小さな小さな双子の兄弟が、虫の羽をもぐように無邪気で、残酷な暴力を受けていた。
その痛みから少しでも解放するべく、弟に覆い被さった兄は、
破裂しそうな内臓を庇おうともせず、弟の身体を包んでいる。
両親はいない。
金もなく、力もなく、そのみすぼらしい身なりは蔑みの対象だった。
街を歩けば常に、不条理な暴力に晒される。
家の中で蹲って震えることさえ許されず、野宿の先へも魔の手は伸びた。
血が、弟の顔にかかる。
朦朧とした意識のまま、苦悶に呻く兄の姿を見ながら、弟は声を殺して泣いた。
幸せな家庭だったはずだ。
頼もしい父と、優しい母に囲まれて兄弟は健やかに育った。
大きな村だった。自然、長の力も大きくなる。
長を務めていた祖父が死んでからは、父が長となった。
兄弟は由緒正しい血を引く、この村の長の家系だった。
全ての村人から平伏される権力を得た父は敏腕を発揮し、
近辺の村々にまでその力を誇示した。
それを高慢とする声も少なからずあったが、父の手腕は相応のものであったし、
何よりも、何千年もかけて家系が作り上げてきた血の存在感が、彼らに声を失わせた。
だが、村に蔓延した疫病は、いかな父の勇猛でも抑えることが出来ず、
村人も、家族も、その全てが死滅した。
「我々の祖先に秦王龍という男がおってな、始皇帝の護衛長官を務めておった。
その力たるや凄まじく、まさに龍の化身の如く千騎の兵を一人で壊滅させたそうじゃ。
お前ら二人にもその、同じ血が流れておる。
勇気をもって、互いに協力して生きて行くのだぞ」
父の死の床での言葉は、そんな、誇り高き英雄の血統である、血脈の話だった。
それは幸運だったのか、あるいは限りない不運だったのか、
秦崇雷、秦崇秀の、僅か6才の幼い兄弟だけが、なぜか疫病の死風から逃れ、
呆然と、平然と、まるで仕組まれていたかのように、生き残っていた。
周囲の村に助けを求めた兄弟は、疫病を運ぶ忌み子として刃物を突き付けられた。
血に刻まれた誇り高い心はそれを認めることを許さず、
食い下がっては命を削られた。
やがて喰うや喰わずの放浪を余儀なくされた兄弟は、
その血脈を誇る度に暴力で屈服させられた。
血筋や家系など何の役にも立たない現実は、大好きだった父をすら恨みの眼に灯した。
哀しみの果てに、憎しみが燃える。
だが、絶望の中で縋る物は、皮肉にも、自身に流れるという、英雄の血だけだったのだ。
――強く、なりたい…… 誰よりも…… 誰よりも……
時は流れ、14才になった双子の兄弟は、尚、止むことのない暴力に晒され続けていた。
「何が英雄の血だ! お前等の親父は、大嘘つきだったんだよ!」
嗤笑を浮かべながら、両手を突く兄弟の腹を蹴り上げる同年代の子供達。
数にして、7、8人といったところだろうか。
死に至らしめるにはまだ弱い子供の力は、天然の生き地獄を生んだ。
暴力に囲まれ、逃げ場のない兄弟は、手を踏まれ、足を踏まれ、
殴られ、蹴られ、肉は赤く、骨は青く、残酷な色彩に染め上げられた。
だがどんなに痛めつけられても、兄弟は屈服せず、誇りを持っていた。
泣いて、逃げ出せば解放されるかも知れないのに――
それをせず、立ち向かっては打ちのめされ、性懲りもなく暴力を浴びた。
その血が故に苦しまねばならないのなら、それはすでに英雄ではなく、
呪いの血であるのに、それに気付かず、暴力を浴び続けた。
ただ、呪われたように英雄の血を信じて――
力を与え給え…… 力を与え給え…… 力を与え給え……
瞬間、雷が落ちた。
いや、それは感覚だけの物で、実際には空は晴れ渡っていたのかも知れない。
だが、神経に走った稲妻のような感覚は、確かな物だった。
その証拠に、今、目の前で、先程まで暴力を振るっていた子供達全員が、
――死んだように倒れている。
何が起こったのかは、それを行った兄弟にも解らない。
子供達の肉から、血がどくどくと広がっている。
その色は、今、自分から流れている物と全く同じで、
何が英雄の血なのか、何が特別なのか、兄弟には解らなくなっていた。
ただもう生きているのかすら解らない、
全く動かない子供達の姿が気持ち悪くて、激しい吐き気をもよおした。
「ウ…… あ、頭が痛い…… た、助けて……」
遠い、声がした。
