ドガッ!

再び重いリョウの拳が影二を捉える。
ジャック・ターナーであればあるいは耐えられたかも知れないが、
顎へまともに入った一撃は確実に忍者の意識をグラつかせていた。
脳が揺れ、完全に足にキている。

だがそれでも忍者は踏み込み、真空の奥義を繰り出し続けて来た。
もはや気力のみ。本能のみで打ち出されている。
それを確実に躱し、拳を突き入れるリョウの技量は見事だった。
この2年の激闘でリョウの力は飛躍的に増していた。

「斬鉄波ぁー!」

如月流必殺の真空飛び道具だが、躱す。


「――これ以上は無駄だ、忍者」

影二の顔が屈辱に歪む。
だが、追い詰められているのはリョウの方だった。
この忍者、何度致命の一撃を打っても倒れず、向かって来る。
これ以上打ち続けては忍者は死ぬのだ。

その執着がリョウには解らない。
この忍者は“最強”としきりに口にした。

強さ――とは何だ?

こうやって、父のように、命尽きるまで戦意を失わず、相手の命を射貫くことか?

極限流は強い。確かに忍者の言う“最強”かも知れない。
では、父もそれを目指してこの拳を創り上げたのだろうか?
彼らはそこに何を求めているのか?

何が欲しくて――命を燃やしている?


ふいに、キングが声を上げる。
意識を忍者に戻すと、そこには二本の短刀が握られていた。
流と影という、代々続く如月流の頭目へと与えられる正しく伝家の宝刀。

「忍の戦いはいずれか死すまでよ! 貴様に値踏みされる物では無い!」

リョウの視線は再び険しくなった。

確かに影二の手刀は刃物を超える切れ味がある。
だがその威力を出すためにいかんせん大振りだ。
もっともそれを大振りと思えるリョウの実力が凄いのだが、それならもう躱せるのである。
リョウは空気の流れを見切っていた。

だが、本物の刃物が相手となれば、
最小限のモーションで確実に急所を突けることになる。
忍者の素早さ、拳速を考えると、これは厄介なことだった。
接近されると、リョウと言えどもひとつのミスで命を失うことになる。

「反則じゃないのか!?」

キングが黒服に詰め寄る。
確かに事前の審査を通っていない武器は反則だ。だが彼らには止める手段がない。
この時点で如月影二は反則負け、リョウ・サカザキの優勝ということにはなるのだが、
この勝負はそんなところとは別の次元にあることは黒服達にも解った。
すでに銃を抜いた程度で収まる空気ではない。

――武器を持った奴が相手なら、覇王翔吼拳を使わざるを得ない。

リョウは気の集中に入った。
覇王翔吼拳は、充分に人を殺める威力を持っている。
それを撃つことの意味を、リョウは理解している。
だがキングの覚悟が、リョウに引き金を引かせた。

突き出して来た短刀を躱し、胸元を掴んで巴投げに放り投げる。
回転して素早く受け身を取られたが、間合いは取れた。

負けられないのなら、勝つしかない。


「――覇王翔吼拳!」


リョウの死点を狙い、踏み込んで来た影二を、大気を歪ませる黄金の砲弾が襲う。
それは明らかに影二の身の丈を超えていた。
極限流覇王翔吼拳、知らない技ではない。
これを返すために影二は流影陣を磨いたのである。

――返す!


「流影陣!!」

逆関節に至るまで広げられた影二の両腕の前に、真空の光が生まれる。
この砲弾を返せれば勝ちだ。
覇王翔吼拳を、空間が飲み込む。渾身。

だが、それを返すには、影二は疲労し過ぎていた。


ドオオオオオオオオン!!


影二は10m近く吹き飛び、焼け焦げた胸から煙を昇らせていた。
リョウは青ざめたように立ち尽くしている。
勝者の姿には見えない。

だが、尚も起き上がろうとする忍者を見て、リョウの顔色は戻った。

「――き、極限流…… 必ず、その命脈を…… 断つ!」

忍者はしかし起き上がれず、首だけをリョウに向け、自分に言い聞かせるように呻いた。


――殺し合いは、気分の良いものじゃない。

リョウはその姿と自分の疲労を見て、そう思った。
殺し合いと言えば1年前の闘いも殺し合う闘いだったのだろう。
でもあの時は何も考えられなかった。ただ目の前の敵を倒すだけしか――

