「――ボガード、だと?」

リッパーからの乱入選手を含んだ新しい参加選手リストを見せられ、
ギースの顔色が明らかに変わった。
ホア・ジャイの敗北により大損害を被った市長や警察署長の詰め掛けにも
余裕の笑みで応対していたこの男が、である。

「ジェフ・ボガードとの繋がりはまだ不明ですが」

リッパーの報告ではそうだが、
ギースにはこのテリー・ボガードという男に確かな見覚えがあった。

最初はあのタワーの前まで乗り込んで来て、
ビリーに手傷を負わせた男だという意味の引っ掛かりなのだろうと思っていたが、
映像で見たあの気を纏った拳は――

バーンナックル。

ジェフ・ボガードが最も得意とし、
そしてギース自身も何度も受けた、因縁の技――
あの男にしか、使えるはずのない技――

その瞬間、あの時、タワーの玄関で向き合った時に感じ、
眼が離せなくなった既視感が繋がった。


――あのトキの、シタイのコドモだ。


リー・ガクスウの不気味な予言が現実味を帯びて、ギースの神経を侵蝕する。
ボガードという名前が、ドライアイスのように視界を煙で遮り、そして肉体を凍えさせた。

おぞましい――

汚らわしい――

ジェフ・ボガードは独身で、子供など居なかったはずだ。
それが、何故。

それが、何故――


おのれ、ジェフめ!
ここまで来て、ここまで来てまだ亡霊となって私の邪魔をするか!

「んんんんんー、許るさーん!!」

書類を握り潰し、デスクを両の拳で叩いたギース・ハワードを見て、
その場に居たリッパー、ホッパー、そしてビリーが凍りついた。
ジェフ・ボガードという存在が、ここまであのギース・ハワードを狼狽させ、追い詰めている。

リッパーとホッパーは現場に居たし、八極聖拳とギースの関係も知っている。
ビリー・カーンもギースから直接その話は聞いた。
だがここまで、ここまであのギース・ハワードがヒステリックに怒り狂うほどに、
ボガードという名前が烙印のように生きているとは思ってはいなかった。

すでに終わった物。乗り越えた過去。
それ以前に、この人にとっては振り返るに値しない過去。
――そう、思っていた。

彼らは三様に、ギース・ハワードを心配している。
逆に言えば、ギース・ハワードが心配されている。

ギース・ハワードという存在がひどく頼りなく見えてしまうほどに、
今のギースは希薄さを感じさせた。

リッパーは今まで上手く行き過ぎていた組織での出来事が、
今の瞬間に何か現実に引き戻されたような、そんな乖離感を感じた。
どうしようもない、ただ絶望するしかないような事が起こる――
そんな予感が、かぶりを振っても消えなかった。

「――ギース様、ボガードは二人とも俺が殺ります」

そう言って前へ出たビリーも、同じ気持ちなのだろうと思った。
嫌な予感がする。
何かが焼け焦げるような、そんな臭いがした。
鎌を持った得体の知れない化物に、上空から嘲笑されている。



大会二日目――

勝ち残っている参加選手は、イーストアイランド内ならば
どこのホテルでも自由に宿泊することが出来る。
その費用は全てハワード・コネクションから捻出されるのである。

テリーもどこか豪華なホテルにでも泊まれば良かったのだが、
そんなルールさえ全く目を通していない彼は
パオパオカフェでまたリチャードの世話になっていた。
勿論、今度は客人として、である。
テリーは、リチャード、ダックと会話を楽しみ、すっかり打ち解けていた。

こんな風に話せる友達などはこの10年間居なかったし、欲しいとも思わなかった。
そんな物を手に入れてしまえば、自分は潤ってしまう。
もっと、もっと渇かなければ、強くはなれないと思っていた。
誰も、何も守ることは出来ないと思っていた。

だが、今は、少し違う答えが、見えかけている。


すでに2勝しているため今日は休んでも構わないとルールを知らされたテリーは、
結局、夕方まで他愛のない会話を楽しんでいた。
パオパオカフェのホットドッグはマズイくらいにウマイ。



