舞の鉄扇を伴った突きがマントに吸収されて消えた。
直後、繰り出された頭部への蹴りをバク転で躱し、間合いを取る。
「花蝶扇!」
投げつけた鉄扇がまたマントに消されるのを見て、舞の動きは止まった。
「どうした? じじいはもっとましな抵抗をしたぞ」
その言葉に顔を強張らせ、舞が駆ける。
そのスピードにはローレンスをして目を見張ったが、
それはすでに半蔵の動きで予測出来た範囲だった。
舞の蹴りを躱し、マントを巻きつけて動きを奪うと、そこに顎を狙った膝蹴りを浴びせた。
舞はなんとかマントから逃れていた左手で防御するが、
その軽い身体が浮き上がる衝撃に悲鳴を上げた。
さらにローレンスは一切の容赦のない、爪を立てた拳を舞の顔面に突き立てた。
間一髪で躱したが、頬に線が走る。
着地のバランスが崩れたところで腹に直撃の蹴りが入り、吹き飛んで倒れた。
はぁ…… はぁ…… はぁ…… はぁ……!
疲労と、痛みと、恐怖で息が切れる。
両足が、亡者に縛り付けられたように重い。
――なんて強いの…… 私だってあんなに修行したのに……
マントが鞭のようにしなり、舞の身体を打った。
その痛みはすでにマントのそれではなく、コンクリートで打ち付けられたような衝撃だった。
「くぅ……!」
反撃は全て、あるいは躱され、あるいはマントに吸収され、
まるで牛を捌くようにカウンターの攻撃がやって来る。
それはいつでも刺せるトドメを敢えて刺さずに、
ローレンスがいたぶって楽しんでいるように見えた。
「無力だな――そろそろ死ぬか!」
目を見開き、ローレンスが大地を蹴る。
すると浮いた身体は回転しながら水平に滑り、
突き出された獣のような握掌が、舞の顔面へ向けて飛び掛った。
「ブラッディスピン!」
そのエゲツない回転と、半蔵の傷が重なる。
舞の恐怖は身体を止めるのではなく、弾けるような回避を生んでいた。
――ガリガリガリガリ!!
気味が悪くなる不気味な音が舞の耳に響いた。
躱した先には城の壁がある。
にも関わらずその握掌は石の壁に牙を突き立て、回転して斜めに城をもぎ取っていた。
それが肉に刺されば、ミキサーに入れられたような、惨死体が出来上がるのだろう。
「やれやれ、城を壊してしまっては警備隊長の名折れだな」
グシャグシャになった城の残骸を握り潰し、ローレンスが狂気的な笑みを浮かべた。
舞の表情は、得体の知れない化物を見たように凍り付いている。
ローレンス・ブラッドは、元々スペインで英雄視されていた闘牛士だった。
猛牛の角に対抗するために人類に与えられた英知の産物、
肉を突き裂くサーベルを敢えて使わず、素手で牛を倒すその様は羨望の的だった。
だが、彼は客を魅せるために素手で闘っているのではなかった。
ただ、肉を素手で引き裂く感覚を、腸を抉り出し、鮮血を浴びる快楽を得る為だけに、
彼は何十頭もの牛達を無残な肉片にしていた。
彼が闘牛場へ立つ度に、引き摺り出された内臓がゴミのように散らばる。
やがて、その狂気に気付いた人々は彼を嫌悪し、そして遠ざけた。
クラウザーにスカウトされたのはその頃である。
もう牛では満足出来ない。
もう人の肉を引き裂くことでしか、獣の欲望を抑えることは出来ない。
その狂気を目の当たりに、舞の掻き乱れた精神は収まった。
この男とアンディが闘うのならば、少しでも削っておこうと冷静に考えた。
この男は明らかに自分が女と見て嘗めている。
そして敢えてトドメを刺さずにいたぶっているのだろう。
だからこそ、アンディでは作れないチャンスを、自分が作れる。
その答えは舞を強くした。
飛ぶ――
胸元から取り出した新たな鉄扇を投げつけ、城の壁に足を突いた。
まだ鉄扇があるとは思っていなかったのか、
反応が遅れたローレンスが一瞬、舞の姿を見失った瞬間に、舞は壁を駆け、
反動を付けて飛び掛った。
「たぁー!」
激突の衝撃がローレンスを揺らした。
