残り香がある。得体の知れない生物が存在し、確かにここで何かを行った。
それを確信させるだけの臭いが充満している。
片膝を突き、地に手を触れる。こびりついたソレは間違いなく人間の血。
ここに存在した何かに引き裂かれた証だ。
テリー・ボガードがゆっくりと振り返った背後には、捜していた少年の姿があった。
「よぉ、捜したぜ、崇雷」
「俺もオマエを捜していた……」
崇雷の、景色が歪むほどの闘気がゆらゆらと揺れる。鉄が溶けて行くイメージ。
小刻みに震える身体から発散される怒りの波動が風となってテリーを打った。
「――コ・ロシテヤル」
「まぁそう早るなよ。こうして願い通りお互い出会えたんだ。
これも何かの縁――お前らの言う、秘伝書のお導きってヤツだろ? 質問に答えな」
崇雷の闘気は収まらない。だがテリーは構わず続けた。
「――この血は、誰のだ?」
「オマエもよく知っている男だ」
「生憎、知り合いが多くてね。その説明じゃわかんねぇな。
だが、俺の知ってる男はみんな強ぇ男だ。お前がやったのか?」
「俺ではない」
「――崇秀か…… するてぇと、本当にまた先祖の人格とやらが現れたみてぇだな」
「下らない話はやめてさっさと構えろ。それとも、もう良いのか?」
「それでも待ってくれてるのか。ありがたいね」
テリーがグローブを締め上げ、崇雷を見やる。
立ち込める蒼白い湯気がすでに彼が“秦崇雷”ではないことを語っていた。
熱気に、嫌な汗が染み出て来る。
――さて、どうしたもんかね……
かつて、ギースと二人掛かりでやっと倒した怪奇。
一人で闘って果たしてどうにかなる相手なのか?
勝算は薄い。だが決してゼロではない。
あの時は直前のギースとの闘いで極度に消耗していた。
それはギースにしても同じだろう。だが今は万全だ。
あの常軌を逸したスピードにも免疫が出来ている。今なら、闘える。
テリーは力強く構えを取った。
「Come on!」
瞬間、弾かれるように崇雷が冷たい地下鉄の地面を滑った。
テリーの表情が怪訝に歪む。その分、反応が遅れる。
崇雷の突きがテリーの顔の横を通過した。
反撃に打ち込んだボディブローが残像の中に消える。
再び側面から打ち出された突きを躱したときにはテリーの疑念は確信になっていた。
ミドルキックを軽く打ち込む。
それは残像に飲み込まれることなく、崇雷のガードを強く弾いた。
続けて思い切り力を乗せて右足を蹴り上げると崇雷が大きく揺れる。
両手で天へ翳した拳にはすでに気が収束されていた。
「バーンナックル!」
クリーンヒット。
まともに顔面に熱を浴びた崇雷の身体は、今度は倒れたまま地面を滑った。
「ぐぅ……」
呻く。中々起き上がれない。
以前の妖怪じみた闘い方の面影はなかった。
遅い。以前より格段に遅い。
最大の武器であったスピードが見る影もなく衰えている。
いやそれでも充分速い。並の格闘家ならば反応すら不可能なスピードだろう。
だが、以前の彼を知っているテリーには、今の崇雷の動きは止まって見えた。
「――なるほど、今度は自滅しねぇように力を抑えてるってか?
崇雷の身体をぶっ壊されるってのも困るが、それじゃ俺には勝てねぇぜ」
「ホ、ザクナ……!」
崇雷の掌から光球が放たれる。
だがまさしく光のようだったその速度は充分、認識出来る速さにまで落ちており、
テリーには踏み込みながら躱せるほどの余裕があった。
眼前に現れたテリーの姿に崇雷の表情が歪む。
打ち付けられたバックブローで再び崇雷は地を舐めた。
だが今度はすぐに起き上がる。
練り上げられた気にはかつての迫力があった。
ブラックホールのような禍々しい気の球体。見たことがある。帝王宿命拳。あの技だ。
転がるようにそれを躱したテリーの表情からは余裕が消えていた。
だがすぐに笑みが浮かぶ。
「そう来なくっちゃな。どうにも坊主を虐めてるみてぇで絵面が悪いと思ってたんだ。
こっからは倒す気で行くぜ」
「――オマエ…… 調子に乗りすぎだ!」
闇夜の薄暗い静けさの中を、一つの影が冷たい風となって横切った。
それは実体の存在しない幽鬼のように硝子を抜け、タワーの頂きへと進む。
誰もその存在を感知出来ない。
人にも、機械でさえも、その存在の侵入を知ることはなかった。
ただ一人、横柄にデスクに座るスーツの男を除いて――
「やれやれ、ネズミが沸くとは私のビルも古くなったかな?」
「お久しぶりですね、ギース・ハワード。相変わらず冗談がお上手で」
「貴様等に付き合わされた冗談の方がよほど洒落が利いていたがな。
今更、何の用だ? 秦の亡霊が」
余裕か、牽制か、互いに薄笑みを浮かべながらギースと崇秀が不敵に視線を交わす。
笑みを深めたのは崇秀の方だった。
