始まりの終わり(1)


 井の中の蛙が大海を知る必要性が何処にあるのか? 何も知らずに生きて行くことの何が悪いのか、七枷社にはわからない。ただ、知ってしまった自分の不運を嘆く。嘆く? そう考えて自嘲のように口元を緩めた。知っても知らなくても結末に変わりはない。それはゲーニッツという男の死によってすでに実証されている。全ては決められたゲーム。定められた結末。
 目の前で打ち倒された同胞、クリスとシェルミーを見下ろして社は優しく微笑む。肩を貸して立ち上がらせ、自分の後ろへと坐らせた。それをただ黙って見つめる男と女。忌むべき敵。少なくとも、クリスやシェルミーにとってはそうかもしれない。おかしなことに社は彼らに同情さえしていた。
 運命から逃れられないのは、てめぇらも一緒なんだよ、心の中で嘯く。
 髪の長い女とバンダナを巻いた男の後ろで一人我関せずの姿勢を続けていた男に向かって話しかける。
「俺の相手はてめぇだ、赤毛、ついでに個人的なカリも返させてもらおうか」
 ふらりと振り返る。赤い髪の男。長身の痩躯は搾取する側である獣を喚起させる。闇よりも深い漆黒の瞳が社を射止めた。その射るような視線、普通の人間ならばその瞳に見据えられただけで悲鳴を上げて逃げ惑うだろう。狂人の殺人鬼の様相をかもし出す雰囲気が赤い髪の男、八神庵にはあった。八尺瓊の男。社にとってはそれだけではない。だが、そんなことを今の今まで忘れていたことに気付き苦笑する。
 全てはオロチの命ずるがままに、か…。社、自らの運命を皮肉のように受け止める。
 瞳を閉じた。誰もいない世界、忘れられた風景の中で二人はただ対峙する。
 死ぬってどういう感じだ? ゲーニッツ。旧友へと呼びかけるようにして呟いた。当たり前のように答えはない。その存在はすでにこの世界にない。死が忘却の彼方へと連れ去った。元から返事などは期待などしていなかった。その問いかけは死への恐怖を掻き消そうとする社自身の心の現われだ。
 瞼を開く。世界の色が変化する。赤い、血みどろの世界。赤いセロファンでフィルターをかけられたその世界を、社はただ気味が悪いと思った。それは果たして社自身の気持ちだったのか、それともオロチとしての気持ちだったのか。恐らく両方。すでに社はこの世への未練を断ち切った。
 両腕を振り払った。瞬間、忘れられた風景に皹が入り、地面が揺れる。自らの内に眠るオロチの血を解放する。澱んだ空気が社の体の中に満ちた。だが、だがそれは心地がいい。社の咆哮と地面の揺れが完全にリンクし、やがてそれは一体になった。ある力が体を満たす。
 それでも八神庵は表情を変えない。くだらなそうに社を見つめた。ポケットに入れた両腕をだらんと下げ、顔の前まで持ち上げる。
「くだらん、が殺しがいはありそうだ…」
 庵の後ろで先ほどまでクリスと戦っていた草薙京がその背中を見つめている。何かしらの不安。体の中で燻る赤き炎が二人を見て燃え盛るように感じた。横目でちらりと神楽ちづるを見やる。表情を変えずに二人を見つめていた。先ほどまで京と同じようにシェルミーと戦っていたはずなのに息一つ乱れていない。その無表情に隠された憎悪の焔に京はいまだ気付いてはいない。
 三人はチームではない。それぞれの都合で此処に集められたに過ぎない。オロチはそれを奇跡と呼び、ちづるは運命だと思った。そんなことは問題ではない。庵にとっては京を殺せればそれでいい、京にとっては千八百年前の決着をつけられればそれでいいのだ。尤も、その点はオロチにとっても同じである。要は誰もが誰かを殺したがっている、とそれだけのことだ。無論、ちづるもまたその思いは同じ。
 ゆっくりとした動きで社は庵に近づく。圧倒的な威圧感とプレッシャー。違う、京はそう思った。クリスやシェルミーの比ではない。完全なるオロチとしての威圧感。体中を嫌な汗が覆った。庵に声をかけようとしている自分に気付き、はっとした。八神庵という男を知り尽くしているからこそ声をかけることが出来ない。言葉を押し殺し、社と庵を見つめた。
「どうした? 来いよ、それとも俺から攻めて欲しいのか?」
 庵、沈黙を守ったままなおも歩みを続ける社を睨みつける。その顔に浮かんだ微笑みを心底不快だと思った。