「チィ!」
舌打ちと共に舞を追った目の前には、紅蓮の炎に彩られた、尻尾があった。
「龍炎舞ぅ!」
「ぐおおぉう!!」
不知火の焔が顔面を捉え、ローレンスは煙を上げてよろめく。
舞はさらに、空いた脇腹に思い切り地を蹴って全体重を肘に乗せ、身体ごとぶつかった。
不知火流、必殺忍蜂――
「ぐ、お、女ぁ! 貴様も炎を……!!」
「焔の中に、お爺ちゃんは生きてるのよ……!」
舞が身を引くと支えを失ったローレンスは、前のめりに倒れた。
尚ももがくように痙攣する獣の掌も、やがて動きを失い、停止する。
それを確認した舞は一気に力が抜け、その場にへたり込んだ。
――やったよ、お爺ちゃん……
ビリーの突きを身体をよじって躱し、膝を打ち込む。
その衝撃に表情を歪めたビリーの顎をさらにアッパーで突き上げた。
だが、掠っただけ。
半回転しながら下段を打ったビリーの蹴りにバランスを崩され、
直後、棍が脇腹を打った。
痛みを誤魔化すようにハイキックを腕のガードの上から浴びせ、
そのまま互いによろめいて後方へ数歩下がる。
そこに、ビリーが棍を構え、突きの体勢に入った。
しかし距離がある。ギリギリで届かない間合いであることをテリーは見切っていた。
空振りした隙にバーンナックルを浴びせる。
すでに拳に気を集め、確かな見切りのままに前傾姿勢を取った。
完全なカウンターで入る。
これで決められるという確信と、それ故の緊張感がテリーに身震いを与えた。
固く握った拳に、一層の力を込めてその瞬間を待つ――
だがその計画はビリーの笑みと共に、予期せぬ事態で打ち砕かれた。
眼前まで迫った棍が三つに割れ、射程距離を格段に伸ばして来たのである。
「くぅわ!?」
後ろに倒れ込むように身をよじり、それを躱したテリーが見た物は、
銀の鎖で三つに別たれた、ビリーの赤い棍だった。
ダラリと不気味に垂れ流された棍をビリーが伸ばすように振るうと、
赤い部分は一つに繋がり、また自然な棒状の棍に戻った。
しばしの静寂の中、ビリーが不敵な笑みを浮かべ、
テリーは怪訝に、しかしやはり同じ様に笑っていた。
「火を出したかと思ったら今度は伸びる棒か?
大道芸人になったとは知らなかったぜ」
「ただの三節棍だぜ? こうやって折り畳むと携帯に便利でな、クックックッ」
ビリーは再び棍を三つに分け、それを重ねてズボンのポケットに刺した。
そして首をすぼめて笑う。
「だが、いきなりアイツを躱すとはな。どうやら本当に復活したらしい。
前は弱すぎて心配しちまったよ、テリー」
「へぇ、そいつは嬉しいね。さっさと構えな」
テリーは帽子の鍔を掴んで締め直し、右手で手招きした。
だが、ビリーは笑ったまま動かない。
「どうした? 素手でやるってのか?」
「いや、終わりだ」
「何だと?」
「テストだって言ったろ? 合格だから、もう終わりだ」
ニヤついた笑みのまま、ビリーは近付き、
まだ警戒を解かないテリーの肩に軽く手を置いた。
「クラウザーは化物だぜ。せいぜい気をつけな」
そしてすれ違い、いずこかへ消えて行く。
「ビリー!」
その言葉の引っ掛かりに、振り返って名を呼ぶが、
ビリーは背を向けたまま手を上げて、城の薄靄に掻き消された。
あるいは、白んだテリーの目がそう捉えたのか。
何かに騙されたように呆然と拳を開き、不発に終わったバーンナックルの残り香を見る。
まだ熱いそれを握り潰すと、バチッと電気のように弾けた。
地底で何かが、蠢いている気がする――
ジョーがハリケーンアッパーを打ち出すと、
アクセルもアッパーで真空を生み出し、それと相殺した。
続けて放たれた二発目の真空をジョーが屈み込んで躱すが、
一緒に飛んで行った尖った髪の先端がその切れ味を物語っていた。
「あっぶねぇなぁ。試合でもこんなの使ってたのか?」
「使わせるような骨のある野郎はいなかったな」
