ビリー・カーンはやはり、この場違いなスラムのアパートに
ギース・ハワードを来させてしまったのは間違いだったと思った。

小さなテーブルにホッパーが慣れた手つきで紅茶を置く。
それを囲んで自分とリリィ、ホッパーにギースが座ると、とりあえず狭い。
ギース・ハワードが体格以上に大きく見えるからだろうか?
いやその圧迫感にまだ慣れていなかからかも知れない。
リッパーが警護で表へ出てくれていることが救いだった。

それを見兼ねたわけではないのだろうが、ギースは起き上がり、机の椅子へ座った。
自分のタワーでのそれと同じような、悠然として大きな態度だ。
そして何事か口を開こうとした。

だがその時、ビリーの陰からリリィが飛び出し、
同じ様にふんぞり返ってギースの膝に座った。

「ああ、オイ! 馬鹿!」

「……ホッパー」

「はい」

すぐに襟首を掴まれて退場して行くリリィ。
ギースに謝ったり、リリィを叱ったりとビリーの動きは忙しい。

「ギース様はリリィを気に入ってる」

去り際に耳打ちしてくれたホッパーの言葉が頼もしかった。

そういえば、自分が病院で寝ていたあの日からそうだが、
リリィはやけにギース・ハワードに懐いているような気がする。
あんなに怖い人なのに、何故だろうかとビリーは考える。
自分のダークサイドも、あいつは受け入れてくれるのだろうか。

「すみません、ギース様……」

「構わん、初めから人を払うつもりだった。私はお前に話がある」

そう言って足を組み直したギース・ハワードはどこか自然で、
すでにこの異様な家の主のように溶け込んでいた。
場違いと感じた違和感はいつの間にか消えていた。

「――ビリー、お前にだけ、私の野望を語っておく」



「リッパー、表は俺だけで良い。アンタは車を張っといてくれ」

「ああ」

それだけの会話をし、ホッパーはドアの前に立った。
右手は懐に、左手はリリィの腕を掴んでいる。
何事か話し掛けて来るリリィをあしらいながらも、
彼はこれから行う自分の任務の重大さを噛み締め、やや強張った表情をしていた。

ホッパーがこの場所へ送り込まれた理由は、左遷ではなかった。
わざわざここまでやって来たギース・ハワードが語ったプロジェクトGの真相は、
彼と、ビリー・カーンがその中核を占めるというのである。

ホッパーは銃の名手ではあるが、その銃で人を殺したことはまだ一度もない。
彼は今までその記憶力を生かしての秘書としての活躍が主で、
実際は、実戦で発砲したことすらないのだ。
それ故、彼の銃の腕を知っている人間はギースとリッパー、二人しかいない。

そればかりか、童顔を隠すために常に装着されている帽子と大きなサングラスによって、
彼の素顔を知っている人間すらほとんどいない。
組織の他の人間に映るホッパーという人間は、
その異常な記憶力で秘書としての才覚を見出されたよく解らない男、
というのが浸透した認識だろう。
銃の名手だなどとは誰も思っていない。

プロジェクトGにおけるホッパーの任務は、ライフルを使った暗殺である。
ここまでの適任者はいないと、ギースは彼を評価した。
直接ボスの命を取りに行くビリーの援護をこなし、
スコープ内に捉えたならば、幹部の暗殺も行う。
後方支援ではあるが、ビリー・カーンと双璧の重要な任務だった。

これを極秘裏にやらせるがために、
ギースは一時、ホッパーを手元から離したのである。

それを知らされたホッパーは身震いした。
この人は自身の評価を超えて、自分を信頼してくれている。
その信頼故か、あるいは確実に人を殺す任務が故か、彼は身震いした。

自分はビリー・カーンとは違って人を殺した事がない。
覚悟はあるが、機会がなかったと、ただそれだけだと自分を慰めていた。
才能はあるが、機会がなかった今までの自分と同じだ。
どうしても欲しかった機会という力を与えてくれたが故に、
自分はギース・ハワードに従っているのだろう。

そして自分は、自分の力で、ついにギース・ハワードに認められた。
今度も何も変わりはしない。
ギース・ハワードは機会を与えてくれた。
後はそれに才能を行使するだけだ。