「秘伝書を返して頂きに来ました。そして、貴方の身体を憑代に王龍を復活させる。
言わば同胞として迎えに来たのですよ、ギースさん」
今度はギースが笑みに侮蔑の色を灯して答えた。
「フン、わざわざ出向いて貰って悪いが、秘伝書はもう灰すら残っておらんよ」
「灰……? これはまた愉快なことを。意外に浅はかな方ですね、貴方は」
ギースの眼が怪訝を帯びた。
「2200年もの歴史の中で、秘伝書を恐れ、焼き払った権力者など何人も存在しましたよ。
ですが秘伝書は決して滅びることなく、現代まで生存している。
人間に秘伝書を滅ぼすことなど出来ません。ククク……」
ギースの笑みが消える。ひそめられた眉は怒りを表現していた。
「あれは必ず選ばれた男の手に戻る。つまり、貴方の手の中にね。
さぁもう諦めて我らの軍門に下るのです、ギース・ハワード。
父は貴方を認めたのですよ。光栄なことでしょう」
「銃を作った男の名を知っているか?」
「――何ですか?」
今度は崇秀の眼が怪訝な不快感を示した。
「銃を作った男が、これで人が死ぬと宣言したとしよう。
どこかの亡霊の予言と似ているな」
「…………」
「銃を作った男の才は確かに賞讃されるべき物だ。
だがその予言には何の価値もないな。そんな物で良ければ私にも出来る。
ただの人間の、私にもな」
「――何が言いたいのでしょうか……?」
ギースの顔に再び余裕の笑みが浮かぶ。
その見下した笑みには相対した者を威圧する重さが備わっていた。
その言葉を前に唇が一層歪む。
「解らんか? 貴様の縋っている父親などその程度のまやかしだと言うことだ」
崇秀の表情が消えた。不気味に開かれた瞳からは妖気が沸騰している。
それは呪われた人形のように、怒りの眼を見開いている。
赤を主張する口から紡がれた言葉は戦闘開始の合図だった。
「交渉決裂、ですね……!」
崇秀の身体が直立のまま滑る。絨毯は全く乱れない。
それは違う時間を生きる蟲のように神経を汚染する鋭角の動きだった。
デスクをすり抜けて躱し、ギースの背後から頭を突く。
だが、背を見ずに首だけで躱したギースはその腕を強く掴んだ。
そしてデスクの向こうに投げ捨てる。
中空で消えるように不自然に着地した崇秀の目には
ゆっくりと椅子から降りるギースの姿が映っていた。
ゴクリと、唾を飲み込む。流れる冷や汗を否定する。
その反応を起こした身体を睨みつけた。
「生憎ネズミと交渉する舌は持ち合わせてはおらんのでね」
歩み、正面に立ったギース・ハワードを続けて睨む。
ギースに動きはない。腕を組んだまま余裕を貫いている。
それがまた崇秀を威圧し、不快感を募らせた。
「――穏やかに運べれば最良だったのですがね。思い上がるな……!」
崇秀が地を滑る。
だがそれに即座に反応したギースの裏拳が視界を覆った。
屈み込んで躱す。そのまま下段に足を刈り取るような蹴りを打ち込んだ。
しかし感触が重い。次の瞬間には打ち込んだはずの崇秀がバランスを崩していた。
闘気で発光した逆手の掌が喉元へと叩き込まれる。
その衝撃は踏み込み以上の速度を以って崇秀を吹き飛ばしていた。
起き上がった崇秀がキッと、切り裂くような瞳でギースを睨み付けた。
再び笑みを浮かべ、誘うように腕を組んでいる。
崇秀は歯軋りすると再び踏み込んだ。そして途中で消える。
それは一瞬、完全なる消失。究極の軽功。次の瞬間は空中、ギースの背部へ現れた。
身を丸め、回転しながら自由落下の力を加え、全体重を打ち付ける、
帝王拳鋼落、帝王神眼拳の性質を最大限利用した幻惑の拳。
その自然界において有り得ない動作により何人も躱すことはおろか反応も不可能。
なのに、崇秀の目はギースと合っていた。
ギースは笑い、崇秀は驚愕に引きつる。
崇秀に待っていたのはかつても体験した、彼の左腕が生み出す時間の歪み。
それを感じた瞬間には激しい痛みが後頭部から全身に走っていた。
「ば、馬鹿な……」
起き上がろうとすると視界が揺らぐ。
やがて流れ落ちた血のりで赤く塞がれた。嘔吐感がする。
吐き出してしまうのが惨めだと痛感していながら彼の苦痛はそれを行わせた。
手を突いたまま見上げると今はもうハッキリと恐ろしいと感じる、
ギース・ハワードの歪んだ笑みがあった。
「フンッ、雑魚はおとなしくしていろ」
その言葉に弾かれるように再び消える。
今度は側面。最速で掌を打ち込んだはずだった。
しかし、逆に当てられたギースの突きにより、崇秀は再び血の混ざった粘液を吐き出した。
地面に手を突いて息荒く悶える。こんなことが有り得るはずがない。
「な、何故、解る…… ギース……」
「何故だと? 愚問だな。単なる経験というものだよ」
「まさか、どういうことだ!?