(世界にその手で復讐を遂げよ)
冷たい霧に紛れ、誰かが頭に忍び込んで来る――
意味の解らない、聞いたこともない、懐かしい声――
(世界にその手で復讐を遂げよ)
それは、声と呼ぶには激し過ぎて、叫びのような、黒い記憶だった。
ぬくもりが、消えて行く――
父と母が、確かに与えてくれたぬくもりが、とても浅はかに思えて来た。
まだ広がっている子供達の無様な血が、黒く変色して行く。
自分達の赤とはまるで違う、醜い色。
(世界にその手で復讐を遂げよ)
永遠を手に入れろ――
世界をこの手の中へ――
――――……
「――やっと覚醒することが出来たな、海龍よ」
「えぇ、空龍兄さん……」
それは、奇跡なのか、あるいは忌まわしき血脈の呪いなのか――
誇り高き故にさまよう魂が今、時間を越えて甦っていた。
「どうやら天龍は転生に失敗したらしいですね」
秦崇秀だった少年、海龍が、秦崇雷だった少年、空龍へと話す。
「この身体は直接、天龍の血を引いているのだがな。
兄によほど運がなかったのか、それとも……」
「しかし、私達も同じこと。早く秘伝書を揃えなければ、
この肉体を支配し続けることが出来なくなってしまいます。
現にもう、元の人格との融合が始まっている」
「完全体にはほど遠い、か……」
そう言うと、空龍は物陰の気配を睨み付けた。
「さっきからそこにいる男。死にたくなければ出て来るんだ」
「ヘヘッ…… バレてたか。さすがだなぁ」
卑屈な笑みを浮かべながら現れるその男に、海龍がクスクスと笑った。
空龍は厳しく睨み付けたまま、微動だにしない。
「俺もお前らを捜してたんだ。やっと見つけたと思ったら多重人格者とは驚いたぜ。
ヘヘヘッ…… お前らのその子供の体じゃ何かと不便だろ?
俺の名は山崎竜二。よろしく頼むぜ……」
「驚いたようには見えませんね。
それに、そこに転がっている子供も貴方が仕向けている。何が狙いですか?」
海龍は心底可笑しそうに山崎にそう聞いた。
「何だ、そこまでバレてんのか。
覚醒に協力してやったんだ、感謝してくれよ、ヘッヘッヘッ……」
「何が狙いだ、と聞いている」
空龍が一層眼光を鋭くさせ、山崎に静かな声をぶつけた。
「――しょうがねぇ、正直に話すか…… 始皇帝の隠し財宝が欲しい。
お前等が秘伝書を見りゃあ一発なんだろ……? 仲良く協力し合おうぜ……」
「下らん男だ」
(その分、単純で扱い易いですよ、兄さん)
目を合わせることもなく、誰にも聞こえない声で海龍が囁いた。
(正気か? 崇秀。このような下賎な男を扱うなどと……)
それに答えた空龍もまた、弟と目を合わせることなく、誰にも聞こえない声で言った。
それは、兄弟のみの神経に伝わる、誇り高き心の振動。
(ええ、この男は利用するに足る魂を持っています。
チンピラには違いありませんがね…… ククク……)
空龍は、じっとこの、左手をポケットに入れたまま、
下卑た笑いを浮かべる山崎竜二という男の眼を見た。
薄べったい皮膚の奥に、なるほど確かに、どす黒く息を立てる強い魂を感じる。
(兄さん、貴方は先程、私のことを“崇秀”と呼びましたね)
弟の声に、はっとする。確かに、無意識のうちにそう呼んでいた。
(今こうしている間にも、融合は進んでいます。
そしてやがて、本来この世界に存在しない私達の魂は、溶け合って消えてしまうでしょう)
生まれし時より決められた運命を、享受するために――
(ワカッタ…… オトウト……)
西暦、1994年に起こった、委ねられた怪奇である。
1995年、1月――
サウスタウン・エアポートに、4人の男が降り立った。
いずれもダークグレイのスーツに身を固めた、一見して普通の男とは体格の違う男達。
中でも中央の、ブロンドの髪をオールバックに揃えた鋭い眼光の男は、
ただ存在するだけで場を萎縮させる、重厚な威圧感があった。
「相変わらずこの街には血の臭いが充満しているな」
「そうされたのは、貴方ですよ」
互いに、万感の一歩を踏み締めて、興奮を抑えながら言った。
ギース・ハワードと、リッパー。
3年もの間、待ち続けた主の帰還は、自然に笑みを浮かばせ、無口な男を饒舌にした。
部下の興奮をその身に受けて、
ギースはいつものように口の端を吊り上げ、「フン……」とだけ笑った。