表情の強張りは流れるように剥げ落ちた。
信頼には応える。



ビリー・カーンはただ真剣な眼をしてそれを聞いていた。

ギース・ハワードの壮絶な過去。
そして、あまりにも大きな、シュトロハイム家という自分達の敵。
衝撃が無かったわけではない。
だが、この人とならば、それすらも可能だと、ビリーは信仰出来た。
それに自分の力が必要だと言ってくれるこの人の信頼が、何よりの宝だった。

「お前はボスの元へ乗り込んでただ暴れれば良い。お前にはそれが一番だろう」

そういう単純な所もビリーには解り易かった。
“仲間”への戸惑いも、それを見透かしたように消し去ってくれた。
自分が一番力を発揮出来る場所を、ギース・ハワードは与えてくれる。
逆に言えば、細かい作戦を与えられても、今のビリーでは遂行は難しいだろう。

だがそれは単純なだけで、簡単な任務ではない。
ビリーはったった一人でボスの元へと乗り込まなければならないのだ。
ビリー・カーンでなければ、ギースは“死んで来い”と言っている、とそう思うだろう。

ギースはビリー帰還と共に組織乗っ取りの情報を少しずつ流出し始めている。
やがてマフィアのボスと幹部ニ人はそれに対応すべく会合を開くだろう。
場所は解らないが、それをリッパー達が調べ上げる。

ビリーはそこへ一人で乗り込んで、ボスの命を持ち帰るのが任務だ。
援護はホッパーのライフルのみ。
相手は何人の銃を持ったガードが付いているのか解らない。

「お前が本当に狼ならば、生きて帰って、それを証明してみせろ」

そうでなければ、シュトロハイム家と戦う駒になど成り得ない。
かつてMr.BIGがギース・ハワードに試験を与えたように、
ギース・ハワードもビリー・カーンに試験を与えた。
だがその過酷さは比較にならない。

ビリーは最後に一つだけ聞いた。

「――ギース様、この家は……」

片頬を吊り上げて笑った後、ギースは立ち上がりながら言った。

「ああ、私のホームだ」

意味を、理解した。
プロジェクトGは、必ず成功させる。



ボス達が動き出したのは、意図的な情報流出が開始された、実に3週間後の事だった。
時刻は夜。会合場所は、ボスの自宅であるサウスタウンベイの屋敷。
実に動きが遅く、何の捻りもない場所だ。
だが、それ故に硬い。

その広大な敷地へガードを張り巡らせれば、そうそう崩せる場所ではない。
ビリー・カーンとしては、むしろ隠れ家のような狭い場所で、
秘密裏に会合を開いてくれた方がやり易いのである。
広さや造りを考えれば、八極聖拳の敷地のように焼き払うのも難しい。

ボスがそこまで考えてその場所を選んだのかは定かではないが、
ボスはある意味、堂々と対策の会合を開いた。
その堅固なセキュリティが施された屋敷へ、ビリーは一人で乗り込まねばならない。
その動きの遅さはただ単に彼らが無能だったからではなく、
盗聴や侵入者を防ぐ為の万全の体制を整えていたからでもあるだろう。

ビリー・カーンは殺しの腕は超一流だが、侵入者としては素人だ。
やはり正面に近い場所から乗り込んでの堂々とした暗殺しか有り得ないのである。

だが、ギースは全く勝算がないとも考えていない。
初めて会った日に、ビリーは工場で本能のままに暴れ、
その広大な機能を完全にストップさせるという離れ業をやってのけていた。
思えばこの瞬間から、ギースは今を想定していたのかも知れない。

それにサウスタウンベイの高級住宅街には、ギースの息のかかった家もある。
狙撃ポイントは簡単に見付かるだろう。
野外のガードは全てホッパーが撃ち抜くと確信している。
ビリーに侵入の技術はないが、すでに侵入に気を回す必要もない。

その間、ギースは他のマフィアを牽制し、
司法権力にもKOFで荒稼ぎした金を個人で回さなくてはならない。
大勢で乗り込んで戦争を起こさない理由は、ビリーのテストという他にも有った。