嵐の前触れのように大波が荒れているサウンド・ビーチで、
アンディ・ボガードは倒れ伏したボクサーを静謐とした表情で見ていた。

曇り空の海岸、ギャラリーは誰もいない。
そして、集まる間もなく、まさに秒殺したのである。
実質の世界最強ボクサーと言える、マイケル・マックスを――

アンディ・ボガードの張り詰められた闘気は、一瞬でも隙があれば、
師、不知火半蔵がそうだったように、正確無比に急所を射貫き、
相手をサソリに刺されたかのように一撃で戦闘不能にしてしまう。

アンディが伝授されたのは骨法と呼んで差し支えのない不知火流の体術のみで、
まだ彼は真髄の忍術には全く触れていない。
当然、不知火の焔も纏ってはいない。

にも関わらず、この強さである。

冷静に死点を突く集中力と、足腰の、並外れた瞬発力。
勿論そこを半蔵に鍛え上げられたわけだが、それ以上に彼の先天的な性格、気質が、
この不知火流体術に寸分違わず適合していたが故の奇跡と言っても良いだろう。
さらにこれにアンディは、八極聖拳の気功術を組み合わせているのだ。

焔を纏わずとも、すでに師を超える実力者となったアンディ・ボガードに、半蔵は泣いた。

いつか、ジェフ・ボガードを超える弟子を――

それが夢だった半蔵の最高の弟子は、彼の仇を討つために現れた、
誇り高い、彼の息子だったのだ。
この皮肉で、残酷で、無慈悲で、そして運命的な導き――

必ず一流の闘士へ育て上げると誓った半蔵はアンディに、
孫娘以上の荒行を、冷酷なまでに強いた。
傷だらけの身体を滝で打ち、竹刀で打ち、拳で打った。
アンディはそれから決して逃げずに受け入れた。

ストイックなどという言葉でも表現には足りない。
言葉も解らぬ国へたった一人で来て、泣き出したくなる悲壮感を漂わせ、
血反吐を吐く修行に唇を噛み締めながら耐える決して大きくはない背中。
それは、半蔵を、孫娘の舞をも、呑み込むように魅了した。

アンディ・ボガードがハッキリと自分を超えたと確信した時、
半蔵は初めて笑顔を見せ、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
ジェフの無念を晴らして来いと、そう言って、新しい父は抱きしめてくれた。

負けられない。
ギース・ハワードは、我が手で討つ。



対戦相手がいない。

そんなピンチに早くも立たされたのが、嵐を呼ぶ男こと、ジョー・東である。
何しろ彼は現役ムエタイチャンプだ。
望んで早々に彼と闘おうなどという酔狂な男は――
ホア・ジャイくらいしかいない。

それによりジョーは徹底して避けられ、相手がいない状態となっているのである。
これではタイで挑戦者不在となっている今と一緒だ。
ジョーの溜め息は深い。

とはいえ、相手がいない場合は別に闘わなくても良いのがKOFのルールである。
黒服の先導により、逃げ回ることは不可能となっているが、
避けられている場合は無理にカードは組まない方針となっている。
それはすでに強者の証であるからだ。

その為、ジョーはこのまま今日は闘わなくとも何の問題もなく三日目へと進出でき、
さらには今後も変わらず避けられ続けるのであれば、もう全く闘わずにそのまま決勝戦、
ということすら可能なのである。

だが、生粋のケンカ好きである彼にそんなことが我慢出来ようはずがない。
それでは大会に出た意味がないとジョーは考えている。

最高に目立つ場所で待ち伏せして意地でも捕まえる。
それが彼が散々街を徘徊した上での結論だった。
このイーストアイランドで最も巨大かつ盛んな遊戯施設、
ドリームアミューズメントパークへとすでに、ジョー・東は辿り着いていた。

「ん?」

立ち止まる。足を踏み込むなり大歓声。いや、悲鳴――のようにも感じる。
腹に響く、歓声とも悲鳴ともつかないこの異様な熱気は、
すでにここで闘いが行われていることを示していた。