「八神庵、世間にゃ持て囃されたようだが、上には上がいるって事を知るにはいい機会じゃねぇか?」
「よく喋る…」
 はっきりと口にしたつもりだったが流石に声が掠れていた。自分らしくない、とは思いながらも社の体から発されるプレッシャーに飲み込まれかけている。怯えと不快感、それを振り払うようにして接近した。
 激痛が後頭部を襲う。顔面を掴んだ社の掌で視界が遮られ、後頭部を地面に叩きつけられた。痛みが庵を覚醒させた。素早く飛び退き、右腕を払う。地面を走る蒼い炎。それを軽くかわして社は再び庵の目の前に立つ。舌打ち。腕を振って薙ぎ払おうとした。其処に社の姿はない。がら空きの鳩尾に拳が叩き込まれる。体をくの字に折り、血を吐いた。視界が揺らぎ、モザイクの中に赤いグローブを嵌めた拳が浮かび上がる。衝撃、頭蓋骨を砕くような衝撃が駆け抜けた。弾けとび、無様に地面に倒れ付した。
 拳を開き、そして握る。ただそれだけの行動で自分の体の中に力が満ち満ちていることがわかった。身震いする。今まで自分の中に眠っていた力がこれほどまでの破壊力を持つとは、社にもわかっていなかったのだ。全てを破壊できる、オロチでさえも、不意にそんなことを思った。瞬間、背筋を寒気が駆け抜ける。
 闇に光る目。その瞳が社を捉えて離さない。この力でさえ、そう思った。
 敵わないというのか…。
 絶望にも似た感情。振り返り、立ち上がる庵を見た。膝が笑っている。力を入れようとするたびに崩れ落ちるのが見て取れた。
「貴様…、どういうつもりだ…」
「何のことだよ」
「俺を相手に手を抜くとはな…」
 それは社の意図したことではない。すでに力は制御できる代物ではないのだ。いわば社はバルブに過ぎない。力を放射するためだけに存在する人間。七枷社。覚悟していたつもりだが、と社は思う。自分がいなくなるのはいい感じじゃねぇな…。
 社と同様に、庵もまた自分を失う感覚を覚えていた。オロチの血が互いの体の中で蠢いている。自分という意識が体の中から飛び出して虚空を舞い、地に立つ自分を見つめている。どちらが本当の自分でどちらが本当の自分ではないのか、庵にも社にもわからない。頭の中に浮かぶ言葉は全て消えうせ、ただ目の前のイキモノを傷つけたいという本能だけが鎌首を擡げる。血を吐いた。その血が庵の理性を失わせる。
 立ち上る蒼い炎。同属嫌悪、とでも言おうか。社に対する憎しみが京への憎しみを越え、体の中で逃げ場所を求めるように騒ぎ立てた。目に映るは蒼き世界。其処に立つ一人の男。その男が優しい微笑をたたえたまま庵を誘った。無の世界へ、こちら側へ。駆けた。
 社の体がゴミのように空に浮かび上がった。庵の振り払った右腕が風を巻き起こし、大柄な体を宙に舞わせたのだ。だが、社は微笑を隠さない。そうだ、それでいい、心の中でそう呟く。飛び上がった庵の蹴りが社の腹部にめり込み、吐き気と鈍痛が全身を蝕む。恐らく、内臓が破裂したのだろう、暢気にそんなことを思った。
「神楽…、こいつはどういうことだ?」
「どうって、見たままよ、オロチ八傑集、最後の一人は八尺瓊の血を引く八神庵なの、彼はつまり、私たちの仲間でもあり、私たちの敵でもある…」
「てめぇ…、知ってたのか!」
 淡々と語るちづるに苛立ち、京は胸倉を掴みあげた。その手を上品に払い除け、ちづるはキッと京を見据える。
「勘違いしないで、私たち三神器の力を持つものの使命はオロチを抹殺すること、例え、その中に私たちの仲間がいようと、それは変わらないわ」
 不意にある少女の顔を思い出す。レオナ・ハイデルン。オロチの血に魅入られし少女。ちづるが庵に向かって言った言葉を思い出す。
 あなたが操る蒼き炎、それはあなたに流れるオロチの血から生まれるもの…、あなたの一族が代々短命なのは、そのオロチの血の所為よ。
 その言葉の本当の意味を理解した瞬間、頭が煮えた。
 庵はすでにオロチの血に覚醒しかかっている、戦いを繰り返し、血を求めることでその覚醒が完璧になる、ということだ。
 神楽ちづるにとって三神器とは名前だけの存在だ。神楽ちづるは自分以外に信じるものを持たない。いや、一人だけいた。だが、死んだ。その敵を討つことだけを考えている。それと同じように、死ぬのは自分の方だった、とも考えている。ちづるにとって姉とは絶対の崇拝対称だ。そして、その姉を亡き者にしたゲーニッツとオロチ、それらは全て許し難いもの。