その視線の先には、神に挑戦するバベルの塔のように、どこまでも高く聳え立つ、
主を失っても尚、挑戦的な、白銀の摩天楼があった。
「大丈夫です。あの建物は貴方が帰られるまで、完全なセキュリティを施しています」
ホッパーが言う。
「完全、か……」
握った拳には、すでに完全な、前以上の力が篭っている。
自らの不死身の肉体に歓喜すれども、
しかし一度死に掛けた事実は、すでに完全では有り得ない、ザラつきを残していた。
――まだ死にたくはないだろう……
――不死身の完全体を授けてやる……
そんな声が、頭の奥で響いた。
堕ちていた――
そこは、蟻の巣のように入り組んだ迷宮で、迷っても、迷っても、光などはない場所。
ただ、どこまでも血の匂いを追い掛けた先には、誓いに届く希望があると信じ、
腐臭のする砂を噛んで、ゴミ溜めの中を這って進むしかない。
そこから再び、這い上がれるだろうか――?
ただ、這い上がることだけを考えて、
堕ちていた――
死に至る道程を進みながら、死を覚悟などはしなかった。
まだ死ねないという答えだけが、鮮明に輝いていた。
その無様にもがく様を、今まで闘って来た男達が、
敗者は潔く死ね、と見下した嘲笑で見ていた。
貴様は所詮、自らが生んだ憎しみに恐怖した男――
貴様は所詮、鬼畜にすら成れぬ軟弱な男――
何故、女を救った――
何故、呪われた子を造った――
殺せば、災いの種を全て握り潰せば、
誰も居ない孤独な世界で、お前だけは生きられただろうに――
悪魔のような赤い瞳が、近く、無垢に彼を蔑んだ。
――まだ死にたくはないだろう……
――不死身の完全体を授けてやる……
――――……
遠くなっていく空を見上げながら、仰向けに、堕ちて行く――
下らん…… 貴様は勝手に生きれば良い……
私の業は私で払う…… 私には私の闘いがある……
貴様の力などは借りん……
ただ、死ねないだけだ……
まだ、私の野望は終わってはいない……
自らが作り上げた力の象徴が、彼に殺意を持って、
死を与える大地を眼前へと捧げ出して来る。
そこには、すぐ前日に会った、敵にも、仲間にもなれない男――
それはすでに、友なのだろうか。
男の拳が、キラキラと、とても眩しく輝いていた。
同じ様に、彼の拳も輝く。
思い切り手を伸ばせば届きそうな大地へ、それを振り翳した。
轟音と、光と、粉砕されたアスファルトと、そして、夥しい死臭が、タワーの口へ漂った。
しかし、穿たれた大穴の底で、その男は確かに、まだ息吹を持っていたのだ。
それは、奇跡だったと言って良いだろう。
空中における気のコントロールに、彼は死の淵で開眼していた。
暖かい、彼が少年の日からずっと追い求めた宝石が、
落下の衝撃を和らげ、彼の命を繋いだ。
もう一人の友が何かを語り掛けて来る。
何を言っているのかは解らない。もう、どんな顔をしているのかも解らない。
こちらから手を伸ばしても、身体はピクリとも動かなかった。
だがまだ生きている。あの男の場所へ行くにはまだ早い。
この街の薄汚い地べたの臭いを飲んでいる内は、
ギース・ハワードの命が枯れることはないと信仰した。
――ーッ…… ボガード……
すぐに外で待機していた最も信頼する部下の二人が駆けつけた。
これも何かの偶然が生んだ、奇跡だったのかも知れない。
リッパーとホッパーは、辛うじて生きているに過ぎない瀕死の主を迅速に回収し、
その敗北が漏れぬよう、最高の治療を国外で行った。
ギース・ハワードは死んでいない。ギース・ハワードは死なない。
それは、リッパー、ホッパー、ビリー・カーン、
そしてギース・ハワードの、共通の認識だった。
身体は休息を必要としていたが、ギースの頭脳は休まなかった。
――ギース・ハワードを殺せ。
矛盾するその命令を、リッパー、ホッパーは完璧にこなした。
3時間後、サウスタウンのある病院で、一人の男が死んだ。
その、今はもう本当の名前を失った男の死が、ギース・ハワードの最期だった。
燻り出されるようにして動き出したクラウザーは、
すでにギースの手の中で踊る、哀れなピエロ――
送り込まれたビリーは、シュトロハイム家の情報を流し、
そして、ギース・ハワードの復活に不可欠な、拳技の秘伝書を持って帰還した。
秘孔の力により活力を取り戻した肉体は日に日に回復し、