「なんだ、あんたも同じか。だからこんな所で燻ってるってわけだ」
「燻っちゃあいねぇさ。
ここでクラウザー様の闘士をやってれば、てめぇみてぇな野郎も現れる。
そいつをぶっ潰すのは楽しいぜ。まぁせいぜい足掻いてくれよ!」
アクセルが踏み出し、強烈なアッパーを打ち込んだ。
両腕でガードしても身体が浮き上がりそうな衝撃。ジョーの顔も苦痛に歪む。
さらに繰り出された右のフックを腰を落として躱すと、
頭上からの風圧でハチマキが針金が通ったように伸びた。
だが、空振りは隙を生む。
ジョーはガラ空きとなった腹に右からのワンツーを浴びせ、
さらに右のフックを脇腹に打ち込むと、左のアッパーを顎に叩き込んだ。
一瞬のコンビネーションが、全てクリーンヒット。
その場で片膝を突いたアクセルに膝を打ち込むポーズだけをして止めた。
「ボクシングはちょいと経験があってね。それでやってやっても良いぜ」
「ふざけやがって……!」
すぐに起き上がって振るわれたパンチをジョーはバックステップで躱した。
だが再びアクセルは脇腹を押さえ、前屈みに俯いた。
繋ぎで打った右フックに、さして力が乗っていたとは思えない。
怪訝に思ったジョーが目をやった先は、
先程は気付かなかった、骨にダメージがあると思われる青い染みがあった。
「チッ、テリーかアンディだな。
ったく、兄弟揃って目立ちすぎなんだよなぁ、あいつら」
ジョーが心底無念といった表情で首を振る。
だが、直後、吼えて立ち上がったアクセルは、ジョーへ向けて猛然と襲い掛かった。
「Bust you up!」
「――!?」
踏み出した足下から煙が立ち昇る。
その巨体からは想像出来ないスピードに、油断していたジョーはガードが遅れた。
振り上げるような豪快な左フックがジョーの腕を弾き、強引に隙を作る。
次の打ち下ろす右フックは完全に入り、ジョーの脳を揺らした。
――これがヘビー級のパンチ……!
続いて下がった顎に右のアッパーが抉り込まれると、
もうジョーは痛みを感じることもなく、鼻血を噴いて紙のように吹き飛び、倒れていた。
完全KO――
そう認識したのは何もアクセルだけではない。
だが、白目を剥いて倒れていたはずのジョーの血が、
“もったいない”という感情を持って全身を駆け巡った瞬間、
まだ覚醒しない意識のまま、彼は立ち上がっていた。
驚愕に歪むアクセルだが、同時に面白いとも思った。
この、一歩間違えば負けるかも知れないという感覚が面白いのだ。
強者を求め、クラウザーに打ちのめされた後はレベルの違いに絶望さえ感じた。
やはり負けるのは面白くない。
負けるかも知れない緊張感と、実際の敗北は同列であってはならない。
追い詰められる緊張感を楽しみながら、最後には自慢の豪腕で相手を殴り倒す。
この感覚を求めるにジョー・東という男はうってつけに思えた。
これで終わっては、もったいない。
「俺のパンチでチョットは見れる顔になったな」
「バカ言え。俺は最初から男前だ」
言うとジョーは、ダメージの残りを確かめながら
デモンストレーションでワンツーからの蹴りを打った。
その瞬間、片足でもなんとか身体を支えられることを確認する。
だが、ギリギリだ。
しっかりと意識を集中してバランスを取らなければ、そのまま崩れ、
致命的な隙を作るだろう。
――やっぱボクシングのチャンプは強ぇや……
「悪りぃが気が変わった。蹴りも使わせて貰うぜ。
これ以上、俺様の美貌を傷つけられるのはごめんなんでな……!」
ジョーは不敵に笑い、フットワークを使いながらアクセルの間合いに入って行った。
腕をグルグルと回しながら、アクセルも同じ笑みで応える。
これからケンカが始まると、二人の本能が反響し合っていた。
ドアを潜ろうとしたその足を、赤い布で巻き取られた。
そのまますくい上げられるように、地面に叩き付けられる。
