陽炎のように山々が見える幻想的な風景の中に、
一本の塔として聳え立つ、巨大な自然石の柱がある。
その上には、神が創ったこの岩の塔を支配するように、荘厳な古城が建てられていた。
それが眼下に広がるライン川へと映り、より一層の神秘的な雰囲気を称えている。

中は、この途方もなく広い城から比べれば、僅かしか人間はいない。
そのどれもが、ドレスを着た歌姫や、初老の指揮者など、優雅な人間達だ。
だが、このどこまでも静かな城に、彼らによる歌が緩やかに流れている中央の部屋には、
そんな彼らとは明らかに体格の違う、この城の当主と、側近と思われる男達が居た。

「死神に喰われたか、ギース。最期まで情報操作とはあの男らしい」

紫色の長髪。鼻の下には同じ色の髭がある。
その玉座に座る佇まいは、2mはあるであろう体躯とは裏腹に、
教科書に載っている音楽家のような服装と相まって、とても穏やかで紳士的だ。
ワイングラスを弄ぶしなやかな指は、離れた場所でピアノを弾く演奏者と比べても
なんら遜色のない気品を持っている。

だが、その額に刻まれた十字の生々しい傷は、
彼がただ穏やかなだけの男ではないことを如実に物語っていた。

「は、ですが私共の調べでも、ギース・ハワードは確実に死亡した、と」

跪いて報告を入れる白いスーツの男もまた、
その純白で無理矢理殺気を押し殺した、刺すような雰囲気を持っていた。
鼻の下から顎まで繋がったブラウンの髭は、玉座の男とは違い、
貴族的な中にもどこか狂気的な残忍さを感じさせる。

「――どうかな、雑草は雑草なりに踏まれ強いからな」

その否定的な当主の言葉に、跪く、二人の側近が揃って顔を上げた。
それは、怒りというよりも、怯えに近い反応だった。

「ですが……」

食い下がろうとしたのは実際に自分の部下をサウスタウンに潜り込ませていた、
膝までしかないパンツにトレーナーだけを羽織った、
この場所では異質な荒々しい風貌の、また背の高い、巨漢と言って良い男だった。

「アクセル、私は万一の可能性を言っている。
 お前はローレンスと共に、証人を連れて来い。その男に別の用もある」

「証人、と申されますと?」

ローレンスと呼ばれた男――
ローレンス・ブラッドが、失言を行い兼ねない隣りの男、
アクセル・ホークを庇うように、言葉を口にした。

「――ビリー・カーン、あの男を捜して連れて来い」

そう言ってワインを緩やかに飲み干し、薄く笑うこの男こそ、
ギース・ハワードが唯一恐怖した腹違いの弟、
現シュトロハイム家当主、ヴォルフガング・クラウザーだった。

その何も映さない瞳の中に、今は、テリー・ボガードという狼の姿がぼんやりと揺れている。



1992年 8月13日――
ギース・ハワード、高層ビルから転落、3時間後病院で死亡。

翌日、新聞の一面に実業家のギース・ハワードが事故死したとの情報が出た。
だが、それが事故ではないことは、サウスタウンの人間や、
裏の世界では判り切った事だった。

ギース・ハワードは何者かの手によって、殺害されたのだ。

そしてそれが、テリー・ボガードという、かつて、街の英雄だった、
ジェフ・ボガードの息子だということも、また彼らには解っていた。
ジェフ・ボガードが生き返って、ギース・ハワードという恐怖からこの街を解放してくれた。

街の淀みは晴れ、抜けるような青い空に、ハトの白が鮮やかに浮いている。
何の違和感もない、皮肉のない、白。
それは、この街がついに、
かつてニューヨークからマフィアが流れて来た日から当たり前のように続いて来た、
犯罪で塗り固められた歴史の、終焉の日を見たことを示していた。

街の人間達にとってはテリー・ボガードは間違いなく英雄であり、
サウスタウンヒーローそのものだった。

全ての人々が、取り戻した笑顔で日差しを浴びている。


そして一年の月日が、光陰の如く流れた――



日本――

飛騨の山奥という浮世離れした場所にあっても、
不知火邸は少々田舎屋敷というだけで、一見普通の家だった。
もっとも、中に入るとどんな罠が張り巡らされているのか判った物ではないのだが、
アンディ・ボガードもまた、ひとつの罠を潜り抜けるために深夜の隠密行動を行っていた。