イギリスでの3年間の療養と、そして修行の時間を経て、今、
ギース・ハワードは、かつて自分の王国であった、サウスタウンへと再び降り立った。
――地獄から這い上がって見せたこの私の肉体こそが、不死身の完全体だよ。
サウスタウン・エアポートの中に、一際高級なクラブがある。
このクラブは、サウスタウン・エア・ラインズの
ファーストクラス利用者のみを対象としており、それ故、今は四人以外に客はない。
その昔、時の支配者ギース・ハワードが強引に作らせた店である。
四人は最も見晴らしの良い席に腰を下ろし、外に視線を向けていた。
それ以上、何も言わない。今は、その静かな時間が何よりも尊かった。
そこに、静寂を切り裂く騒音が訪れた。
大勢の人間が、一人の権力者を、この街の王を囲んで騒ぎ立てている。
シャッターを切る音が耳を刺激し下品な光が次々に舞った。
「市長! 四期目の当選おめでとうございます!
あなたを応援してくれた市民に、一言コメントをお願いします!」
「ここでは他の方に迷惑がかかる。後で記者会見を開くから、その時にしてくれんか」
そう煙に巻く市長だが、顔は満足気な笑みで満たされている。
権力欲を満たした、腹の太い笑みだ。
静寂を侵したまま、一団は通り過ぎて行く。
そして、市長が足を止め、電流が走ったように振り返った。
震えている。
先程まであんなに太っていた腹が、全て汗になって抜け落ちた、蒼白の顔。
「お、お前は……」
それは、すでに声にならない、呻きのような音だった。
ギースがそれ受けていつもの邪悪な笑みを浮かべると、マスコミ達も彼に気付いた。
「ギ、ギース・ハワードだ! ギース・ハワードが生きているぞ!?」
今度はギースが激しいフラッシュを浴びた。
この街の真実の王が誰であるのか思い知らせるように、
ギースは市長を威圧的な瞳で見据え、さらに口元を歪ませた。
「これは市長、お久し振りですな。
ひどく汗をかいておられるがどうされたのかな?」
ギース・ハワードの確かな声に、記者達は狂ったようにシャッターを切った。
それを制す、イタリアンスーツにバンダナという出で立ちの、
あるいはギース・ハワードよりも、眼つきの鋭い男。
「ビ、ビリー・カーンも居るぞ!」
「市長さんはギース様とお話があるんだとよ。
とっとと帰んな。さもねぇと二度とカメラが持てねぇ身体になっちまうぞ!」
シャッターを切っていた報道陣が、その気迫に押されてバラバラと散会する。
この街で生きている以上、ギース・ハワードと、
ビリー・カーンの恐ろしさは骨身に深く染み渡っていた。
今撮った写真も、彼らのたった一声で抹殺されるのだろう。
最悪、それを撮った記者の命さえも――
恐怖に凍り付き、あるいは命乞いをするように、
自身の命だったはずのカメラを放り投げて、彼らは消えた。
そして残ったのは、同じ様に震えながら、逃げることさえ許されない、市長のみ。
「い、生きていたのか……?」
「フフフ…… 市長にとっては、死んでいたほうが都合が良かったですかな?」
「そ、そうじゃないが……
お、お前のコネクションは、もうこの街では、き、機能していないのだぞ……」
今更お前に何が出来る。やっと正常になった私の地位を、もうお前には渡さない。
味わった頂点の美酒は、市長に無様な、反逆の言葉を紡がせた。
「それならまた機能させれば良い。
太り過ぎが体に良くないのは、人間も組織も一緒ですからな。
少しはシェイプアップした方が動き易い」
だが、そう言って市長の醜く突き出た腹を見たギース・ハワードの顔は鈍く歪んでいて、
あれだけ流れていた汗が一斉に引くような、寒さを感じた。
「私がいない間にこの街では、ドブネズミを飼うようになったようですな」
震える。この男の存在は死そのものだ。
何故このような恐ろしい男がよりにもよって自分の街に棲み付いているのか。
そんなどうしようもないことさえ不条理に思うほど、彼にはもう行き場が無かった。
その後は何を話したのか、もう覚えていない。
「素晴らしい街づくりに、また協力させてもらいますよ」
最後にギース・ハワードはそう言い残して、部下を引き連れ去って行った。
笑い声が鎌を持って首筋に突き付けられる。
「あの市長は、すでにネズミに噛まれている」