痛みのままに顔を上げたその先には、怒り狂い、獣の本性を剥き出しにした、
ローレンス・ブラッドの姿があった。
「小娘がぁぁ!!」
舞の顔が、ハッキリと青褪めた。
ローレンスは、未だ煙の立ち昇る顔を片手で覆い、眼光だけを獰猛にギラつかせながら、
殺意のみを持って起き上がって来た。
もう油断はない。
舞を絶望に引き摺り込むように、黒い薔薇がクスクスと笑う。
気持ちが傾くと、蓄積したダメージが一気に襲い掛かって来た。
ブラッディスピンが再び舞の居た場所を襲う。
転がり込みながら躱した後、ローレンスに目をやるとすでにその場に姿はなく、
頭上からのマントの一撃が後頭部に打ち付けられた。
「うぐぅ!」
忍は、悲鳴を上げてはならない。
そんな祖父の教えは恐怖に蝕まれた意識の中でも生きている。
大声で泣き喚かないことだけが、すでに舞の意地だった。
腹に刺さるような突きが舞の嘔吐感を煽る。
ソバットで顔面を狙われ、両腕でガードしたまま吹き飛ばされた舞を引き起こしたのは、
魔法のように自在に動くマントだった。
「クハハハハ! 苦しみ抜いてから死ねぇ!!」
マントに包まれ、今度は両腕の自由さえ奪われて絞め上げられる。
食い縛ったままの歯からは赤い血が止むことなく流れ、
咳き込むように開けば明らかな吐血がマントを汚した。
「良いぞ! 貴様の鮮血が俺のマントをより真紅に染める!」
その狂った獣の笑いに、震える涙が両目から溢れた。
失禁しそうな恐怖と、肉を絞め付けられる苦しみ。
遠のいて行く意識の中で、ただ一人のことだけを想った。
――アン……ディ……
「――飛翔拳!!」
どこからか、そんな声が聞こえた。
最初は、金髪の外国人という物珍しさからの興味だった。
その珍しい男の子が何故か祖父の家にホームステイして来て、
近寄り難いほどの鬼気迫る形相で、修行を行っている。
今時、忍者になりたい人間が自分以外に居るはずがないことは、
日常と非日常を生きる舞には、すでに解り切っていた。
それを理解していながらも忍者になりたい自分に疑問はなかったが、
それが他人――しかも外国の男の子となると、当然その限りではない。
何故この子が、綺麗な顔を歪めてまで修行を行っているのか、
舞はどうしても知りたくなった。
だが、日本語で話し掛けても、彼は困った顔をするだけで答えてはくれない。
祖父とは話が通じているようだったが、それを聞いても、祖父は答えてはくれなかった。
ただ、強い想いで彼はこの場所へ来ていると、祖父はそれだけを言った。
中学校に上がる少し前、ならば、自分で聞いてみようと思った。
英語を勉強する。
難しいが、それ以上に彼と会話してみたいという想いが、舞を進ませた。
想いを持って修行する。
それは何か、話さえ出来ない彼との繋がりのようで、勉強をはかどらせた。
まだ難しい話は聞けないが、たどたどしい英語で少しだけ会話すると、
何か解らない、初めての感情が舞を包んだ。
やっと会話出来た満足感だろうか。
心を満たして行く暖かさと、天へ昇って行く感動に、しばし意識が飛んだ。
やがて、自分が英語を覚えながら彼が日本語を覚えれば一石二鳥だと思った舞は、
不知火流日本語教室と称し、彼を連日束縛して話し込んだ。
照れながら笑う彼は修行中に見せる厳しい顔ではなく、
そればかりか、あの姿からは繋がらないほどの、柔らかさがあった。
それだけに、なぜ彼が厳しい修行に身を投じているのかを知りたい。
初めて理由を知った舞は、言葉を失ったまま、訳も解らずに涙を流した。
やっと繋がった言葉は、残酷にも哀しみを運んだ。
優しい笑顔の彼と、修行に打ち込むかけ離れた姿が、その言葉で繋がる。
見たこともないサウスタウンの街が、
残飯を漁って兄弟二人だけで生きて来たと語る彼の口から、鮮明に浮かんで来た。
同時に、その過酷さや、そこでやっと得た安らぎ、そして、それを奪った男――