無音のままに旅支度を済ませ、気配を断って寝室を後にする。
微笑む師匠、不知火半蔵に会釈し、アンディの試練は始まった。
鍛錬と侵入者避けの為に張り巡らされているうぐいす張りの廊下を、音を立てずに歩く。
僅かでも音を立てれば、それはそのまま不可避の危険となって、
アンディ・ボガードの身に振るかかるのだ。

――それだけは、避けなくては……

アンディの額に汗が滲む。
アンディの並外れた集中力を以ってしても、失敗の恐怖は焦りを生ませる。
玄関までは、後少し。

――もう少しだ、持ってくれ……

祈るように、静かに、息を潜めて歩を進める。
アンディ・ボガードは“忍者”としての修行を受けたわけではないのだが、
その非日常から学び取った技術は、充分に忍者としても通用する物だった。

アンディが骨法――不知火流体術のみを与えられた背景には、
やはりどうしても、血族ではない故に、不知火の深遠に触れる忍術は
与えられないという、五大老と呼ばれる里の上層部の意向があった。

だが、このアンディ・ボガードの才覚を見ればこそ、
半蔵はそればかりでは惜しいと、自らの拳の全てをこの男に授けたいという思いを、
この一年間でさらに逞しくなった弟子へと持っていた。
ジェフ・ボガードの息子ならば我が子も同然という思いが、
一族の脳髄に戦国の日より刻まれた掟すら破らせんとしていた。

五大老の反対は烈火の如く激しいのだが、彼らは実は半蔵の弟子である。
強権を発動しようと思えば充分に可能だったし、
少なくとも不知火半蔵には里の正統血統を継ぐ賛同者が一名は存在するのだ。

それが、この、今アンディ・ボガードの集中力を全て略奪して、
うぐいす張りの罠へと落とし込んだ不可避の危険――
半蔵の孫娘である、不知火舞18才だった。


「どこ行くの? アンディ」

アンディの神経が冷や水を浴びせられたような急激な反応を起こした。
その声は、桜色のパジャマ姿からは想像出来ないほどに、深く、低い。

「や、やぁ、舞。どうしたんだい? こんなに遅くに」

「アンディこそどうしたのかしら? こんな夜更けにコソコソと」

互いに引きつった笑顔だが、男のそれは恐怖に、女のそれは怒りに、である。
それでなくとも不知火舞は一年前の出来事を未だに根に持っているのだ。
なんとこのアンディ・ボガードという男は、自らには全く何も全然告げず、
ギース・ハワードという男と闘いに里を抜けて下ったのである。

いつもの様にご飯と味噌汁を用意して居間へ運ぶと、居ない。
アンディ・ボガードがいないのだ。
その時の彼女の絶望たるや凄まじく、三日三晩どんよりと落ち込んでいたかと思うと、
さらにまた三日三晩怒り続けたりと、もはや祖父の半蔵ですら手の施しようのない、
恐ろしい日々を過ごすこととなった。

幸いにも二ヶ月ほどでアンディ・ボガードは帰って来たのだが、
その痛々しい怪我は、舞の目には辛すぎる物だった。

それ以来、彼女はアンディの首に鎖を付け、
さらに里中に蜘蛛の巣を張り巡らせるという二重三重の罠を徹底的に仕掛けたのである。

「い、いや、あのね、舞。そうだ! ジョ、ジョーとね、会う約束なんだ!
 だからちょっとほんの2、3日ほど里を下りようかなって、あはは」

「丈? あんな裸男とこんな夜中に? アンディ、貴方そんな趣味があったの」

首を傾け、大きな目を目一杯細めて睨む舞には、毒蛇の迫力があった。

「い、いや、違うんだ! それにジョーだって完全に裸じゃあないぞ!
 トランクスはきちんと穿いてるし、
 初めて会った時だってランニングを着ていたじゃないか!
 あ、そうだ! それに最近はマントを――」

「そんなの裸同然じゃないの!!」

舞の艶やかな黒髪が鬼の角のように尖った。
ついに嵐の前の静寂から、怒りの面へと突入である。

「もうあったまキタ! 絶対絶対ずぇ〜〜〜ったい行かせない!!」

舞がふくよかな胸元から、どこにそんな重い物が入っていたのか、
50cm以上はあるかという鉄扇を抜き出すや否や、アンディは全力で後方に駆け出した。
が、舞はその頭上を身軽に制し、獲物の正面を取った。

「どこへ行くのかしら? ア・ン・ディ〜?」

嵐が――来る!
アンディは足が竦み、もはや本能的に事実を話すしかなくなっていた。
アンディ・ボガードはやはり、不可避の罠から抜け出すことは出来なかったのだ。
それを後方から半蔵が、あちゃーと顔を覆って見ていた。