リョウは、自分もこの忍者や父のように、修羅となっていたことを自覚した。
そして、それが自分にとっては答えでないことも、ハッキリと自覚した。



Mr.BIGの事前のダメージは予想以上に大きかった。
ロバート・ガルシアの、龍虎乱舞。
ジョン・クローリーの手を借り、なんとか逃げ延びて来たというのが実際の所だ。

だがそれ以上にギース・ハワードが強い。
リー・ガクスウを倒したというのは単にガクスウの衰えだとBIGは疑わなかったが、
この男は本当に全盛期のリー・ガクスウを相手に打ち倒せるほどの強さを持っている。
ただこの男を殺せば良いと思っていたが、ここまで強いとは全く思っていなかった。

最後の希望を失ったことが、Mr.BIGの戦意までも失わせた。


――初めて会った時から…… この男は俺を見下してやがった……


「てめぇを取り立てちまったことが、俺の唯一の失敗だ」

「狼子野心――
 狼を飼い慣らせると思ったのが貴様の思い上がりだ。
 最期にそれが解っただけ利口だったと褒めてやろう。
 そしてさらばだ――せめて私の龍虎乱舞の実験台となるが良い!」


――デッドリーレイブ!


赤い血が、乱れ舞う。



リョウはヘリに乗せられ、大会コミッショナーの元へと案内されていた。
そこで表彰式を行うらしい。
途中で黒塗りの車に乗り継ぎさせられる。

イーストアイランドのようだ。
ここへは初めて来たが、ポートタウンのスラムとは全く違い、
同じ街とは思えないほど華やか見えた。
反面、その輝かしさが不安に思えてしまうのは、
この街の闇を思い知っているせいだろうか。

車はサウスタウン・ビレッジを渡り、東のイーストアイランドのさらに東端で止まった。
立派なビルだ。周りと比べても一際高い。この街で一番高いビルだろう。
その雄大さとは別に、なぜか威圧するような圧迫感を感じる。
中で入ると、その理由はすぐに解った。

――硝煙の臭いがしている。

出迎えに出て来た男の一人の、
スキンヘッドの男の物腰はただの大会運営委員のそれではない。
ガッチリとした肉体は戦士のそれに見えた。
――黒いスーツ。
組織の制服とされるそれとは多少違っているが、リョウに可能性が浮かぶ。
なぜか薄暗い。

警戒したまま、リョウはエレベーターに乗せられ、最上階の部屋へと送り込まれた。
暗い。電気が通っていないようだ。ただ、血の臭いだけがしている。
豪勢な机の両脇に黒服が置物のように立つと、
この部屋で一際目立つモニターのスイッチが入り、電気が灯った。

リョウの視界に入ったのは――

「――BIG!」

BIGは壁にもたれ掛かり、全身に夥しい傷を植え付けられて、
高級なホテルのような部屋を赤で汚していた。
生きているのかどうかは、解らない。

モニターから声がした。

「――優勝おめでとう、リョウ・サカザキ。お会い出来て光栄だよ」

ノイズを握り潰すように、背まで伸び、先を布で結んだ長髪の男の顔が浮かんだ。

「私の用意した相手では物足りなかったかな?
 随分と来るのが早かった。お陰で趣味の悪いオブジェを片付ける間もなかったよ」

本当に間がなかったのか、あるいは晒しているのか。
ただ、KOFがただの格闘大会ではなかったことは解った。

「お前がBIGをやったのか? お前はいったい何者だ!」

Mr.BIGの強さも、その統率力も身をもって知っている。
それをここまで残酷に痛めつけられる男――

モニターの男の顔がアップになり、紳士然として笑った。

「私の名はギース…… ギース・ハワード。いずれこのサウスタウンの支配者となる男だ」

ギース――

その名は父から聞いたことがある。
どこまでも怜悧で冷酷。
瞳はモニターのノイズに飲まれ、邪悪なくすんだ黒に見えた。

「私は君のような優れた力を持った男を探していた。
 君の父、タクマ・サカザキに送った言葉を今度は君にも送ってやろう。
 リョウ・サカザキ、私の元で働く気はないか?」