このサウスタウンのマフィアは確かに無能かも知れないが、
彼らはシシリアンマフィアには違いない。
ギース・ハワードが組織乗っ取りを行ったと公になれば、
イタリア本国、つまりはヨーロッパの組織が動き出さないとも限らない。
ヨーロッパには、シュトロハイム家がある。

未だクラウザーがギース・ハワードに手を出せないでいるのは、
組織が、シシリアンマフィアの物であるという建て前があるからだ。
ヴォルフガング・クラウザーに動き出す口実を与えるわけにはいかない。
あくまで今は、マフィアの組織のトップにギース・ハワードが立つ、
という図式を作り上げなければならないのだ。

やはり顔の割れていない、凄腕の殺し屋が要る。
その全てを完璧に遂行してこその、プロジェクトGなのである。



決行の日が来た。
ビリーとホッパーはその日まで一度も口を聞いていない。
互いに神の手に従い、自分の仕事を遂行することしか考えていない。

ボスの屋敷はまず、豪華な門があり、そこを越えると広い庭がある。
ここまでの戦いは、ビリーはホッパーの援護を受けることが出来る。
だが中へ入れば、完全に一人でボスと幹部の居場所を探し、
その命を取らなければならない。

黒い革のズボンに黒いレザージャケット。
ブロンドの髪もスキンヘッドに剃り落とした。
ただ、真紅の棍だけが闇の中で鈍く輝いている。

ビリー・カーンは、いつでも乗り込める。
ビリーは闇に紛れるリッパーの黒い車の中で、
瞑想するように両手で棍を握って出番を待っていた。
その様子を、ミラー越しにリッパーが見ている。一言も発さない。

そしてホッパーもまた、リッパー達が割り出し、
自身も確認した最高の狙撃ポイントで完全に準備を終わらせていた。
ギース・ハワードの息のかかった離れの家の、屋根裏の窓がその場所だ。
家族は数日前から旅行に出している。

スコープ内ではすでに、門の警備をしている3人の兵士が動いている。
自分が引き金を引いた瞬間に、プロジェクトGは始まる。


――捉えた。

ガードは止まっている。
余裕で頭を撃ち抜ける。始めようか。

ダァン!

遥か彼方で誰の耳にも届かない銃声が響き、ガードの一人が音もなく倒れた。
それに反応する間もなく、他の二人も倒れる。
完璧な射撃だった。

それを確認した後、ビリーは偶然カードが目に入ったのでそれを奪い、
拙い手つきで正面玄関を開けて屋敷の中に入った。まだ警報は鳴らない。
すでに庭周りと思われるガードが数名、倒れている。
屋敷内へ入ろうと思ったが、監視カメラで異変に気付いたガード達が飛び出して来た。

出て来るなり、それを撃ち抜くホッパーのライフル。
それに気を取られているガードの喉をビリーも棍で突き刺した。
悲鳴は上げさせない。

ついに警報が鳴る。
さらに中からガード達が出て来た。
数が多い。ガード達はすでに警戒ではなく、いつでも銃を撃てる体勢を構えている。
この広い場所で一辺に相手をするのは難しい。

ビリーが隠れて動けないで居ると、逆方向の花瓶が割れた。
ガード達は音を上げてその場所へ走っていく。
今なら入れる。
ホッパーの奴、機転が利く。

屋敷の中は、今起こっている現実を認識していないかのように閑散としていた。
警報の音も、どこか遠くへ聞こえる。
ほとんどのガードは外へ出て行ってしまったのだろうか。
それとも、自分の意識がどこか遠くへ居るのだろうか。

ビリーはなるべく狭い廊下を選び、その真ん中を歩いた。
棍を振り回すには条件が悪いが、相手も発砲するには条件が悪い。
こちらは喉を突ける縦の長さだけばあれば良いのだ。

それに――

ダァン!

