――ブラックサバス作戦。

まず、リー・ガクスウが取り仕切るサイクロプス刑務所の囚人に
組織の先導で集団脱走を行わせる。
ここでリー・ガクスウを足止めしつつ疲弊させ、
さらに街へ出た無法の囚人達と組織最下部のメンバーとで小競り合いを起こさせる。
その火種が爆発する地はポートチャイナタウンだ。

暴動に乗じて橋や道路を破壊し、逃亡者も侵入者も許さない。
やがて街のチンピラ達も巻き込み、暴動の波をサウスタウン中に広げ、
その混乱の最中に組織と対立する強者や要人を全て殺害する。

最後にはチャイナタウンを滅ぼしたMr.KARATEを使っての、
上に君臨する組織のボスと、そしてギース・ハワードの殺害だ。
勿論、表向きには暴動に巻き込まれて死んだ、ということになる。
署長に金を握らせてあるため、警察も本腰では動かない。

この完璧な作戦を遂行することで、
Mr.BIGには念願の、サウスタウンの全てが手に入ることになるのである。

だが、ジェフ・ボガードはこの町、ポートチャイナタウンに居た。
事の流れはこうである。

まず、リー・ガクスウが刑務所内での不穏な空気を敏感に感じ取り、囚人を尋問する。
囚人は勿論、ただの脱走計画しか知る由もないが、
組織が絡んでいるとあれば他にも何かある。
ガクスウは養子、パイロンに連絡を取り、リー一族の総力を挙げて情報を集めた。

するとやがて、組織の慌しい動きから、この金曜日が割り出せたのである。
リー・パイロンは八極聖拳に応援を要請し、そしてジェフ・ボガードがやって来た。
チャイナタウンも迎え撃つ体制は万全なのだ。

だが、そのことまでもMr.BIGの計算には入っていた。
むしろポートチャイナタウンにチャイナタウンの強者要人が集まってくれれば
好都合だと彼は思っていた。

こちらは、Mr.KARATEが居る。
力押しでも十二分に分がある。


そして、ポートチャイナタウンではもう一つの騒動があった。
リー・ガクスウの後を継ぐ形でリー一族の頭首となっているリー・パイロンが、
金曜を待たずして、妙な訛りの言葉を使う男に倒されてしまったのである。

「なんや、えらいことになってもうた」

そんなことを、その男は言った。
彼こそが、端正なマスクに長い髪を後ろ手に結んだ、フェラーリを乗り回す最強の虎、
ロバート・ガルシアだった。

彼はユリ・サカザキの行方を探るためにチャイナタウンに突入し、情報収集に明け暮れた。
秘密主義者が多いチャイナタウンの人間からの収集は困難を極めたが、
やがてリー一族という一派が権力を持っていると知ると、
半ば殴り込みに近い形でリー・パイロンへと詰め寄った。

頭に血が上っているロバートは、まだ確かでない情報をぶつ切りに話すリー・パイロンが
何かを隠しているようにしか見えず、やがて口論。
このパイロンという男も好々爺の仮面を被りながらもなかなかに残忍な一面を持ち、
強者を師、リー・ガクスウ譲りの鉄の爪で切り裂くのを何よりの楽しみとしていた。

それ故、ガクスウは90を超える年になりながらも後を譲れず、
養子のパイロンも66という高齢になってしまっていたわけだが、
やはりそれが災いした。

闘いを始めたパイロンとロバートは、激闘の末、ロバートが勝利してしまったのだ。
なんとリー一族は暗黒の金曜日を前にして頭首を失ってしまったのである。
その後、事情を理解したロバートは謝罪し、
負傷したリー・パイロンに代わって暗黒の金曜日に暴徒鎮圧を行うハメになっていた。

「わいはユリちゃんを捜さなならんのに……」

当然のように嘆くロバート。
彼にとってユリは、親友の妹とという以上の存在だった。
気が気ではない。

「そう言うな。
 時期を考えればこの今度の暴動とユリ・サカザキ誘拐にも繋がりがあるのかも知れん。
 組織の人間を捕えれば必ず情報は入って来るはずぢゃ」

そう言ってヒョッヒョッヒョッと笑うパイロンはいまいち信用出来ないが、
リー一族の情報収集能力は確かな物だった。
彼らの協力は何よりの手掛かりになるだろう。
それを考えれば、ロバートにこの話を断ることは出来なかった。

すまん、リョウ!もうちぃと待っといてくれ!
必ずええ情報持って行ったるさかいな!