すまぬ、アンディ……
我ながら恐ろしい孫を育ててしまったものだ……

「ジョーに会うのは本当だ。でも、それは日本じゃなくて、アメリカになる。
 父さんの墓参りをする約束なんだ。その日に兄さんとも会う約束になってる。
 だから、またしばらくは戻って来れないと思う。
 あ、で、でも、そんなに長く滞在する気はないから、な、舞」

前半は真剣だったが、話が進むにつれ俯いて唸り声を低くする舞を見て、
アンディは恐怖に凍りつき、震える足に喝を入れながらフォローを行った。

しかし、舞は割とあっさりと、「わかった」と言って部屋へ引き下がってくれた。
さすがにそういう事情ならば仕方がないと思ってくれたんだ、と、
アンディはまさに地獄に仏、鬼の目にも涙等、
日本で覚えたことわざの数々を頭の中で安堵と共に連呼した。

無言で出て行くより、こういう形の方が後腐れもないし、後ろめたくもない。
こんなにも舞の物分りが良いのなら最初から事情を話せば良かった。
何はともあれ、アンディ・ボガードの旅は結果オーライ、順風満帆、
晴れやかな出だしとなった。

はずだったのだが、それを嘲笑うかのような、理解に苦しむ一声。

「おまたせ、アンディ♪」

なぜか髪をかんざしで結んで、妙に小綺麗な私服に着替え、
大きなバッグを持った不知火舞がそこに居た。

「い、いや、どうしたんだい?」

「どうしたんだい? じゃないでしょ。さ、行きましょ」

強引に腕を組み、歩き出す舞。
さすがにアンディも理解した。

い、いかん!舞はこのまま着いて来る気だ!

アンディの脳裏に、散々と兄テリーに舞についてからかわれた一年前が浮かぶ。
そこへ来てその張本人を連れて来てしまったら何を言われるか判った物ではない。
それだけは駄目だ。それだけは何としてでも避けねばならない。

「ま、ま――!」

青い顔で見下ろした先には、有無を言わさぬ迫力を備えた、飢えた狼の眼があった。



「OK!」

テリー・ボガードの赤いキャップが今日も舞う。
袖が無造作に破れた赤いジャンバー。背には大きな白い星マークが入っている。
それを憧れを持って追う子供達が、テリーキャップをいざ我が物とせんと
きゃーきゃー声を上げながら落下地点に飛びついた。
サウスタウンヒーローの勝利に、大人達の歓声も収まらない。

「これで俺の102勝0敗。そろそろ諦めてダンスに専念したらどうだ? ダック。
 その方があいつらも喜ぶと思うぜ」

テリーが親指で後方の、ダックの取り巻きダンサー応援団を指した。

「チックショォ…… テメェに1勝するまではぜってぇヤメられねぇ!」

やれやれ、といった表情でダックに手を貸す。
その表情はとても穏やかで、そしてまたダックの表情も、
敗者のそれには見えないほどに穏やかだ。
互いの微笑が良いライバル関係を物語っていた。

ここはパオパオカフェ。
日本へ戻ったアンディ、タイへ戻ったジョーとは違い、
テリーはサウスタウンへ残り、パオパオカフェの雇われファイターとして居候していた。

決して良い思い出ばかりの街ではない。
子供に無邪気にサウスタウンヒーローと懐かれても、どうしても苦笑が入ってしまう。
それでも何か、まだこの街に未練があるようで、
テリーはサウスタウンから離れられずに居た。

――俺のホームタウンなんだから当然だ。

それが、テリー・ボガードの、言い訳に近い理由だった。

帽子を手にした子供が大喜びで飛び跳ねている。
テリーが居付いてから飛躍的に子供客が増え、リチャード・マイヤはとても忙しい。
それに呼応して、子供好きの彼の妻や娘が子供限定の特製ホットドッグを無料で配っている。
払えないお金の代わりに花を渡す子供に優しい笑みを浮かべた。

ともあれ、無料提供は赤字には変わりない。
しかしテリー目当ての客は何も子供だけというわけではないし、
充分に元は取れていたので、これはちょっとした善意のサービスだった。

善意は人を暖かくし、やがてそれは新しい善意を生む。
いくらテリー・ボガードが苦笑しようとも、
そんな小さな善意の連鎖を街全体に広めているのが
サウスタウンヒーローという存在であることには、何の変わりもない。