長い期間、秘伝書の影響下に在ったことで、王龍の先見が宿ったとでも言うのか!」
ギースの眉間が不快に歪んだ。だがすぐに威圧的な嘲笑を浮かべる。
「そうだな、強いて言うならば、傷か。全身に刻まれた傷が私に死を知らせる。
お前も早く死ねと、私の手にかかって来た男達の怨嗟の声が私を反応させる。
何とも皮肉なことだ、クックックッ」
崇秀が恐怖に硬直する。
体力とは別の部分でもう立ち上がることは出来なかった。
「貴様もその一部となるか?
もっとも、私に傷の一つでも刻めればの話だがな」
ゆっくりと、獲物をいたぶるように崇秀の元へと歩む。
「ま、待て! こうしよう! 私はメアリーの魂を肉体に戻すことが出来る!」
「何……?」
足が止まった。
「本当ですよ、貴方も知っているでしょう? メアリーの死因を。
彼女は王龍の影響を受けた貴方の、
貴方の血の流れる子を身篭ったことで極度に魂を消耗した。
そしてその後も貴方の子の傍に居続けたことでついに魂を呑まれてしまったのです。
ですが私なら、それを復元し元の肉体に戻すことが出来る。どうでしょう?
その為にカイン・R・ハインラインがメアリーの肉体を保存しているのでしょう?
違いますか?」
ギースがクラウザーの秘伝書を求めた意味を崇秀は知っている。
焦りの笑みは引きつったままだが、崇秀は手応えを感じていた。
「ネズミと交渉する舌は持ち合わせておらぬと言ったはずだが?」
「なっ!?」
だが、返事は完全なるNO。
崇秀に浮かんだ微かな笑みはギースの言葉に脆く引き裂かれた。
「そ、そうか! 貴方は知っているのですね!?
確かにロック・ハワードの魂からメアリーの魂を復元すれば、
今度はロック・ハワードが消滅してしまうかも知れない。ですが! よく聞いて下さい!
貴方が王龍の器となり王龍が現世に黄泉返れば、
彼の力ならばその両方を再生することが出来る!」
ゆっくりと、ギースが近づいて来る。
「た、確かに確証は有りません! で、ですが、王龍の力ならば可能性は限りなく高い!
貴方がただ肉体を捧げるだけで…… ああ、がぁああああああ!!」
崇秀の悲鳴が上がった。
初めてギースの表情が大きな驚きを見せる。彼はまだ何も手を下してはいない。
突然に苦しみ出した崇秀の様子は狂った人形師に操られたように、
生理的な気持ちの悪さを持った動きだった。
甲高い声が耳を汚染をする。ギースをして顔をしかめた。
「――ギース様」
閉ざされていたドアが開き、リッパーが入って来た。
絨毯を汚す赤色とその悲鳴に何が起こったのかを悟ると、リッパーは逆に冷静さを取り戻す。
「申し訳ありません」
頭を下げる。
「構わん。もう始末はついた」
そう言うとギースは顎でリッパーが手に持つ書類を指した。
「は、テリー・ボガードと秦崇雷がウエスト・サブウェイで接触。
5分12秒でテリー・ボガードの勝利との報告が」
「まさか!」
声は崇秀から上がった。
崖から這い上がるように苦しげに、リッパーの元へ近づこうとする。
その異様さにリッパーが表情を歪める。だが意味を悟ったギースは笑っていた。
「そう言えば、貴様は以前も兄が倒れた後にただの餓鬼に戻っていたな」
「あ、ぐ、あ…… 兄さんが、敗れる、はずが……」
「どうやら相互干渉して存在を保っているようだが、
力の勝る兄が消えれば未熟な貴様は自己を保つことすら出来んというわけだ。
偉大なる先祖の魂様が、なんとも脆弱なことだな」
「溶けて行く…… 私がッ! 崇秀などに…… はぁああああ……!!」
崇秀、いや海龍はもうその言葉に反応も出来ない。
ただ嫌悪感を持ってそれを見下ろすリッパーに近づき、最後の軽功で彼の背後を取った。
「ぬぐ!」
子供の物ではない、強烈な力で首を握られる。
崇秀がゆっくりと腕を上げることでリッパーの巨体が宙に浮いた。
書類がばらけ、鳥の羽根のように散らばる。
「ギ、ギース・ハワード…… 私達に従いなさい……
でなければ、この男をこのまま絞め殺しますよ……!」
睨み合う。崇秀の表情はすでに正気ではない。
だがギースはそれから目を背け、背を向けると自分の椅子に戻って横柄に座った。
「構わんよ、好きにすれば良い」
「なっ!?」
デスクに肘を突き、嫌らしい笑みを称えて言う。
「虚勢を張っても無駄ですよ! この男は貴方の最大の側近!