止まらない涙と、自身に伝わった他人事の範疇を超えた痛みが、
彼に恋をしていたことを、舞に気付かせた。
今、ぼんやりとした視界の先で、アンディ・ボガードの、勇ましい姿があった。
「舞……」
言葉を紡ぎ出せないほど疲弊した舞を、アンディは城壁に立て掛けるように寝かせた。
その心の底から安心した笑顔を受け、身震いと共に闘志が湧き上がる。
全身の経絡を流れる熱が体外にまで噴出し、青白い闘気を静かに立ち昇らせた。
「貴様ぁぁ!!」
起き上がったローレンスが気が触れたように叫んでアンディの背へと向かって来た。
だが次の瞬間、血飛沫を上げて倒れたのは、
振り向き様の裏拳を受けたローレンスの方だった。
「ぬがぁ!」
顔面にまともに打撃を受け、潰れた鼻から血を吹き流しながら
ローレンスは地を跳ねて倒れた。
アンディはそれを睨みつけ低く息を吐き出す。そして掌を軽く開いて構えた。
ゆっくりと、ローレンスが起き上がる。
その表情は静かで、それ故、アンディも追撃が出来ないでいた。
ローレンスは打ち付けられた痛みにアンディの強さを知り、
一瞬で冷静さを取り戻していた。
それと同時に、万が一にも負けることはないという確信が、彼に余裕すら生ませていた。
「ローレンス…… ブラッドだな」
アンディが鋭い眼光のまま口を開いた。
「ククク、アンディ・ボガード…… 貴様もあのじじいの仇討ちか?
どうやら貴様等一派は全員、俺に殺される運命のようだ」
その言葉には何も返さず、アンディは待った。
同じく不知火流の軽巧をマントで捌こうと待っていたローレンスだが、
痺れを切らすのは早かった。
向かって来ないのなら、一回りも体格の小さい若造をこちらから捻じ伏せに出向くまで。
「ブラッディスピィィン!!」
ローレンスは地を駆け、砂煙を巻き上げながら飛んだ。
195cmの長身が真横に伸び、アンディの心臓を抉り出さんと接近して来る。
だが、アンディは空気の流れのままに円の歩法でそれに回り込み、
一瞬、時間の止まったような感覚のまま、
隙だらけのローレンスの背に、肘を突き落とした。
「ごぁ!」
さらに地面で跳ねるローレンスを蹴り上げ、
軽く浮いたその身体を下から手刀で突き上げた。
「昇龍弾!」
弾き飛んで倒れたローレンスに今度はアンディが駆ける。
半身に起き上がったローレンスの胸に斬影拳を打ち込み、
無数の掌打を休む間もなく浴びせ続けた。
悲鳴を上げる暇すらなく、呼吸すらも困難なラッシュ。
崩れ落ちるという逃げ場すら与えられないほどアンディの拳は鋭く、隙が無かった。
「おおおおおおおおお!!」
だが、歓喜を浮かべていた舞の表情が歪んだのは、
この闘いで最も多量の鮮血が、鮮やかに舞った瞬間だった。
「アンディ!」
アンディの右足から抜いた、銀色に光るサーベルを舐め、ローレンスは笑った。
「きさ、ま……!」
赤いマントの陰から現れたサーベルで、アンディは右の太腿を突き抜かれていた。
それはまるで手品のように、あまりにも唐突な刃だった。
バランスを失うアンディをローレンスの蹴りが弾き飛ばした。
踏ん張りの効かない痛みがアンディに膝を突かせる。
ローレンスがまだ血糊の鮮やかなサーベルをマントで拭くと、
またマントの陰にそれは消えた。
「クククク…… 足を失っては貴様等は何も出来まい。
じじいと同じようにいたぶり殺してやる」
ブラッディスピンが動けないアンディの胸を抉り取って貫いた。
また目に眩しい鮮血が、噴水のように舞う。舞が顔を覆って震える。
身をよじり、直撃は躱していたアンディだったが、
その際の足の痛みと、裂けた皮膚からの大量出血は意識を遠くさせた。
それを、唇を噛んで保つ。
返り血を浴びて哄笑を上げる獣の眼を、怯むことなく睨み付けた。
「良い眼だ…… ゾクゾクするな。やはり獲物はこうでなくてはならん、クックックッ」
――もうやめて!!
