5.Destruction Maniac
それは、ビリー・カーンの目から見ても明らかに行き過ぎた力の行使だった。
マフィア内の反抗勢力を武力で駆逐するまでなら、
彼にとっては取るに足らぬ組織内のいざこざに過ぎないだろう。
だがカイン・R・ハインラインはセカンドサウスという街に対して、武力を行使せんとしている。
その規模はやがてクーデターと呼ばれる域に達するだろう。
軍が動く未来さえ容易に想像出来た。
彼が革命だとこの行為を美化しようとも、およそまかり通る物ではない。
人道的にも、そして現実的にもである。
かつてシュトロハイム家でさえ行わなかった大国、アメリカ合衆国への全面的な敵対を、
彼は行おうとしていた。
「カイン…… テメェ、どういうつもりだ!」
「どういう、とは?」
ギースタワーのオフィス、苛立たし気に靴音を刻むビリーと、
何ら悪びれることなくその眼を見据えるカインの姿があった。
「私達は貴方方とは友好を築いてはいますが、傘下に下ったわけではない。
拘束されるべき理由は見当たらないと思いますがね」
「とぼけんな! セカンドサウスはギース様の遺志が込められた街だ!
俺達には守る義務がある! 調子くれたガキが玩具にして良い場所じゃねぇンだよ!」
「ハワード・コネクションからの多額の出資にはいち市民として感謝しています。
だが、果たしてそれがギース・ハワードの遺志と言えるのでしょうか?」
感情を奪うカインの眼に当てられ、ビリーは言葉に詰まった。
「何だと……」
「ギース・ハワードが望んだ物はただ豊かな、与えられるだけの平穏でしょうか?
ならば私は彼に対して失望せざるを得ない。
いや、例え彼の心が疲れていたとしても、その時間はとうに過ぎたでしょう」
彼の送り先はもう何年も前に潰えている。
「ギース・ハワードの遺志を継いでいるのは本当に貴方方でしょうか?」
「……テメェ、何が言いたい」
「誤解しないで頂きたい。私は義兄の古着など欲してはいない。
ただ、どうしても手に入れねばならぬ物がある」
その時、下階でガラスの割れる音がした。
同時に幾つもの銃声が鳴り響き、タワーを硝煙が包む。
怒声と共に雪崩れ込んで来たのはカインの私兵に違いない。
リッパー、ホッパーが統率を取り、これを迎え撃つのは迅速だった。
「やってくれんじゃねぇか、カイン。
そういうつもりなら、潰すぜ。いくらギース様の義弟でもな」
ビリーが立て掛けてあった棍に手を掛ける。
だがカインの余裕は崩れなかった。
「ビリー・カーン、貴方は先程から勘違いが激しい。
今の貴方には何の発言力もないはずだが? なぁ、ロック君」
ギラリと、カインの赤い瞳がデスクに座ったまま、ただ静観していたロックの眼を貫いた。
リッパー、ホッパーの戦闘力、統率力は見事だった。
荒くれに等しいカインの私兵達を冷静に分断し、戦力を奪って行く。
知略を武器に上り詰めたカインの私兵とは思えぬほど彼らは愚直で、
また剥き出しの戦意を持っていた。
それが、ハワード・コネクションの兵から躊躇を消した。
時代の流れと共に犯罪組織としての側面は薄れ、兵もまた大きな経験を持ってはいなかったが、
自身の身の危険は引き金を引かせるに充分な物だった。
地の利もある。戦況はハワード・コネクション側に傾いていた。
その状況が一変したのは、ガラス窓を打ち破り、
人外の咆哮を上げながら荒れ狂う魔人が姿を現してからだ。
魔人が化鳥のように軽々と宙を舞い、岩石のような足を振り下ろすと、
やがて悲鳴と、そして人そのものが舞った。
拳を振り上げればその衝撃は津波にも等しく、
もはやリッパー、ホッパーの力を以てしても陣などまるで意味を成さなかった。
「我が拳は、滅びの賞嘆…… 神への額衝きをあざけ笑い、力を崇拝する者なり……」
この世の者とは到底思えぬ存在の前では、戦術などという概念さえ生まれ得なかった。
魔人グラント。兵達は口々にそう叫び、その姿に怯えた。
あるいは味方であるはずのカインの私兵達でさえも――
「退け! アレは俺達で抑えられる代物ではない!」
もしリッパーに主と敵対する機会があったならば、やはり今と同じように撤退を命じただろう。
目の前のソレはどこか人間としての枠組みを超えた存在だった。
そして、例え数や兵装で抑えかかろうと、枠組みの内の人間には
そういうモノに対抗する術がないことを、何よりかつての主、