貴方は手放せない!!」
ギースは表情を変えない。
「らしいが、どうなんだリッパー」
「――本望です」
その声は状況に似つかわしくないほどに穏やかだった。
リッパーの腕が懐へと収まる。次に現れたのはナイフ。
それを逆手に持っている。崇秀の瞳孔が締まった。
刃を自らの喉へ立て、リッパーが何の迷いもなく腕を押し込む。
「馬鹿な!」
それに反応して崇秀がナイフを弾いた。
弾き飛び、壁に当たる微かな金属音と同時に再び崇秀の悲鳴が上がる。
弾いた手の甲には深々とギースの投げたペンが刺さっていた。
解放されたリッパーが崇秀のガラ空きの腹に蹴りを打ち込む。
小さな身体はただの少年のように飛び、最後の嗚咽を漏らした後、意識を失った。
「ご苦労」
ギースが口の端を吊り上げて笑う。
リッパーは冷静にスーツの襟を整え、顔を上げて口を開いた。
「この少年、処理しますか?」
「構わんさ。もう永久にただの餓鬼だ。
そうだな、その辺にでも捨てて来い。親切な男が拾って行くだろう」
「解りました」
リッパーが崇秀を抱え、部屋を出て行く。
それに背を向け、静寂の戻ったオフィスで一人、ギースは夜のサウスタウンを眺めていた。
静かだ。そこに何も存在していないかのように、街は静かに映った。
ただ、明々と灯るイルミネーションが、闇の霧を掻き消そうと足掻いている。
見慣れた風景。彼が最も愛した風景。
夜が明けるまで狼達は天へ吠え、神と闘う。例え怒りの雷を受けようとも、決して屈せず。
それを見つめる、硝子に映った彼の姿は、
――泣いているように、静かだった。
近年、観光地としても名を馳せているサウスタウンには多くの遊覧施設がある。
このセントラルシティの西端、イーストサイドパークもその一つで、
水族館をメインとしながらもドーム状の建物に緑を植えたグリーンパークと共存させ、
このビルの生え渡る街の中で自然と触れ合える空間を提供している。
随所に配置されているある部族のそれを模した木彫りの人形達は、
より独特の空間をイメージさせた。
その一方で設備は最新で整えられており、やはり一風変わったデザインの、
エレベーターに乗っているだけでも楽しめる造りだ。
子供に教養を与えたい親子連れ等に人気が高い。
だが、深夜となるとその限りではない。
柵が敷かれ、完全に人気の失せた緑は人を惑わす樹海を思わせ、
深海を泳ぐ魚は得体の知れない化物のように見える。
木彫りの像は命を宿したかのように不気味だ。
ここに野獣が一匹迷い込んでいるからか、ホッパーはその風景が気持ち悪かった。
銃を手放せない。常に懐に手を入れていてもどこにも安心感はなかった。
山崎竜二は、未だサウスタウンに潜伏している。
その情報はかなり前から掴んでいたにも関わらず、
ハワード・コネクションはその男を見つけ出すことが出来なかった。
いや、本腰ではなかったからという言い訳は立つだろう。
ギースが総帥に復帰し、コネクションは力を取り戻したが、それでも完全ではない。
再びサウスタウンを掌握するにはそれなりの時間を要した。
それに加えて、シュトロハイム家の影武者騒動である。
山崎などに構っている暇はないし、香港の組織も弱体化した今、
もはや山崎竜二という男に大した意味もなかったのだ。
だが、ホッパーだけは山崎竜二がサウスタウンに居るという事実に
気持ちの悪さを感じていた。
あの男はどこか異様だ。生かしておけば必ず災いとなる。
確実にコネクションの敵となる男だ。
そしてそれ以上に、あの日、味わった屈辱。
山崎竜二にリッパーもろとも重傷を負わされ、あまつさえ彼は芯から恐怖した。
これを払拭しない限り、自分は自分でいられない。
彼の矜持はその思いを常に持っていた。
今度のKOFを機に山崎は必ず動く。
その確信の元にホッパーはギースへ山崎捜索を直訴した。
返答は、ビリー・カーンが言われたのと同じ、「好きなようにやれ。お前に任せる」
ビリーが対応に困ったその言葉は、ホッパーには歓喜として届いた。
舌が乾き、汗がしたたり落ちる。
あの時と同じ感覚。冬であることを忘れさせる肌の熱気。そして、身体の芯の寒さ。
彼らは今、獣の巣に足を踏み入れている。
飛ぶように振り向く。
銃を抜こうと身構えるがいない。猛獣の気配はどこからでも感じられるのに、
山崎の姿はなかった。だが、ここに居るのは間違いない。
突き詰めた情報と、彼の恐怖を司る本能がそれを確定事項として告げて来る。
「ホッパーさん…… ここ、幽霊でも出るんですか……?