正面に現れたガードは声を発すると躊躇なくビリーを撃った。
だがその銃弾は細い棍に阻まれ、命中はしない。

もう一発撃って来るガードにビリーは棍を前面で回転させながら突撃し、銃弾を弾く。
それが壁に反射し、ガードの足に刺さった。
もうその瞬間には、ガードの喉には風穴が空いている。

正面から撃たれる銃ならば、ビリーは対応出来る自信があるのである。
今、ビリー・カーンの集中力は、極限まで研ぎ澄まされている。
暴れるのはまだ早い。
自分を抑えるように、獲物を狙う鷹の眼で、ビリーはガードを殺しながら歩を進めた。

リッパーの話によると、恐らく幹部が集まっているのは二階の私室だろうということだ。
階段を上らねばならない。
そこで狙われるだろう。最悪、挟み撃ちも覚悟しなければならない。

急がなくてはならない。
感じた閑散さは、ボス達がすでに逃亡に入っているからかも知れない。
――少々撃たれても構わねぇ。
駆け上る!

上からの銃撃を棍を振り回して弾き、そのまま走って喉を突く。
正面からの一撃はピンポイントで止め、そのまま走って喉を突く。

ガード達は恐怖した。
銃を前にしても全く怯えを見せず、むしろ襲って来るこの獣に。
人差し指に僅かでも緊張による時間差が生まれれば、
その瞬間にはもう喉に赤い棍が食い込んでいる。
仲間が次々と獣に食われて行く。

手柄は背後からの仲間が上げた。
心臓は外れたが、左肩を撃ち抜いた。

「クッ!」

激痛が走る。
背後にさらに数人が外から戻って来た。挟み撃ちだ。
上と、正面と、背後と、絶望的に銃に囲まれている。

ビリーは正面のガードの服に棍を絡めると、右腕一本でそれを振り回して後ろに投げた。

「うおおおおおおお!!」

初めて、雄叫びを上げた。
自分の任務はボス達を殺すことだけではない、殺して帰ることだ。

「てめぇらなんざに奪られる俺様じゃあねぇんだよ!!」

銃弾がこめかみを掠める。負傷で銃撃を弾く精度が落ちている。
だが当たらない確信があった。
ギース・ハワードは狼ならば帰って来れると言ったのだ。
ここで死ぬはずがない。
もう暴れるだけだった。

「アァァァ――オ!!」

甲高い、気が狂ったような奇声が屋敷に響き渡った。
喉を突き刺した棍がそのまま窓の強化ガラスまでも貫通する。
その死体を盾に走った。
突く、突く、突く。

背後からの銃撃が右足を貫いた。
滑り落ちるように転がる身体を棍で止め、再び牙を剥く。
その先には無数の銃口があった。関係ない。駆ける。

だが背後から羽交い絞めにされ、動きを封じられた。
銃口がこめかみに触れる。

歯を鳴らして眼を剥く。

ビリーの思考が弱気へ傾きかけた瞬間、背後の男は音もなく倒れた。
頭を撃ち抜かれている。もう一人近くに居たガードが倒れた。

穴だ。
ガラスに空いた棍一本分の穴から、ホッパーが射撃している。

――とんでもねぇ野郎だ……


「イヤァァ――――ッ!!」

ビリーは腹の底から吠えると、周囲の窓を叩き割った。
ガラスが飛び、ガード達の集中がそちらへ向けられる。
その瞬間にはもう、遥か彼方からの銃撃が、ビリー・カーンだけを避けて、
シルエットの眉間へと突き刺さっている。

「うちのガンマンはてめぇらとは出来が違うんだよ!!」

再び、高い咆哮を上げながら血の流れる足で駆ける。
パニックになっているガード達の喉を寸分狂わずに突き殺し続けた。

走る。走る。
視界に写真で見せられた男達が映った。ボスと幹部二人と、直属のガードが二人。
もう逃げようとしている。行き先には鉄の扉があった。
その先に逃亡手段があるのだろう。

走る。
しかし思うように動かない足で追いつくのは難しい。
ビリーは本能的に棍を地面に突き、棒高跳びのように飛んだ。

「イヤァァ――ァオ!!」

鈍い打撃音を上げる蹴りがボスの後頭部へ入った。
潰れた蛙のような音を出し、倒れ込むボスを見てガードが銃を撃つ。
ビリーは左肩から血を噴き出しながら両手で棍を回し、それを弾くと片足で飛び、
ガード二人の喉を流れるように棍の両端で貫いた。