ギース・ハワードという存在が証明していたのだ。
何も口を挟むことが出来なかった。
いつからか世界に現実味がない。自分はこのときのためのスパイであり、駒である。
ハワード・コネクションを裏切り、地に沈める存在だ。
そう理解して、本当に理解してこの椅子に座ったのか、それさえ今は考えられなかった。
人が傷つき、倒れ行く感覚が手に取るように解った。
確かに自分の部下であり、受け入れてくれた人達。
その人達が、今、悲鳴を上げながら命の灯火を消そうとしている。
裏切りを約束されてこの場所に在ったことをさえ忘れさせる何かがここには有った。
だが、それが何だったのかは解らない。
そしてそれも、ギース・ハワードというフィルターの向こうからであることは、
否定の出来るものではなかった。混ざり合った感情はロックの心をまたない混ぜにしていた。
ビリー・カーンがギース・ハワードの名をこの場で叫ぶ度、ロックの心はキリキリと痛む。
それが誰への嫉妬なのか、いや嫉妬ですらなく、ただの憎悪であるのか、
それすら解らない程、今のロックは混濁していた。
「ロック様……」
ビリーが視線を向ける。
その瞳に映っている存在が怖かった。
「……行こう、カイン。秘伝書の場所は解ってる」
席を立ち、空虚に言うロックへカインは肩を震わせて笑った。
眼を見開いたビリーはそれを止めるでもなく、咎めるでもなく、猛然とカインへ飛び掛かった。
「カイィィン!!」
だがそのさらに上、鬼のような巨躯の影がビリーの姿を完全に包み込んだ。
「堕ちよ!」
二本の角に彩られた異様な仮面から音が紡がれる。
振り下ろされた蹴りはビリーを棍の上から蹴り落とし、そしてカインを、
ロック・ハワードを庇うように、その前へと降り立った。
「……この場は頼む、グラント」
「ああ…… さらばだ、カイン」
その言葉に、背を向けたカインの足が止まった。
「……残念だ、アベル」
カインは瞳を閉じて、そう言った。
「ロック!!」
背にカインの手を添えられ、虚ろなまま去って行くロックへビリーが叫ぶ。
だが一瞬、振り返ろうとしたロックをカインは許しはしなかった。
カインはもう振り返ることなく、ロックもまた歩みを止めることはなかった。
グラントの豪腕がビリーの眼前を通過する。
「チィ!」
この番人を倒さない限り進めないことはすでに理解した。
そして、それがビリー・カーンを以てしても決して容易ではないことも。
だが、ロックを追い、連れ戻すという意思には何の迷いもなかった。
「グラントの正体はテメェか、アベル。
確かカインを庇って心臓ぶち抜かれたって聞いてたがな。まぁどうでも良いか。
悪ぃがもういっぺん死んで貰うことになるぜ」
ビリーが照準をグラントの首筋に定める。
グラントは大地を踏み締め、瘴気のような呼吸を吐き出しながら言った。
「我はグラント…… 戦いの殉教者なり……」
ロックの足は最上階付近で止まった。
かつてギース・ハワードが修行に使っていた私室であることを、彼は何故か知っている。
威風堂々 驚天動地 天上天下 唯我独尊 疾風迅雷 乾坤一擲 因果応報 金剛不壊
異国の文字が刻まれた幟が揺れる。
和風の吹き抜けは季節が感じさせる以上に冷ややかに感じた。
その中にあって、まるでマグマのように煮え滾り、血を凍らせる冷風を放つその場所を、
何故、カインはわざわざ自分に聞くのか不思議だった。
場所を聞くと、カインはロックを遠ざけ、一人で歩を進めた。
ロックには、その場所には近づきたくないという思いと、
また、場所を教えたにも関わらずやはり理解していないのか、
別の引き出しを探るカインにもどかしさを感じた。何故その妖気が解らない。
ただ、やはり背の向こうへ進んではならない気がした。
そう思い、部屋を出ようと踏み込んだ一歩目、その背をガチリと掴まれた。
立ち眩みにしても、ここまで強烈な貧血には出会ったことがない。
肩にかかった黒い手は、重い感触が確かにあるにも関わらず輪郭がぼやけており、
明らかにカインの物ではない。
映像が網膜で止まる。唇が急速に乾いて行く。
白くなる思考に恐怖し、ロックは振り返らず駆け出した。
「お、おおぉ……! これで、ついに……」
カインの眼前、透明なケースに封印された巻物が二つ。
そして、カインのコートの内にもう一つ。
最強の男の元に集うという、秦の秘伝書が、今、ここに全て集まっていた。