「――組織に入れって言うのか?
 ふざけるな! お前と組む気はさらさらねぇぜ!」

「クックックッ、父親と同じ答えか。血は争えんな、リョウ。
 少し待っていろ」



ややあって、ビルの電気が全て回復する。
明るくなった世界だが、空気は暗く淀んでいる。

そこにギース・ハワードは、ゆっくりと現れた。
紺色のスーツに紺色のグローブ。
白いベストの裏側に隠されたネクタイは血のように真っ赤だ。
歪んだ口元からは余裕が、重く、窪んだ眼からは殺気が感じられる。

リョウと、ギースの対峙。距離は2mほどある。
彼らには一瞬の間合いだ。

「――何を考えているのかは知らないが、
 まだ極限流を利用するつもりでいたとはな」

「利用?そうだな、お前が配下に加わってくれれば最高だったのだが、
 今はもうそんなことはどうでも良い」

モニターの印象とは違い、武術家の眼をしているとリョウは感じた。
それも父や忍者のような、殺しを前程とした眼だ。蒼い瞳が煌々と滾っている。

「忍者との闘いのVTRを見せて貰った。
 忍者には期待していたのだが、また本気を出さずに勝ってしまったようだな」

「――何?」

――本気ならば、出したはずだ。

「死に際まで追い詰めればお前は本気を出してくれるのかな?」

意味の解らない言葉と同時に、風が吹いた。
赤い絨毯を引き裂きながら襲ってくる気の突風。
ギースの振り上げた拳から蒼く発光する波動が滑る。

――気か!?速い!

高速で襲ってくる気弾。避けられるスピードではない。
流すにしても、足下のガードは難しい。
咄嗟に身を固めたが、駆け上がってくるように身体を伝う波風に上半身までも刻まれた。

「ぐぅ!」

「烈風――という言葉が日本にはあるらしいな、リョウ。
 さしずめ烈風拳と言ったところか。
 覇王翔吼拳ほどの威力はないが、スピードでは私の勝ちだ」

言うと、ギースの左拳から放たれる烈風は連続してリョウの身体を刻み、飲み込んだ。
速射性では覇王翔吼拳は当然、虎煌拳でも敵わない。
ギースは極限流対策として一撃の威力は捨て、この技の速射性を磨いていた。

リョウは身を刈り取る地獄から抜け出すべく飛んだ。

「飛燕疾風脚!」

確実に闘気の上を取って放った、だがギースはそれを下に躱す。
撃ち出した直後に隙がある、と忍者に言われた極限流の弱点を、
この男のそれには感じない。
さらにニ撃目にはカウンターで浴びせ蹴りのようにカカトを合わせられた。

えげつない音を上げて、頬骨に突き刺さる。
激痛。ヒビはくだらないだろう。

「その技はタクマに直接見せて貰った」

ならば!

「――暫烈拳!」

再び踏み込んで拳の連打を打ち込む。
極限流の高等な奥義。もし見たことがあったとしても、受け手は存在しない。

ガガガガガガガガガガガ!

だが、響いたのは鈍い音だけだった。

「――何!?」

1秒間に4発打ち出されるリョウの左拳を、ギースは指だけ折り畳んだ裏拳で全て受けた。
反撃の殺気を感じ、思わずリョウが下がる。

「その技も見たな」

この男の極限流に対する研究は並大抵ではない。
忍者のそれと比べても遥かに密度が高いだろう。

大技は――通じない。

ドッシリと構える。
元々リョウのスタイルは足早に攻め立てる物ではない。
真に強い相手を迎えた時こそ、手数を減らし、一撃に魂を乗せる。
それが極限流の、真剣の型だった。

「今度はこちらの番かな?」
リョウがカウンターを狙っているのを理解しながら、ギースは飛び込んで来た。
ギースの裏拳を裏で受け、巨大な釣鐘を打ち鳴らすように正拳を打ち込む。
だが完璧なタイミングだったはずのこの拳でさえ、ギースの髪を撫でるだけだった。

咄嗟のフォローに左のボディブローを放つ。
これも一撃で動きを止める、地味ながら極限流の中で比重の大きい技だ。
それすらも渇いた音。高級なグローブがすでにレバーの前に置かれてある。

止まれば反撃を打たれる。
頬の痛むリョウにとってそれは避けたい出来事だった。
ワンツーのように左右の正拳を打つ、もう一度左、そして右アッパー。
極限流連舞拳と呼ばれる極限流空手の型だ。
だが全て躱された。

そのまま胴着を掴まれたリョウは抵抗する間もなく巴投げに投げられ、
受け身を取って半身に起きた。
ギースは追い打ちには来ない。両手を広げて挑発するように笑っている。

「悪いがお前の動きは全て見切らせて頂いている。
 そろそろ本気を見せて貰いたいものだな、リョウ」

――見切り……

だが、ただの研究だけで完全に受けられてしまう極限流ではないことは、
リョウの中にもはっきりとした自信としてある。
ギースは実際に技を目前で見ながら微修正してそれを見切っている。
忍者の技を見切ったリョウでさえ、この天才的な見切りには驚嘆するしかなかった。

覇王――

今度は躊躇などなかった。
覇王翔吼拳を撃つ!