倒れたボスを置いて逃げる幹部はかなり遠くに居る。
ビリーは棍を回転させ、二人の間へと投げつけた。

「ぐぇ!」

一人の頭に当たった棍は、ピンポンのようにもう一人の頭にも当たった。
這うように走って棍を拾う。倒れ込む幹部二人の首を打ち付けて叩き折った。
振り向くと起き上がったボスが反対側に逃げようとしている。
まだ脳味噌が揺れているのだろう。ボスの足取りも不確かだ。追いつける。

ビリーは撃たれた右足からの痛みや出血などにはまるで目をくれず、
獲物を前にした狼のように食い掛かった。
横薙ぎに棍を打ち付ける。ボスは吹っ飛んで壁に激突した。

「ま、待て! 私はギースにあんなに良くしてやったじゃないか!
 何故!? 何故だ!? 何故こんなことをする!!」

「てめぇみてぇな豚にチョロチョロされるとよぉ……
 食い千切りたくなっちまうんだよ! 狼はよ!」

ドスッ


眼下から、鮮血が舞った。


終わった……

いや、まだ終わりじゃねぇ……


全てを終えて、ギース・ハワードの元へ帰るのがビリー・カーンの任務だ。
リッパーの車まで戻らなければならない。
一度切りかけた気持ちは、失っていた傷の痛みを思い出させる。
毒々しい赤に染まった棍を杖に、おぼつかない足取りで階段まで歩く。

曲がり角からは、まだ残っていたガードの銃口がこちらを向いていた。
殺してやろうと眼を見開くが、肝心の腕に力が入らないことに彼は絶望した。

――マジかよ……

顔に、鮮血が掛かる。
見開いた双眸の先には、ガードの首筋にナイフを突き立てた、リッパーが居た。

「ビリー! 早くしろ!」

「――お節介野郎ばっかだな…… ったく……」



車に揺られている。
運転は非常に荒い。傷に響く。
そういえば前にリッパーと車に乗った時も、彼は助手席に座っていた。
行き掛けは緊張していたのか気付かなかったが、この男は明らかに運転が下手だ。

「オイ、リッパー、もう少しやさしく運転してくれ」

「ああ」

返事だけで、何も変わらない。
何故ギース様はこんなに運転の下手な男に車を任せたのか、と考える。
まぁ、最後は少し助けられたわけだが……

そこまで考えて、礼を言っていないことに気付いた。
別に必要だとも思わなかったが、気を紛らわせるために何か喋りたかった。

「あー、最後、助かったぜ。サンキュな」

「別にお前を助けたわけじゃない」

「ああ?」

「ギース様の為に役立つ男だと思ったから、死なせなかっただけだ」

ああ、そうかよ、とビリーはそっぽを向いた。

リッパーには、本来ならばビリーの役目は自分がやるべき物だという思いがあった。
だが、ギースの考えでは、自分では力不足らしい。
残念には違いないが、このビリー・カーンがそれを埋める存在に成り得るのならば、
この男を守ろうと思っていた。
恐らく、自分がこうして運転をしているのも、そういうことなのだろう。

「――ビリー」

「あんだよ」

「よくやったな」

「んだよ、今更。ケッ」

ビリーは大袈裟なジェスチャーを取ると、罰が悪そうに悪態をついた。
そしてそのまま疲労に押し潰されるように、深い眠りへと落ちていった。
やり遂げた充実感と、鬱陶しい“仲間”に辟易しながら――

――やってらんねぇよ。ったく。



包帯の巻かれた膝を突き、頭を下げて両手で血に染まった棍を差し出す。
その先には、主、ギース・ハワードが居た。

プロジェクトGは、全てにおいて完璧に遂行された。
ボスの殺害はギース・ハワードの手によるものだと誰もが解っていたが、
親を討たれたマフィアの残党達にすらギースに歯向かう気概はなく、
半ば受け入れるようにギースを新しい頭と認めていた。
Mr.BIGも、他の幹部も、ボスでさえも殺し抜いたこの男が何よりも怖かった。

