ギースタワー――
何度来てもこの場所には妖気めいた物を感じると、テリー・ボガードは思った。
だが、かつてのそれは、ギース・ハワード本人が放っていた物なのだろうか。
あるいは、すでにこのタワーに棲み付いていた、あの秘伝書が発していた、
恨みの声なのかも知れない。
ならば今は、誰が、何が呪詛を放っている……
肌寒いが確かな日差しを感じる昼、
ヘリを降りテリー達がその場所へ近づくと、それが解っていたように、
見慣れたバンダナの男が入り口に寄り掛かって立っていた。
「よォ」
男が気さくに声をかける。
無視して段差を上がるテリーの前を赤い棍が塞いだ。
テリーは諦めたように笑って、男の顔を見上げた。
「そろそろてめぇの面も見飽きたな、ビリー」
「そいつは奇遇だな、実は俺もだ」
「なら、終わりにするか?」
二人の眼に気が入る。いつ始まってもおかしくない緊張感が張り詰めた。
「ちょおっっっと待ったぁ――っ!!」
そこに空気を読まない大声が飛び込んだ。
二人はそちらへ目を向けるが、すでに声の主の姿はない。
マントに包まれた黒いシルエットの男は信じ難い跳躍力で空を取っていた。
そして二人の間に颯爽と降り立つと、砂煙と共にマントを投げ捨てた。
下段から飛び込んで来た、ジョー・東である。
「おいおいテリー、独り占めはねぇんじゃねぇか?」
「ジョー……」
身体はビリーの正面を向いたまま、視線だけよこしてジョーが口を開いた。
「ギースを譲るたぁ確かに言ったがよ、他の奴はその限りじゃあねぇぜ」
そして顔も向き直り、正面からビリー・カーンを見据える。
ジョーの眼にもすでに気が入っていた。
張り詰めた空気は何も変わらない。
アンディと舞も階段を駆け上がり、テリーの横に並んだ。
ジョーを見る。ビリー・カーンは恐ろしい相手だ。
それはテリーもアンディもその身で理解している。
この場にジョー一人を置いて行くのは抵抗があった。
「ジョー、大丈夫か?」
「くだらねぇ心配してんじゃねぇよ。
ギースの野郎をぶっ倒すんだろ? さっさと行きな!」
その言葉に、テリーが頷く。
ジョーに心配がいらないことも、またその身で知っている。
テリーはビリーを睨みつけたままその脇を抜けた。
「頼んだぞ、ジョー!」
アンディもまたジョーに声をかけ、ビリーの脇を駆け抜けた。
その後ろを舞も走る。
「無茶するんじゃないわよ! ジョー!」
駆け抜けて行くテリー達を、ビリー・カーンはやや俯き、
不敵な笑みを浮かべたまま視界には入れなかった。
「随分、簡単に通しちまうもんだな。4対1よりは良いって計算か?
ま、俺様一人で充分だがな」
ジョーの組んだ拳からポキポキと硬い骨の擦れる音が鳴った。
「ヘッヘッヘッ…… 美しい友情に感動したのさ。きっと盛大な葬式を上げてくれるぜ。
安心して死にな、ムエタイチャンプさんよ!」
「へっ! てめぇはもっと心配した方が良いぜ。てめぇの将来をな!」
座して待つ。
あの時と同じ場所で、同じ肉体、同じ魂を持った狼が、再び出会う。
その波動を、軽く羽織っただけのくすんだ白がピリピリと感じていた。
立てられた幟には、高らかに“天下無敵”の日本の文字と、
“覇我亜怒”という、己の名が刻まれている。
石の床に水が流れ、鳥居や門松が彩るギースタワーの屋上の一部は、
ギースが作った贅沢な空中庭園だった。
睨み付ける阿修羅像が、闘いが近いことを告げている。
「フン、来たか……」
「ギィィスゥ!」
狼の声を背に受けて、ギース・ハワードがゆっくりと立ち上がる。
炎を模った大地に重厚に刻まれた両の足は、しっかりと、
この男が存在していることを示していた。
テリー・ボガードから受けた屈辱の証、胸に刻まれた拳大の裂け傷を誇示するように、
ギースが道着の上をはだいて捨てる。
そこにあったのは胸の傷だけでない、数え切れぬ無数の傷が鮮やかに映える、
ギース・ハワードの完全な肉体だった。
現実を忘れて、息を飲む。
ギースは口の端の吊り上げて笑った。
「フッフッ…… なんて顔をしている。私は不死身だ」
「ギース、貴様ぁ!」
「本当に生きてるたぁ恐れ入ったね。
今は不良退治が趣味らしいが、生き返って世直しでも始めたのかい?」
拳を握り、今にも飛び掛からんとするアンディを制してテリーが言った。
「サウスタウンヒーローとやらが偶像だけの無能だったようなのでな。
私が尻拭いというわけだ」
返された言葉にテリーの眼も険しくなる。
「抱薪救火という言葉を知っているか? テリー・ボガード。
この街はギース・ハワードの名がなくては成り立たんのだよ!」
「ギースゥ!」
「待ってくれ、兄さん!」
今度はアンディがテリーを止めた。ギースに背を向け、強く、強く兄の肩を掴む。
「僕にやらせてくれ、兄さん」
「アンディ……」
その眼は、突き刺さるほど真剣で、しかし、掴まれた肩から感じる振動は、
武者震いなのか、あるいは恐怖なのか、テリーにすら推し測れなかった。
ただ、その生涯の頼みを突き付ける全力の瞳が、テリーの握られた拳を緩ませる。
「アンディ!」
舞が心配の声を出した。
