦争を行ったうえで、さらにチャイニーズマフィアと一戦やる気か?」

「いや、一族と戦争をする必要はない。
 頭だけを消せば良い。後は烏合の衆だ」

言葉の真意を察し、ジョンが眉をひそめた。

「チャイナタウンの虎を暗殺か?
 それは――いくらあんたの頼みでも難しいな」

肥大化された伝説など信じてはいなかったが、
それでもリー・ガクスウの残している逸話は人の身で触れ得る代物ではないと、
このジョン・クローリーでさえ思っていた。

なにしろこの老人には伝説が多すぎる。
やれ、若い頃は殺し屋で、殺した人数は千を数えるだの、
やれ、不敗の格闘家タクマ・サカザキをも一撃で殺しただの、
今もその実力は寸分も衰えておらず、
毎夜、囚人の死肉を喰らって生きているだの――

とても毒殺は無理に思えたし、銃殺ですら難しい。
まともに闘って倒すなどもっての外だ。
そんな人外のイメージが、このガクスウという老人にはある。

だから、ジョンはかぶりを振った。
自分にはとても無理だ。

だが、BIGは、

「何も考えずに突っ込む奴はただの馬鹿だが、やってみなければ解らん事はある」

そんなことを言った。


――新しく入った部下に、面白い奴がいる。

その男は組織ですら手を焼いていた黒猫の城を、
まるで無傷に、素手で陥落させた。
その報を聞いて素姓を調べたところ、その男の拳は――

八極聖拳。


「同じ中国の最強拳法同士、なかなか面白いことになるとは思わんか?」

逡巡の後に、ジョンが答える。

「……死にますぜ、その男」

BIGは口元を歪ませて笑った。

「狼なら生きる。豚ならば死ぬ。それだけだ」



八極聖拳の道場は、三つの話題で持ちきりだった。
一つ目は八極聖拳の後継者の話題。
二つ目は消えたギース・ハワードの話題。
そして三つ目は、チャイナタウンに組織の影が濃くなったという話題だ。

元々チャイナタウンでは組織の権力は大きくない。
それは、チャイニーズマフィアの抵抗と、リー一族の圧力、
そして最後に、八極聖拳という門外不出の最強の門派が存在するという、
この三つの要素が合わさっての成果だ。

セントラルシティでは八極聖拳が、ポートタウンではリー一族が、
それぞれチャイナタウンへの組織の侵攻を食い止めていた。

だが、その輪が崩れつつある。
チャイニーズマフィアがMr.BIGに目を付けられ、疲弊が激しいのだ。
そしてリー一族の長も八極聖拳の長も、揃って高齢である。
組織がチャイナタウンを掌握出来ると活動を開始するのも、当然と言えば当然だった。
ことさらMr.BIGが直々に張り付いたポートチャイナタウンにあってはもう、
チャイニーズマフィアの勢力はないに等しい。


タンの個室で、ジェフ・ボガードが話を聞いている。

「ジェフ――
 わしはお前を、格闘家の模範となるべき男だと思っておる」

「――光栄です」

静かな時間だが、タンの眼つきは厳しい。

「そのお前に問う。
 お前はお前の拳で、このチャイナタウンを守れるか――?」

その言葉の意味を、ジェフ・ボガードは理解した。
犯罪組織の排除。
それを自分の拳に託している。

今最も必要な、若く、強い拳士。
ジェフがチャイナタウンの運命を任されるのもまた、当然の成り行きだった。

「私の拳に正義があれば、必ず」

タンは黙って頷いた。
ジェフ・ボガードに、運命を託す。


だが、組織と聞いてジェフの脳裏に浮かんだのはなぜか――



ポートタウンにあるチャイナタウンでもまた、ひとつの話題が静かに蔓延していた。

かつて、この町で起こり、両者共に果てた龍虎の闘い。
その伝説がまた息吹を持って動き始めたのは、
ポートチャイナタウンの人間なら知らない者はいないあの時の龍――
失踪したはずの不敗の格闘家の姿を見た者がいるらしいのだ。

決着をつけに、伝説の龍が還って来た。
そんな噂がチャイナタウンを、より一層落ち着きのない町にしていた。


「どうした? ギース」

珍しく何か動揺しているように見えるギースに、リッパーが声をかけた。

「いや――」

ギースは何も言わなかったが、その眼光がギラついているのを知ると、
リッパーは安心した。
どうやって監獄に入り込むのかは知らないが、ギースは万に一つもしくじることはない。
例えチャイナタウンの虎が相手でもだ。
この男は顔色ひとつ変えずに獲物の前に立ち塞がり、虎の眉間を射貫くだろう。

だが、確かにギースは動揺していた。
リー・ガクスウの情報は組織から資料を渡されていたが、
それが逆にギースの頭に引っ掛かりを生んだ。

チャイナタウンに居る、仮面を付けた鉄の爪の虎――

そんな男を、かつて見ている気がした。
そしてその引っ掛かりはこのポートチャイナタウンではっきりとしたザラつきに変わった。


不敗の格闘家――

タクマ・サカザキがここに居る――?