それでも残った武闘派の反対勢力は、事も無げに、
ギースによって買収された市長と、警察署長の手によって逮捕された。
完全に買収された新聞には集団強盗が押し入ったと出た。
かつてのボスは、KOFでギースに私腹を肥やさせ過ぎていたのだ。

事故があってマフィアのボスが入れ替わった、
ただそれだけのことだと、表向きは錯覚させた。

しばらくはこれで良い。
やがてそれを完全に自分の組織にすれば良い。
名前はすでに考えてある。

ギースは噛み殺しても、噛み殺しても、笑いが溢れ出て来た。

組織を手に入れたこともそうだが、今、目の前で棍を差し出しているこの男の、
果てしない凶暴性と強さ、絶望の中にあっても尚、牙を剥き続ける気骨に、
そしてそれを手に入れた自分自身に、笑いが止まらなかった。
長年追い求めて掴めなかった、最高の強者を、
ついに部下に迎えることが出来たのが何よりの喜びだった。

「――ビリー」

「はい」

「これからも頼む」

「――有り難う御座います」

互いに言葉に、万感の想いを込め、笑みを浮かべて二人は向き合った。
ビリー・カーンの生々しい傷が、宝石のように輝いている。
微笑を浮かべてそれを見守るリッパーと、余所見しながらも口元は笑っているホッパー。
ギースはついに大声を上げて、帝王の笑いを吹き出した。

やっと、やっと手に入れた。



翌日、ギースは興奮のままに、護衛も付けずにただ一人で、
自分の物となった街を歩いていた。
遊覧施設も、繁華街も、汚い路地裏にも、ゆっくり、ゆっくりと足を運んだ。

初めはどうだったのだろう。
決して好きな街ではなかったはずだ。
それはそうだろう。
サイレンと銃声が鳴り響いて止まない、
悪夢のような街の悪夢のような最下層で足掻いていた。

そこに一人で打ち捨てられていたとしたら、
今こうして心を保って生きていられたかも怪しい。
母がいなければ、もっと幼い内に生きる意味を失っていたかも知れない。
ドブネズミのように無様に這いまわって、泥水を啜ったままのたれ死んでいただろう。

この街には希望はない。
弱者はただ貪られて、干からびて死ぬだけだ。
貪る強者ですら、抗えない絶望に、ギース・ハワードという名前に支配されている。
それはすでに強者ではない。

強者とは、この絶望の街にあって、それでも尚這い上がろうと、飢え、渇き、
牙を持ち続ける狼の事だ。
そこに光などなくとも、闇に喰い抗って、望む物を守り、望む物を手に入れる。
飢えない為に闘い、誓いを守る為にまた飢える。

吠えて、吠えて、吠えて。

その遠吠えが天に届くまで、吠え続ける――


そういう男達との出会い、闘いが、ギース・ハワードにこの街への愛着を与えていた。
タクマ・サカザキが、リー・ガクスウが、Mr.BIGが、リョウ・サカザキが、ジェフ・ボガードが、
各々の牙を、その誓いのために突き立てていた。