「――BUZZSAW!」

なっ!

3mほどあった距離を一瞬で縮めてギースの身体は宙にあった。
忍者のそれにも匹敵する天空からの手刀。
ザシュ!
なんとか肌だけ斬らせて後ろに退けたが、溜めた気は全て逃げてしまった。
胸を赤い血が伝う。

――強い。


「――リョウ、なぜ本気を出さない?」

「さっきから何を言っている…… 俺は本気だ」

「本気ならばその技を撃つ際に躊躇などするまい。
 その甘えが私に技を見切らせていることに気付いていないのか?」

――躊躇、した?

「貴様は確かにタクマに勝ったのかも知れんが、
 奴はすでに薬石無効の傷を持った身だった。
 チャイナタウンでもその傷を治すことは無理のようだ」

奴等とて魔術師ではないのだから当然だと言うギースに、リョウの表情が強張る。

「だがそれでも貴様の殺気の篭らぬ拳ではタクマには到底及ばん。
 貴様の勝利は龍虎乱舞が生んだただの偶然だ」

「貴様、龍虎乱舞まで!」

再び両手を広げてギースが続ける。

「リョウ、私を憎め。
 お前が本気となり、龍虎乱舞を引き出すために必要ならば私は何でもするぞ。
 BIGのように、ユリ・サカザキを――」

「貴様!」

リョウが踏み込む。
だが変わらない。その拳はギースに見切られ、カウンターで弾き飛ばされる。
一度でも直に龍虎乱舞を見れば、ギースの天分はそれを会得させるだろう。
ギースはゆっくりと歩いて来る。

「リョウ、お前はタクマを憎んでいるのだろう?」

「……な、んだと」

「母を奪い、お前達を裏切って消えた父を憎まぬはずがあるまい。
 その憎しみが龍虎乱舞を生んだ。違うか?」

――なのに何故お前の拳には殺気が無い……

ギースにはそれが疑問で、そして不快だった。

このリョウ・サカザキという男は確かにタクマに匹敵する、
あるいは今のタクマならば確実に超える腕を持っている。
にも関わらずその威圧感がまるでタクマの域に達していない。

部下にするにせよ、奥義を奪うにせよ、
これではギースの興味を惹き続けるには値しない男なのだ。
彼はタクマ・サカザキのように期待に応えてはくれない。

「――俺は親父に、憎しみなどは持っていない」

今は、はっきりと言える。

「――なぜだ? お前の10年間は憎しみの歴史だろう?」

「違う!
 父さんに拳しかなかったように、俺にもまた、拳しかなかった……
 でもそれは絆だったんだ!
 その絆でユリを守って来た10年間を、俺は誇りに思っている!」

「――絆……?」

即答するリョウに、ギースは微かな動揺。

――キズナ、だと?

両腕から力が抜ける。
少年の日にナイフを突き刺した右腕が、
ズキズキと痛みを思い出したように意識をあの日に飛ばす。
父を想いながら鍛えた腕が、憎しみの対象だった。
だから壊してしまおうと、刃を突き立てた。何の痛みもなかった。

でもそこに――絆があったのか?

考えもしなかった。
ただ憎くて、呪わしくて――


動揺は大きくなった。
リョウの拳が顔面を捉える感触がする。
どうやら今度は押されているようだ。リッパーが顔色を変えているのが見える。
今度はギースが倒れていた。
息を整えながら気を練っているリョウの唸りが聞こえる。

だが、答えはもう解った。
この男は自分の仲間にはなれないし、敵にもなれない。
いつかのように覇王翔吼拳を受け流し、口に溜まった血を吐き捨てた。

「――リョウ、龍虎乱舞を見せろ」

その眼つきはカミソリのように鋭く、儚い。
何者にも触れさせない絶対の拒絶が、リョウの心臓を絞め上げた。
Mr.KARATEの熱風を巻き上げる殺気とも違う、ただ心の芯が凍るような殺気。