それは胸を張って良いことだと言うリチャードの言葉が、テリーを何よりも軽くした。

「絶好調じゃねぇか! テリー!」

静まりかけた闘技場からまた歓声が上がった。
客達も知っている。
一年前のKOFで、ホア・ジャイ、ライデンといったギースのお抱えを次々と倒し、
今はまたタイへ戻ってチャンプに返り咲いた、この男――

「ジョー!」

「へっへっへっ…… 嵐を呼ぶ男、只今参上!」

すでに臨戦体制と言える、トランクス一枚の姿。
それを言うなら彼は常に臨戦体制とも言えなくもないが、ともかく彼は構えた。
テリー・ボガードvsジョー・東。
あの壮絶なバトルはサウスタウンの住民の目に焼き付いて未だ消えてはいない。
歓声はおのずと店が揺れるほどの巨大な規模となった。

「早かったな、ジョー。その様子だと、また随分と腕を上げたらしい」

「新技があるんでな! 今度は俺様の順当勝ちといかせて貰おうか!」

「そいつは楽しみだ!」

テリーも拳は開き気味のボクシングスタイルに、
足は軽屈伸しながら上下に揺らしてのワイルドな構えを取った。
ジョーが爪先でリズムを取りながらヒューと口笛を鳴らす。
テリーコールとジョーコールが交互に沸きあがった。

「こいつぁ熱いバトルになりそうだぜェ!」

すっかりアナウンサー兼レフェリーに変身したダックが、
また取り巻きと踊りながら盛り上げる。

「――FIGHT!!」

そして飛び上がりながら試合の開始を告げた。

「オラァ! 行くぜ、テリー!」

最初に仕掛けたのはやはりというか、ジョー・東だった。
以前よりさらにキレの増したワンツーからの蹴り。
サウスポースタイルからロー、ミドル、ハイと変幻自在に繰り出される鞭のような蹴りは、
受け難い上に全身へと響く。
さらにボクシング経験を生かしてのパンチも超一流のキレがある。

体力がある内にまともに間合いでやりあってはテリーと言えども分は悪かった。
かと言って離しても貰えないテリーは逆に踏み込み、右のボディブローを狙う。
だが、ガードの上。至近距離でのムエタイは殺傷力の高い、肘、膝がある。
テリーはジョーの肘でこめかみを擦られながら、またキックの間合いに戻されてしまった。

ハイキックを止める腕が軋む。
息が切れ、肩が揺れた。
それを見て一瞬止まったジョーに、今度はテリーがミドルキックを打ち込んだ。

「どうした、ジョー? お留守だったぜ!」

「テリー、お前……」

さらに踏み込んでストレートを打ち込むテリーだったが、
ジョーはそれを上半身だけのスウェーで躱し、その体勢のまま脇腹に蹴りを浴びせた。

「クッ」

テリーが揺らぐ。
そこにスライディングで足をすくうとテリーは完全にバランスを崩した。
近距離から、ジョーのパンチが残像が見えるほどの速さで連打される。

「オラァ!!」

咆哮と共に繰り出されたジョーのトドメのアッパーは見事にテリーの顎を捉え、
そのままKO勝利を呼び込んだ。

「ジョ、ジョー・東の勝利だぁー!!」

ダックの声が鳴り響くと大歓声が上がった。
子供達は呆然としていたが、やがてジョーが手を取ってテリーを起こすと、
それは拍手と歓声に変わった。

「連戦だったからね」「しょうがないよ」「あのパンツの人はずるいよね」
そんなことを話しながらホットドッグに噛みつく子供達は、
もう午後の恒例となっている、テリーとのバスケへと心が飛んでいる。

パオパオカフェの空気は、どこまでも暖かかった。



闘技場から降りるテリーとジョーの前に、一人の老人が立ちはだかった。
自然をイメージさせる緑色の中華服に白い眉と髭が映える。
老人は腰の後ろに手を組んで柔らかに笑った。

「ホッホッホッ…… 相変わらず元気が良いのぅ」

「タン先生!」

そこにはすっかり元気になった、タン・フー・ルーの姿があった。
タンはチャイナタウンでリー一族の医院へ入れられ、治療を施された。
やはり完治の見込みは薄かったのだが、それは逆に八極聖拳の内功の見せ所となった。
体力の戻ったタンはみるみる内に元気になり、
今や以前と変わらないまでに回復していた。