――そして暗黒の金曜日。


まず、脱走が始まる。



日頃抑え付けられていた囚人達は、地響きのような怒声を上げて暴れ出した。
手にしている武器弾薬は、ジョン・クローリーと、
彼の手助けをしているミッキー・ロジャースという男の手によって与えられた物だ。
組織の動きばかりを気にしていたリー・ガクスウは、
不覚にも組織外からの接触を見逃していた。

つまり、脱走計画の鎮圧は失敗したのである。

開放感を満喫するように銃弾を撃ち続ける囚人達。
その被害を少しでも食い止める為に、リー・ガクスウが刑務所内を奔る。
獣の動きで銃の狙いを外し、鉄の爪で囚人を切り裂きながら彼は後をロバートに託した。

「――頼むぞ、極限流の虎よ」


祭りだ、とジャック・ターナーは言ったが、それはまさに、
紙テープの代わりに血を巻き上げる祭りだった。
一気呵成に脱走して来た囚人達は組織の先導でポートチャイナタウンへと落ち延び、
そこで裏切られた。

何も知らされていない組織の下っ端達は、
言い遣わされていた通りに囚人達の捕獲任務を行う。
囚人達は再び武器を構えてそれに抵抗した。

その祭りの最中に、全てを知っているMr.BIG直属の部下が
チャイニーズマフィアとリー一族を殺すために走る。それに警察も形ばかり加わる。
もう誰がどの勢力なのか全く解らない状況の中、
ロバートは目に付く人間を片っ端からのして行った。

彼にとってはリー一族と警察以外は全て敵、という認識で良いのである。
そして警察は当然制服を着ているし、
リー一族は全員、特徴的な中華服を着ているので、見分けるのは実に容易い。
一騎当千のロバート・ガルシアを加えて、
リー一族による暴徒鎮圧は順調に進行していた。

だが、やがてロバートの快進撃も足止めを喰うことになる。
そこに最後の武器引き渡しを終えた、ミッキー・ロジャースが混ざっていたのである。
このミッキー・ロジャースという男はただの配達員ではない。

ボクシングの世界チャンピオン確実と言われながらも、ジムの裏切りに遭い、
詐欺行為を働かれて全ての金と、ボクシングを奪われた。
荒れたミッキーはストリートファイターに身を落とし、暴力で自分を慰めたが、
やがてそのファイトがビフ・マードックというトレーナーに見初められ、
瞬く間にアマチュアのチャンプの座を手に入れた。

しかし、いよいよプロへ転向といったところで、彼をまたアクシデントが襲う。
彼はストリートファイター時代に恨みを買い過ぎたのだ。
些細なケンカに巻き込まれたミッキーは、またしてもボクシングを失い、
今はジョンの片腕として組織に加担し、武器を流す堕落した日々を送っている。

だが、この男は確実に強い。
暗黒街のチャンプという異名は彼には不愉快だろうが、
彼はその力に加え、さらにMr.KARATEのトレーニングで
拙いながらも気の力を扱えるようになっていた。

ロバート・ガルシアと言えども、この男を倒すには時間がかかる。

そして、ロバートが足止めを喰っている間に、
Mr.KARATEが、ジェフ・ボガードの元に現れていた。



大地が、泣いている。
この男を前にして、ジェフ・ボガードはそんなことを感じていた。

――これは軋んだ大地の涙か、あるいは彼の涙か。

目の前の鬼の闘気は唸りを上げて今にも襲い掛からんとしていたが、
その気の鳴動が、ジェフには彼の泣き声のように聞こえた。

だが、そんな感傷を感じている場合ではない。
目の前には確かな殺気を持った鬼が、闘いの構えを取って立っているのだ。
ジェフ・ボガードはMr.KARATEを倒さねばならない。

この天狗の男の周りには、誰も近づかない。
否、その闘気に誰も近づけないのだ。
暴動の最中であっても、彼らの闘いは1対1だった。
Mr.KARATEの闘気が描く円の空間が、二人の闘士のコロシアムだ。