「もう先客がいんのかよ!」

ジョーは落胆したが、それでも本能的に歓声へと近づいて行った。
混ざっていた歓声が、ハッキリとした、悲鳴に変わる。

2mを超える大熊のような体躯の男の足の下で、
華奢な女の子が、残酷に、グリグリと踏み拉かれている。
大男は笑い、女の子は力無くグッタリと、ジャンパーを赤と黄色で染めて、
まるで死んでいるように放心していた。

ジョーの知っている少女だった。

「つぐみ!」

ジョーは千堂つぐみに駆け寄ると邪魔な足をローキックで蹴り飛ばし、大男を転ばせた。
凄まじい轟音と砂煙がドリームアミューズメントパークの催し物のように響いた。

「オイ、大丈夫か! 何やってんだ、つぐみ!」

「――あ、丈…… やんか…… ハハ……
 おおきに……な。丈のおかげで、乱入できたで……
 優勝は、無理みたいやけど…… ま、まぁ、もうええねん……」

ジョーに抱え起こされた青白い顔で、うわ言のように言葉を紡ぎ出すつぐみの肌は、
目を覆いたくなるような、赤く、青い、裂傷や打ち身に包まれていた。

その痛々しい姿がジョーの闘志に火を点ける。
ジョーはゆっくりと、炎のようにゆらりと立ち上がった。

「オラァ! てめぇ、ライデンだな!
 女の子をここまでいたぶって…… てめぇそれでも男かよ! ええ!」

不意打ちで転ばされたライデンは起き上がり、その怒りのままに挑発した。

「対戦相手をぶちのめして何が悪いんだ、ああ?」

確かに、そうなのだ。
KOFの参加選手となった時点で、女も子供もない。
そんなことを気にするのは個人の道徳の問題で、
あるいは相手にとってみれば侮辱にすら値し兼ねない、身勝手な物だ。
それが解っていたからこそ、ジョーは乱入の書状を書いた。

だが、そんな理屈など、今のジョーには何の意味もない。
ただ、燃え盛る炎を相手にぶつけるだけだ。
一度、燃えてしまったものは、完全燃焼するまで収まらない。

ジョーは今度は意図的につぐみへとマントを投げ掛けた。

「勝負してくれるよな、オッサン」

ライデンは笑いながら両手を貫手に構え、片方をこめかみ辺りまで掲げ、
もう片方をターゲットの喉元へと向けて上下に身体を揺らす独特のスタイルを取った。
グヘヘヘ……という気味の悪い笑いと共に、バトル承諾のサインだ。

観覧車のガタンと揺れる音が戦闘開始の合図だった。

「オラオラァ!!」

ジョーの卓越したボクシング技術によって隙なく繰り出されるパンチの連打。
それが全てライデンの肉へとめり込んだ。

「爆裂拳だ、オラァ!!」

そう叫んで最後に放ったフィニッシュの一撃は、確実に致命の一撃と成り得る、
必殺の威力を持った重いストレートだったはずだ。
だが、ライデンはくすぐったそうに腹を掻き、まだ不気味に笑っていた。
無造作に振り払われた手がジョーを吹き飛ばしたのは直後の出来事だった。

このライデンという男、2mを超える身長に200kgを超える体重が意味する通り、
人間が生まれ持てる限界レベルの怪力と、
そしてプロレスラー特有の無類のタフネスを誇っている。
彼はかつてはその肉体を駆使し、
S・W・Fでトップレスラーとして活躍する子供達のヒーローだったのだ。

だが、信頼していたタッグ・パートナー、
ビッグ・ボンバーダーに妬みからの裏切り行為を行われ、
彼は八百長疑惑をかけられて協会を追放されてしまう。
プロレスと親友を一度に失ったライデンは、人間不信となり、
マスクを被り、ただ酒場で暴力に任せて用心棒をする荒れた生活を送った。

