夜の帳。体に染み付いた血の臭い。研ぎ澄まされていく感覚。深紅の月が赤い髪の男を見ているのがわかる。
見ているのは月だけではない。わかりきっている。奴を拉致したという連中だろう。あの女が言っていた。三神器の力を奴らは求めている、と。
赤い髪の男は微かに笑った。そして、わざと人気のない方へと歩いていく。前から二人、後ろから二人。どんどんと近づいてきている。
光のない路地裏。ゴミ箱の上の猫の瞳。深紅の月の下、赤い髪の男はゆっくりと振り返った。
突然振り返られて、男たちは一瞬体を固くする。だが、赤い髪の男は何も言わない。ただ濁った瞳で男たちを見下すかのように見つめるだけだ。その視線から逃れるようにして一人の男が口を開いた。
「八神庵だな、我々と一緒に来てもらおうか」
だが、赤い髪の男は微動だにしない。ダランと下げた腕がまるで獲物を求める肉食獣の腕に見える。男たちはそれぞれ生唾を飲み込んだ。彼らとて戦闘経験が乏しいわけではない。ある一部の界隈では名前を知られたような男たちである。だが、男たちは気づいていない。人間の皮をかぶった悪魔もいるということを。
「来て欲しければ、力ずくでするがいい」
掠れるような声でそう呟き、赤い髪の男は突然走り出した。ダランと下げた両腕がいつの間にか目の前にある。ヒィ、と消え入るような悲鳴を上げて一人の男が壁に叩きつけられた。その男の首を押さえつけながら、赤い髪の男は周りを見る。絶対零度の瞳。まるで、魔眼だった。仲間が痛めつけられているというのに、助けようという考えすら浮かんでこない。逃げ出したいほどのプレッシャーの中にいると言うのに、足が竦んで動くことすらできない。
彼らの目に、赤い髪の男はまるで化け物のように映っていた。蒼い炎がゆっくりと首を掴まれた男の皮膚を焼いていく。耳を押さえても聞こえてくるような悲鳴が路地裏に響き渡った。
ドスン、と黒い塊が地に落ちた。赤い髪の男が振り返り、立ち竦む男たちを睨みつける。
「俺を奴と一緒にするな」
赤い髪の男の顔が微かに歪んだ。男たちが一斉に逃げていく。だが、一人の男が残っていた。黒い制服を着てバンダナを巻いた男。自分の顔以上に見続けた男の顔だ。にやついた表情で赤い髪の男を見つめるその瞳に殺意を覚える。
「貴様、何処へ行っていた?」
「てめぇに答える義理はねぇなぁ、つってもお前の求める男が俺だって言う保証は何処にもないんだぜ」
「何だと?」
「知らないっていうのは幸せなことだねぇ」
「何を言っている?」
「さっきも言ったろ、てめぇの質問に答える義理はねぇなぁ」
「なら、死ね!」
赤い髪の男が向かっていく。バンダナを巻いた男はただニヤニヤと笑ったまま立ち尽くしている。死ねぇ! そう叫んで拳を突き立てる。その拳を受け止めて、男は蹴りを放った。それをかわして距離を置く。
「貴様、誰だ?」
「さぁねぇ、俺が聞きたいぐらいだからな、あんたの方が知ってるんじゃないのか? 八神庵さん」
「草薙ぃ」
ギリッと奥歯を噛み締める。殺して欲しいようだな、そう呟いて赤い髪の男は右腕に炎をまとわせる。呼応するように草薙も炎をまとう。赤い炎。奴と同じ炎だ。こいつは何者なのだろうか? 奴にそっくりな顔をしていながら、奴とは違う力を持っている。何より声が違う。こいつはいったい誰だ?
炎が地面を走っていく。蒼と赤が衝突して相殺される。
「てめぇに聞きたいことがある」
赤い髪の男は何も言わずに右腕に炎をくゆらせる。
「草薙京って奴はどんな人間だった?」
にやけ面のまま草薙はそう尋ねた。草薙京の姿をした男が草薙京のことを聞いてくるというこの矛盾。赤い髪の男は草薙を睨みつけたまま、何も言わずに走り出した。腹部に向かって拳を振りぬく。草薙はそれをかわしながら炎を散らせた。だが、赤い髪の男はそれをものともせずに腕を伸ばして草薙の首を掴んだ。
路地裏に静寂が戻ってくる。ゴミ箱の上に乗った猫が二人をじっと見つめている。左右の瞳の色が違った。
「へへっ、どうしたよ? 殺せばいいだろ?」
「殺す前に一つだけ聞く、奴の事を知っているのか?」
「そりゃ有名人だからな、伝説の日本チームの大将だって話じゃねぇか」
「俺が聞きたいのは奴本人について知っているかだ」
「悪いが、俺は草薙京の事なんか何一つとして知らねぇぜ」
「なら、何故貴様は奴の顔をしている!」
その顔に似合わず、赤い髪の男は怒鳴った。草薙はにやついた表情を消さぬまま、自分のこめかみを突き刺した。
「俺は何も覚えちゃいねぇ、気づいたときにはこの顔だった、てめぇのことも知らねぇ、俺は何も知らねぇんだよ」
舌打ちして赤い髪の男は草薙を地面に叩きつける。首を撫でながら軽く咳き込む。
「どうした? 殺さねぇのか?」
「貴様ごとき殺したところで、何の暇つぶしにもならん、失せろ」
「生かしてくれたお礼にいいこと一つ教えてやるよ、俺はネスツってところにいる、そして、草薙京もな」
物凄い速さで赤い髪の男が振り返る。そして、草薙を睨みつけた。草薙はやはりにやついた表情のまま、八神を見つめ続けた。もう一度舌打ち。それから草薙を通り過ぎ、再び人ごみの中へと戻っていく。
「忘れるなよ、ネスツだ、ネスツ」
草薙がそう叫び、立ち上がる。軽い屈伸運動をしてから、八神と同じ道へと走り始めた。
夜の帳。体に染み付いた血の臭い。深紅の月の下、赤い髪の男は歩き続ける。すれ違う人々は何の苦しみもなく幸せのうちに微笑んでいるように見える。空を見上げてみる。月は微かにしか見えない。夜を昼に変えるネオンの波が空を覆いつくしていた。