アンディはテリーの肩越しに、微笑を浮かべてそれに応えた。
やれるという自信はある。
だがそれ以上に、やらなければならないという想いがあった。
ギース・ハワードという名には、怒りと恐怖がある。
その名を聞けば、嫌でもあの、父、ジェフ・ボガードの最期を思い出してしまう。
直接ギースと向き合っていないアンディには、実際にその顔を間近で見た時、
正気でいられるかは自信がなかった。
事実、今、自分が冷静なのかは、自分自身ですら解らない。
冷静なようでいて、その冷静な自分ですら狂っているかも知れないという疑念が浮かぶ。
あの時、パオパオカフェでギース・ハワードの名を言えなかった自分。
兄が傷つくのではない。ただ、自分の恐れが言葉を止めていた。
死んだと思っていた存在。もうその瞬間を考える必要はなかった。
失った逃げ場への決着は、自らの手で。
自分との決着の相手が、父、ジェフ・ボガードの仇ならば、
もう、その闘志を誰にも止めることは出来なかった。
「アンディ、勝てよ」
テリーと、言葉もなくただ無事を祈る舞に強く頷き、アンディがギースの眼を見据えた。
「随分と優しくなったものだな、テリー・ボガード。私は二人掛かりでも構わんのだがね」
「ギース…… 父さんの無念は、俺の拳で晴らさせて貰う!」
テリーへと向けられる視線を奪うように、アンディが地を震わせて構える。
「フンッ、貴様の拳か。不知火半蔵の忍術だそうだな。
前に一度見せて貰ったが、さすがに聞くより面白い。是非もっと拝見させて頂きたいものだ」
「言われずとも見せてやる! 不知火流の真髄をな!」
アンディが駆けた。
赤く編み込まれた忍足袋が大地を貫き、後ろで結ばれた髪が跳ねる。
ギースがそれを認識したのも一瞬、アンディの身体は分身したように残像と消えた。
現れたのは背後。ギースは瞬時に裏拳を繰り出すが、それは頭の上を通過した。
即座に、的確に顎を狙ったアンディの掌が飛ぶ。
仰け反って躱しながら下段を蹴るが威力は乗らなかった。
一瞬の攻防。だがアンディは止まらなかった。
いや、息を置いたギースとは違い、
アンディは最初に踏み込んだ瞬間からまるで静止していない。
呼吸の間に姿を失った目標の身体はすでに宙にあった。
完全に取られたタイミング。だがギースは反応した。
鉄球を掴むような握力を込められた掌を振り翳す。
インパクトの瞬間、再びギースの目に蒼い残像が映った。
掌が空を切る。次に視認した場所は側面。
すでに打ち込まれていた浴びせ蹴りがギースの腕を強烈に打った。
「ッ!」
思わずバランスの崩れたギースにアンディの蹴りが飛ぶ。
これも決まった瞬間、ペースは完全にアンディだった。
幻影 不知火。不知火流でそう呼ばれる神速の幻覚術。
不知火流には主に二つの系統があり、一つは超接近戦用の骨法とも言える、体術。
そしてもう一つが、焔を奥義とした、奇襲的な動作を多く持つ忍術である。
かつての不知火流の忍は、あらゆる障害物を利用した変幻自在の奇襲技により、
何人にも捉えられずに全ての仕事をこなした。
だが、一度奇襲の出来ぬ尺地へと追い詰められれば、
そこでもまた、変則ながら俊敏かつ鋭敏な体術により、敵を寄せ付けない。
故に、穴なく、隙なく、無敵の流派として戦国の裏舞台を鮮明に駆けたのである。
五大老から奥義書を授かったアンディは、すでに身に付けている体術系と、
そこに記された新たな忍術系を融合させることにより、
より戦国に近い、自らの型を生み出そうとした。
その到達点が不知火 蜘蛛絡み、幻影 不知火に代表される奇襲技であり、
完全なる融合を果たした先にこそ、不知火半蔵亡き後、
再び不知火流復活の時と考えていた。
それ故、二人で不知火を継ぐという舞の想いを、正面から受け入れることが出来ない。
それはアンディにとっても苦しみだった。
だが、ただ一つ、アンディが求めた先にあった物は、
ギース・ハワードをも圧倒する、不知火流の、確実な、強さ――
止まない、連撃。
あらゆる角度から降り注がれる打拳がギースの肉体を刻んだ。
例え受けられても、すでに次の一撃を打ち込んでいる。
左右の掌打が絶え間なく打ち出され、そこに隙が生まれれば変則の脚打がある。
止まらない動きの影には一日とて欠かさず山道を走りこんだ、修行の成果があった。
スタミナならば誰にも負けない。小柄と侮れば死ぬことになる。
だが、トドメの斬影拳を打ち込んだ瞬間――時間が、止まった。
初めてアンディが止まる。
神速の肘が、ギースの左腕に絡め取られた。
確かに動いているはずの時間が、その瞬間には静止して感じた。
すでに、衝撃。
額から降り注ぐ鮮血を認識しても、
地に投げ付けられたのだという事実を理解するには時間が掛かった。
そして、動けない。はっきりとした意識の中で身体だけが機能を失っていた。
「アンディ!」
走り寄ろうとする舞をテリーが止める。
抗議を行おうとした舞も、テリーの眼光と、
食い破られた口内から滴る血で金縛りにあった。
テリー・ボガードが震えているのを、不知火舞は感じてしまった。
――当て身投げ……!