対峙しているだけでジェフの頬に汗が伝う。
こんなプレッシャーは初めて――

いや、ジェフは以前にヴォルフガング・クラウザーと闘ったことがあった。
今の自分の力とMr.KARATEの力を測りにかければ、
疲労はしても、怖気づくことはない。

呼吸法を使い、全身に闘気を満たす。
黙っていても溢れ出て来るようなMr.KARATEの闘気と比べても一歩も引かない、
ジェフ・ボガードの今の力だった。

ジェフ・ボガードは、秘伝書を読んだ男なのである。

互いに踏み込み、拳を合わせ、そして退く。
力はMr.KARATE、技はジェフ・ボガードの方が上に見えた。
そして互いに潜って来た修羅場が並大抵の数ではない。
そう簡単に致命の一撃など入れられるはずもなく、闘いは消耗戦となった。
あるいはBIGの計算では、ジェフがここまで強いとは思っていなかったかも知れない。

Mr.KARATEの剛拳がジェフを襲った。
横向きに身を躱し、それを両手で抱き込んで受け止める。
服の袖がスクリューに巻き込まれたように弾けた。
だが、止めた。
息がかかるような距離で二人の強者が止まる。
ジェフにはその拳が、大地を通じてやはり泣いているように見えた。

「拳を引け! 貴方が義の人ならば、ここで闘う意味はない!」

Mr.KARATEは何も言わない。
ただ腕の筋肉を膨張させ、片腕でジェフを持ち上げるように振るった。
浮かされながらも後方に着地するジェフ。

――やはり、倒すしかない。

だが、正面から倒せる相手でないことはすでに理解している。
再び呼吸を整え、全身に闘気を充満させる。
Mr.KARATEの呼吸音も同じように気を充実させていることを示している。
互いにこの一撃で決める気のようだ。

――ならば。

ジェフは愛用のグローブに包まれた右拳に気を集中させた。
バーンナックル。
いや、拳だけではない。手首も、肘も、肩も。
右腕全体が青白い闘気に包まれている。

Mr.KARATEは構えたまま微動だにしない。
ただその闘気だけが嫌な熱となってジェフの頬を撫でる。

撃つ!
ジェフは照準を定めるように左手を突き出し、そして飛ぶように駆けた。
決めるのは光る右腕だ。
それが解っているから、Mr.KARATEは利き腕の右で防御しようとした。
手首を逆に曲げながら、太い右腕でジェフの拳を止める。

だが、Mr.KARATEの右腕に触れたのはジェフの左手だった。
防御に構えられた右腕をジェフの左手はガッチリと掴む。零距離。
掴んだ瞬間、Mr.KARATEの左拳が頬を切った。
ニ撃目はもう避けない。
青炎に燃え盛る右腕を、射抜くようにMr.KARATEの腹へ打ち付けることだけを考えた。

三撃目、四撃目、左手一本で放たれる信じ難い速度の連撃を
あらゆる部位に浴びながら、ジェフは右腕を打ち抜いた。

「うおおおおおおおおおおおおお!!」

インパクトの瞬間、ジェフの右腕に留まっていた闘気が大蛇の口のように
Mr.KARATEの全身を飲み込んだ。
確かな手応え。一瞬力が抜ける。

だがそこに、まだ連撃を繰り返す鬼の左拳が飛んで来た。
その拳は嗚咽を漏らす空気すら与えず、ジェフの身体を宙へ浮き上げていく。
極限流の奥義の中で最も高度な部類に入る、暫烈拳だった。

やっと解放されたジェフはそのまま宙を舞い、遥か後方に倒れ込んだ。
同時にMr.KARATEも腹部を庇うようにして膝を突く。

ジェフの相討ち狙いは成功した。
だがまだ、互いに生きている。
闘いが終わりではないことは、Mr.KARATEの闘気が証明していた。


そこに――

風が吹いた。

誰も足を踏み入れられないはずのコロシアムに、
そこがただの通路であるかのように、肩口まで伸びた美しい金髪を靡かせて、
その男は入って来た。

自分には目もくれずMr.KARATEへ接触するその男の背は、
霞んだ目でも見紛うはずもない――

ギース・ハワードの物だった。



「天狗の面は気に入ってくれたようだな」

Mr.KARATEはまだ腹部を庇いながら、黙ってギースを見ている。

一瞬の沈黙。

「――それより、面白い事をしてくれたな」

ギースが再び口を開いた。

「お前が教えた気功術によって、
 組織の連中までが大なり小なり気功を身に付けてしまった。
 ひた隠しにして来たタン・フー・ルーが浮かばれん。
 そうまでしてリョウ・サカザキに今の姿を見られたくないか?」