友情や、正義などは何の役にも立たない。

かつて、子供達に慕われた正統派ヒーローは、極度に磨耗し、
そんな思考を持つに至っていた。

やがて彼はその凶暴な闘いを見初められ、ギースの殺し屋となった。
リングの上のみならず、ストリートファイトでもマスクの下の喜悦の笑みで、
鮮血を巻き上げる。


ジョーの顔には目に染みる黄色い液体が吹きかけられていた。

「てめっ! 汚ねぇぞ!!」

ライデンが獲物をいたぶる時に吹きかける、毒霧である。
目を押さえるジョーにライデンはその巨体を浮かせて飛び上がり、
全体重をかけたボディプレスを放った。

「ぐあっ!」

再び、砂煙が舞う。
その地震が起こったような振動はどんなアトラクションよりも刺激的だった。
さらにライデンは象のような足で、押し潰されたジョーの下腹部を踏み抜こうとした。
その圧力に朦朧としていたジョーだが、突然、犬に吠えられたような感覚で神経反射し、
身を転がしてそれを躱すと素早く起き上がった。

擦った目はなんとか視界を取り戻しつつあった。
ジョーの眼に、先程までとは違った怒りが浮かぶ。

「なるほどね…… そうやってつぐみも痛めつけたってわけかい。
 悪役レスラーだとは聞いていたが、こりゃ単なる卑怯モンだな」

「不意打ちで蹴りくれた野郎がよく言うぜ、グヘヘヘ」

ライデンは歯を剥き出しにして笑うとそのまま猛獣のように突撃し、
ジョーの肩口に噛み付こうとした。
だがみすみすそんな物を喰らうジョーではない。

前面に押し出された顎に左のショートアッパーを浴びせると、
そのまま右の肘を顔面に打ち付けた。
後退して軽くよろけるライデンに、渾身の、

「タイガーキィック!!」

「ぅおう!」

深々と、その大きな腹に突き刺さるジョーの鍛え上げられた膝。
それでも倒れないライデンはさすがだったが、
明らかにダメージのあるライデンを、ジョーは蹴って、蹴って、蹴りまくった。

「オラオラオラオラオラオラァ!!」

ジョーの猛烈なラッシュに大歓声が上がる。

一撃一撃が鋭く、そして重い。
ナタを振り下ろしたような蹴りを肉の薄い部分へ打たれ、ライデンの、不沈の肉体が軋む。
天才、と彼は自分で言うが、その蹴りのコンビネーションと、
肉体の弱い部分、それが太いガードの隙間から空く瞬間を正確に見切り、
モーションの途中からでも判断して打ち込む様はまさに天才のそれだった。

骨にまでダメージが届いているのか、
苦痛に呻くライデンにはもう反撃の意欲はないように思えた。

だがその時、ジョーがよく知った甲高い声で、不思議な声援が飛んだ。

「こらー! 負けるなぁ! ライちゃーん!!」

気が抜けて、振り返った先では、
タンカの上に座ったつぐみが拳を振り上げてライちゃん――
ライデンにエールを送っていた。

「ちょ、ちょっとなんで!?」

何が何だか解らないジョーは顎が外れたようにポカーンとしている。

「だって、ライちゃんはライちゃんやもん!
 うちが子供の時からずっとテレビで闘っとった、ヒーローやもん!
 そんな簡単に負けられたら、うち参ってまうわ!
 そら丈は強いかも知らへんけど、もうちょっときばりやー!!」

包帯をぐるぐるに巻かれた少女の言葉に、毒気を抜かれた。

――笑った。
いつものように豪快に、ジョーは笑った。
燃えるには燃えるが、こんな怒りに任せたような炎が、燃焼し尽くすはずがない。
判りきったことだったが、少女に改めて教えられた。