そう耳打ちされたビリーが、死神のように不気味に笑った。
夕陽に演出されたサウスタウン・ビレッジを、オレンジがかった色に染まるリムジン、
ベントレー ミュルザンヌS V86.5が走っていた。
窓に映り込む美しいサウスタウンの景色が、後部座席の男の顔を隠す。
やがて車がトンネルに入ると、瞑想するように瞳を閉じ、腕を組む、
黒いスーツの男の姿が闇の中で浮かび上がった。
その男の顔は、未だ街の人間達に恐怖の象徴として刻まれている、
ギース・ハワードという、この街の王の、死を模った己顔。
トンネルを抜けたベントレーは薄暗いパーキングガレージへと止まり、
ゆっくりと、禁断の封印を解くように、その戸を開いた。
183cmのその身長は山のように高く、82kgの体重は神像のように重く、
黒い箱に押し留められていたことが奇跡に感じるほど、その足取りは大地に響いた。
そして、昇って行く。
かつてこの街の全てを掌握し、見下すように、愛でるように、
その全容を眺めていた、彼の玉座へ――
王のみが腰を降ろすことを許される、神聖な間へと、ギース・ハワードが降り立つ。
そこから眺めた、夕陽に染め上げられた街は何よりも綺麗で、
ギースは、テリー・ボガードに敗れ、地の底に叩き込まれ、再びさ迷った闇の中から、
ついに還って来たことを実感した。
「フフフフ……」
自然、笑みが零れる。
それはやがてサウスタウン中に王の帰還を報せるような、高い放笑へと変わった。
「ハハハハハハハ!」
だが、この塔にはまだ灯は灯らない。
この塔に命を吹き込むには、ギース・ハワードが再び王として君臨するには、
この街はまだ相応しくない。
ドブネズミが我が物顔で食い荒す、汚れた街を浄化しなければならない。
自らの手で、かつてそうやって街を手に入れたように――
復活の儀式が、まだ終わってはいない。
ギース、ビリーと別れたリッパー、ホッパーは、
サウスタウンに残り、まだハワード・コネクションに尽力している
少数の人間達とコンタクトを取る任務を受けていた。
だが、ギース・ハワード亡き後のこの街の惨状は、
すでに聞くに及ばない、ふと見渡すだけで解るものだ。
ギースの言った、ドブネズミを飼うようになった、という言葉が何よりも適切だろう。
血の臭いが充満している。
かつての、Mr.BIGが現れる以前のサウスタウンが、そこにはあった。
「混沌……」
そんな言葉がリッパーの口を突いた時、待ち合わせの倉庫から激しい物音がした。
その後、走り出して来た協力者の男の顔は、青褪めて歪み、
すれ違っても自分達に気付くことなく、気が狂った悲鳴を上げて去って行った。
大の大人が、いつ転んでもおかしくない足取りで、である。
二人は顔を見合わせ、頷くと、何があったのかその場所へ走った。
近付くと、少しだけ開いている扉から異様な臭いが立ち込めているのが解った。
それは、二人もよく知っている、血の臭い。
恐らく中には無残に打ち捨てられた惨死体が転がっているのだろう。
そんなことで怯む二人ではない。
なのにどうしてもその一歩を踏み出すことを戸惑ってしまったのは、
その臭いと共に漂って来る、黒く、荒々しい死のイメージだった。
どんな酷い死体がそこにあったとしても、彼らは顔色を変えることはないだろう。
だが、中に確実に猛獣がいて、人の腸を、咆哮を上げながら喰っているとしたらどうだ。
そんな檻の中へ、今から入らねばならないとしたらどうだ。
そこは、野生の弱肉強食だけが道徳の空間。
人間の法や、尊厳は存在しない。弱ければ、貪り喰われるのだ。
だが、逡巡も一瞬。
それは、その中身を考えたというだけで、そこへ入るか否かという逡巡ではない。
そんな選択肢は、初めから彼らの中にはない。
押し付けられた一択ではなく、無意識の忠誠心と使命感が、彼らにその選択を選ばせる。
そうするのが当たり前ならば、それが何よりの答えだった。
入った瞬間、ピチャッという音がした。
暗い倉庫。確かな視界はない。
だが、その鼻を突く臭いが、それが血の水溜りであることを主張していた。
「協力者ってのは、一体、何人居たんだ?」
「3人…… ここには二つ転がってるはずだ」
逆に言えば、二つしか死体はないはず。
――なのに、この夥しい血の量は何だ?