思い出す、あの痛み。
全ての力を息吹に脳天を串刺しにされる衝撃は恐怖と共に焼き付いている。
血の池に漂う感触。
遠くにあったはずなのに、それは未だ生々しく記憶の中に棲んでいた。
「アンディ・ボガード、貴様の真髄とやらはもう終わりかね?
私としてはもう少し見せて貰いたいのだがな」
アンディが膝に手を突き起き上がろうとする。
眼は死んではいない。その様子にギースは笑みを深めた。
「惜しいな…… 日本刀が如き技のキレ、身を斬られても尚、牙を剥く精神力、
揃って超一流だ。だが悲しいかな、貴様は天に愛されなかったな。
その脆弱な気が、お前をそこで終わらせる。私のステージには遠いよ」
ギースは腕を組み、立ち上がろうとしては崩れ落ちるアンディを見下ろした後、
確認を取るようにテリーに向かって口の端を吊り上げた。
「なぁ、テリー?」
テリーは歯を食い縛り、否定も肯定もしない。
ただ踏み出したい足を必死に止める。それ故の、震え。
それを理解した舞に助けに入るという選択は与えられなかった。
ただ、声を振り絞る。
「アンディィ――っ!!」
身体が、跳ねた。
アンディの踏み込んだ右足が石に穴を穿つ。
極限状態で突き出したのは己が信ずる斬影の肘打だった。
もはや見切りを得ているギースの左腕が死を伴って動く。
だが、肘は腕に届くまでもなく、その姿を消した。
ギースの意識がずれる。そのまま振り抜かれた裏拳がまともにギースの腹を打った。
下がった顎へアンディが掌を打ち込む。
だがすでにギースの顔はなかった。逆に腹に、重い衝撃を受ける。
続いて腿を蹴られると一気に体勢が崩れた。一撃一撃に信じ難い重みがある。
ついに頭部への蹴りを貰うと、ガードしたまま足が縺れて膝が落ちた。
そこへ首を掴まれ、投げ捨てられる。
そのままギースの腕が首へめり込み、呼吸を殺しにかかって来た。
「っかはぁ!」
「もし神がいるならば、貴様に才能を与えなかったその男を恨むことだ……!」
さらに腕が食い込み、アンディの抵抗も弱くなっていく。
青白く変色する顔色が命の危険を報せていた。
「さぁどうした、テリー! このままでは貴様の弟が死ぬぞ?」
「アンディ!」
舞の足が地を蹴った。
何も考えずに全体重を肘に乗せた体当たりだった。
だが、アンディから離れたギースはそれを躱し、すれ違った背に蹴りを打ち込む。
転がった舞の身体が擬似的な池の上で跳ねた。
水滴が頬に触れる。
アンディの消えかけた意識の中で、その冷たさと、
兄から掛けられる激励の叫びが、血を失いかけた肉体に再び熱を与えた。
「負けんじゃねぇ、アンディ!!」
まだ、闘わせてくれる。
アンディにとってそれは、悦びだった。
悦びのままに地を跳ね、浮かび上がった肉体は両足を刃とした矢となり、
ギースの心臓へと撃ち出された。
やがて足の先から光が生まれる。
いや、光ではない。熱を帯びた、紅の蒸気。
足から腰、そして腕、全身へ、アンディの身体を炎が包む。
炎の矢となったアンディ・ボガードは、仇敵の命を絶つべく、深く、深くその身を打ち込んだ。
両腕の壁がある。見開いた眼の先には余裕の消えたギースの顔があった。
だが、それを認識する余裕もまた、アンディにはない。
チリチリとその腕を確実に焼き焦がしながら、矢は抉り進む。
弾ける火の粉が旗に燃え移り、植物も炎を巻き上げた。
だが、そこまでだった。
ギースの咆哮と共に弾き飛ばされたアンディの身体には、もはや力は通っていない。
起き上がった舞が、テリーが腕を伸ばし、そこへ走り寄った。間に合わない。
「――邪影拳!」
その言葉が耳に届いた時にはもう、内腑の映像を見せられるように、
アンディは破裂した内臓を感じていた。
腹の前で唸りを上げるギースの熱光を持った両手に夥しい吐血が撒き散らされた。
前に、揺れる。再び流れて来た額の血のせいなのか、ゆっくりと視界が奪われて行った。
「ギィィィスゥ!!」
バーンナックルがギースの頬を掠めた。
だが、絡め取られる。
後方に投げ付けられたテリーは転がるように受け身を取り、息を飲んだ。
以前より確実に、ギースの動きが鋭くなっている。
「さらに速くなったな、テリー」
そう言って口の端を吊り上げるギースの背後へ、ヘリの羽音が接近した。
それは空中で静止し、ギースの背を見守る。
「――見つけたか、ドブネズミめ……」
ギースはテリーを鋭い眼で一瞥した後、背を向ける。
足はゆっくりとヘリへ向かっていた。
「逃げるのか、ギース!」
「安心しろ、テリー。貴様との決着はいずれつけてやる。
それに相応しい、最高の舞台でな。
今の私は世直しの方が趣味なのだよ、ハッハッハッ!」
「ギィィスゥ!!」
「テリー!」
背に踏み込もうとしたテリーを、舞の泣き叫ぶ声が止めた。
「アンディが…… アンディが……」
死人のように、蒼白の顔。舞も、そしてアンディも。
ヘリの音が遠くなって行く。
テリーは帽子の鍔で表情を見せずに、アンディを背負って燃え盛る庭園を駆け下りた。
――チクショウ! ……チクショウ!!