焼け付くみてぇな炎は息苦しいだけだ。俺は踊るような炎の中で闘いてぇ。

「オイ、ライデン! てめぇこれでもまだ汚ねぇことばっかやんのか!?
 ヒーローならヒーローらしく、正々堂々とやってみやがれ!!」

プロレスのマイクアピールのようなジョーの口上に大歓声が巻き起こった。
観覧車の音も、轟々とコースを滑るコースターの音も飲み込んで口笛の歌が上がる。


――ライちゃん?俺のことか?
俺を応援している?さっきの、女の子が……

おろおろするドクターを振り切って手を回して何事が叫んでいる少女に、
ライデンは目を奪われた。

そういえば、昔、もう遠い昔――
こんな声援に包まれる中で、闘っていたような気がする――

それはとても気持ちが良くて、清々しくて、
相手の悲鳴や、骨の軋む音ではなく、暖かい拍手と、
熱狂する子供達の、大好きだった子供達の、憧れるような声援の中で――

毎日のように、心を躍らせていた――


「……――オオオオオオオオオオオオオオオオォォ!!」

ライデンは音を上げて突撃した。
アメフトのような、体格を生かした強烈なタックル。
ジョーは喉の奥から空気を吐き出しながら1mほど引き摺られたが、それを止める。
だが自分の間合いは手にしたライデンはジョーの後ろ首を掴み、頭を胸に抱え込んだ。
そのまま手を腰に回し、思い切り振り被って叩き付ける。

「パワーボムやぁー!!」

つぐみの声と同時に大歓声が上がった。
なんとか頭を打ち付けるのは避けたジョーが痛みを擦っていると、
今度はその巨体を豪快に飛ばしての、ドロップキック。
ジョーはガードしたまま吹き飛んで尻餅を突いた。

ライデンはさらに追い打ちをかけようと、
再び身を屈ませて勢いを付けてのタックルの姿勢。

「レディー…… GO!!」

走るだけで嵐のような粉塵が巻き起こった。

「やれば出来るじゃねぇか、ライデンさんよぉ! そっちの方が強いぜ!
 最後にゃ――俺様が勝つがなぁ!!」

アクセルを思い切り踏み込んだ、巨大なトラックのような突撃。
先程とは勢いが違う体重の乗り切った一撃は、自ら大砲の砲弾となったようだった。

それを目を見開いて見たジョーが左手を強く握り、
天へ振り抜くアッパーを空に放つ。
すると地面の砂埃が暴風のような音を上げて凶器と化した。

いや、今度は本当に嵐が発生したのだ。
これがジョーの異名ともなっている――


「ハリケェェェンアッパーだぁ――っ!!」


ライデンの巨体は竜巻に巻き込まれ、そのまま逆に吹き飛ばされて散った。
――静寂の後に、大歓声。

ジョー・東の勝利である。

「オッシャー!!」

両膝を突き、満面の笑みで両の拳を振り上げるジョーの勝利の雄叫びが、
歓声にも呑まれない勢いで華々しく鳴り響いた。

――やっぱくだらねぇよ、怒りとか、憎しみとかのファイトはよ。

「ジョーの勝ちや! これがなにわパワーや!」

「――調子良いぞ、お前……」


ライデンがよろよろと起き上がると、歓声はどよめきに変わった。
だが足取りは不確かで、やはりもう闘えるようには見えない。
ライデンはジョーとつぐみに背を向けて、何事が吼えたかと思うと、
そのマスクを脱ぎ捨て、首だけ振り返った。

――その顔は、笑っていた。

険が落ちたような、そんな、少年のような笑顔だった。
それに微笑み返すジョーを見て、ライデンは豪快な足取りで、
豪快な笑いを上げながら去って行った。

ジョーもつぐみに渡したマントを羽織ると、大地に残されたマスクを拾い、
彼女にそれを放り投げ、背中越しに手を振って消えて行った。

それを手に、つぐみは思う。
格闘の世界は、こんなにも興奮する、とても楽しいところだ。

優勝すればレスリングを辞めて良いと元プロレスラーの父に言われて、
彼女はこの大会に出た。
彼女はごく普通の女の子としての生活が欲しかったのだ。

だが、そんな思いはすっかり消えてしまった。
ジョーのファイトを見て、ライデンと実際に闘って、彼女は楽しかったのだ。
その高揚感は、恐らくジョーが求めている物と同じだろう。