 その敵を討つためだけにちづるは生きている、そう言っても過言ではないだろう。封じるのではなく、殺す。それだけを胸に辛い日々を生き抜いてきた。
「知らねぇのはてめぇだけなんだよ」
 振り返る。すでに正気を失った庵を肩に担ぎながら社は笑う。左腕が千切れていた。その左腕はしっかりと閉じられた庵の口にぶら下がっている。
「鏡の守護者さんは全てわかっていたと見える、が、ゲーニッツも言っただろ? ヒトに俺たちを滅ぼすことは出来ない、とな」
「それは、やってみなければわからないでしょう…」
「威勢がいいな、そういう女は嫌いじゃない、が、どうやらお別れのようだ」
 そう呟いて、社は振り返る。そのままクリスの胸に腕をめり込ませた。喋らせる暇なく心臓を捻り潰す。その隣で、シェルミーはやはりいつもと同じ微笑みを浮かべたまま社を見つめていた。シェルミーの表情に少しだけの罪悪感を感じる。全てを伝えぬまま、真実を知らせることもなく殺すことがいいことなのかどうか、やはり社にはわからない。
「すまん、クリス、シェルミー、だが、俺もすぐに逝く!」
 シェルミーの心臓を握りつぶす。京はただそれを見つめていた。世界が白濁していくのがわかる。そのまま、社は自らの心臓をも握りつぶした。
 大地が揺れる。世界が壊れる音が耳に届く。だけれど、静寂。忘れられた風景の中で、クリスの体が浮かび上がる。恐らく知らなかった。クリス自身、自分の体が器だということに気付いていなかっただろう。神が人を愛さなかったように、オロチもまた自分の創造物である八傑集を愛さなかった。
 だが、井の中の蛙が大海を知る必要性が何処にあるのか? 何も知らずに生きて行くことの何が悪いのか? 無知である幸せもまた、確かに存在する。少なくとも、愛されていないことを知る必要性は何処にもないだろう。
「来たわね、オロチ…」
 浮かび上がったクリスの体が一瞬にして別人に変化する。見つめる瞳は蛇そのもの。半月の黒目が二人を見据える。
「我はオロチ、地の代弁者、救い難く、度し難い人間を裁くために、ヒトの世にもたらされたもの」
「能書きはいいわ」
「死に急ぐか? それとも、相手の力量も測れぬ愚か者か? どちらにせよ救い難い、理解せよ、滅びこそが貴様らに残された唯一の救いだということを…」
 オロチはだが満足そうに笑う。瞳に浮かぶ愉悦と使命。その微笑みはあるいは自分を神と錯覚した人間の浮かべる微笑みに似ていた。
「草薙、あなたにわかってもらおうとは思わない…、だけどお願い、今は手を貸して、姉様の敵を…、オロチを封じるために」
「わかってる…、てめぇの都合は知らねぇが、こいつを野放しに出来ねぇことぐらいはわかってる、こいつをボコって、その後にてめぇをボコる! 文句はねぇだろ?」
「オロチさえ倒せたなら、私は何も要らない…」
「相反しあって我を倒せると思いしか? 本当にそう思っているのなら、侮られたものだ」
「黙りな…、てめぇは殺す」
 世界の中心でオロチは満足そうに笑った。死と静寂を司る神は例えばヒトに何を望んだのだろうか?



(2)を書こうとして読み直したら、色々気に入らない部分があったので 思い切り書き直してしまいました!
一度送ったものを書き直すのは如何なものかと思ったんですが、
どうしても…! ドゥーしても書き直したくて!
で、一番気になったちづるの姉の名前ですが
2003の影響で完璧マキになっちゃってるけど、よくわかんないので名前は出しませんでした!

後、オロチ八傑集に山崎を使うのが正直嫌だったので
ゲーニッツ、社、シェルミー、クリス、バイス、マチュア、ガイデル(レオナ)、八神庵
となっております
っていうか、山崎が八傑集って…、餓狼をネタにしすぎだぜKOFスタッフさんよぉ!
後、社たちは「オロチがクリスを触媒として復活しようとしている」ことを知らない
という設定になっています
こっちの方が辻褄が合うかなぁ、と勝手に思っただけなんですけどね…

というわけで、続いて「始まりの終り(2)」の方をどうぞ〜

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