奇跡を必然に変える秘伝書の力――
数々の悲劇を生む結果となってしまったこの力が、タンを救った。

「お主も薄情じゃのぉう。見舞いにも来んで」

「い、いや、一度行きましたよ! ただ、先生はまだ意識がなかっただけで」

「それっきりかいの」

苦笑するテリー。
会わせる顔がないという思いがテリーを逃げさせていたには違いない。
果たしてこの結末は、この人にとっては幸福と言えたのだろうか。
テリーはそれが聞きたくて、しかし聞けなかった。

「へぇー、このじいさんがテリーとアンディの師匠ってわけか。
 いかにも何が飛び出すか判らねぇ気功の達人って感じだな!」

そんな思案を切り裂くように、ジョーの軽い声が響き渡った。

「お主かの、勝手に八極聖拳の気功を使っておる輩というのは」

「あっはっはははは! ま、まぁ、硬いことは言いっこなしということで!」

テリーの杞憂を余所に、タン・フー・ルーはいつになく上機嫌に見えた。
タンはただテリー、アンディが無事でいてくれたことが、何よりも嬉しかったのだ。
それに代えられる物など、あるはずがない。



テリーが急かされて子供達とバスケに向かい、
やがて穏やかに閉店の午後11時となった。

テリー、ジョー、タン、リチャード、ダックの面々が話に花を咲かせている。
話は何故か大半が虎を倒しただとか、ワニを倒してその場で食べただとか、
そんなジョー・東の武勇伝となっていたが、それはそれで楽しい時間となった。
テリーはジョーにツッコみながらもホットドッグをもりもりと食べ、
喉につっかえてはリチャードの娘に背を叩かれていた。

笑い声が絶えないテーブル。
すでに早朝と言って良い、3時を時計が指している。

だがそこに、乱暴に戸が開く音が響いた。

「おい、客だぜぇ、リチャード」

泥酔で半分寝ているジョーが妙なリズムで声をかける。

「もうCLOSEなんだがな。鍵は閉めたと思ったが……」

リチャードが腰を上げ、席を立つ。
「いってらっさぁ〜い」と、気の抜ける声で言うジョーを呆れたように笑い、
リチャードは玄関へ向かった。
同じく酔い潰れているダックに絡まれながら、テリーも苦笑して手を振っている。

「やっぱり鍵はかけたつもりなんだがな……」

ぼやきながら歩を進めるリチャードの前に、ゆらりと、気だるそうな人影が現れた。
体格はリチャードよりも小さい感じの男だ。

「すいません、もう閉店――!? お前は……」

気がつくと、喉元に音もなく、真紅の棍が突き付けられていた。
全身がさんざめくような殺気。神経が、首筋から全力で命の危険を知らせて来る。

「テリー・ボガードに会いに来た。ここに居るんだろ?」

ブロンドの頭髪を覆った、見覚えのあるバンダナの紅白が今はハッキリと見える。

「ビリー・カーン……」

「久しぶりだなぁ、リチャード・マイヤ。前にKOFでボコにしてやって以来か?
 だが今日はテメェなんざに用はねぇ。テリーを出しな」

「――断る。
 もうテリーはお前達等とは関係のない人間だ」

ビリーの眼光が怪しく光る。
ギース・ハワードが死んでも一年前と何の変わりもない、ビリーの狂眼。

「なら――テメェの悲鳴で呼んで貰おうか!」

棍を引き、腹を狙って突く。
リチャードはそれを側転で下がって躱し、踏み込んで足を払おうとした。
だがそれを反対側の棍先で潰される。
足の甲が砕け、そのまま鳩尾に棍を叩きつけられた。

テリーがギースを殺したことで思い悩んでいたのは
この一年間身近に接して来て誰よりも知っている。
この男とテリーを会わせるわけにはいかない。

足を庇い、中腰に構え直す。
口元からぬめりが落ちても、悲鳴は上げない。
リチャードは眼を見開き、唇を噛んで吐き気のする激痛に耐えた。

「なかなか根性あるじゃねぇか。まぁ無駄なことだがな!」



ガシャーンと、耳を裂くようなガラスの割れる音がし、テリー達が飛び上がった。

「テリー!」

「ああ」

嫌な予感がした。

穏やかすぎた時間が、何かの罠だったようで――

その時間の中で滑稽に踊っている様を、誰かに見られているようで――


「リチャード!」

ガラスの破片に刻まれ、痛々しいリチャードの髪を、見知った男が掴んでいた。
リチャードはすでに力無く、男の手によって無理矢理重力に逆らわされている。

「テ、リィィ…… 来るなぁ……!」

呻くように言う、額の割れたリチャードの腹に、膝がめり込んだ。
死んだように倒れるリチャードを見て、泥酔したダックが短く悲鳴を上げる。

「てめぇ!!」

「待て! ジョー!」

飛び掛ろうとしたジョーをテリーが制した。
紅白のバンダナに、血の臭いしかしない真っ赤な棍。
そして何より、その猛禽類のような鋭い眼つきが、間違いなくあの男のそれだった。