好きだった男の子に「プロレスする女の子はダサい」と言われ
揺らいだこともあったが、そんなことはもう、たった今から過去の話になった。

千堂つぐみは、確かな物を手に入れたのだ。


「――オモロなって来た!」




イーストアイランドの中心には、島を芯から支えるように、ギース・ハワードの豪邸がある。
彼の趣味を反映し、戦国時代の武将の家のようなその屋敷は、
遠くに見えるビルの群からは激しく浮き、非現実的な存在感を放つ。
今にも稲妻が落ちて来そうな不安定な空の中にあっても真紅の瓦は目に眩しい。

その場所に、ビリー・カーンとリッパーがいた。
KOFという格闘大会はもう形だけの物だ。
暴虎馮河にタワーに突入する愚は思い知っているだろうから、
あの男達が襲撃して来るならここしかない。

そういう推理の果てに、バンダナはそのままに
動き易いオーバーオールへと着替えたビリーは、リッパーと共にここで張っていた。
ギース・ハワードはまだタワーに居る。
人込みを追いかけるより、人を払い、少数精鋭としたこの場所での方がやり易い。

ここにあの男達――
テリー・ボガード、アンディ・ボガードが現れ次第、殺す。

そういう確かな殺意が、ビリーとリッパーにはある。
まだ陽が落ちるには早いが、空は何かの前触れであるかのように、すでに薄暗い。


――予報通り、雨が落ちて来た。

「来ないな……」

車の前に立って時が来るのを待っているリッパーが堪らず愚痴った。
中に入っとけよ、とビリーは棍で車を指す。
ビリーもイライラしているには違いない。

順番が変わることに何の問題もないが、最初の標的は借りのあるテリー・ボガードだ。
テリー付きの黒服の情報によると、
彼は少し前に泊まり込んだパオパオカフェを出た、ということらしい。

真っ直ぐにここへ来る物とばかり思って待ち構えていたビリー達は、
テリー・ボガードの緩慢な動きに歯軋りした。
アンディ・ボガードも敢えて危険な場所は外し、
あくまで闘い易い相手を選んで消耗を避け、優勝を狙うスタイルのようだ。

あるいはこの通りの人気のなさに何か感付いてしまったのか。
KOFを完全に見限るとしても、雨中ではホッパーを使うのも難しい。

「こっちから追うか?」

リッパーは中には入らず、ビリーと同じ様に雨に打たれながら提案した。

「いや――」

ビリーは気だるく肩に立て掛けていた棍を両手で持ち直すと、前傾姿勢を取って言った。

「違うお客さんが来たようだ。
 殺って良いかギース様に聞いて来てくれ」

リッパーが目を見やった先には、雨が地肌の露出した頭に反射する、
緑色の中華胴着を来た小柄な老人が歩いていた。
ビリーの棍の間合いをギリギリ外すまで接近し、その男は止まった。

「タン・フー・ルー……」

ギース・ハワードの師匠と言える男。
無線で連絡を取ろうとするが、雨のせいで雑音が酷い。
空はすでに豪雨と言って良い状態になっている。

「少し時間が掛かる」

「構わねぇ。それまでは殺さねぇ程度にしとく」

屋敷に入る権利は彼にはない。
リッパーは車に乗り込み、電話のある場所へ走り出した。
タンはジッと立ち尽くしている。ビリーが口を開いた。

「二日目からの乱入は認められてませんよ、タン大人」

言葉使いは丁寧だが、その態度は見下したように横柄である。

「乱入する気はない。ただ――」

「ギース様を狙って、ってことか」

「いや、お前を殺しに来た」

稲妻に照らされ、太く白い眉毛の下に隠れた眼が光ったような気がした。

クックックッ……

ビリーが低く笑う。
そういうことなら得意分野だ。

ビリーは右手一本で棍を持ち、左手は指に力を入れて前面に出した。
腰を屈め、タンの背丈よりやや上から目線を被せる。
その眼はすでに、殺意の塊だ。

――この男とだけは、あの優しい兄弟を闘わせてはならん。

その思いを、タンは新たにしていた。
ビリー・カーンは自分の手で倒す。
例え、ここで命が枯れ果てても――

「ィヤー!」

奇声と共にビリーの棍が突き出された。
充分にリーチを利用しながらもまるで重心は動かさず、しっかりと力の乗った突き。
だが初めからギリギリで間合いを外していたタンは、
上半身の動きだけでそれを躱すことに成功した。