龍虎乱舞――

言われずとも覇王翔吼拳を止められた今、自分の勝機はそこにしかない。
だがこれはコントロール出来る奥義でもない。
無に近づき、無に成り、無の中から生を打つ。
その悟りとも言える境地は、昇ろうとして昇れる場所ではない。

「――どうしても、本気は出さんか! リョウ!」

苛立ちをぶつけるような咆哮と共に、ギースに収束した闘気が弾けた。
それが起こると同時に、それに弾き出されるようにギースの肉体が駆ける。
今までとは段違いのスピード。

人間の身体は本来の能力の全てを出し切れない構造になっていると聞くが、
気の力はその枷を外す魔法なのだろう。
それを限界まで引き出せば、一時的にこのようなヒトの身を大きく超越した動きが出来る。
無論、身体にかかる負担は命さえ削り兼ねない。
未完成で使うにはあまりにも恐ろしい境地だが、ギースは躊躇なくそれを使った。

龍虎乱舞を見てギースなりに解釈した、デッドリーレイブである。
憎しみという殺気が、その躊躇を殺す。

アッパー、ミドルキック、手刀、裏拳、アッパー、ミドルキック、手刀、
そして最後に収束した闘気を両手に全て託し、全霊で打ち付ける直掌。

リョウの眼光は見開かれたまま、何の対応も出来ないでいた。
ただただ骸のようにギースの連撃を受け、重力を失ったように直掌で飛ばされた。

「さあどうした! 本気で龍虎乱舞を打って来いリョウ!
 貴様が本気ならば、BIGもMr.KARATEも死んでいたのだ! くだらぬ枷は外せ!
 Come on! Yellow belly!」

反動の虚脱感を噛み殺しながら、
ギースは自らが巻き上げた煙の中へ狂ったように烈風拳の嵐を浴びせた。
その様子にリッパーが拳を握り、今にも踏み出そうとする足を殺す。
握り締められた液体は、汗ばかりではない。
ギース・ハワードが追い詰められている。それをリッパーは感じた。

だがリョウはもう煙の中には居なかった。
――頭上。
飢えた獣が襲い掛かるが如く、リョウはギースの頭上を取っていた。
すぐに反応したギースが真上への回し蹴りを打つ。
リョウの右腕が光った。

――虎煌拳

「空から!?」

空中で気を練り、そのまま撃った。
信じ難い絶技にギースの受けは間に合わない。
サウスタウンに革命を起こした気の力だが、
やはり極限流のそれは付け焼刃の拳とは源流が違う。
本当に僅か二代しか継承されていない拳法なのかと、
ギースはその神秘性を見せ付けられた。

だがいつものように笑う余裕はギースにはない。


リョウの動きが――変わった。


「おおおおおおおお!!」

全く見えない速度でのジャブが飛んで来る。
それがしたたかに連続で顔面を捉えると、痛みを認識する間もなく次の右拳が飛んだ。
弾ける肉体とは矛盾するように、獲物を逃がさないリョウの下段蹴りに打たれる。
崩れ落ちそうな身体はさらに神速の正拳に抱き起こされた。

リョウ・サカザキという巨大な磁石で吸い寄せられるかの如く。
闘神に魅入られるように。
その拳風に巻き込まれるままに拳を浴びる。


だが――
一縷の隙さえない完璧なデッドリーレイブと比べ、それは荒かった。
タイミングさえ合えば、抜けられる。

絶望的な痛みの中にこそ、希望の煌きは強く見える。
希望に満ち満ちた人間には決して見出せぬ隙だったろう。
ギースの暗黒は、リョウの拳に光を見た。

――お前は眩しすぎるのだ!リョウ!

「がああああ!」

外聞のない、裂帛の咆哮。
ボキッ!という音が、聴覚を消す拳風の中にあってもはっきりと響いた。
リョウの命とも言える、右腕を折った。

――勝った!