「テリー・ボガード…… 久しぶりだなぁ。会いたかったぜ」

ビリー・カーンが、ゆっくりと近づいて来る。

「ダック、お前はリチャードを頼む! ジョーとタン先生は下がっていてください」

「おいテリー!」

「お前は飲みすぎてる。それにこいつの狙いは俺みたいだ。任せてくれ」

ダックがビリーの動きを見上げながら、リチャードを抱き起こして部屋へと運ぶ。
ビリーは興味を失った獲物には全くの無反応だった。

「テリー…… 大丈夫かよ」

「お前のパンチは確かに効いたが、もうダメージは抜けてる」

ジョーに軽く目配せし、赤いジャンバーのポケットから取り出したグローブを、
きつく締め上げるように身に付けた。
ビリーも両手で棍を抱え、身体を揺すって闘いの構えを取る。

「今更何の用だが知らねぇがな、
 俺のダチをいたぶってくれた礼はさせてもらうぜ! ビリー!」

暗闇の中、テリーが駆けた。
振り抜かれる棍を見透かしたようにジャンプし、
低い天井に手を突いて反動を付けながらの急降下キック。
腕でガードせざるを得なかったビリーは店の外へと弾き出された。

「中で暴れられちゃあ迷惑なんだよ」

ジョーとタンがテリーの意思を汲み、すかさず玄関まで走ってそこを固める。

「キヒヒヒ…… 野良犬らしく外でのたれ死にたいってか。
 やさしいんだなぁ、人殺しがよぉ」

「何ィ!?」

「テメェがジェフ・ボガードの復讐でギース様を殺して良いんならよ。
 俺もテメェを殺して良いってことだよな、テリー? クックックッ……」

その言葉に、動揺が走った。

「ならおとなしく死んでくれよ! サウスタウンヒーローさんよぉ!!」

ビリーの突きがガードの隙間から喉の付近に入る。

「ガハッ!」

喉への直撃ではないが、呼吸を乱すには充分だった。
そこへ飛び上がって回転しながら打ち付ける、
ビリーの満月打ちが肩口に叩きつけられた。

脱臼したような激痛が走るが、距離は近い。
テリーはビリーの腿へ膝蹴りを打つ。
しかしそこにはすでに棍のガードがあった。
逆にしっかりと力の乗った後ろ回し蹴りがテリーのガードを軋ませる。

足をよろめかせるテリーの襟首を棍が捕らえ、
そのまま釣りをするように逆方向へと叩きつけられた。
背中を打ち付け、さらに呼吸を乱す。
追い打ちの一撃を素早く反応して躱し、転がって起き上がるが、
テリーの劣勢は明らかだった。

「ヘイヘイヘイ! どうした、サウスタウンヒーローさんよぉ!
 随分弱くなっちまったんじゃねぇかぁ?」

「テリー!!」

呼吸の荒いテリーの元へジョーが駆け出した。
だがその前を棍のハードルが遮る。
ジョーは上半身をリンボーダンスのように反らして躱しだが、
バランスを崩したところを追撃で押され、それを躱しながら玄関口へと押し戻されていた。

「酔っ払いは引っ込んでな!」

「ビリィィ!!」

ビリーが棍に殺気を乗せてジョーを打とうとした時、拳に気を纏わせたテリーが吼えた。
伝家の宝刀、バーンナックル。
両手を天に翳し、大地、大気からも吸収した充実した気は全て右の拳に収束し、
燃えるような熱さでダメージを刻む。
夜の世界に、それはあまりにも鮮明に輝いた。