何か俺、さっきから寒気がして……」
引き連れた部下の一人が言う。
「馬鹿か、何言ってやがる」
ここに居るのはそんな生易しいモノではない。
「でも俺、霊感強いんスよね……」
「黙れ、命取りになるぞ」
慌てて口を噤む。部下の疲労と、自身の苛立ち。
それを感じながらもホッパーはゆっくりと歩みを進めた。
ホールの二階。一端退くか?それが利口だろう。
居場所さえハッキリすればもっと安全に命を狙う方法はある。
だが、そんな考えが浮かんではまた怒りに打ち消される。
覗き込むように下を見下ろした。
黒い、大きな影が木彫りの像を横切ったのが見えた気がした。
瞬間の反応。手足となったホッパーの銃はすでに引き鉄を引いていた。
銃声が響く。だが手応えはない。気配だけがまだ消えず神経をささめかせて来る。
影が奔った。銃の照準に置かれるのに慣れている。
ホッパーが引き金を引こうとすると影は決まって障害物へと消えた。
部下達が騒ぐが、彼らにはその影を目で追うことしか出来ない。
無駄な銃声がさらに集中力を奪って行く。
次の瞬間、影が駆け上がって来たと同時に部下の数人が弾け飛んだ。
悲鳴を上げる間もなく昏倒。残されたのはホッパー一人。
影へ向けた銃はいつかのようにまた弾け飛んで消えた。
――クッ、蛇使い……!
「よォ、兄ちゃん…… 久しぶりじゃねぇか……」
側面。5mほど先。感覚が飛び跳ねる。忘れられない声。
山崎竜二がサングラスを外しながらゆっくりとこちらへ歩み寄って来る。
銃はまだある。この事態を想定してホッパーは複数の銃を携帯している。
だが、ここで抜いても無駄だ。その瞬間には同じようにまた丸腰にされる。
それだけならまだ良い。最悪、その隙に一撃を浴びせられるかも知れない。
山崎の蛇使いは銃と比べてもなんら遜色のない威力とスピードを持っている。
普通の人間が急所に喰らえば一撃で骨が砕け、死に至るだろう。
事実、連れて来た部下はもうピクリとも動いてはいなかった。
銃は抜けない。懐に手を這わせたまま牽制し、なんとか隙を見つけ出すしかない。
だがそんな隙をこの男が作るだろうか。
いくらこちらの銃を警戒していても、奴が腕を伸ばせばそれで終わるのだ。
ゆっくりと近づいて来る山崎に、ホッパーは後退った。
その足が疼いた。折られた足。
サングラスの向こうの眼に気勢が戻る。
恐怖を飲み込んだ。山崎が蛇使いを撃つとしても、その瞬間に相打ちを取る。
汚されたプライドがホッパーに決意を与えた。
山崎の眼が細く笑う。
「へぇ…… やるもんだねぇ。こいつぁ迂闊にゃ動けねぇな。
睨めっこでもやるかい? ヒヒヒヒ……」
言葉とは裏腹に、そんなつもりはないと山崎は言っている。
ホッパーにはそれが解る。
ブラブラと、山崎が右腕を揺らした。
それは隙ではない。ホッパーが懐へ入れている右手と同じく、必殺の牽制。
少しでも隙を見せればそこから命を奪う弾丸が浴びせられるだろう。
睨み合いは一瞬だった。
山崎の表情が残酷に歪む。来る。ホッパーは弾かれるように銃を抜く。
ガギッ!
嫌な音がした。銃声は鳴らない。
カランと、引き抜いた銃が力なく床を転がった。
「お、ああ……」
苦痛に呻き、膝を突く。
左手で押さえた肩は明らかに砕けていた。
――速すぎる……!
ホッパーの反応を超え、山崎の蛇使いは抜こうとした右肩を打ち砕いていた。
初めから反応出来る速度ではなかった。それに気づいた時には、もう山崎が目の前に居る。
「クッ……!」
銃を拾おうとして激痛に顔を顰める。
それでも伸ばした左手が、無表情に踏み潰される。
ホッパーはもう山崎の長身を睨み上げることしか出来なかった。それが最後の抵抗。
「おうおう、前はヒィヒィお漏らししてた兄ちゃんが、今度は頑張るじゃねぇか」
「山崎ィ……!」
「俺はちょいとまだこの街に用があんだよ。邪魔しねぇでくれるか?」
「な、何を、この街で何してやがる……」
「ヒヒヒハハハ……!