ジョーのハイキックがビリーの棍を打った。
その衝撃でビリーが揺らぐ。
続けて逆の足で打ったローキックは完璧に決まり、ビリーの体勢を崩した。
「貰ったぁ! スラッシュキック!」
ジョーの気を纏った直進跳び蹴りが再びビリーの棍を打つ。
だがビリーの、棍を縦に突き出すような受けは次の打撃の伏線だった。
受けた瞬間に、棍が三つに割れる。
「ドラゴン、バスター!」
三節棍となったそれは龍のようにうねりながらジョーの首筋を打った。
「しゃらくせぇぇ!!」
だが、空中でそれを受けてもジョーはその衝撃を喰らい流すように、
そのまま回転して回し蹴りを打ち込む。
空中での、二段蹴り。
「ぐぅおわ!」
棍を崩したビリーにそれは直撃で炸裂した。
しかしジョーにもダメージがある。ビリーを倒せるだけの威力は乗せられなかった。
そればかりか、今、倒れなかったビリーの再び一本の硬い棒となった棍に打たれ、
間合いを取られてしまっている。
この階段で上方を奪われてしまうと、棍の差し込みから逃れ、
間合いを詰めるのは困難だった。ビリーは自分からは攻め込もうとはしない。
ジョーの剥き出しの腹には無数の赤い染みが出来ていた。戦況は不利。
「ヘイヘイヘイ!」
「やぁろう…… 話以上に強ぇじゃねぇか、燃えて来たぜ!」
防御を考えずに階段を駆け上がる。
そしてビリーが棍を打ち出した瞬間に、神経の反応のままに飛び上がった。
だが、すぐに棍が上方へ放たれる。
しかもそれは途中で割れて三節棍となり、繋がれた鎖分のリーチを増していた。
空中で軌道を変えることは出来ない。
精一杯の抵抗は、身を捩ることだ。
背を向けて棍の直撃は躱したジョーだったが、掠った背には痛々しい線が走った。
だが、止まらない。
そのまま体重をかけたジョーの踵が、光輝いてビリーへと打ち落とされた。
「黄金のカカトぉ!」
「チィ!」
狙った頭は外したが、肩口に突き刺さった。
きっかけさえ掴めば、それで充分だ。
「オッシャー!」
ジョーが続けてラッシュの体勢に入った。
そこに再び棍が三節棍となって伸びる。
予測済み。ジョーはそれを走りながら躱した。
――行ける……!
「ファイヤー!!」
だが、ビリーの掛け声と同時に棍に炎が走った。
それがボゥ!と音を上げて、ジョーのトランクスに引火しそうになる。
「ぅお!」
気勢を削がれたジョーはまたも棍に押し出され、ビリーの間合いに戻されてしまった。
呼吸を、整える。打開策などは考えていない。
ジョーは次に打ち込むチャンスをじっと狙って構え直した。
「どうしたぁ? 火ィ見てビビッちまったかぁ?」
「ああ、ホントに燃やされちゃあたまんねぇからな。
顔に火傷でも出来ちまったらリリィちゃんも悲しむってもんだ」
「ああ? 何でテメェが火傷したらリリィが悲しむんだ、コラ」
「あれ、お前リリィちゃん知ってんの?