ギースは手近な店の椅子に座った。
喉でも渇いたのかとリッパーが聞くが、ギースは上の空だった。

意識は少年の日の――あの場所に居る。

あの時、自分は空手着の修羅の光にばかり目を奪われたが、
その鬼の胸は、目に染みるほどの赤だったのだ。

赤い、赤い、自分がよく知っている色――

口から、腕から、眼から――

苦痛や哀しみと共に流れ落ちる、綺麗な赤――


――血、か?

あの空手着の修羅は、血を流していた?

何故?誰に?

首筋が熱い。
刻み付けられた誰にも見えない赤い線が、燃えているように熱い。

あの時、鬼の正面に居たのは――



――光が、重なった。

あの日、幼い網膜に宝石をひりつけた男。

極限流空手という修羅の拳法を使う、
少年の日に確かに憧れ追い求めた、あの悪鬼のような男の胸を朱に染めた男。

不敗の格闘家、タクマ・サカザキの胸を刺し貫いていた男が――


「――リー・ガクスウ」



フフフフ…… ハハハハハ……

――可笑しい。

ハハハハハハハハハハハハハハハハ……!!

――可笑しいじゃないか。

「よかろう!」

――こんなに可笑しい話はない。

「タクマ・サカザキの仇は私が討ってやろう!」

「ギース……?」

「リッパー! 動かせる男を呼べるだけ呼べ!
 この街に不敗の格闘家が帰って来たことを告げるのだ!
 監獄の鬼にまで届くようにな!」

倒れ込むように座ったかと思えば急に立ち上がって震えるように笑うこの男を
リッパーは訝しげに思ったが、もはや彼はギースの考えに口を挟む男ではなかった。

この男が動けば必ず最悪が訪れる。
だがその最悪を飲み込んでこそ、俺達はでかくなる。
いずれこの腐った最悪の街を全て飲み込んで、タワーの頂上から天地を嘲笑するのだ。

迅速に8人の仲間を連れ出し、ギースの言葉通りにタクマの噂を拡大した彼は
間違いなく有能であり、今や三面六臂の働きを見せるギースの確かな右腕だった。

ギースは記憶に残る因縁の広場で、座して時を待った。



五日ほどの時間が流れた。

ギースは一食も口にしないばかりか一睡もせず、
今は人の寄り付かない、荒廃した広場でただ目を瞑って正座していた。
黒い、組織のスーツの膝は乾いた土ですでに変色している。
その姿がリッパーには何かの宗教家の瞑想のように思えた。
実際、ギースは瞑想と呼べる状態にあったのだろう。

リー・ガクスウ――
不敗の格闘家という異名を持つタクマ・サカザキと唯一引き分けた男、
必ず勝てるという保証はない。

あの時に見たタクマのように胸が真っ赤に染まり、
噴水のように血を吹き流して倒れ散る自分の姿が容易にイメージ出来る。
それだけギースは強くなった。
もう暴虎馮河にクラウザーへ向かって行った頃のギースではない。
こうやって正座していると、虎の闘気が伝わって来るのだ。

――奴は必ず現れる。

チャイナタウンというジャングルの奥地で、じっと座って人喰い虎を待つ男。
この男もまたすでに、鬼の領域に入っているのだろう。
凄まじい闘気が、荒れた広場を包んでいた。


――と、ギースが5日ぶりに口を開いた。

「リッパー」

「は」

さすがに不眠不休とはいかないが、
ギースの背後で警備を続けていたリッパーは、その言葉にも即座に反応した。

「下がれ。――今夜、虎は現れる」



深夜――

昼間の繁華街の喧騒が嘘のように、何の音もない世界で、ただ風が吹いている。
その時間が止まった感覚は、少年の日の、あの瞬間と同じだった。
ゆっくりと目を開く。

何も聞こえず、視界はモノクロの世界。
ただ身体が震えるようで、感動的でもある。
私は喜んでいるのか、あるいはやはり、恐怖しているのか。

視線を上げると、そこには猿の仮面をつけ、
この闇の中にあって尚、鋭利に輝く鉄の爪を持った虎が、
『極』と書かれた使い込まれた武術服をはためかせて立っていた。

――静寂

切り裂いたのはギースの口。

「久しぶりだな、リー・ガクスウ。
 よもや覚えてはおるまいが、会えて光栄だと言っておく」

無言。

風でギースの金髪がなびいた。

「――龍火のような殺気にタクマが居るのかと思って来てみれば、あの時の小僧か。
 この街でよく生を掴んだものだ」

――覚えていた?