「バァァンナックルー!!」

だがそれを棍を回転させて受けたビリーには、それ以上の熱――
いや、明らかに燃え盛る炎が生まれていた。

「イヤァァァアア――ッ!!」

甲高い奇声と、炎が巻き上がる轟々とした音。
そしてそれにバーンナックルの熱風が加わり、闇が一瞬にして光へと変わった。

「ぅおおあぁぁぁぁ――っ!!」


そして、静寂。

黒ずんだ肉体から煙を上げ、動かないテリー・ボガードの姿が、
この闘いの勝者が誰であるのかを物語っていた。


「さぁて、ギース様の仇、と行こうか」

そう言い、ビリーはジョーとタンを笑いながら睨み付ける。
すぐに飛び出そうとするジョーをタンが制した。

「ビリー、お主何用でここへ来た?
 テリーを殺す気ならば、貴様ならすでにやっておるはずじゃ」

「加減したのが解ったのか?
 しぶとく生きてやがると思ったら、喰えない狸じじいだな、テメェも。
 まぁ今こいつに死んで貰っちゃあ俺達も困るんでね」

「――俺達?」

ビリーは胸元から一枚の、丁寧に封をされた手紙のような物を取り出し、タンへと投げた。

「KOFの招待状だ。テリーの野郎が起きたら渡してやんな」

「KOFじゃと!? まさか、ギースが!?」

「クックックッ、ギース様じゃあねぇんだがな。まぁすぐに解るさ」

そう言ってビリーは棍を振り払い、まだ残っていた火の粉を消した。
再び闇が訪れる。
だがそれで闘いが終わったわけではなかった。

「で、俺様には招待状はないのかい? ビリーさんよぉ」

ジョーが拳を覆い、指を鳴らしながらしっかりとした足取りで大地を刻む。
裸足にバンテージという格好だが、
ジョーの鍛えられた素足は少々の事では傷など付かない。

闘いが始まれば酒などは綺麗に抜け失せるという思い込みにも似た確信が、
ジョーの足取りを確かにしていた。
いわゆる、根性である。

「三下はテメェでエントリーして貰わねぇとなぁ。こっちも忙しいんだ」

ビリーはわざとらしく棍で肩を叩き、首をポキポキと鳴らした。

「上等じゃねぇか」

「ま、待て」

歩み寄ろうとするジョーをまたもタンが止めた。
今度はもうその制止を振り切るつもりでいたジョーだったが、
顔を真っ青にして震えるタンの姿を見て、足が止まった。

「じいさん……?」

「ジョー、ここは退け…… テリーの治療の方が先じゃ」

「キヒヒヒ…… 用がないなら俺はもう帰らせて貰うぜ。
 アンディ・ボガードにもせいぜい気をつけるように言っとくんだな!」

「なんだと! アンディにも!? 待ちゃあがれ!!」

踏み込んだジョーだったが、もつれる足を睨みつけ、殴る結果となっていた。

「クソー!」

もうすでに、ビリー・カーンの姿はない。
後には、荒れ果てたパオパオカフェと、
リチャード・マイヤ、そしてテリー・ボガードの生々しい傷だけが残った。

ジョーがもう一度、足を殴り付け、テリーを背負う。
火傷は負っているが、八極聖拳の気功でしっかりと防御している。
軽い酸欠程度で致命傷ではない。
安堵。
しかしそれ以上の歯痒さが、ジョーを苛立たせていた。

――一体どうしちまったんだ、テリー!



―――……

頭が、呆っとする――
こうして宙に浮いていると、地底の底で誰かに見られているようで落ち着かない。

誰かに――

誰かに――

でもその男はよく知っている男で、その眼が地底から光を放ち、
化物のようにそこから這い出て来ると、俺は、嬉しいと思う部分がある。
もちろん怖い。だが、確かに燃え上がる部分がある。

そこは俺の中の麻痺している部分で、
その場所に答えがあるのか、あるいは禁忌なのか、まだ解らないでいる。

もしかしたらあの男が答えを持っているようで、
今、こうしてあの男に胸を突き抜かれて浮いていても、
まるで、後悔がない。

もう一度、闘いたい――

見ているなら、出て来い――



「兄さん!」

ぼんやりする頭が覚醒し始めると、そこにはバッグを側に置いた
心配そうな弟の顔と、大きな目で人を物珍しそうに見ている女の子がいた。

「よぉ、アンディ。久しぶり」

「久しぶり、じゃないよ兄さん! 一体何があったんだい!?」

アンディの問い掛けにソファーで寝ていたらしい自分の姿を見てみると、
あちらこちらに包帯が大袈裟に巻かれていて、テリーは苦笑した。
隣りではリチャードの娘が疲れきったように寝ている。