舞がそう叫び出そうとした瞬間、それを察したかのように、
アンディは振り向き、薄く笑った。
その笑顔はあの、互いに拙い言葉でコミュニケーションを取り合った、
少年の日のままの、柔らかい笑顔だった。
「死ィィィねェェ!!」
膝を突いたままのアンディは介錯を待つ侍のようだった。
光となった剣光が何本も何本も奔る。
舞は、瞬間、幻のような笑顔を信じて祈った。
それが届いたのか、アンディは存在が消えたかのように、サーベルの光をすり抜ける。
何度も、何度も、同じ様に奔る剣光を同じ様にすり抜けた。
まるで、彼は笑顔と共に透き通って、天使にでもなってしまったのではないかと、
舞は目を疑った。
膝を突いたまま、上半身だけの動きで乱れ舞う剣舞を全て躱し切る。
驚愕に歪むローレンスだったが、そんな奇跡はいつまでも持つまいと、
決して緩めずにサーベルを振るった。
だが、アンディは奇跡を起こしていたわけではない。
柔よく、剛を制す――
山田十平衛の教え通り、力の支点を見切り、
その作用の流れのままに身を動かしていたに過ぎない。
それはどんなに繰り返しても決して当たることはない、完全な見切りだった。
やがてローレンスのスタミナが尽き、勢いが緩むと、
その脇腹を目掛けてアンディの肘がカウンターで突き刺さった。
舞が忍蜂で打った、ダメージの残る個所だった。
「お、ご、う……!」
今度は自ら吐き出した血でマントが染まる。
アンディにもたれ掛かるようにして、ローレンスは折れた肋骨からの嘔吐感のまま
前につんのめっていた。
「驕るなよ、ローレンス・ブラッド……!
不知火流は貴様のような外道に食い荒される拳ではない」
決着が、ついた――そう、アンディは思った。
だが、ローレンスは倒れず、突如、強く大地を踏み躙って速度を上げると、
そのまま目的地へと走った。
――しまった!
油断したアンディが振り返る。
その先には舞が居るのだ。だが間に合わない。
追おうと数歩踏み出した先には、すでに舞を後ろから抱き、
首筋に刃を煌かせて笑うローレンスの姿があった。
「フハハハハ! 外道だと? 闘いとはそういうものだろう!
獣は生き残る為に、本能でその道を探すものだ。そして牙を剥く!
さぁ貴様はどうだ! この女を捨てて生き残る道を選べるか!?」
「アンディー! ダメ! 闘って!」
舞の悲痛な声はローレンスの加虐心をそそらせた。
その眼が不気味な光を放つ。
「舞、やめろ! 喋るな!」
「私だって不知火半蔵の弟子よ! 死を恐れなどしないわ……!」
「それは違う、舞! お師匠様はお前にそんなことを望んではいない!」
一転、やり取りに苛立ったローレンスが動いた。
「女の甲高い声は虫唾が走る…… 一生口を聞けなくしてやろうか……!」
「くぅ……」
舞の顎をローレンスの肉を引き裂く掌が鷲掴みにする。
凶刃に黒薔薇が映り込んで見えた。
「待て……!」
アンディは完全に構えを解き、両腕をダラリと下げて俯いた。
それを見てローレンスは一層の加虐心に身震いする快感の笑みを漏らした。
そのままアンディの左肩をサーベルで貫き、小さな悲鳴を、
初めて楽器に触れた子供のように心底楽しそうに聴いた。
「んん……!」
舞の悲鳴は砕け折れるほど強く握られた顎によって言葉にはならない。
ただ涙だけが叫びのように弾け飛んだ。
「クックックッ、つくづく下らんと思わんか、アンディ・ボガード。
貴様は確かに強い。だが、こんな小娘一人の為にその力も無力と化した。
こんな小娘に執着していた時点で貴様に生き残る道はなかったのだ。
女子供は男の足枷にしかならん。男に必要なものは男だ。
貴様のような強い男は私は嫌いではないぞ。その苦痛に歪む顔、最高だ……」
興奮した口調で捲くし立て、突き刺したままのサーベルをグリグリと動かす。
血が跳ねて顔にかかる度に嬉しそうに口元を歪めた。
やがてサーベル越しの感覚に満足出来なくなったローレンスは舞を放り投げ、
自身の右腕を左で掴んで握力を上げ、中腰に構えた。
「さぁもっと見せてみろ!