その刹那――リョウの右正拳突きが、
ギースの顔面を射抜くように突き刺さっていた。

驚愕も、戸惑いの間もなく同じ場所へ入る横蹴り。
その後は顎へ砕けたはずの剛拳が抉り込むと、
ギースの肉体は、突然、法則を取り戻したかのように弾け飛んだ。
主を酔わせる漆黒のピアノが、甲高く崩れ悲鳴を上げる。

覇王――

混濁の意識の中で、その闘気が伝わる。
もうそれを受ける気力などあるはずもない。


だが、リョウは思い出したように身体を痙攣させると、翔吼拳を打たずに膝を突いた。

限界――いや、甘さか。

リョウのリミッターは、一度かけたあの日から外されてはいなかった。
リョウにその壁を超えることは、出来ない。
だがそれがあるからこそ、リョウは人を殺めずに倒すことが出来る。

リョウ・サカザキという男の優しさが生んだ奇跡。
格闘家としての一つの理想なのだと、ギースは思った。

だからこそ、要らない。
この男は自分の仲間にはなれないし、敵にもなれない。

そして龍虎乱舞は、ただの愚者の拳だ。
そうギースは理解した。
自らの肉体の悲鳴すら聞けず、無心で攻め続けるしかない拳。
確かに美しい。修羅と言えばそうだろう。

だがギース・ハワードに言わせれば愚者だ。
命を放棄しての勝利など、野良犬の拳に過ぎない。
そのまま醜く朽ち果てるだけの、何の意味もない拳だ。
仮に仇敵を倒せたとしよう。だが無意識無想のまま敵を討って、それが何になる。

勝利にはほど遠い。
そんなことでは命の渇きは癒せない。
砂漠の旅人が水を渇望するが如く憎しみの血肉を貪り、
断末魔を聞かなくてはただ干からびるだけだ。

闘いとは命を得るための物。
命を捧げる物ではない。
渇きを満たすための闘いで、逆に干からびるのは愚者以外の何者でもない。

龍虎乱舞はギース・ハワードには必要のない拳だ。
デッドリーレイブも必要ない。
もう極限流への興味は尽きた。
楽しかった時間だけを感謝しよう。



「リョウ、今回の所は私の負けだ」

膝を突いて沈む二人の荒い呼吸が、荒れ果てた事務所に響いていた。
置物のようだった黒服達がギースの脇に集まっている。

「随分あっさりしてるな。もっと執念深い男だと思っていたが」

「それだけお前が強かったということだ。
 また会う機会があれば借りは返そうと思っている」

「そいつはごめんだな。俺はもうさしたる理由もなく闘いたくはない。
 殺し合いとなれば尚更だ」


――それは残念だ。


そう言い残してギース・ハワードは消えた。
リョウはこのビルからの脱出戦を覚悟していたが、何も起こらずに出ることが出来た。
さすがに黒服の案内は断ったが、丁度ロバートがフェラーリでやって来ていた。

「おいしいとこばっか持って行きよってからに」

ロバートはそんなことを言ったが、全く冗談じゃないと、リョウは笑った。

空がすっかり闇に覆われても、このイーストアイランドはまだ眩しかった。
宿主が敗れても、威圧的なタワーの灯は消えない。
それはこの街が何も変わっていないことを示していた。

だが、車の窓から入る風はどこか静かで、落ち着きを感じる。
自分達を食い荒らす暴風が去ったことを、風は知っていたのかも知れない。

例えそれが束の間だとしても、リョウの思いは変わることはない。
ただ、大切な人を守って行く。
その為にこの拳があることだけが、彼が唯一信仰できる確信だった。
風がまた、極限流へ吹くのならば、無敵の龍は牙を剥くだろう。

タクマ・サカザキが正式に引退し、リョウが極限流の師範となるのは数日後のことだった。

新しい極限流空手の朝が来る――



サウスタウン・エアポート

近年完成したばかりの近代的な空港である。
払われているのか人はいないが、機械仕掛けの世界は物々しく感じる。

そこに降りて来る、一台のヘリがあった。
中からは数名の男達が、一人を先頭に悠然と現れた。
先頭の男の長髪がヘリの撒く風で忙しく舞っている。
少々統一性の欠ける軍隊の行進のようで、荒々しくも力強い。

「リッパー、後は頼む」

「ギース様……」

ギース・ハワードに別れを告げられたリッパーは、いささか不安気な表情に見えた。

「もう私の反抗勢力はない。私が戻るまでただ座っていれば良い」

そんな心境を察したのか、ギースは言った。
だがその胸中の大部分はすでにリッパーの事ではなく、
これからの旅への期待に満たされている。

「は、必ず席をお守りします」

「お前の弟分だとか言う――ホッパーとか言ったな。
 退屈だろう。そいつも連れて来てやれ」

「は?」

社会見学でもさせるかのように気楽に言うギースは、やはり上機嫌だった。
実際、すでに組織でギースに牙を剥ける人間はいない。
あれだけ畏怖されていたMr.BIGが消えた噂は、マフィア派の内部にも奔るだろう。
他の二人の幹部は凍え上がっているはずだ。