惰性などない。無駄を省いた街。
かつて死人のような人間達が絶望のままに造り出した街は、
暴力によって、生きた人間の街へと生まれ変わっていた。

今、ハッキリと言える。
この街が好きだ。

ここは私の街だ。
ギース・ハワードの街だ。

何人にも侵させたりはしない。
この街と共に、ギース・ハワードは闘う。


――ふと、教会が目に入る。

ポートダウンタウンの離れに、潰れ掛けの教会があった。
広場はショベルカーに踏み荒らされている。

子供達の歌声が聞こえた。
打ち捨てられた子供達が、希望を信じて祈っている。

祈りなどでは、誰も救えん。

吐き捨てるように笑う。
それとももっと自分が信仰強く祈っていたら、母は救えたのだろうか?
そんな馬鹿馬鹿しいことを考える。

子供が横から腕にぶつかった。
4、5才くらいの孤児院の子供のようだ。上から見やるが、瞼の腫れがひどい。
よく見えていないのだろう。

「お前の敵は、強かったか?」

声をかける。
首を振った。
女かと思ったが、少年のようだ。

クックックッ

可笑しくて仕方がない。
こんな教会の子供でも、この街で生きる為に牙を剥いている。
その痛々しい傷が美しくさえ見えた。

すぐに中から女が出て来た。若い女だ。
女は屈み込んで少年の傷に手を触れている。
ギースの上着の裾に少年の血が付いていることに気付いた。

「も、申し訳ありません。弟なんです。すぐに拭き物を持って来ますので……」

顔を上げた女に、ギースは固まった。
絹のような金色の髪の香りが、微風に乗って鼻孔をくすぐる。
その母性に満ちた瞳は、ギースに否応なしに母を思い起こさせた。
いや、マリア・ハワードそのもの――

去ろうとする女の腕を、反射的に掴んでいた。
女は驚いている。
16、7か、そんな年頃のまだ若い少女だ。
見間違いだったと、ギースは自嘲気味に笑った。

「スーツの代わりくらい何着でもある」

ギースは手を離してそう言った。
少女は呆っとどこか寂しそうなその目を見ていたが、
弟が男の足に掴み掛かっているのを見て、また屈み込んだ。

「やめなさい、カイン!」

ギースは心底楽しそうに笑うと、
大きな掌で掴むように、カインと呼ばれた少年の頭に手を置いた。

「姉さんを守りたければ、何者にも負けない牙を持て。
 飢えた狼のように、眼を滾らせて足掻け。その誓いが強ければ、お前は誰にも負けん」

どこか遠く見ているように感じる、その男の眼を、
カインは大きな目を広げてジッと、吸い込むように見ていた。
翳り始めた夕陽に照らされながら、ジッと向き合う。
少年はポケットからクシャクシャの20ドル札を出し、ギースの顔へ手を伸ばした。

「汚したから」

それを見やると、その紙には、血がベッタリと付いていた。
瞬時に少女の顔が青ざめる。

「カイン! 貴方またケンカで!」

「ケンカじゃない。きちんとした勝負で、勝って来た」

――愉快だ。

ギースは20ドル札を受け取ると、上着を脱ぎ捨てて少年に渡した。

「お前の血はアクセサリーには上等すぎる。私にはもう着れん」

少年は無垢に、ギースの顔を見ている。
少女は傷を慈しむように、傷ついた弟の肩を抱いている。
夕陽がシルエットを作り出すその光景は、どこまでも美しい。


だがその瞬間、ギースの脳裏には閃光のように、
いつか聞いた予言が走り抜けていた。


――小僧、お前はこれから多くの恨み、憎しみを生むだろう。

その時、お前が生き延びられるかは、
女子供を一片の逡巡なく殺せるか否かにかかっていると知れ。

女は恨みを生み、その呪われた子は憎しみを引き継ぐ。
慈母に輝く女と、透き通るように無垢な子供を殺せるか否かにかかっていると知れ。


ギースに浮かんだのは、目の前の姉弟と、そして、
ジェフ・ボガードの死体に縋り付いていた、幼い少年の姿だった。
途端、今まで気付かなかった姉弟の瞳の真紅が、
これから起こる運命を嘲笑っているような、呪いめいた烙印に見えた。

教会には後日、ギース・ハワードの名で多額の金が送られていた。
姉弟に、『この街から消えろ』との、手紙が挟まれて――



1988年――
かつてジェフ・ボガードに縋り付いて泣いていた少年は、
17才へと成長し、今、目の前のモヒカンの男を
地面から伸び上がるようなジャンプ蹴りで僅か30秒KOで叩き伏せ、
デトロイトで開催された全米マーシャルアーツ選手権に優勝していた。

力試しと路銀を求めて出場したこの大会の成果に、彼は震えた。
確実に、強くなっている。
モヒカンの男が何事か喚いていたが彼の耳には全く入っていない。
雑誌社の取材にも無言を押し通し、彼は次の目的地へと眼を見開いた。

10年後、この墓の前で――


あの日の誓いを、強く胸に、

テリー・ボガードは、牙を磨いていた。



――墓があった。

かつて英雄だった男の墓は、チャイナタウンの丘の上にひっそりと建てられた。
それに縋り付いて泣く、一人の少年と、拳を震わせて哀しみに耐える、もう一人の少年。
タン・フー・ルーはただ合掌したまま、地蔵のように動かなかった。