聞いたところで、ギース様にお伝えすることは出来ねぇぜ。
――死にな」
その声は凍るほど冷ややかに。充分に声が届く距離で山崎の右腕がしなる。
至近距離からの蛇使い。それは銃を眼前に突きつけられたも同然だった。
終わりか。信じ難いことに銃で武装しても戦闘力で上回れない。
無念だが無謀だったようだ。歯が鳴らぬよう食い縛る。
だがその後方、睨み付けた後方に、
闇に紛れての黒いシルエットが浮かび上がるのがホッパーには見えた。
「――おい」
これも知っている声。
「んだ?」
影に肩を掴まれた山崎が振り返った。その瞬間に激しい打撃音が鳴った。
山崎の長身が倒れ込んで滑る。ホッパーのサングラスを汚した血がその威力を物語っていた。
サングラス越しにかろうじて目視出来る、
黒いレザージャケットに黒のズボンを着込み闇と同化する男の手にはしかし、
暗闇の中でも毒々しい赤を主張する、彼の身長程の棍が握られている。
それは生者の命の喰らう死神の鎌。
「よぉ、元気してるか?」
見上げた先の顔は山崎と比べれば随分と低い位置にあるが、
その眼光はなんら遜色のない迫力を備えていた。
ビリー・カーン。
「ビリー…… 何でお前がここに……」
「聞いてなかったのか? 俺もギース様に言われてんだよ、好きなようにやれってな」
そう言って、ビリーが笑う。
助けられたのを屈辱と感じる以前に安心している自分がいる。
それを自覚して苦笑するホッパーにとって、ビリーは同僚であり、仲間であり、同時に友だった。
それも悪くないものだとホッパーは諦めたように思う。
「このお節介が……」
「ヘッ、テメェが死んだらリリィまで葬式に呼ばなきゃなんねぇからな。
大サービスだと思っとけ」
ビリーはすでに向き直り、ゆらりと起き上がる山崎を睨み付けている。
視線の先で曇った笑い声が聞こえる。
そのゆっくりと進む静けさは周囲の静寂と重なって不気味な威圧感があった。
両手で棍を構える。闇の中、山崎の間合いは測れない。
一瞬でも油断すれば弾丸のような拳が飛んで来る。
山崎の眼が暗闇で光ったような気がした。
「ホッパー、手は出すなよ! こいつはKOFだ!!」
ビリーが駆けるように踏み込んで棍を横薙ぎに打ち込んだ。
山崎の脇腹にヒットした感覚が腕に伝わる。
だがその瞬間には蛇使いが顔の横を通過していた。
切れた頬から血飛沫が上がる。蛇使いはビリーのイメージより鋭く、思うよりも深い傷を残した。
だが表情一つ変えずに次の蛇を棍で捌く。そして笑みを浮かべて後方に跳び下がった。
「俺のリーチを測ったってか? 随分慎重じゃねぇか……
歩く凶器、ビリー・カーンってのはギース・ハワード以上に残忍な男だって聞いてたんだが、
所詮は歯牙ないただの飼い犬みてぇだな」
「へぇ、軽そうな頭でよく調べたもんだ。致命的に間違ってるけどな」
「おいおい、テメェの口の利き方のが間違ってんじゃねぇか?
犬の返事は“ワン”だろ」
「あん? 尻尾巻いてんのはどっちだ?
ギース様にあっさりボコられてコソコソ隠れ回ってる負け犬さんがよ!」
「ンだとォ!!」
山崎の右腕がしなった。それをまた棍で流す。
掠った左腕の黒が引き裂かれ鮮血が舞った。表情は変わらない。
「ならテメェ何でまだこの街にいやがんだ?