でもダメだぜ。リリィちゃんは俺様にホの字なんだからよ!」
「――ッ!」
ビリーの動きが強張って止まった。
「おっ?」
千載一遇のチャンスを得たジョーが一気に踏み込んだ。
「終わりだぁ! スクリューアッ――」
その時、信じ難い速度で回転した棍が炎の渦を巻き、
竜巻が生まれるより速く、ジョーの身体を焼き包んだ。
本能は、危険に反応する。
技を中断し、咄嗟に飛び退いたジョーだったが、尻餅を突いた場所を棍がさらに打つ。
破片となったコンクリートがジョーの身体を打ち、
それを避けようとして階段から転がり落ちた。
「わっ! あっ! だっ! いってぇー!!」
だがその場所で見上げた空にはすでに人のシルエットがあり、
それは大声で喚きながら一直線に攻め込む、ビリー・カーンの鬼のような姿だった。
「リリィは、俺の妹だコラァー!」
「な、なんだってぇー!?」
叫びながら転がって躱した先に、またコンクリートの破片が飛び散る。
「テメェ! 妹に何かしやがったらぁ! グチャグチャにブッ殺すぞォ!」
仰天するジョーはまだ焼け付いている火の粉を振り払いながら、
必死の説得を試みた。すでに両手は“パー”である。
「ちょ、ちょっと待って! 冷静に話し合いましょう、お兄さん!」
「誰がお兄さんだ、パンツ野郎がァ!!」
主の城の玄関を叩き壊してビリーの棍が荒れ狂う。
必死で逃げ回るジョーの前をタワーから出て来たテリーが横切った。
互いがそれに気付くと、瞬時に声が掛かる。
「ジョー! 引き上げだ!」
「お、おう!」
「待ちァがれ、コラァ! ブッ殺す!!」
景色が音速で走り抜けて行く。
幸い、ヘリが上空に飛び去った辺りから、追い掛けるビリー・カーンの気配はなくなった。
ジョーが安心して横に目を移すと、いつになく強張った顔のテリーと、
その背でピクリとも動かないアンディの身体があった。
瞬間、心臓を握り締められたように、足が伸びて、感覚を失った。
フラフラのまま同じ速度で走ると吐き気がして来る。
勢いを失い、横に映った舞の表情は、とても見ていられるものではなかった。
「おい……!」
「近くの病院へ行く」
それ以上は何も言わず、三人は走った。
意識が沖縄に居る。
こういうことがある度に、ドス黒く暖かい感傷が流れ出て来る。
海の音は、燻ったようにチリチリと、あの人の死を運ぶ。
山崎竜二に家族はいなかった。
物心ついた頃に居た場所は施設。
狭い施設だが、収容される子供の数は多く、世話をする大人は少なかった。
自然、目の届かない場所を補う為に、規則は厳しくなる。
息苦しい。このまま檻に入れられたまま死んでいくのかと考えると怖くなった。
13才のある日、すでに大人と正面から渡り合える体格に育っていた山崎は
世話の大人を殴り倒し、堂々と脱走した。
番犬を倒し、地獄から脱出した。山崎はそう思い、興奮した。
番犬なら、他の子供も逃げられるよう、
もっと痛めつけてやれば良かったと走りながら思った。
米軍キャンプの側の歓楽街が新たな城。
自分なりの生きる術は、米軍キャンプに忍び込み、食糧を盗み出すことだった。
そこに蓄えてあった食糧が口に合った。
それだけの理由で、山崎は同じ場所に何度も忍び込んだ。
当然、見つかる日が来る。
ガムをクチャクチャと噛みながら下卑た笑みで銃を突き付けて来た白いアメリカ人は、
向こうにいる黒人兵士を倒せたら見逃してやると英語で言った。
雰囲気で理解した山崎は、黒人兵士の背後から頭突きで後頭部を割り、
持っていた工具を耳に突き刺した。暗い倉庫に悲鳴が上がった。
だが、取り乱した叫びはすぐに銃声に掻き消された。
黒人兵士はもう動かない。山崎は白人兵士と二人でその死体を捨てた。
「気に入らねぇ野郎だったんだよ、スッとしたぜ。お前、名前は?」
山崎は答えない。ただ、先程、鼓膜を突き破った工具を目を見開いて見ていた。
海の匂いと血の臭いが混ざり、やがて血の臭いしかしなくなる。
「このガキ、全然英語解んねぇのか。――オマエ、ナマエ?」
「――山崎竜二」
山崎の口元は、微かに笑っていた。
この男との武器の横流しが山崎の仕事となった。
男はヤバくなった際のスケープゴートとして山崎を利用しようとしている。
それはほどなくして理解したが、入って来る金は美味しかった。
何年かの月日が流れた。
夜の酒場。山崎は我が物顔で米兵達と酒を飲んでいた。
大きな態度を、誰も咎める者はいない。そこは不良軍人の溜まり場だった。
大事な大事なスケープゴート様。それ故の扱いの良さを、山崎も利用している。
身長は190cmを越え、アメリカ軍人達の中に入っても彼はまるで見劣りしなかった。
何も悪びれず、武器受け渡しの話をする。
いつも一番危険な場所には山崎の姿があった。
それは押し付けられた役目であり、どこかで彼が望んだ、スリルでもあった。
その脇で、派手なケンカが始まった。
良くあることだが、山崎はその雰囲気が嫌いではなかった。