ホッパーが眉をしかめた。
少しでも強く踏み出すと血液が跳ね、スーツにかかる。
殺人鬼と言われたリッパーにはその殺し方が想像出来た。
想像出来たが故に、ここに居る猛獣がどこまで狂っているのかの程度が解る。
――つまり、最悪だ。
ガタン!
大きな音がし、光が完全に消えた。
振り返ると扉を乱暴に閉めて、眼光だけで存在感を示す、大柄の人間が居た。
ホッパーが懐に入れたままの手に力を込める。
それを隠すように前へ出たリッパーに男からの声が掛けられた。
「やっとお友達のご到着ってわけだ…… まぁ腹割って話そうぜ」
言葉と同時にカランと捨てられた刃物でまた水溜まりが跳ねた。
その動きに反応し、ホッパーが反射的に銃を抜く。
だが次の瞬間、それは弾かれ、後方へ飛ばされていた。
「!?」
二人して、転がった銃の方向を見る。
男とホッパーとの距離は2m以上ある。
そこから銃を弾くとなると、正確無比に何かを投げつけたか、あるいはもう一人居るかだ。
二人は後者の可能性をまず危惧した。
これだけの血を絞り出す虐殺を一人で行ったと考えるのはすでに不自然であり、
ならば今の現象は、複数による連携という可能性が何よりも考えられた。
だが、居ない。
それを認識するとすぐに向き直ったリッパーの目に、
ダルそうに屈み込む男の姿が映った。
「おいおい、俺はわざわざあんたらを待っててやったんだぜ?
落ち着いて話そうじゃねぇか……」
「――何者だ……?」
「山崎竜二…… 香港でちょっとした仕事をさせて貰ってる」
徐々に目が慣れてくる。
アジア系。髪はツートンカラーで、上方を金に、こめかみ辺りは黒のまま残されてある。
服は黒ずくめで、この闇の中ではまだ認識し辛かったが、
左手がポケットで消えているのは解った。
そして、何よりもその眼が、即死の毒を持つ蛇のように、
毒々しくくすんだその眼が、歴戦の二人をすら萎縮させた。
――普通じゃない……
それが、リッパーとホッパーの、共通の見解だった。
「ほらよ、コイツが見えるか……?」
屈んだまま顔だけを上へ向けて、山崎が紙を差し出した。
警戒したまま、立場は逆だが、猛獣に餌をやるように慎重に、リッパーがそれを受け取る。
リッパーが紙――写真を掴むと、山崎は不気味に笑った。それに背筋が凍える。
写真は、あの時の、エアポートで記者が撮った、ギース・ハワードの写真だった。
途端、二人の警戒が増す。
その写真、目撃証言の類いは彼ら自身の動きで握り潰したはずだ。
ネガすら残っているはずがない。
その反応を楽しむかのように山崎がゆっくりと起き上がり、口を開いた。
「そいつもまたちょっとした拾いモンなんだけどよ……
あんたらも写ってんなぁ…… ヘヘヘ……
なぁ生きてんだろ? ギース・ハワードはよ…… 吐いちまえよ、スッキリするぜ……」
「くだらん捏造だな。死者に用でもあるのか?」
「あるねぇ…… 脳味噌抉り出してでも聞かなきゃならねぇ大事な話がよ……」
壊れた、完全に締まり切らない蛇口から、ポタポタと雫が落ちている感覚。
静かに、狂気が膨れ上がっている感覚がした。
「ギース・ハワードは秘伝書を持ってるはずだ…… それも二本もな……
そいつをちょっくら貸して貰いたいねぇ……
――もっとも、返す気なんざねぇがなァ!」
「ホッパー!」
リッパーの掛け声でホッパーが銃を取りに走る。
思い切り踏み抜いた一歩目で跳ねた血がサングラスを汚した。
暗い闇の中、黒の銃を捜す。大体の場所は解るが、容易とは言い難い。
ホッパーは帽子とサングラスを投げ捨て、外聞もなく銃を捜した。
向こうで、肉のへしゃげる異音がする。
見付からない。グズグズしている時間もない。
踏み付けた肉の感触から、そこに原形をを留めない死体があることが解った。
手があったであろう場所を弄る。
その手にはしっかりと銃が握られていた。
弾が入ってあることを確認して、ホッパーが戻る。
だが、すでにリッパーは言葉なく痙攣し、山崎に片手で吊るされていた。
リッパーの右腕が、有り得ない方向に曲がっているのが解る。
吐いた血の量が内臓のダメージを物語っていた。
「おっと、お帰りなさいってところかァ?