ギース様に復讐する機会でも狙ってんだろうが、
やってるのが俺達や香港の刑事だかから逃げ回るだけってのは笑えるぜ」
山崎が右腕をゆらゆらと揺らす。
その腕がまさに蛇ならば、その拳は毒蛇の牙。
「勘違いすんな、テメェらを張ってやってたんだ。
それに俺が用のあるのはギースじゃねぇ、秘伝書だ」
「ああ? テメェまだあんなモンを」
「ギースの野郎のお陰で尚更、金が必要になっちまった……
始皇帝の財宝は俺のモンだ!!」
蛇使いの発射を見て今度はビリーは棍で軌道を変えながら踏み込んだ。
「秘伝書に財宝だぁ? ますます笑えんだよ!」
山崎の眼前にビリー・カーンが出現する。
接近戦。ビリー・カーンが敢えて接近戦を挑んで来た。
喉を狙い突く一撃を山崎が胸に逸らす。即死は免れたが鈍い音が響いた。
その痛みを知覚した瞬間には逆の先が脇腹を抉っている。
「クソがぁ!!」
吼えた山崎がさらに踏み込んだ。
棍の威力を殺す超接近戦。力任せの肘を棍の上から叩き付けた。
そして頭をボールのように蹴り飛ばす強引なハイキック。
だがそれを躱したビリーの棍が三つに割れた。
手元と二番目を強く握って振り抜かれた棍の先は、
額の触れるような間合いからでも必殺の威力を生み出した。
そして素早く元の棍に戻し、山崎の顎をアッパーのように打ち上げる。
ビリーの気合の奇声と山崎の苦痛の声が静かなイーストサイドパークに響いた。
「ヒィイヤァー!!」
このまま倒す。倒れない山崎にビリーが再び踏み込む。
足を踏み縛った山崎もまた身体をぶつけるように踏み込んで来た。
その左手には鈍い光が握られていた。気づいたビリーが棍を寸前で防御に回す。
「おるぁー!!」
だが、全体重をぶつける山崎の圧力は棍の防御を打ち砕いた。
肩がビリーの顎にぶち当たり、身体が宙に浮いた。
192cm、96kgのブチかまし。ファイターとしては小柄と言って良いビリーは一たまりもない。
その刹那、ビリーの脇腹には鮮血を伴った匕首が突き刺さっていた。
「おあ、ぐ……!」
そのまま吹き飛ぶ。目の前を通過したビリーにホッパーの顔色が変わった。
倒れず、手を突いて勢いを止めたビリーが匕首を抜き、
山崎を睨み付けながら数歩、ゆっくりと歩いた。
「野郎ォ……」
「まさか汚ねぇなんて言わねぇよな?
俺はKOFなんてお遊びにゃ興味はねぇんだよ」
左手はポケットに戻し、右手で口元の血を拭いながら山崎が笑った。
ホッパーの目の前に、ノースモークのプリントをしたビリーの背がある。
「ビリー!」
「情けねぇ声出すなよ…… テメェよりは大丈夫だ、肉しか切らせてねぇ」
吐き捨てるように言い、匕首を投げ捨てる。
ビリー・カーンもまた、ギースから八極聖拳の気功の鍛錬を受けている。
刃物は臓器に届く前に止まっていた。だが出血は収まらない。
「おい、ホッパー。ギース様はコイツを簡単に潰したんだよな」
「――ああ、だが山崎は……」
「なら良いんだ。んなら安心じゃねぇか」
怪訝な顔をするホッパーの前でビリーが再び構える。
血は尚もしたたり落ちている。だがビリーの口元には喜悦とも取れる笑みが浮かんでいた。
ゾクリと、ホッパーは寒気を感じた。
山崎と同等か、それ以上の狂気的な恐ろしさ。
思えば、ビリー・カーンという男は山崎と同質の男だった。
良くも悪くも環境は確実に人を変える。
ビリー・カーンの今は、親のように尊敬する人物を得、信頼出来る仲間、
家族との、裕福で暖かい生活。全てが満たされている。
例えそこが血生臭い世界であろうと、ビリー・カーンは間違いなく満たされていた。
と同時に、狂気は薄れる。
それは彼の満たされない心が逃げ込んだ隙間だったからだ。
自分を抑え、任務に従事する近年の彼には歩く凶器と畏怖され、
蔑みの目で見られていた頃の猟奇的な雰囲気は薄れている。薄れていた。
それに、今のビリー・カーンを見てホッパーは初めて気づいた。
それだけ今のビリー・カーンが浮かべた笑みはあの頃の、
触れる物全てを爛れた血肉で染めた歩く凶器のそれだったからだ。
ならば、安心だ。
そう思ったのは、ビリー・カーンとホッパー二人。
ビリー・カーンは後の事を考えていては勝てないと思った。
だが、すでに考える必要がないことを目の前の山崎竜二が証明している。
ギース・ハワードはこの男をにべもなく倒した。ならば、誰にも負けるはずがない。
例え相手が、テリー・ボガードでもだ。
ならば、自分はここで倒れても良い。
山崎の蛇使いを防御せずに、ビリーは三節棍を伸ばし打った。
双方の下で激しく肉を打ち付ける音がする。
互いに防御の間もないタイミング。いや、片方は初めから防御する気などない。
「シャァァー!!」