だが違和感がある。
ただあの場所に居ただけで、覚えられているはずはない。
あの闘いで外に目を向ける余裕などないはずだし、
あそこには他にも大勢の野次馬が存在したのだ。
何か別人のことを言われているようで、ギースは不愉快に思った。

それに、この声。
言葉は初めて聞いたはずなのに、そうではないような気がする。

「母は存命か?」

「何故――私の母の話などをする?」

「懐かしくてな。今のお前のような威勢で儂の貌を睨んだ。
 儂が殺し屋をやめたのはその時だよ」

「――何の話か解らんが、私の用事を済まさせて貰おう」

母のことを他人の口から聞くのは不快だった。
その口調が母を死なせた自分を責めているようで尚更、何様なのかと怒りを感じる。
ギースは空気さえ殺すような凍りついた殺気を放ち、五日ぶりに起き上がった。
渇いた砂が、パラパラと落ちる。

「――因果応報か」

そんなことを一人ごちて、ガクスウも爪を構える。
目には見えない肌を刺すオーラが、ゆっくりと流れ始めていた時間を再び消した。

想像通りの虎の闘気。
だが萎縮はない。倒す。

ダッ!

吐気を吐き出すと、ギースが駆けた。
瞬時に間合いに入り、鳩尾を狙って膝を叩き込む。
ガクスウはそれを見切り、その膝に手を付くとギースを飛び越して背後に着地した。
だがその程度の動きは予測済みだ。

「ファ!」

ギースは息を吐き出すと振り向き様に同じ場所を狙ったミドルキックと、
さらに流れるような後ろ回し蹴りをコンビネーションで放った。

一撃目はすり抜けるように躱されたがニ撃目はガードさせた。
老人、リー・ガクスウにウェイトはない。
ガードの上からでも身じろぎさせるには充分な、ギースの重い蹴りだった。

そのままガクスウは後ろに飛び、間合いを取った。

「盛者必衰と言う。仮面で顔は隠せても、老いまでは隠せまい、リー・ガクスウ」

ファーストコンタクトで、ギースは手応えを感じた。
リー・ガクスウは確かに強いが、自分もそれと渡り合えるほどに強い。

「小僧の脚打ではないな。
 その呼吸法によって充実したオーラ――八極聖拳か」

どうやら組織は同士討ちを望んでいるらしい。
ギースは両手を広げて笑っている。

と、ガクスウのオーラの流れが変わった。
噴き出すようなオーラが、収束するように身体に集まっているように見えた。
ギースは鋭い眼つきでその変化を捉えようと見定める。

ガクスウは両手両足を軽く地面に着いた。
いやそれが構えなのか。
確かに虎だ、とギースは思った。
だがそこから飛び跳ねたガクスウの人外のスピードを見るとその考えは消えた。

ガガガガ!!

――速すぎる!
思わず苦痛に呻く。
ガクスウはヒトの視動の限界を超える動きでギースの死角を取ると、
飛び上がり、そのまま空中で多段の脚撃を放って来た。
ガードした両腕の感覚が一瞬でなくなった。

横に流れ崩れたギースを突き抜け、ガクスウが着地する。
振り向く。
――いない!

確かに獣には違いないが、虎などという生やさしい動きではない。
ついに鉄の爪が光った。
紙一重で躱す。だが頬が切れた。
いつ死角から爪で切り裂かれるか解らない恐怖。
腕はまだ動かない。

「チィ!」

焦りの愚痴が、不愉快にも零れ出た。


何も見えない暗闇で、光が奔るたびにギースの鮮血が飛んだ。
とても老人の動きではない。
否、明らかに人間の動きでもないのだ。
その猿の面が自らに課した擬態ならば、虎の爪牙を持った猿、ということになる。
猿の俊敏生を持った虎とも言い換えられるだろう。

