そが目は赤かがちの如くにして身一つに八つの頭八つの尾あり。またその身に蘿また檜椙生ひ、その長は谷八谷峡八尾に渡りて見ゆ。その腹は、悉に常に血たり爛れたり。
例えば、人が人形を作るとき何を夢見るのだろうか? 恐らくは何も望みはしない。人形は売られる消耗品であり、其処に意志など存在しないのだ。
では神は人を作ったときに何を夢見たのだろうか? 恐らくは何も望んではいなかっただろう。泥をこね、息吹を吹き込み、そうして自分の姿を模した泥人形が動いた瞬間、ただ歓喜に打ち震えただろう。創造は破壊へのプロセスに過ぎない。愛情が憎しみへ変貌するのは当然の帰結だ。
人は、人に近いものを作り上げようと躍起になった。土偶に始まり、人形、ロボット、プログラムされた人間、そしてクローン。それらは即ち神への道だ。人を女の腹からではなく試験管、いやさ科学者の頭の中から作り出す。それはすでに妄想ではない。実現可能な技術。科学。
神にとって最も愚かしいと思ったのは恐らく科学なのだろう。自らの失敗を知っているだけにその道を進むことで訪れる悲劇、いや喜劇をも知っていたのかもしれない。
神は傲慢だ。人を作る力を手にしながら、人を生かす術を与えなかった。その失敗も悲劇も絶望も苦しみも何もかもをただ黙って見つめているだけだ。そしてある日、全てを壊そうと思い立った。神のみが司るリセットボタン。だが、それだけでは面白くも何ともない。ならば、この喜劇を人間の手によって閉じさせる。
そうして、オロチが生まれた。破壊のために作られたオロチはそれを忠実に達成しようとした。世界の崩壊は自らの崩壊を意味すると知っていてもその使命に忠実だった。
全ては神のゲームだ。抗うことも、行うことも。その全てが矛盾していようとも。
赤い炎が地を走る。それに合わせてちづるの右腕がオロチの体を捕らえた。だが、実態がない。水に拳を叩き込むような感じでちづるはその場に倒れた。
「まだ完全ではない…か、それでも、貴様らを屠る程度の力はこの身の内にある」
「御託はいらねぇ! さっさとかかってきな!」
右腕に炎を燻らせながら京がそう叫ぶ。不愉快そうに眉を顰めてオロチは京を見やった。半月の黒目が大袈裟に歪む。
「草薙の拳…、元は我のものだった」
返してもらおうか…、その言葉とともに京の眼前にオロチの顔が浮かび上がった。振り上げられた右腕が抗う術もなく京の体を宙に浮かせる。そのままオロチのほうへと引き寄せられた。だが、その隙をちづるは逃さない。足払いから高速で浮いた体に掌底を叩き込む。グラグラと揺れながらオロチは距離をとった。
退屈は人を狂わせる。思えば、神は既に狂っているのではないか。無の世界で幾日も幾日も闇を見つめていた。変わり映えのしない闇の中で神は戯れに泥をこね、ヒトを作り出した。自分の体をモデルに造ったそのヒトのために闇を消し、野を作った。風を作り、緑を作り、音を作り、そうして世界を作った。それは退屈を紛らわすための気晴らしの存在。成程、ヒトほど退屈を紛らわせる存在はないだろう。
争いを好む一方で平等を夢見る矛盾した存在。それは確かにヒトであったが、本当は神の姿であったかもしれない。
「俺の拳は俺のもんだ、てめぇにやるような謂れはねぇぜ!」
炎を纏わせてオロチの顔面を殴りつける。反撃するように突き出された右腕がちづるの鏡で跳ね返され、自分自身へのダメージとなる。何を考えているのだろう、そうオロチは思っている。
自分の頭が何も考えていないことに気付き、愕然とはしなかった。もとよりそのように作られたことをオロチは知っている。ただ、悲しかった。自分が八つの頭の集合体である、ただそれだけの事実が悲しかった。だが、悲しいという感情もまたオロチにはわからない。生まれたばかりの赤子と同じだ。
目に見える世界が、全てが敵意を持っている、そんなことを朧気に感じただけ。
「我は全てを滅ぼすために生れ落ちた」
神の狂気はつまるところヒトの狂気だ。ならば、抗うのも滅びるのもまた当然といえなくもない。だが、沈黙する。オロチの問いかけにも、ヒトの抵抗にも、神は沈黙を続ける。神に出来る唯一つの行為、それが沈黙だからだ。
愚かな人間と無知なるオロチに沈黙を。神は意地汚く笑い、それだけを続けた。
「ならば何故、あなたは人と同じ格好をしているの?」
その問いかけにオロチは答えることが出来ない。今は感じられない満ち溢れていた力が失われたことを不思議に思っているだけだ。盲のように闇の中を手探りで力を求める。だが、そんな欠片は何処にも落ちてはいない。
八つの頭のうち、既に六つは死んだ。マチュア、バイス、ゲーニッツ、社、クリス、シェルミー。残りの二つのうち一つはオロチを憎んでいる。もう一つは今、オロチの目の前で倒れていた。