ほれ、撃って来いよ…… まず相棒が死んじまうがなァ!」
言って、山崎はリッパーから奪ったのだろう、
血の付いたサバイバルナイフを舐め、リッパーの陰から顔を出して挑発した。
瞬間、引き金が引かれる。
歪んだ笑みを浮かべていた山崎の顔が止まった。
殴られたように首が弾ける。
頬には赤い熱線が走っていた。
仰け反った首が、今はリッパーの背後にある。
次の弾は撃てない。外したことを悔いた。いやそれ以上に、反応が獣じみている。
だが、そんな慰めは何の意味も成さない。
そこは、野生の弱肉強食だけが道徳の空間。
人間の法や、尊厳は存在しない。
投げつけられたナイフがホッパーの右足に刺さっていた。
悲鳴を上げる間もなく、また何かに弾かれて銃が消えた。
そちらに気をやると、もう目の前に居た山崎に
激痛の走る足を踏み砕かれ、足が曲がった。
「ぁああああ……!」
放り捨てるようにリッパーの身体を浴びせられ、その重さと、足の痛みに表情が歪む。
そして、喘ぎながらもどこか冷静な部分で、殺されるとハッキリ解った。
追撃に来ない時間はいたぶっているに過ぎない。
だが、なぜか失禁するように震える山崎からは、それとは何か違った、
開きたがる蛇口を別の手で無理に制している、矛盾した苦しみを感じた。
顔を覆う、ポケットから出された左の手と、その眼光だけが、
別の生き物のように鈍い光を放っていた。
「はぁ…… はぁ…… はぁああ…… ぁあああぁぁああ! 殺してぇぇぇ!!」
我慢し切れずに絞り出された甲高い奇声が、痛みすら忘れる寒さをホッパーに与えた。
ガタガタと震えているのを自覚する。だが止まらない。
ビリー・カーンと初めて会った時の記憶が鮮明に甦っていた。
「ヒーヒヒヒ! ヒャーッハッハハハハッッ!!
だがぁ! 運が良かったなぁ、ヒヒヒ! テメェは殺さねェよ……!
そん代わりだぁ! この俺の顔を、よォく覚えておけ!」
顔を覆った左手を、右手で押さえ込んでポケットに戻し、
山崎はその醜く歪んだ顔をホッパーに近づけた。
「どうだァ! 覚えたかァ? 俺の名を言ってみろ! エェ!」
「や、山崎…… 竜二……」
「そうだァ…… 上出来じゃねェか…… ヒヒヒ……
帰ってボスに伝えるんだな…… 山崎竜二が秘伝書を欲しがってるとなァ……!
ヒャーッハッハッハハハハハッッ!!」
笑いながら数歩歩き、息をついて平静を取り戻した後、
眩しそうに外の光を浴びて去って行く山崎をホッパーは震えながら見ていた。
呆然。まだ歯がガチガチと鳴っている。
リッパーの身体を寝かせ、無理にナイフを引き抜く痛みでなんとか正気を保った。
リッパーの体格を背負うのは今の足では地獄の苦しみだ。
地に足を突くという何のことはない行為で神経を抉り取られる。
それでも、ホッパーはリッパーを背負い、止めてある車まで、這うように走った。
ギース・ハワードに、山崎竜二の存在を報せなくてはならない。
この街にはすでに、狂ったネズミが棲みついている。
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