ヒトの身で獣に立ち向かった勇気は賞讃されるべき物だが、
その結果は無残な屍となって晒す醜態――

それは、常識という判断の中での、解り切った結論だった。

だが、そこで常識が作用しなかったのは、
ギース・ハワードもまた、飢えた、猛々しい狼だったからだ。


「ずぉ!」

リー・ガクスウは飛び上がってギースの喉笛を狙い、そして裏拳で弾かれていた。
やっと感覚が戻って来た。

素早く起き上がり、尚も狼の喉元を刈り取るべく今度は回転し、
遠心力で以って迫り寄って来る虎。

何度も何度も切りつけたが、
ギースの肉体に今ひとつ致命傷を刻めないでいるのは、
その八極聖拳特有の強力な内外功が故だ。

外から内から“気”の鎧に身を包み、
驚嘆すべき強度を持つに至ったその魔人の肉体は禍々しい闘気の湯気を放っており、
ガクスウの鉄の爪を以ってしても急所を射貫かねば致命傷を与えられない。

これもまたタンが手にした秘伝書から地上に降りた、禁忌の術である。
気功はガクスウの流派にもあるが、
八極聖拳のそれとはその威力に絶望的な違いがある。

その魔術を存分に駆使し、ギースは鋼の感触を神経が感じた瞬間に動き、
急所を外しながら耐えるという信じ難い防御をやってのけていた。
すでに“気功”という分野においては、ギースはジェフを超え、タンをも超え、
一人未知の領域をひた走っていたのだ。

それ故、ガクスウは遠心力を利用し、大木をも容易くへし折る回転爪撃を繰り出した。
彼の流派で真空空転爪と呼ばれている大技だ。
これなら気功の壁だとて関係なくヒビを入れることが出来る。
そして、このスピード。決して躱せない。

だが、ギースもただ黙って刻まれていたわけではなかった。
ギースは肉を引き裂かれる苦痛を味わいながらも、ガクスウの動きを感覚で凝視し、
速度、タイミング、攻撃への入り、呼吸、闘気、
ありとあらゆるデータをその頭脳にインプットしていたのである。

だから――


「な!?」


躱した。

爪が狙ったギースの首は回転で巻き起こった風に流されるような
流麗な動きで下方に消え、そのまま回転の死角から、突き上げる蹴りを飛ばした。
それをモロに顎に喰らい、バランスを崩して弾けるガクスウ。
正面には、ギースが居た。

ギースの両手の間に球状の光が収束する。
ガクスウにバランスを立て直す猶予は与えられなかった。

「老いたな」


カァァァ――!!


闇が、花火のように光った。
空中に留まる気の球体は引力を持ち、ガクスウの身体を吸い付ける。
完全に自由を奪われ、何の防衛手段も取れないまま、
ギースの、時間を引き裂くようなアッパーを浴びた。

そして、遥か上空を旅していた老人の肉体が激しく地面を取り戻すと、

再び闇へ――

モノクロの世界は死に絶え、地に朱が広がる。
それは砕き割れた仮面ともに、ガクスウの敗北を示していた。

「エクスプロージョンボール――終わりだな、リー・ガクスウ」

その声は勝利宣言ではない。
興奮から漏れ出た言葉だ。

ギースは興奮していた。
チャイナタウンの虎、あのタクマ・サカザキと龍虎と呼ばれ渡り合った男に、
今、自分は勝った。
自然と息が荒くなる。笑いが込み上げる。
爪傷から流れ落ちる赤でさえ高級なワインに見えた。
ギースは鬼を打ち倒すほどに強くなった自分に震え、泥酔した。

だが、自分の任務はリー・ガクスウに勝つことではない。
リー・ガクスウを“殺す”ことだ。

強引に酔いを覚まし、殺し屋の眼をして獲物へとゆっくり近寄る。
ガクスウは中腰に起き、死を受け入れるように待っていた。

「――小僧、お前はこれから多くの恨み、憎しみを生むだろう」

負け犬の声など聞くに値しない。

「その時、お前が生き延びられるかは、
 女子供を一片の逡巡なく殺せるか否かにかかっていると知れ。
 女は恨みを生み、その呪われた子は憎しみを引き継ぐ。
 慈母に輝く女と、透き通るように無垢な子供を殺せるか否かにかかっていると知れ」

負け犬の声など聞くに値しない。

「さすれば貴様は鬼雀となって、永劫、命を喰らい続けることが出来るだろう」

「遺言はそれで終わりか…… 死ね! BUZZSAW!」

何度もガクスウがそうして来たようにギースも飛び上がり、
その首筋に鉄爪にも劣らない手刀を振り下ろす。

チャイナタウンの虎の首は、このギース・ハワードが貰い受ける!