同属の匂いを嗅ぎ取ってオロチが瞬間的に庵の前に立つ。
「その力を我に…」
伸ばした右腕が捕まれた。唇の透間から血を流しながら庵が澱んだ瞳でオロチを見つめる。その手を支えにして立ち上がった。
獣の咆哮が無の世界に轟き渡る。
「神楽!」
「血の、暴走…!」
思わず身構える。オロチの血が全身を駆け巡り、視界が紫色に澱む。オロチの右腕に庵の爪が食い込んで皮膚を破った。
自らの内に湧き上がる異常なほどの興奮と恍惚。脳内が真っ赤に染まる。ちぎり取られた社の右腕が地に落ちてあっという間に溶けた。
「殺す、殺す殺す殺す殺す殺すコロス!」
その言葉に何の力があるのかはわからない。ただ、浮かび続けるその言葉を庵は口にし続けた。そのままオロチの首を握り締める。瞬間、大気が流れを変えた。オロチの流れ込んでいた力の並がその腕を通して庵の元へと流れ始めたのだ。そして、それはそのままオロチへのダメージとなる。
オロチは神の笑い声を聞いた気がした。
「ちっ、あの野郎…」
京が右腕を握り締める。其処に燻る赤い炎が煽られるようにして燃え盛った。わかっていた。共鳴していた。力の流れが京をも求めていた。
払うもの…草薙よ、この男を呪われし宿命から救ってやってくれ…
「誰だ?」
全てが狂ってしまったのは血の盟約を結びしあの日…、我が一族がオロチに魅せられてしまったあのときからなのだ。
「我が一族? 八神、いや、八尺瓊一族か!」
一度犯した過ちは改めることもなく、六百六十年もの間繰り返された…、その永きに渡る過ちを、罪を、この男は背負っている、積み重ねてきた罪は到底償えるものではない、だが…、罪は我が一族全てのもの、この男一人が背負うことはない、『封ずる者』としての役目を果たさせ、我らが罪からこの男を救ってやってくれ、もう終りにせねばならぬ、庵とともにオロチを倒せ…、
そう…、千八百年前のあのときのように。
「草薙も八神も関係ねぇ…、俺はただあいつが気にいらねぇだけだ」
噴出した炎を握り潰す。全てを悟ったようなちづるを見て京は微かに、だが微かに笑った。
「ケリをつける、神楽、フォローできるか?」
「やってみせるわ…、私も神器の一人、『護りし者』ですもの」
二人の会話を聞き、赤い炎に燃やされながら、欠片だけ残ったオロチの思考が叫ぶ。愚かな…、八神に草薙の力をぶつける気か、そんなことをすれば貴様らが死ぬぞ…。
ちづるがゆっくりと呼吸を払う。鏡の力を全身に満たし、そのまま京の体に流し込んだ。反鏡を、狙う。力の逃げ道を意図的に作り出し、京と庵には当たらないようするのだ。尤も、その力の大きさは到底ちづる一人で押さえきれるようなものではない。それはちづるにもわかっているだろう。それでもやらなければいけない。全ての宿命と運命を打ち砕くために。
其処に後悔はしないために。
「行くぜ」
クールに京は言い放つ。燃える炎を握り潰し、そのまま突進した。
庵の叫びと、京の叫びと、オロチの叫び。どれが誰の叫びで、恐怖なのか興奮なのか何もわからない。
世界が白く染まる。
突き出された拳が世界を真っ白に染めた。
八神…、何にこだわってるんだよ? 宿命ってやつか?
宿命だと? 笑わせるな…、お前が気に入らん、だから殺す、それだけだ…。
そうだったな…
白き世界の中で交わす会話は、二人らしくない穏やかなものだったのかもしれない。
オロチが死んだのかどうかすらわからない。何もわからない。ただ、近づいてくるヘリの音。目を開ける気にもなれない。息をするのも億劫だ。全てが休息を促していた。
脇腹を蹴りつけられる。それでも草薙京は立ち上がらない。ピクリとも動かない。硬く閉ざされた瞳と傷だらけの顔が全てを物語っていた。彼の周りには八神庵も神楽ちづるもいない。存在するのは鳥の羽をあしらったコートを羽織った若い男と部下のみ。テキパキと動く部下を見ながら銀色の髪の男はくだらなそうに呟いた。
「草薙の力か…、成程確かに強大だ…」
それでも、そう続けようとして言葉を止めた。京をヘリの中に運び込み、自身もその中に乗り込む。
「残る二人、八神庵と神楽ちづるは発見できませんでした、如何いたしますか?」
「放っておけ、今はこの男を本部へ連れ帰ることが先決だ」
上昇し、世界を見下ろしながら銀髪の男、クリザリッドは呟く。
「オロチが堕ち、新たな神が世界を支配する、か…」
それが自分であったならば、少女はどれだけ自分を見つめてくれるだろうか、そんなことを考えた。彼はまだ、自分が何者であるかを知らない。
角川ソフィア文庫「新訂 古事記」
『八俣の大蛇』より抜粋