生きたまま腸を引き摺り出され、死をも超える苦痛と絶望に果てた狂おしい顔を!
――ブラッディスピィィィン!!」
「アンディー!!」
舞の無為の叫びは、涙を含んだアンディの名だった。
ブラッディスピンの威力はすでに現実として何度も見ている。
まだまともに入ったことは一度もないそれが、もし正面から無防備に入ると、
その人間がどのような姿になるのは、暗がりの中の半蔵の悲惨さからも明らかだった。
だが、次の叫びはローレンスからの驚愕だった。
――止まっ、止まった……!?
それが、信じられない。
棒立ちだったはずのアンディの肉体に食い込んだ爪は、そのままピクリとも動かず、
回転を許してはくれなかった。
いやそればかりか、爪すらもその身に刺さってはいない。
逆に指の折れる激痛がローレンスに悲鳴を上げさせた。
「うがぁああああ!!」
八極聖拳の、硬気功――
ここへ来て極限の集中力で研ぎ澄まされたアンディの闘気は、
ローレンスの狂気をも通さない硬度を、一瞬だけ作り上げていた。
指を押さえて空へ叫ぶローレンスへ至近距離からの飛翔拳を打ち込む。
ローレンスが二重の痛みに反転した先には舞の姿があった。
「フハハハ……!」
再び女を光明とすべく、すでに狂い果てた笑いでローレンスは走った。
だがその狂気に取り憑かれた眼は、舞を包む紅蓮の赤すらも伝えなかった。
「たぁぁ――っ!!」
走り寄って来るローレンスを正面から討つ、全身を炎で包んだ必殺忍蜂。
めり込んだ肘と、そこから伝う炎がローレンスの笑いをさらに狂わせた。
「超裂破弾!」
さらに光の矢となったアンディが、
黒ずんだ世界で哄笑を上げる獣を貫き、眼下の湖へとその身体を突き落とした。
「うわハッ、ハハッ! ハハハハハハハハ――」
水の弾ける音と、そこから立ち昇る煙が、闘いの終わりを告げていた。
「アンディ!」
裂破弾で着地したまま肩を押さえて蹲るアンディの元へ舞が駆けた。
涙でくしゃくしゃに乱れた顔のまま、舞はアンディの傷を労わった。
酷い傷――それでも笑うアンディの視線が、今は痛かった。
「――私…… 足手まといかな……」
俯き、顔を背ける。
その傷の中で反芻されるローレンスの言葉は痛烈だった。
背けた顔の先には、不安だけを掻き立てる、黒い薔薇の群があった。
「半分だろ?」
「え?」
「舞と、俺で、半分ずつだ」
舞の肘に触れ、自分の足を叩いてアンディが言った。
「いつも半分こ、だったよな?」
涙で歪み、ろくに見えない視界には、今はもう大好きな、アンディの微笑みだけしかない。
風の中、激しく抱きつかれ、情けなく響き渡ったアンディの悲鳴を、
不知火半蔵が、慈愛に満ちた笑みで見ていた――
――ボガード……
この広場でその名を読み上げると、昨日の事のように、額の十字傷が熱を持つ。
パワーウェイブ――
そう言ったあの技の痛みは、実際もう思い出せもしない、過去の話だ。
だが、その傷が痛む度にあの日の、同じ日に起きた出来事が鮮明に甦るのは、
決して忘れ得ない、耐え難い苦痛だった。
表情のない、人形のような医師に、丁寧に包帯を巻き付けられる。
どくどくと血が脈打つ度に疼く気持ちの悪さは、まだ生きている自分への嫌悪だった。
――母上は、あんなに簡単に死んだのに……
どんなに血が流れても、例え身体中の血が抜け落ちたとしても、
自分は死ぬ気がしなかった。
例え骨と皮だけに干からびても、無意識が他人の血をすすり、この肉体を生かすだろう。
何の意味もない人生を自覚しながら、呆然とただ生きることしか目的がなかった。