非難するようにMr.KARATEに言うギースだが、その口元は笑っている。
付け焼刃の気功を身に付けた程度で自分の領域が侵されることはないと、
そう確信しているからこその余裕だ。
そしてこの街に次々と強者が生まれることは、
時期尚早とはいえギースにとっても歓迎すべき出来事だった。

Mr.KARATEが立ち上がり、闘気がより一層の熱風を巻き上げる。
ギースの髪が舞った。

「クックックッ、そう怒るな。良い報せを持って来てやったんだ。
 ユリ・サカザキは――もう組織にはいない」

「――ッ!」

Mr.KARATEが初めて面の裏から声らしい音を発した。

「貴様が!?」

「いや、私ではない。キングという女だ。
 何を考えているのかは知らんが、この女がすでにユリをBIGの元から救い出している。
 リョウ・サカザキに惚れでもしたか?」

――お前の息子もなかなか隅に置けん。


ギースがそう言って笑っているのが聞こえた。
サカザキがMr.KARATEの息子――
ならば今闘ったこの男が、不敗の格闘家タクマ・サカザキ。

その涙は、娘を奪われた哀しみと、その為に息子を討たねばならない哀しみ――


「今、――どこへ居る?」

Mr.KARATEがタクマ・サカザキに戻ったように、ハッキリとした言葉を話した。

「そこまでは知らんよ。私に女性のプライベートを監視する趣味はない」

何もしていなくともあれだけ噴き出していたMr.KARATEの闘気が消えた。
だがそれは力を失ったのではなく、何かの覚悟が決まったような、
悟りに似たような物を連想させた。

不敗の修羅が、チャイナタウンを去る。
ギースはポケットに手を入れ悠然と、
ジェフは驚きを隠せない様子で半身にその背中を見送る。
耳になど入っていなかったが、暴動の狂声も静かになったように感じた。

この場所には今、ギース・ハワードと、ジェフ・ボガードの二人だけが存在している。

ギースは現れてから一度もジェフの姿を目に入れずに居る。
見るのが、怖いのか。
ジェフはギースの背をじっと見ている。

細かな内情は知る由もなかったが、
今、確かにギースの言葉でタクマ・サカザキが退いたことで、
ジェフは微かな希望を感じていた。

組織に身を置いていても、ギース・ハワードはギース・ハワードに変わりはない。
共に笑い合い、共に修行した、あのギース・ハワードが
何もかも無くなってしまったわけではない。

そんな希望が、ジェフの胸には浮かんでいた。

だがそんな気持ちを裏切るように、ギースは一瞥もくれずに去って行く。
引き止めなくては――
言葉を考える逡巡など、あるはずもない。
ジェフはただ自分の真実の想いを、精一杯振り絞っていた。

「ギース! 戻って来い、ギース!
 俺達は何も変わってはいない! 俺はお前を信じている!」

ギースは振り返らない。一瞥もくれない。歩を止めることもない。
ここで振り返ってしまえば、甘い幻想の中に引き摺り込まれる。
ジェフの優しさに削られ、下らない話で笑い合う自分に幸福を感じてしまう。
何のことはない、何の不満もない毎日に牙を溶かされ、自分の形を失ってしまう。

戻りたいという想いを、クラウザーの狂眼が消す。
悪夢は毎日襲って来る。一日とて休んではくれない。
今、牙を失えばその夢に命を枯らされ、母のように泣きながら死ぬことになるだろう。

ただ力だけを求めて入った八極聖拳の道場で、
自分をここまで削ってしまったジェフ・ボガードという男が憎い。
憎めば良い。憎しみは数え切れないほど持っている。
何の繋がりもない人間を憎むことすら容易に出来る。