今回はマイクが主演らしい。キャンプ内のボクシングでは無敵を誇っている。
相手はサングラスをした小柄な日本人だった。
暴力の予感に山崎の血が踊る。
「オイ、ボウズ! アノフタリ、ドチラガカツカ カケナイカ?」
今回のパートナーである、日本語の上手い男が話し掛けて来た。
馴れ馴れしく肩を抱いて来たのは不快だったが、一瞥だけくれてやる。
日本人は空手の構えを取っているが、いかんせん体格が違い過ぎる。
先にマイクに賭ければ勝ちだ。山崎は上機嫌だった。
「あの男は空手を使うようだが、マイクには勝てっこないぜ」
「ジャア オレハ アノニホンジンニ カケルトシヨウ」
ますます上機嫌になる。
何を考えているのかは知らないが、この男は自らカモになりに来た。
男が言う金額に山崎は笑って頷いた。笑いが止まらない。
だが、勝負は一瞬だった。
マイクのこめかみに正拳突きが刺さった。
頭部が変形し、巨体は糸が切れたように倒れた。
前のめりに、砂煙が起こる。
それを呆然と、山崎は見ていた。
「アイカワラズ タイシタウデダ。アイタカッタゼ、ミスターソリマチ」
「このデクは目が喋りすぎる。肩慣らしにもならねぇ」
近付いて来た男は、やはりマイクは当然、自分よりも遥かに小さい。
だがその男の拳一発で、マイクは倒れた。
介抱されているマイクだがまだ意識が戻っていないようだ。八百長でもない。
この日本人が、とんでもなく強いのだ。
「汚ぇぞ! 知り合いだったのか!?」
「ハッハッ スマネエ ボウズ! コンドノ トリヒキアイテノ ミスターソリマチダ。
カレハ ホンドデ アルソシキノ カンブヲシテイル」
――反町……
「何だ、この小僧は?」
サングラスを外して露わになった反町の顔は、太い眉の間、
しわの寄った眉間の下の二つの眼から、重い迫力が放たれていた。
下から見上げる視線がこれほど重いとは、今までの山崎にはない体験だった。
賭けた金を要求して来た男の手を、握り潰して膝を打ち込む。
英語で悶絶する男に先の一撃を真似た正拳突きを叩き付け、
山崎は反町を見てニヤリと笑った。
襟首を掴まれる。
「俺達はたった今から家族だ。下らねぇ兄弟喧嘩はやめな」
その眼に、気圧された。これも初めての経験だった。
反町はすでに手を離し、蹲って悶える男に声を掛けている。
初めて父親に叱られた子供。
無条件で相手の正しさを受け入れ、反抗の意思は生まれない。
ただ、圧倒的な武力で作られた恐怖と、淡い憧れだけが生まれる。
そこで建てられた絶対的な壁は二人を遠ざけ、それ故に、慕う。
反町と共に本土へ渡った山崎は、もう沖縄に帰ることはなかった。
「竜二よ、本来、俺達は素手で喧嘩をしちゃいけねぇ。
しかしその場に出くわしたときには、相手を殺すつもりでやるんだな」
山崎は反町の部下としてヤクザ組織に加わり、
今までの山崎を知っている人間なら誰もが驚くほど、従順に彼から空手を学んだ。
それは、空手と呼ぶには少々荒すぎるただの喧嘩術だったが、
山崎にはその方が性に合っていた。
組織間で抗争が生まれると、そこには必ず反町と山崎の姿があった。
二人は飛び抜けて強く、そしてその分だけ暴力に依存していた。
武闘派の荒くれ達はこぞって反町の下に集まり、
反町も彼らつまはじき者を家族として迎えた。
山崎は空手だけでなく、生き方も反町から学んでいた。
それは組織という、限定された世界での生き方だったが、
山崎にはその信念にまた憧れた。
実際、それが正しいかどうかなど彼には関係がなかった。
ただ、反町という男の全てに、山崎は憧れていた。
麻薬売買は行わない。カタギには手を出さない。
金で醜く太った男に屈辱を浴びせられても、反町は信念を曲げなかった。
仲間は家族。
部下の失態は全て己の責として、反町はボスに詫びを入れる。
抗争で仲間が死ぬと反町は静かに涙した。
反町は損をしている。馬鹿な男なのだろう。
だが、自分が死んだ時にきっと泣いてくれるこの人が、山崎は好きだった。
山崎はいつしか反町を兄貴と呼び、彼に最も近い部下となっていた。
山崎はやっと見つけた居場所に安らぎを感じていた。
血生臭い世界だが、敬愛する兄貴が、仲間が、家族が居る。
あの日、自分はこの場所を探して施設を脱走したのだと、山崎は今更にして思った。
だが、穏健派の多いこの組織では、そんな反町一派は快く思われていない。
成人する少し前、山崎は初めてケンカで反町に勝った。
素手というだけがルールの、本気のケンカ。
咄嗟に放った無心の左が反町を殴り倒していた。
反町はゆっくりと起き上がり、滅多に見せない笑顔を見せた。
「竜二、お前良い左持ってんな」
褒められたことは、あまりない。
いや、記憶を辿っても反町にハッキリと褒められた記憶はまるでなかった。
それはつまり、初めて人に褒められたということだ。
山崎は、反町の言ったたったそれだけの一言に呆然とした。
今までは利き腕の右に頼っていた。