いつまでそうしていたのか、彼らには解らない。
タンが声をかけるまで、外が夕闇に包まれても、少しでも父の温もりを逃がすまいと、
兄弟はその場所で嘆き続けた。
タンは血の繋がらない息子達にここまで慕われるジェフを誇りに思いながら、
それ故の哀しみを、白い眉に隠れた瞳の中で、涙と共に噛み締め続けた。

ハトが、優雅に空を飛んでいる。


ジェフ・ボガードの死後、テリーとアンディは、
タン・フー・ルーが隠れ住むようにして構えた小さな家で生活していた。

傷心が癒えないタンとは違い、子供達は強かった。
ひたすらタンに教えを乞い、強くなろうとするテリーに続くように、
小柄なアンディもまた激しい修行を望んだ。

強くなれって、父さんは言ったんだ。

ジェフ・ボガードを殺したのがギース・ハワードという男だと知った兄弟は、
すぐにでも仇の元へ乗り込もうとした。
弟子と弟子が殺し合い、そこで生まれた憎しみを、また弟子が引き継ぐ。
自分が悪魔の秘伝書に魅入られてしまったばかりに繋がる、哀しみの連鎖。

その少年とは思えない剣幕をタンが諌めるには、
彼らが強くなるための、拳の修行を与えてやるしか方法はなかった。

終わらない、哀しみの連鎖。

やがて少年達の感受性は、タン・フー・ルーが本気で拳を伝授していないことに気付く。
どうしてもタンには、もう弟子に拳を教えることは出来なかった。

苛立ちはあった。
だがそれ以上の哀しみを、テリーはタンの拳から感じた。
他人に頼っては駄目だ。
かつてジェフ・ボガードと出会う前、アンディを守り抜くために一人で闘っていた、
あの頃の狼に、彼は戻りたかった。

孤児院が焼け落ち、仲の良かったアンディと二人でスラムでの生活を始めた。
指一本さえも動けないほど大人に打ちのめされても、牙を剥き、
動かないはずの腕で拳を振るい続けた。
そうやって勝ち取った食糧は、血の味がして、吐き気のする汚物だった。
それでも生きるために、それに喰らいついた。

――飢えた狼のように、喰らいついた。

父を失ったあの時から、歯は食い縛ったままだ。
時間は、動いてはいない。温もりも、まだ両手一杯に残っている。
目を瞑ればそこには、あの人の柔らかい笑顔がある。

それに報いる為に、強く、気高い餓狼となって、
ギース・ハワードに牙を突き立てる。

もう一度、狼に――



父さんはどんな修行をして強くなったのか、
タン・フー・ルーに問うたその質問の答えが、彼に巣立ちの意志を固めさせた。

一人で修行の旅に出る。
すでに考えていたことだ。アンディも、置いて行く。
弟と別れる決意をするのにはスイッチが必要だった。
そしてそれをくれたのは、やはり敬愛するジェフ・ボガードだった。
もう迷いはない。

それを告げると、タンは複雑な表情をした。
少年の意志の強さに自分の弱さを痛感した。
逃れられない運命ならば、せめて全力でその業を受け入れようと思った。


「10年後、この墓の前で。父さんの命日に会おう」

丘の上に佇む、今はもう何も言わない優しかった父の前で、
テリーは家族に別れを告げた。
自分の伸びた髪を適当な布で結い、アンディの髪を撫でる。
アンディも、もう泣いてはいない。背の高い兄を見上げ、強い瞳をぶつけている。
その眼に、テリーは安心した。
こいつも、強くなる。父さんが、導いてくれる。

西暦1982年、11才、まだまだ小さな狼は、タンから渡された路銀さえ断り、
ただ大きなズタ袋だけを背負って、闘いの荒野へ消えて行った。

まだ大きな、サイズの合わないグローブで拳を包んで、
あの時、凍りついた、ギース・ハワードという男の瞳を呪いとして刻み、

――強くなれ……


父の言葉を誓いとして刻み、


復讐に、その身を焦がして――



【14】

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