だが――


ギースは振り向かず、一瞥もくれず、歩を止めることなく、
ジェフの前から去って行った。

西暦1978年の、地がむせ返るような夏だった。



「――ギース様」

いつもの様に椅子を後ろに回し、
タワーの窓から日の落ちかけた外を眺めているギースに、
リッパーは報告を持ってやって来た。

ポートタウンには昼間の大暴動の爪痕がそこかしこで見られるのだろうが、
帰って来たイーストアイランドは平和そのものだ。
だがその暴動もとうに終わった。
Mr.KARATEを失った時点で、ブラックサバス作戦は失敗したのである。

ギースは振り返らずに言った。

「言わずとも良い。Mr.BIGが敗れたのだろう?」

「は」

仕事を奪われたようで、こういう時はギースの洞察力が少々憎らしい。

「しかし、BIGも馬鹿な男だ。己の器以上の物に手を出すから破滅することになる。
 タクマはBIGを殺したのか?」

だがここでリッパーは大きく意外に思った。
いつも完璧だったこの人が、ちょっとした勘違いをしている。

「いえ、Mr.BIGを倒したのはリョウ・サカザキです」

「――何?」

振り返る。

「ロバート・ガルシアの手も借りたようですが」


――リョウ・サカザキ

極限流を使うタクマの息子。
それ以上の認識は持っていなかったし、たいした興味もなかった。
所詮は二世。タクマに比肩する使い手にはなれないだろうと思っていた。
極限流空手はタクマから奪えば良い。

それが、BIGを倒した?

ギースはMr.BIGを小人物だと侮蔑してはいるが、
正面から闘った際の戦闘能力に関しては決して見くびってはいない。
戦場で部族から教わったらしい猛獣を狩る棒術の腕は、
彼が小人物でさえなければ、部下に欲しいとさえ思っている。
それに加え、彼には並外れた統率力、現場指揮能力がある。

そのMr.BIGがタクマ・サカザキ以外の男に敗れるなど、
ギースの考えの中には全くなかったと言って良い。
いや、タクマへのこだわりが強すぎるが故に見落としていたのかも知れない。

リョウ・サカザキとロバート・ガルシアという新しい世代の龍虎の実力に、
ギースは大きな魅力を感じた。


「――そのリョウ・サカザキ達は今、何をしている?」

「は、ロバート・ガルシアはユリ・サカザキの元へ。
 リョウ・サカザキは今、龍神館へ向かっているようです」

「あの道場か――そこに何がある?」

「タクマ・サカザキが待っているものと思われます」

「………………」


感動の再会――

などとは考えなかった。
タクマ・サカザキはユリ・サカザキが無事と知っても、面を取らずに去った。
その姿がギースには多少の違和感となって残っていた。
タクマ・サカザキはけじめを付けるために、息子と決着の闘いを行うつもりだ。
今、ギースにはそう思えた。

タクマの荒ぶる極限流と、それを継ぐ、Mr.BIGを倒した極限流の闘い。
タクマは容赦などする男ではない。それは壮絶な殺し合いになるだろう。
肉親のためにたった一人で闘って来た男が、その肉親に牙を剥く。

――この目で見たい。


が、


――不粋だな。


「リッパー、結果だけ報告を入れろ。今日はもう良い」

それだけ言うとギースは車を用意させ、
イーストアイランドの中央にある自宅へと帰って行った。

疲労が隠せない。
ジェフ・ボガードの言葉。

――お前を信じてる。

それがリフレインする度に、ギースの肩には重りが圧し掛かった。
身体が重い。

今日はもう、休息したい――



門前雀羅を通り越し、完全に廃墟となっている今にも崩れそうな暗闇の道場に、
静かな火が灯っていた。
かつては毎日くべられていたのであろう松明が、10年ぶりに命を持つ。

道場内はその草臥れた外観が嘘のように、
神聖とも取れる、異質な空気に包まれている。
炎を両脇に立たせ、『武王』『武神』と刻まれた掛け軸の前に立つ男。
その源は、その男が発散している闘神のオーラだった。