しかしビリーの突きはそれだけでは終わらない。
残像が見えるほどの連打がタンの服を次第に刻んで行く。
リーチに致命的な差がある。速く、鋭く、そして正確無比。
どの一撃もがまともに喰らったなら死に至るであろう、まさに凶器そのもの。
――集点連破棍。
いつしか畏怖された『歩く凶器』という異名そのままの、ビリーの連続突きだった。

ついに肩口へそれを受ける。
肩の肉が窪んだような、そんな重い衝撃がタンの神経を伝った。
だが、タンは胸の前で手を構えたまま、何の表情も見せなかった。

――タン・フー・ルーには、ギース・ハワードにも、
ジェフ・ボガードにも教えていない技がある。

それは、内功を極限まで高め、人の身を捨てた魔神となる秘奥技。
その凄惨さと、そして身体にかける負担が故に、
秘伝書からその技を炙り出しても、タンはそれを使わず、教えず、
ただずっと沈黙していた。

タンは力が枯れたわけでも、凡人だったわけでもない。
ただ、沈黙していたのだ。
こと秘伝書の解読という分野では、
ギースやジェフとは比べ物にならない知識量の差があった。
それ故に、強い。

それは純粋な肉体的な強さの才能ではないのかも知れないが、
彼のこの探究心が故に、秘伝書はタン・フー・ルーの元へ舞い降りたのだろう。

八極聖拳秘奥技、鋼霊身――
この境地は、ジェフやギースでも、辿り着けない場所だった。

ビリーは抜けそうな腰を、呆然と渇いた歯軋りで支えている。
あるいは、豪雨による錯覚、とすら思える異様な光景――

タン・フー・ルーは上着を破り飛ばし、ビリー以上の体格へと、巨大化していた。

「んだこりゃあ!?」


ガアアアアア!!

獣の咆哮がハワード・アリーナに轟いた。
焦りの舌打ちを行いながら突き出したビリーの棍をタンの数倍に膨れ上がった腕が弾く。
その風圧で雨水が弾丸のようにビリーの身体を打った。
思わず後ろ手に手を突く。
その頭上を両腕を広げて回転しながら接近する暴風が通過していた。

大地の養分を全て吸い尽くしたような、大猩々の肉体。

だが非常識な化物を前にしても、ビリーの殺気が萎えることはなかった。
タンが着地した地点へ自分の棍ならば突き入れることが出来る。
ビリーは甲高い奇声を発し、裂帛の気合で渾身の突きを打ち出した。

が、それがタンの、背筋の鎧によって皮膚レベルで止まった。

「にぃ!?」

振り叩けば骨を砕き、突き込めば肉に刺さるはずのビリーの棍が、
この小柄な老人の――小柄の老人であったはずの男の前で無力と化した。

巨体の老人の前で、もはやリーチの有利も消える。
踏み込むと同時に力任せに打ち込まれた豪腕がビリーの身体を3m近く飛ばした。
石造りの畳が背骨に響く。

さらにタンがその場で旋風脚を放ったかと思うと、
ビリーの179cmの身長ほどもある気弾が生み出され襲い掛かって来た。
避ける間はない。
ビリーは闘気に巻き込まれ、爆弾で吹き飛ばされたように今度は5m以上も飛んだ。

だが、起き上がる。
気の受け方なら、ギースとの組手で身に付いている。
ギースのように限りなく無効化するような真似は出来ないが、
防御を固めれば、それで肉に致命的な欠損が表れるようなことはない。
ビリーは猛禽の双眼を滾らせて、口元を歪ませ、耳に痛む、狂ったような高音で吼えた。