その場その場で最大限の力の引き出せる武器を使う。
反町の教えは自然、山崎に右の拳を使わせた。
そして、どんなケンカでも右だけで充分だった。
それで勝てないのは反町だけだったからだ。
山崎は、無表情に左の拳を見る。
反町の折れた歯が刺さり、赤い血がどくどくと流れていた。
それが、暖かい。
山崎は意味もなく左手を握ったり開いたりし、やがてそれが癖になった。
そして、山崎は20才を迎える。
組織は戦争状態に入っていた。かねてから縄張り争いで反目し合っていた組織。
きっかけは本当に些細な、互いに言い掛かりのようなものだった。
だが、抗争は激化する。
毎日のように銃声がし、血が流れ、人が死んだ。
元からそういう世界とはいえ、今度のそれは過去に例がないほどに規模が大きく、
それはまさに、戦争と呼ぶに相応しい日常だった。
その場所が、心地良い。
反町を支持する荒くれ達にはその場所しか生きる道がなく、
そして反町や山崎にも、それは同じだった。
相手も同じだろう。敵味方とはいえ、家の為に殺し合う。
忠義もあるだろう、だが、所詮彼らもまた、暴力に依存しなければ生きられないのだ。
そう思えばこそ、そこは心地良い世界だった。
どちらかが滅びた時が、安息となる。それは人間社会から炙れた獣達の儀式。
家族の為に――
反町はそう言って戦意を鼓舞した。
それが100%本心とは山崎は思わない。この人も獣だ。
だが、自分がこの人の為に戦っているとしたら、それもまた家族の為なのだろう。
誰かが死ぬ度に、反町は泣く。
山崎に涙は出ないが、反町が死ねば、自分も泣くだろう。
戦争が理解を生み、また山崎と反町の距離を縮めた。
同じ眼で、同じ物を見ている。
山崎は左手を見ながら何度もそれを握り、子供のように笑った。
日に日に抗争は激しさを増し、長期化へと向かっていた。
上層部に穏健派の多い山崎の組織の疲弊は激しく、
もはや士気を保っているのは反町一派だけだった。
今日も組織を守る為、戦場に赴く。
戦えない穏健派を罵りながらも、戦える山崎達は英雄気分だった。
皮の破れた拳の赤みをシャワーで洗い流す。
擦り傷に湯が染みたが、それが逆に心地良い。
シャワールームを出ると、反町が豪華な肉をテーブルに、あぐらをかいて座っていた。
「先に食ってて良かったですよ」
山崎が苦笑すると、反町も悪態をついた。彼流の照れ隠し。
視察に出た反町と山崎は、高級なホテルで休んでいた。
結果は外れで、そこに敵対組織が絡んだ形跡はなかった。
「上の情報も役に立ちませんね。奴等、口しか出せねぇ連中のクセして」
「そう言うなや、俺達が喧嘩し易いようにしてくれてるんだ」
言いながら、反町がステーキを口に運んだ。
それを見て山崎もフォークに手を伸ばす。
「馳走になります、兄貴」
「ああ、俺の奢りだ、好きなだけ食え――
と言いてぇところだが、こいつは親父の奢りだ」
山崎が齧り付こうとしてフォークを止めた。
「竜二、喧嘩だけじゃ今の世の中、生きちゃあ行けねぇよ。
俺達みてぇなのがこうして上物の肉を食えるのも親父達のビジネスのお陰だ。
悪く言うもんじゃねぇ」
その言葉を山崎は少し残念に思いながらも、頷いて肉を口に運んだ。
肉汁が口の中で跳ね、旨みが広がる。
この人が家族と思っているのは何も自分達だけではない。
組織全体がこの人の家族なのだと、山崎は失言を悔いた。
「まぁ今回のはカタギさんで言うところの有給休暇のようなもんだ。
良いホテルじゃねぇか。ゆっくり骨休みさせて貰おうや」
酒を飲み干すと酔いがまわって来た。
反町はあまり飲む方ではないが、山崎は飲む。
反町に軽く注意はされていたが、山崎は金使いも荒い。
金が入ると何百万もする毛皮のコートを平気で買って来る男だった。
己の欲に忠実なのだろう。だからこそ強い。
その強さはすでに反町以上で、格闘技のチャンプ並だと組織では畏怖されていた。
「竜二…… 少し飲みすぎじゃねぇか?」
「そんなことありやせんよ、まだまだイケますぜ。さぁ兄貴も遠慮しねぇで」
そう言う山崎の顔はすでに赤く、立てば足取りも不確かだろう。
反町はそんな山崎を微笑ましく、悪態をついて笑った。
その時、足音がした。
それも数が多い。早足だ。ただならない雰囲気を伴って駆けて来る。
刺客が来た。反町はすぐに、山崎も一瞬置いて理解した。
反町が銃を構えてドアの脇に立った。
絨毯に唾を吐いた後、山崎も逆側の脇に立つ。
「竜二、おめぇハジキは?」
「必要ないですよ」
「馬鹿野郎! おめぇは酔ってる!」
「酔ってないですって」
山崎は陶酔するように左の拳を撫でた。
実際、山崎は戦場でもあまり銃は使わない。
山崎の並外れて柔らかい関節から繰り出されるジャブは尋常でない伸びを見せ、
相手に腕が伸びたとすら錯覚させる。それで、一瞬にして相手の銃を弾く。
決して過信ではない。
だが、ドアは宣告なしの銃撃によって一瞬で蜂の巣になった。
――マシンガン!?