「――Mr.KARATE」

息子の言葉へは闘気で応える。
それが、タクマ・サカザキの生き方だった。

かつて、我が子に極限流を叩き込んだ場所。
かつて、父に極限流を叩き込まれた場所。

それ故に修羅を背負い、それ故に生き抜くことが出来た。
親子の再会には、拳を以ってしか解り合うことは出来ない。

「もうユリは組織にはいない。お前を縛っている物は何もないはずだ。
 何故その面を取らない! Mr.KARATE!」

「――この場所では、拳以外は何の意味も成さん」

Mr.KARATEは静かに、静かに口を開いた。

「ならば、その面叩き割って正体を暴いてやる……!」

腰の横に両手で構え、低く唸るように息を吐き出し、丹田に力を込め、
極限の闘気を全身に集める。
互いに同じ行動。互いに同じ構え。
軽く握った手を胸の前に置き、膝でリズムを取った。

始まる。

まず、リョウが飛んだ。
その気合を吐き出すように間合いを一気を詰める跳び蹴り。
一撃目は払い除けられたが、この飛脚にはニ撃目がある。

「飛燕疾風脚!」

だが、それまでも軽く跳ね除けられた。
タクマ・サカザキが一代で編み出した奥義。
受け方も全て身に付いている。

バランスを崩したリョウにMr.KARATEの剛拳が襲い掛かる。
躱した。幼き日に打ち込まれた拳がフラッシュバックし、リョウに見切りを与えた。
互いに手は見えている。ただ獣のように殴り合うしか、彼らにはない。

打った。ただ無心で打ち続けた。
打ち付けられる痛みに追憶を感じながら、リョウは全霊で打ち続けた。
Mr.KARATEの口元には血が滲んでいる。
だがそれはリョウも同じ。
打ち込んだ数だけ、リョウも打たれる。
決着などない。命果てるまで、輝きながら踊り続けるだけだ。

リョウの右正拳突きと、Mr.KARATEの右正拳突きが交差する。
血の糸を引きながら、初めて間合いが離れた。


「――そんな物か?」

Mr.KARATEが口を開いた。

「何?」

全身に痛みを感じ、立っているのも辛い自分とは違い、
Mr.KARATEの肉体は流れ落ちる血とは比例せず、
さしたるダメージは受けていないように見えた。
それを見ればむしろ、敢えて受けていたようにも思える。

「何も篭らぬ脆弱な拳を打ち続けても、わしの命を奪ることは出来ん」

オオオオオオォォォォオオオオォォ―――……

それはMr.KARATEの唸りか、あるいは大気の鳴動か。
明らかに今までと変わったオーラがMr.KARATEの全身を包んでいた。
向かい合うだけで命を削られて行く闘気。
すなわち、――殺気。
Mr.KARATEの殺気を、リョウは初めて受けていた。

身体が痙攣する。
空気を奪われでもしたのか、息苦しい。肌が弾けてマグマのように猛り狂っているようだ。

――これが、Mr.KARATEの本気……

汗を奪い取る熱風が、リョウの全身を撫でた。
リョウとMr.KARATEの拳は確かに同じだが、リョウにはこの殺気がない。
綺麗な拳を幾度打ち付けても、Mr.KARATEが倒れることはないだろう。

「覇王翔吼拳を会得せん限り、お前がわしを倒す事など出来ぬわ!」

――覇王翔吼拳。

極限流の奥義の中で、最強の威力を誇る闘気の大砲。
身の丈を超えるような気の波動を打ち出せるのは、その奥義を極めた者のみ。
間違いの無い、殺人を生む拳。
この奥義が無いのならば、つまりは覚悟のない拳。
息子の21年は、軟弱の域を出ないということだ。

吹き飛んだ。
気の受け、などという防御法もその前では何の意味も成さない。
ただ、両腕を交差させたまま、リョウは何メートルも吹き飛び、
崩れかけた思い出の道場を、自らの肉体で突き崩して行った。

だが、起きる。そして構える。
リョウの低く唸る音が、Mr.KARATEには聞こえた。

「覇王――翔吼拳!」

今度はMr.KARATEが吹き飛んでいた。
炎の紋様が施された、今は剥き出しとなっている地面をしっかりと踏み締め、
何メートルも押され続ける。
地から吹き現れる砂煙と火花が、リョウが覇王翔吼拳を会得したことを証明していた。