再び蛇の牙が襲い掛かって来る。
それと交差するようにビリーも再び棍を打ち出した。
胸にまともに中段打ちを浴びた山崎が嗚咽を漏らして仰け反る。
同様に、頬骨の砕けたビリーもまたそのまま倒れそうなほどに仰け反った。
だが倒れない。再び獲物を狙う猛禽類のように眼を見開き、蛇の口を待っている。
「キヒヒヒ……」
久しく聞かなかったビリーの不気味な笑いがホッパーの耳に届いた。
震える。この男のように肉体的な強さがあればと羨ましくも思う。
確信と信頼が、ホッパーの心を奮わせた。
「テ、テメェ…… 相打ち狙いだってのか……!」
「先にぶっ倒れた方が負けだ…… シンプルで良いだろ?」
「――ギースの為に捨て石になろうってのか……? このワン公がァ!!」
山崎が蛇を放つと耳を塞ぎたくなるようなえげつない音が双方で鳴り響く。
その度に鮮血が乱れ舞う。それが何度も続いた。
ビリーの集中力は結界のようだ。いや、それが野生の本能なのか。
山崎が数ミリでも踏み出そうとすれば奇声と共に、正確無比に三節棍が伸びる。
少しでも揺らげばビリー・カーンの狂気は津波のように山崎を飲み込むだろう。
山崎もまた最長のリーチと最速のスピードを誇る蛇使いを打ち込むしかなかった。
自分は一撃浴びただけで肩が砕け散った蛇使い。
それをビリーは何度も、まともに浴び続けている。
その度に飲み込む唾からビリーの痛みが伝わる。
ホッパーは潰れた左手で銃を取ろうとした。今なら山崎には回避する余裕などない。
だが、その腕は途中で止まる。
苦痛にではない。
ホッパーにはあのサウスタウン・ビレッジでのテリー・ボガードとの闘いが甦っていた。
あの強いビリー・カーンが、死を賭けて闘っている。この闘いを汚すことは出来ない。
握り締めた拳から血の雫が砂時計のように時間を刻んで行く。
「アァ…… ハァァ…… 気に入らねぇ……」
裂帛の奇声と、液体の跳ねる激突音。
互いに激しく仰け反り、そして同じ位置に顔を戻す。
顔中を鮮血で染め、同じ様に見開かれた眼光には正気の入り込む余地はないように見えた。
「気に入らねんだよォ!!」
戦術を意地が凌駕する。
吼えながら山崎はただ何度も蛇使いを打ち込んだ。
同時に棍を受け、肩で大きく息をする。
荒い呼吸音が夜明けを迎えようとするイーストサイドパークに反響した。
「――どうした? もうギブアップか? 俺はまだまだいけるぜ……」
言うビリーの息も荒い。
刺された脇腹からは血がどくどくと流れ落ちていた。
「気に入らねぇ…… この街の奴等は……
フランコ…… テリー・ボガード…… ギース・ハワード……
何でこう、畜生…… ふざけてやがる! テメェもだ、ビリー・カーン!
テメェは俺と同じド腐れなんだよ! 腐った眼ぇしてやがる! なのに……!!」
渾身の蛇使い。ビリーのカウンターは来なかった。
棍で受け、その陰から眼光が煌く。その輝きに山崎は顔をしかめた。
「山崎…… 俺を犬だってんなら、この街の人間は全員犬だ……
ギース・ハワードという飼い主に尻尾を振って、命を繋ぐ…… 惨めだな……
だがこの街じゃそんな奴等は生き残れねぇ…… 何故か解るか?
――喰われちまうんだよ…… 狼にな!」
今度はビリーの棍が山崎をガードの上から打った。
血を吹き流し、山崎が大きく仰け反る。
「俺は…… 俺達は、この街の人間達は犬じゃねぇ……!
サウスタウンに、ギース様の街に犬の居場所はねぇ!
生き残れるのは、ギース様と同じ、狼の眼を持った餓狼だけだ!!」
ビリーが勢い良く踏み込んだ。
棍を叩き付け、さらに三節棍に崩して山崎の対応の外から打つ。
動きの止まった山崎にもう一歩踏み込み、連続突きを浴びせた。集点連破棍。
ビリーの気迫に気圧され、山崎は腰を落として固まったまま全身を打たれた。
その姿はホッパーにはすでに戦意を失っているように見えた。
だが――
「ギィヤァァア!!」
山崎の咆哮が響き、その長い足がビリーの胸に突き刺さった。
押されるようにして大きく間合いを放される。
再び棍を伸ばすか、蛇使いにしか攻撃を仕掛けられない間合い。
「――今のテメェも、そんな眼ぇしてやがるぜ」
ビリーが血塗れの顔をジャケットで拭き、口元を歪めて言った。
「――ったく、最悪の街だぜ…… クソがァァァ!!」
山崎が左手を解放した。
赤黒く浮き上がった血管がはちきれる寸前まで煮え立って見えた。
耳を攻撃する甲高い奇声を上げてビリーに飛び掛かる。
思わず耳を塞いだホッパーの視線の先――
肌を打つ熱風と共に、ビリーの棍が炎を巻き上げていた。
【37】
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