「ビリーの野郎がナメた真似しやがってよ」

アンディへの答えは後ろのテーブルのジョー・東からだった。

「ビリーが? ビリー・カーンが来たのか!?」

「まぁあっちで座って話そうぜ、アンディ。
 それに、舞ちゃん、かな?」

アンディの肩に手を置いて身体を支え、テリーが言った。

「え、ええ、初めまして、テリーさん。不知火舞と申します」

テリーは舞とアンディに微笑んでみせた。
だがその笑顔は、舞にはどこか空虚に見えた。



シュトロハイム家――

その家の歴史を紐解けば、中世にまで遡る。
この一族は、伝説とまで言われる最強の格闘技を創り出し、
そしてその力を以って、王室を始めとするヨーロッパの権力者達を代々護って来た。

その強さと歴史はヨーロッパの人々にとっては誇りであり、
そして同時に、恐怖の対象でもあった。

ヨーロッパに政変が起こる時、必ずシュトロハイム家が動いている――

そんな噂は、やがて回数を重ねるごとに真実味を増し、
もはや裏の世界では暗黙の了解と言って良い、事実となっていた。
あのヒットラーさえも、この家を恐れ、決して手は出さなかったと言う――

“影の皇帝”

時には王室以上の権力を発動し、歴史を影から操る彼らは、
裏の世界ではそう呼ばれていた。

ギース・ハワードがハワード・コネクションを通し、
裏の世界に精通しつつも表の実業家として君臨する表の王ならば、
シュトロハイム家は裏から歴史すら動かす、まさに裏の王なのである。

暗黒の帝王――
それが、シュトロハイム家現当主、ヴォルフガング・クラウザーの異名だった。

招待状に書かれていた差出人の名は、まさにそれだった。



「馬鹿な! ギースの次はそのクラウザーだとでも言うのですか!?」

タンの話を聞き、アンディの熱が上がった。

「ギースを倒しちまったから目を付けられた、って可能性もあると思うぜ」

ジョーが知恵を振り絞って導き出した答えを神妙な顔で言う。
テリーはさらに重い表情となった。
無神経だったと、それに気付いたジョーにテリーが軽く微笑む。

「表の顔が倒れたから、今度は表をも支配しよう、ということなのでしょうか?」

妻に支えられ、包帯姿が痛々しいリチャードがタンに聞いた。

「ギースを継ぐというアピールに、KOFが必要……?」

続けてテリーが呟く。
タンは俯いて低く唸るだけだった。
誰も、答えなどを持っていはしない。今は推測だけしか、彼らには出来ない。

「まぁ、次に来たときにぶん殴って聞けば良いことだけどな」

ジョーがそう言って拳と掌を合わせ、パチンという綺麗な音を響かせた。

「ビリーがまた来るのか?」

「ああ、お前さんにも招待状が用意されてあるんだとよ。
 で、俺様にはなし、とくらぁ。カァー! 暗黒の帝王とやらも見る目ねぇなぁ」

さすがに徹夜が堪えたのか、欠伸をしながらジョーが答えた。

「――ちょっと待ってくれ、ジョー。ビリーはここに来ると言ったのか?」

「あ? なんでだ? お前はここにいるじゃんよ」

「そ、そうじゃ!」

タンも気付いた。


――クラウザーの刺客が、日本へ来ている。


「お爺ちゃん!!」

舞が立ち上がった。
アンディも表情を張り付かせて立ち上がり、再びバッグを背負った。
不知火半蔵は右足が利かない。
もしビリー・カーンと鉢合わせするようなことになれば――


「アンディ、俺も行こう」

テリーも立ち上がった。

「いや、兄さんは怪我人だ。休んでて。ジョーも兄さんを頼む」

「チッ、先手打ちやがったか。ビリーの野郎、強くなってるぜ。気をつけな」

「ああ」

立ち呆けて頭を掻くテリーと、言い出す前に止められて苦笑いのジョー。
ジョーは力強く頷いた付き合いの長い親友、アンディの顔を真剣な眼で見た。
そして、大袈裟に息を吐く。

「まぁもっとも、お前のパワーアップも相当のもんだと見えるから、心配はいらねぇか」

微笑して頷くアンディにはかつての脆さが消え、落ち着きがあった。
ジョーには何よりこの精神面の変化がアンディ・ボガードの強さに見えた。
実際、ビリー・カーンの闘いを見たが、今のアンディならば引けは取らないし、
ビリーもまた、今回のように途中で退くのは明白だった。

それより――

ジョーはアンディを見送る、テリーの姿を見る。
体つきは何も変わっていないように見える。
しかし、ジョーが受けたその拳は、以前とは、まるで違った。

――兄さんを頼む。

アンディのその言葉は、ジョーには別の意味として刻まれた。

今、この場を離れるわけにはいかない――

【20】

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