松明の火が消える。真っ暗な闇。
笑っているのか、泣いているのか。
リョウには見えない。
ただ前に駆けて、今度はぶつかり合う拳で火花を散らす。

笑っているのか、泣いているのか。
リョウには自分の顔が解らない。
ただ心が、何事が吼えているのだけが感じ取れた。
火花が舞う度に、暖かい哀しみが、ボロボロの身体を包んだ。

拳が当たる。確かな感触。
だがその感触さえ次第に薄れて行く。
何も見えない。何も考えられない。
ただ目の前の男に、渾身の拳を打ち付け続けた。
感情があったとすれば、涙が舞っていたかも知れない。

――父さん

瞳が潤んでいるからなのか、リョウには何も見えない。
何も見えず、何も感じず、ただ無意識無想のままに拳を打ち付けた。
打ち返されているのかも、もう解らない。
この感覚――龍虎乱舞。

左正拳、左正拳、ローキック、右正拳突き、ボディブロー、外回し蹴り、
左正拳、ボディブロー、後ろ回し蹴り、左正拳、右正拳突き、横蹴り、
そして、ビルトアッパー。

父から教わった全ての拳に魂を乗せて、ただ無心のままに打った。
父が力無く立っているのがぼんやりと見える。左胸の古傷が大きく開いている。
ローキックを打った。崩れる。右フックを打った。首を捻りながら後ろへ飛んだ。
もう抵抗する気力はないのか。ゆっくりと前進してボディブローを打った。
ついに膝を突いた。もう動く様子はない。

トドメを、刺さなければ――


「覇王――」



その時、光を感じ、


「やめて! お兄ちゃん!」


一番聞きたかった声が、自分を止めた。


「――ユリ……!」

「リョウ! すまん! 遅ぅなった!」

「――ロバート」

大丈夫か?心配した、そんな言葉を妹にかけた後、
膝を突き、俯いたまま動かないMr.KARATEへ再び目を向ける。
ロバートのフェラーリのライトで、Mr.KARATEを染めている赤がハッキリと浮かび上がる。

今なら――トドメを刺せる。

「お兄ちゃん…… その人は…… その人は、私たちの……」

嗚咽の混じる、妹の声。


――解ってる。解っていたさ。

確かにこの男はかつてタクマ・サカザキと呼ばれた、
自分達の父親だった男かも知れない。

でも今は――

憎炎に生きる、阿修羅の男…… そしてただの、疲れ果てた戦士。


「――どうした、撃たんのか?」

「父さん、もう一度言うぞ。その面を、取ってくれ。
 でないと、俺は……」

「構わん。トドメを打つが良い」

三人の祈るような視線を無碍に、Mr.KARATEは言った。

「わしは武道一筋の、家族を省みない父だった。
 数々の怨恨を求めるように買い、力を貪った。
 お前達から母を奪ったのも、幸福を奪ったのもこのわしだ。
 だが、それでも、お前に恨まれているのを知りながら、
 それでもわしは心優しい息子に拳を叩き込むしか無かった」

リョウよ――嗤え!

「わしには男親として、他に与える物が無かったからだ!
 強い男に育った息子に討たれるのも宿命と言えよう!
 さぁリョウ! この愚かしい男の宿業を、その拳で打つが良い!」

起き上がり、両手を広げ、自ら修羅と化し、そして数々の修羅を狩った孤高の鬼が、
逞しく育った、心優しい我が子を見やる。
その死に場所を求めるような姿は、
しかしどこまでも大きく、雄大な、父の姿だった。

この、拳が――
貴方が授けてくれた拳があったから、俺達は今日まで生き延びて来れた――

「俺は、貴方との絆をただ、守りたくて…… 今まで闘って来た」

この拳を、憎んだことなんて――ない。

「見てくれ、ユリを。こんなに、綺麗になった。
 母さんにはあまり似てないけど、母さんも喜ぶと思う」

「お兄ちゃん……」

俺達は、充分幸福だったよ――


「――お帰り、父さん」


タクマ・サカザキという男に憑いていた悪霊が洗い流されるように、
Mr.KARATEの面は、ゆっくりと、――剥がれ落ちた。


【9】

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