噴き出した黒い霧は部屋中を包み、呼吸をすら困難な空間を生み出している。
棍を打ち込む度に違和感が生まれる。
いや、この目の前の男が声を発するだけで何か間違っている気がするのだ。
それだけその声は遠く、存在は白んでいた。
「……テメェ、本当はもうとっくに死んでんじゃねぇのか?」
目の前で言うビリーの声さえ届いていないかのように、
グラントは咆哮を上げながら足を振り上げた。
その咆哮さえもどこか遠く、まるで感情を感じさせなかった。
壁に叩き付けられ、ビリーが何度目かの血を吐き捨てる。
「噂の魔人は幽霊さんでしたってか? そりゃあ誰も勝てねぇわけだ……!」
続いての蹴りを躱しながら、奪った背後で軸足を打つ。
巨体が揺らぐことはなかったが、動きを止めるには充分だった。
その背に棍を突き立て、駆け上がる。
そのまま空中で縦回転し、グラントの顔面へと棍を打ちつけた。
仮面などで遮られる一撃ではない。
ビリーはそのまま壁に足を突き、反動を付けて間合いを取った。
仮面が割れ落ちる。
グラントの肉体と違い、仮面はこの世の存在に過ぎなかった。
振り返った魔人は顔を巨大な手で覆い、素顔を見せようとしない。
いや、まるで陽の光を恐れているかのようだった。
だが、その焦燥がグラントをさらなる魔獣へと変えた。
棍の牽制をすら肉体で弾き、巨体を武器にただ突進して来る。
それが小柄なビリーには果てしなく重かった。
脳へと杭を打つような拳が降り注ぎ、さらには突き上げる拳が顎を襲う。
とても防御で衝撃を殺せるものではない。
続く規則的に円月を描く強烈な蹴りはついに受け切れず、ビリーの棍は二つに裂けた。
「ッキショォ! バケモンがァァ!!」
肉弾の波に呑まれ、もはやこの魔神が如き男を止める術は無いかに思えた。
だが、ビリーが突き出した苦し紛れの一撃がグラントの左胸に触れると、
それだけで、たったそれだけのことで彼は動きを止めた。
いや、失ったのだ。今まで必死にしがみ付いていたモノが乖離して行く。
彼はもう二度と動きを取り戻すことはなかった。
ビリーが触れた彼の冷たい肉体は、しかしただの人間の物だった。
手が弾けた。
手首から先が吹き飛んだのかと、カインは動揺した。
見れば、しっかりと手は付いている。視線を戻すと、そこには秘伝書がまだ存在していた。
触れられないのか。触れさせないのか。
「秦王龍よ…… 私では三本の秘伝書を手にするに相応しくないと言うのか!」
カインは怒気を隠さずに吼えると、両腕を広げ力を引き出した。
全身を蒼い炎が包む。
人体から立ち昇る鮮やかな炎は部屋中に広がる瘴気すらも呑み込むようだった。
「見ろ! 八極聖拳を得、口伝のみで身に纏ったシュトロハイムの炎を!
全て貴方の残した秘伝の技だ! それでもまだ私を認めぬと言うか!」
それに呼応したと表現するにはあまりに超然と、寒々しい煙が生まれた。
秘伝書より沸き立つ煙はやがてカインの視界を完全に覆い、
そして彼の目にはあまりにも巨躯に見える、もろ肌の男の姿を薄く認識させる。
「ギ……!」
その、顔も判別出来ぬほど歪んだ存在はしかし、圧倒的な存在感を示していた。
かつて、この街の人間の誰もが畏怖したその男は、カインにとってもまた変わらぬ存在。
いや、“畏怖”という念では誰よりも強くその思いを持つ人間が、
このカイン・R・ハインラインだったかも知れない。
「ギース・ハワード……!」
怨霊としか思えぬ湯気を立ち昇らせたギース・ハワードの足袋が床を貫く。
本来、貫かれたはずの床は抜けることはなく、底冷えのする熱風だけがカインの顔を打った。
そして、その左腕が振り上げられる。
「ぅおおおおおおおおおおお……!!」
両腕を交差し、全力で地を踏み締めるカインが尚遥か後方へと弾かれる。
その烈風は彼の纏っていた業炎をすら容易く吹き消した。
「……こ、これが、ビリー・カーンが秘伝書を消さなかった真実なのか!?」
彼が眼を見据えれば、誰もが感情を露にする。
血圧が透けて見え、緊張、虚勢が手に取るように解る。
それはすでに彼の観察力、洞察力、感受性が生んだ奇跡と呼ぶ以外にない。
カインが人間と対峙するとはそういうことだった。
だがその存在には感情がなく、あるいは感情しかなく、禍々しい吐気を打つのみだった。
「――否! あの男が生きているはずはない!