生きていれば、いつか敬愛するあの人が振り向いてくれるかも知れないと、
そんな淡い希望を、女々しく持っていたのかも知れない。
だが、同じ様に生きた母は、先刻、遂に夢叶わぬまま、冷たい肉塊と成り果てた。
あの男がほんの少しだけ、両手で水をすくう程度で良い、
ほんの少しだけでもギース・ハワードへと向けた情を母に分けてくれれば、
母は微笑みを取り戻して、今も自分の側にいてくれただろう。
そして本当に心から、自分へ無償の愛を傾けてくれたはずだ。
クラウザーは夕刻、いつもの時間に稽古場へと足を運んだ。
大変な傷を負っているというのに、父はいつもと変わらず、
そこで椅子に腰掛けて待っていた。
始めるぞ、そう言うように、黄金の鎧に身を包んだ父は立ち上がり、
包帯の痛々しい息子へ容赦のない闘気をぶつけた。
いや、それはすでに殺気であることを、
あのギース・ハワードと小さな庭で出会った日から、クラウザーは解っていた。
――気付かないふりをするのも、もう疲れた。
父、ルドルフの打って来る拳を握り潰し、赤い柘榴に変えた。
返り血を顔に浴び、呻く父の姿を見ていると、それはとても滑稽で、
こんな無様な男に執着して死んだ母をすら愚かに思えた。
もう顔も見たくない。
顔面を潰すように、長身の父にハイキックを浴びせる。
潰れた呻きがまた耳に届いた。
膝を突いて起き上がろうとするルドルフの背後へ彼の認識の外で周り、
今は小さく感じるその肩を、握力だけで砕いた。
「――母を死に追いやらせたこの父が、憎いか?」
ルドルフは今度は呻き声の変わりに、そんなことを言った。
「勘違いしないで頂きたい。貴方が私の父であった時間など、片時すらもない」
クラウザーの眼に、はっきりと殺意が灯った。
右腕は父の肩を砕き握ったまま、左を貫手に構え、闘気を纏う。
「あの時、私を背後から射貫こうとしていた腕はこちらでしたよね。
兄上も利き手は左なのでしょうか?」
――私も左利きなら、愛してくれましたか?
「もはや、貴方から教わるものなど、何もない」
ドスッ
視界が、赤に染まった。
背に突き放った左の手には、父の内臓の感触がある。
肉の中で拳を握ると、それは弾けて、目の前の男を痙攣させた。
拳を抜き、溶岩のように爛れた赤に塗り固められた腕を、無表情に見詰める。
そこに力無く倒れるかつて父だった男の、肉の沸く音が聴こえた。
その強さに、憧れた。
逞しいその背を、どこまでも追った。
ルドルフ・クラウザーを信じていた日々は、今は思い出せないが、幸福だっただろう。
その幸福が有り得ないほどに甘美だったから、母はそれに縋って、死んでしまった。
ならば、幸福の可能性を、希望を最後まで持って死んだ母は、
あるいは無様ではなく、美しかったのかも知れない。
ならば、可能性を、希望をすら自ら断ってしまった自分には、何が残っているのだろう。
途端、それでもまだ父を慕っていた自分に気付き、色のない、涙が伝った。
――頭が痛い。
十字に刻まれた額の傷が、ジェフ・ボガードから架せられた、
罪の十字架のように戦慄き、割れるような痛みと共に、吐き気を浮き上がらせた。
耳に届いた、敬愛する父の最期の言葉は、とても安らかだった。
――これでやっと、解放される……
――――……
狂い果てた自分の笑い声が、額の奥から聞こえた。
気配を感じ、瞳を開いた先には、テリー・ボガードの姿があった。
【25】
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