ゴオオオオオオ!!


その時、大地を光が薙いだ。

「くおっ!」

光の波に押し流され、手を引き摺って倒れるギース。
この暖かささえ感じる激しい力の波動は――

「――老師、ご無事で」

「お前はタンのところの……」

――パワーウェイブ。

茶色がかった髪を、正装のつもりなのか、丁寧にオールバックにまとめ、
身体は青いチャイナ服に覆っている。
人の良さそう口髭とは裏腹に、その眼は鋭く、厳しい。
両手には服よりはやや緑がかった青のグローブが見える。
ギースは無言で起き上がり、その男と対峙していた。

睨み合う、二人の男。
ギース・ハワードと、そして、ジェフ・ボガード。

「――お前はいつも私の邪魔をしてくれるな、ジェフ」

「ギース……」

ジェフはギースを嘆くような哀しい瞳で一瞥した。
黒いスーツ――
何のことはないスーツだが、この街では組織の制服として通っている。

1対2になったところでリッパーが駆けて来た。
右手でそれを制するギース。
命令に反してリッパーが残っていたことなど、今のギースにはどうでも良かった。

「――何故ここに居る? ジェフ」

セントラルシティに居るはずのジェフが、
何故こんな西のポートタウンのさらに西側に位置するポートチャイナタウンに現れるのか、
事情を知らないギースには疑問で、そして有り得ないイレギュラーだった。

「――ここに、お前が居る気がしたのさ」

虎を呼び寄せるギースの五日間に渡る気迫が、
大地を通じてジェフの肌にも届いていたのだろうか。
偶然と必然が重なった――
これが、運命と言うものか。

今、ハッキリと、ギース・ハワードとジェフ・ボガードは対峙していた。
ジェフは嘆きの瞳を、ギースは戸惑いを殺気で隠した、凍てついた眼をしている。

だがジェフはその殺気を受け流し、リー・ガクスウに肩を貸した。
逃げられたと思ったギースの眼光が一層鋭くなる。
弾き出した声はうろたえたように荒かった。

「良かったな、ジェフ・ボガード。
 これでお前は何の苦もなく後継者の座と秘伝書を手に出来る」

組織の殺し屋をやっていた男が八極聖拳の後継者に選ばれるわけはない。
いやそんな呑気な話ではなく、タンの耳に入った瞬間に即刻破門は間違いないだろう。
そうなれば自動的に後継者候補はジェフ・ボガードに絞られる。
ジェフはここで自分と闘う意味がないことが解ったから、
老いぼれに肩を貸して逃げようとしている。

苛立った。
この苛立ちは後継者の座を失った苛立ちか、
あるいはジェフに裏切られたという感情なのか。

とにかく、ギース・ハワードはその苛立ちのままに、ジェフをこの場で殺そうと考えた。
だが、そこで耳に届いた言葉は驚くほどやさしくて、彼は殺気を失った。


「――俺はお前を信じてる」


去って行くジェフの背を、ギースは何も言わず、呆然と、
ただ呆然と見送るだけだった。


長かったポートチャイナタウンの夜が明ける――



その後、しばらくは何でもない日々だった。
道場に戻るとジェフはいつもの様に組手の相手を名乗り出たし、
治療箱の子供もまた名前を呼びながら後ろを付いて来た。

リー・ガクスウ暗殺には失敗したが彼が大きな負傷をしたのは確かで、
この時期に一時身を隠さなければならなくなったことは、
組織にとってはもう死んだも同然だった。

リー・ガクスウのいないリー・一族など恐るるに足らず、
瞬く間にサイクロプス刑務所を落とすだろう。
ギース・ハワードの功績は果てしなく大きかった。

チャイナタウンの虎を喰ったという噂は組織内で瞬時に広がり、
尊敬か、あるいは有望株にツバを付けておきたかったのか、
ギースの命令を聞く人間は15を越え、組織内に新たな一派を築きつつあった。

今も、またジェフと組手をしている。
相も変わらぬ、大地に根を張った大木のような暖かさ。
この男は本当に、自分のことをタン・フー・ルーに話してはいない。

だが、そんな好日がもう長くは続かないことは、ギース自身解っていた。
悪事千里。自分の名が大きくなればなるほど、タンの耳に裏の自分が触れる。

ジェフ・ボガードが後継者に選ばれ、
ギース・ハワードが破門となったのは一週間後のことだった。

【6】

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