妨害はあったが、キング・オブ・ザ・ファイターズも大きな利益を上げることが出来た。
金に執着の強い連中は益々ギースに心酔するだろう。
もはやボスはギースを利用することだけを考えている。

留守を預かるという重大任務のリッパーだが、
ギースが戻るまで本当にただ事務をこなせば良いだけなのである。
だからこそギースは海外へ旅立つことが出来るのだ。

到着した飛行機は、日本行きの便であることを示していた。



リョウ・サカザキは今日もセントラルシティのスラム街を徘徊していた。
一年前も行った行動だが、今回も見付からない。
詳しく話したわけではないが、この辺りに住んでいるのは間違いないはずだ。

ここで行われるストリートファイトにはリョウも出たことがあるので
全く知らない場所ではないのだが、よくよく考えればリョウは彼女の本名さえ知らない。
アパート等に住んでいるとしても、表札を見て発見、というわけにはいかないのだ。

彼女の捜索は困難を極めた。
MAC'S・BARでジャック・ターナーにも聞いたが、
ライバルが女だったことがよっぽど気に入らないらしく、機嫌を損ねてしまった。
これは次のターゲットに定められる前に逃亡するに限る。

「まだバンサーでもやっててくれりゃあなぁ……」

リョウの嘆き節がスラムを漂う。


半ば諦めていたのだが、リョウの元へは優勝賞金10万$の小切手が、
ギース・ハワードの名義で届けられていた。

「律義なことだ」

と、嫌味のひとつくらいは言いたくなったものの、有り難いことに違いはない。
例え汚れた金でも、それで人を救えるのなら黄金にだって成り得る。
ユリや父の詮索は烈火の如く激しかったが、何もなかったとリョウは言っておいた。
まぁ悪いので後でスラム土産でも買っておくか。


――と、悲鳴が聞こえる。

それも男の悲鳴だ。
別に珍しくもないが、その男に怒鳴っている声は女の声に聞こえた。
やれやれ、あいつしかいない。


「――よっぽどケンカ好きなんだな。今度は俺が相手になろうか?」




「――ギース様」

ファーストクラスを優雅に味わいながら、
ギース・ハワードは老執事に名前を呼ばれていた。
エアポート付きの人間だがこの男も組織の人間で、サウスタウンの情報を持って来る。

「間もなく日本の領空に入ります」

「そうか」

聞き流すようにそう答えたが、魂はすでに、荒ぶる武道の国、日本へと飛んでいる。
かつてサムライがその美学に果て、タクマ・サカザキが極限流空手を生み出し、
そして未だ如月影二のような忍の神秘までも内包している。
ギースのこの国に対する興味は限界まで昂ぶっていた。

八極聖拳は草臥れた凡夫な拳だった。
極限流空手は己を省みぬ愚者の拳だった。

ならば我が身に相応しい拳とは――

それが、日本にはある。
ギースはそう、信仰している。


「ジェフ・ボガードの事についてですが……」

だがその言葉に夢見心地は露と消えた。
表情が険しくなる。

「ギース様の事を色々と嗅ぎ回っているようですが」

――そういえば、まだ奴が居たか。

記憶の奥へ置き去りに、意図して封印していた男の名を出され、胸糞が悪くなる。
鳥肌が立つように寒さの駆け抜ける脆弱な神経までも腹立たしい。

「――そうか、私が戻って来るまで奴の動きをマークしておけ」

だが、どうでも良いことだ。
――どうでも良いこと。
そう言い聞かせて、ギースは心拍数を正常に戻す。
動揺など有り得はしない。

なぜならば、

「サウスタウンがこの私の物となるのも、もはや時間の問題。
 日本でさらなる修行を積み最強の男となるこの私に、もはや恐れる者など何も無いわ!
 ハッハッハッハッハッ!」

そう、何もない。
恐怖も、ぬくもりも、全て超えて帰って来る。
サウスタウンを我が手に。

そして、あの男の喉元へ牙を――


1979年、夏――

ギース・ハワードは日本の大地を踏み締めていた。

【11】

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