ギースの夢を使役してまで私に触れさせぬと言うのか、王龍!」
カインは再び、先よりも強い炎を身に宿し、黒煙へと直進した。
炎の中からさらに燃え盛る右腕を伸ばし、ギース・ハワードを抉る。
そこには何の感触もなく、ただその掌の中に、
火に炙られてもまるで揺らぐことのない、秘伝書だけが佇んでいた。
「そうだ…… それで良い……」
興奮を無理に抑えるカインの肌には汗が沸き立ち、長い髪が頬に張り付いていた。
パサパサと崩れるそれにはすでに元来あった瑞々しさを感じない。
だがその口元には、病んだ笑みが浮かんで、静かに震えていた。
戻って来たカインがどっと疲労していたのは感じたが、
だからと言って何か言葉をかけるでもなかった。
男達が競り合う声や、鼻を突く硝煙すらも意識の外にある。
正しいことをしているのか、あるいは過ちを犯しているのか、
それを自分で考える意味があるのかが、今のロックには解らなかった。
ただ、ボロボロの姿で立つ目の前の男には痛みを感じた。
「年貢の納め時ってヤツだぜ、泥棒さんよ……」
「心外だな。ギース・ハワードの持ち物ではあったかも知れないが、
これはお前の物ではないはずだ、ビリー・カーン」
ビリーは折れた棍を突き、かろうじて立っているようにしか見えない。
だが、この男が確かにこの場に立っているということは、
盟友、アベル・キャメロンが最期を迎えたことを意味していた。
すでにカインに薄笑みはなく、瞳は静かに閉じられていた。
「……馬鹿野郎、テメェが返すのは秘伝書じゃねぇよ」
ああ、とカインは薄く瞼を開いて背後、肩口へと目をやった。
そこに浮かぶ不安気な赤い瞳を一瞥し、酷薄な笑みを浮かべる。
「ロック君、キミの部下が道を塞いでいるのだが?」
言わんとする所は理解出来た。
「……ビリー、退いてくれ。俺はカインと一緒に行く」
「出来ねぇな。カインに何を吹き込まれたのかは知らねぇが、
社長をみすみす誘拐されたとあっちゃ社員の名折れもいいところだ」
「俺が退けと言ってるんだぞ?」
「今のテメェの言葉はロック様の言葉にゃ聞こえねぇよ」
「……ッ!」
言葉に詰まったのは、棘を穿たれた証。
唇を噛むロックをビリーはすでに見ていなかった。
「テメェがトチ狂うのは勝手だがな、カイン…… ロック様は返して貰うぜ!」
跳び掛かるビリーを目前にしてカインは動かない。
すでに本来の威力のない棍の残骸を止めたのはロックの手だった。
「退けよ、ビリィィ!」
ロックが左腕を思い切り振り抜く。
頬へまともに受けたビリーは引きずられ、膝を突いた。
だが、その目には驚きも、焦りもない。低い視線から今度はロックの目をはっきりと睨んだ。
「――ぬるいな。とてもロック・ハワードの拳とは思えねぇぜ」
「オオオオオオオオオオ!」
踏み込むロックの肘を棍ではなく、腕で受ける。
想像以上に動かない足でそれを完全に止めるのは不可能だった。
よろめき、再び膝を突きたがる身体を叱咤するも、それでロックの攻撃が止むわけではない。
沈む顎を蹴り上げられ、意識が飛び掛かる。そのスピードとキレは決してぬるくはなかった。
だが、それでもビリーは倒れず、挑発的に唾を吐き捨てた。
来い、とその目が語っていることがロックにも解った。
苛立ちのままに吼え、再び直線的に間合いを詰めるロックの腕を掻い潜り、
棍の柄を腹へと打ち込む。
一瞬、止まった足へと蹴りを打ち、再び柄で間合いを離してハイキックを狙った。
だが、体術においてロックはビリー・カーンの上を行っていた。
例えビリーが万全であってもその力の差が動くことはなかっただろう。
蹴りを反応だけで受け流したロックは同時にビリーの肩口へと踵を打ち付けていた。
――すみません…… ギース様……
衝撃のままに膝を落とすビリーの表情を、ロックは目にすることはない。
――すまねぇ…… テリー……
――俺じゃどこまで行ってもあの方の代わりにゃなれねぇわ……
ロックの左拳が眩しく輝き、沈むビリーの額を打ち抜く。
駆け抜けたロックの背でうつ伏せに倒れたビリーはもう起き上がることはなかった。
カランカランと主を失った棍の跳ねる音がし、やがてそれも失われる。
「行くぞ」
うずくまって息を荒げるロックを一顧だにせず、カインは何の感傷もなくその背を抜いて消えた。
付着した血の帯びた熱が徐々に冷えて行く。なのに、拳が痛い。
今は遠くから聞こえる最も父の近くに在った男の声が、記憶の中で鳴っていた。
彼が自分の中にギース・ハワードを見ていたのか。
彼の中のギース・ハワードを自分こそがただ恐れていたのか。
その答えを知るにはその男の声は複雑で、そして優しすぎた。
「――なんでだよ……」
コンクリートの粉末に埋まる彼の背は、もう何も語ってはくれなかった。
【6】
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