転がるようにソファーに隠れるが、
覗き見たその人数は一般のホテルに忍び込むには尋常な数ではなく、
その重装備は明らかに準備を整えて行われたものだった。
「竜二、そこの窓から逃げろ!」
それを理解したからこそ、反町は山崎に逃げろと言った。
声に反応して無数の銃弾が打ち放たれる。
「冗談じゃねぇ……!」
山崎はそれを見ると敵陣に飛び込んだ。
蛇使い、そう呼ばれる山崎の右は敵の手元で急激な伸びを見せ、顎をかち割った。
その吹き飛んだ身体が入り口へ飛び、ドミノ倒しのように群を崩す。
「兄貴、今だ! 逃げてくれ!」
だが、振り向いた先では反町の影しか映らなかった。
「おおおおおおおおおおお!!」
山崎の視線を横切った反町は倒れた男を押さえ込み、群を一気に押し切って外へ出た。
一瞬だけ振り返ったように見えた反町の顔は、いつか見た、あの笑顔だっただろうか。
呆然とする山崎の意識を起こすように、穴だらけのドアが物凄い音を放って閉まった。
「兄貴ッ!!」
必死でドアを押すが開かない。
外から誰かが押さえている。誰が? 反町が――
それが解っているからこそ、山崎は泣き叫んでドアを押した。
酔いで力が入らない。
いつこうなるかも解らない世界で生きながら、馬鹿のように酒を飲んだ自分を恥じた。
「ぁ兄貴ィィ――ッ!!」
銃声と山崎の叫びが狼の雄叫びのように響き合い、騒乱は終わった。
今は力なく開くドアの向こうは血の跡があるだけで、他に誰の姿もなかった。
左手に水滴が落ちた。
涙に血が混じっていることに気付く。
開いて、そして握っても、もう、何も掴めない。
やがて涙は池となり、海となり、左手一杯をドロドロとした血で染めて、
そこで千切れてしまったかのように、手首から先を消した。
高級ホテル。他に客はいない。
ただ、山崎の狂ったような叫びだけが、冷たい壁に反響していた。
抗争が終わったのはその翌日だった。
あまりにも呆気ない幕切れ。
抗争の原因である反町が相手組織に詫びを入れに行き、命を賭けて終わらせた。
葬儀の場でのボスの説明は、そんな、山崎には腑に落ちないものだった。
抗争の原因は、もう誰も覚えていないような、そんな下らない理由だったはずだ。
だが、それが反町であるなどという事実はどこにもない。
反町は最後まで戦おうとしていた。そして、最後まで戦った。
美談に仕立てるのが情けだとしても、詫びを入れたなど兄貴にとっては屈辱だろう。
それで抗争が終わるわけはない。
自分達以外、誰もいなかったホテル。食事は親父からだと言った。
あまりにも用意周到かつ無駄のなかった敵の動き。
腑に落ちない点を繋げれば、答えは一つしかない。
反町は、抗争終結の為にボスに売られたのだ。
「へっへっ…… 親父っさんよぉ、やってくれたじゃねえか…… ヒィ、ヒッ……」
ボスとしては、反町を失った上に山崎まで失うのは得策ではないと考えたのだろう。
彼は最悪の男をこの世に残してしまった。
いや、生んでしまったと言っても良い。
「竜二よ、これで反町の握っていた権利は全てお前の物だ。しっかりやるんだな」
「なに寝言こいてんだぁ…… あぁ?……」
失ってしまった左手はポケットの中で消える。
それを見たくもないし、見られたくもない。
その言葉にボスは怒鳴り声を上げた。
「何だと、竜二ぃ…… 貴様、誰に向かって口聞いてんだ!!」
こういう場面が過去になかったわけではない。
山崎竜二はこういう男だ。彼が心酔しているのは反町のみで、自分ではない。
こういう場面で必ず山崎を止めていた反町の存在が、今はない。
「よくも兄貴をハメてくれたなぁ…… 覚悟決めてんだろうなぁ、クソ爺がぁ!」
「な、何だと…… う、嬉しくねぇのか、竜二?
お、落ち着け、お、落ち着いて話そう。なっ、りゅ、竜二よ」
恐怖に引きつる。
強欲な男だけに地位を与えればおとなしくなると安易に考えていたのは
ハッキリとした間違いだった。
「うるせぇよ…… もう遅ぇんだよ……
俺は兄貴に教わったんだがよ…… 喧嘩するときは、相手を殺すつもりでやんなってな。
そうすりゃ誰にも負けねぇってよ……」
山崎が恐ろしいのは何も強いからだけではない。
彼がただ強いだけならば格闘技の世界にでもデビューし、
華々しい人生を送ることが出来ただろう。
だが、その場所に立てないほどに彼は狂っているのだ。
彼に殺された人間の死体は反町のそれよりもさらに残酷だった。
常人ではまともに見ることすら出来ない。
それは、ボスも同様だ。
「ちょっ、ちょっと待て……」
「ヒッヒッヒッ…… 兄貴はよぉ、俺の左拳を褒めてくれたんだぜ……
嬉しかったよなぁ…… 心配しなくてもすぐには殺さねぇよ……」
ポケットから左手を引き抜くと、そこには確かに手が存在していて、
しかしそこには、毒が回ったように赤黒い何かが脈打っているように見えた。
それが、弾ける。
「両ふくらはぎを切って、両膝の皿を叩き割って、それから…… ヒィーッ、ヒッヒッ……
ヒャーッハッハッハッハッハハ!!」
グシャ……!
踏み潰した足の先には、ホンフゥの顔があった。
頬を踏まれ、唇を突き出して悶えるホンフゥを見て、あの時の快楽を思い出す。
同じように殺してやろう。山崎の顔が喜悦に歪む。
「お、おが……っ!」
抵抗し、足を握って逃れようとするホンフゥの手にわざと足を任し、
呼吸の為に空いた口へ思い切り硬い靴の爪先を抉り込んだ。
山崎の顔が一層歪む。
ゆっくりと、ポケットから左手を出そうとした時、ヘリの羽音がそれを止めた。
プラチナブルーのヘリの中から、悠然と袴姿の男が降り立って来る。
ギース・ハワードが、来た。
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