「キィィ――イヤハァ!!」

走る。
ビリーは石畳の地面から玄関前の、水を染み込んだ土の地面へと回り込むように走った。
そこに再び波動を打ち込む旋風脚――波動旋風脚が放たれるが、
ビリーは地に棍を突きながら方向を転換し、それを躱す。
龍の紋様が施された玄関の壁が砕け散った。

その飛んで来る破片をビリーは棍を回転させて弾き、タンに浴びせた。
その尖った破片ですらタンの肉体を傷つけることは出来なかったが、
豪雨で元々視界が晴れない中、目眩ましには充分だ。
ビリーはタンの、巨大化と共に露わになった眼を正確に棍で突いた。

手で邪魔される。
が、即座に反対の先をタンの鳩尾へと密着させ、そのまま貫くように押し込んだ。
多少後退し、間合いが取れた所でタンが苦しげに振り回した豪腕を屈んで躱すと、
喉元へその棍を突き出した。

「ぐぇ!」

普通の人間ならばそのまま突き刺さり、即死する衝撃。
だがタンの魔神となった肉体の前では、声を上げさせる程度しか出来ない。

しかし、それで充分だった。
搾り出る呻き声と共に地に吐き出される粘り気のある唾液が、
この雨の中に俯いた、タンの開け放たれた口の場所を密告していた。

そこに下から、突き入れる。

聞こえたのはもう声とも言えない、苦悶の音だった。
喉を押さえたタンの肉体がみるみる萎んで行く。
不思議なことに破れたはずの服まで元に戻っていた。

――闘気が見せた、幻。

そんな感想がビリーの脳裏を過ぎった。
だが、もう終わりだ。

「そろそろ死ぬか? じじい」

威圧する、冷酷な声。
人を殺すことを何とも思っていない。
リッパーはまだ戻って来ない。
だがそんなことでタンの命が延びるなど、この後に及んでは考えられなかった。

今度は喉から血が流れ出ている。
呼吸をするだけで電流のように激痛が走る。
にも関わらず咳き込むような呼吸しか出来ない。
さらに怪我だけではない、
明らかに人間の限界を超えた反動が、タンの力を奪っていた。

どうしても、どうしてもビリー・カーンだけは自分の手で消しておきたかった。
この男と闘えば、あの兄弟はあるいは死に、生き残ったとしても気を狂わせる。
それが解っていたからこそ、タンはここに死に場所を選んだ。

自分の弱さ故に生まれてしまった悲劇。
ジェフが、テリーが、アンディが、焼かれて死んだ門下の全員が、
タン・フー・ルーの無力さを悲嘆する、嘆きの表情を浮かべている。

弱い――

結局自分は、テリーとアンディに本気で拳を教えることは出来なかった。
テリーが修行の旅へ出ると言い出した時、
あるいは解放される安堵を感じていたかも知れない。
アンディを山田十平衛へ押し付けたのも、あるいは逃げだったのかも知れない。

弱い――

ギース・ハワードの嘲り笑う声が、タンの意識の中で響いた。


――すまぬ…… すまぬ、ジェフよ……


膝を突くタンへ、ビリーの狂眼が、瞬きを忘れたように見開かれている。

頭蓋骨へ――

振り下ろす――


だが、本来、タン・フー・ルーの死体が転がっているべき場所にはすでに何もなく、
直後、ビリー・カーン自身も痛みによって打ち抜かれていた。

棍を突き立て、なんとか倒れずに体勢を整えたビリーの怒気の滲む眼の前には、
真新しい赤い帽子を被った、テリー・ボガードが居た。

無言。全くの無言でそれへ向け、ビリーの棍が突き放たれる。
だが視界さえ奪う激しい雨音の中、標的は、蜃気楼であったかのように消えていた。
ビリーの双眸は、未だ瞬きをしない。
ただ見開かれて、謀られた怒りを呆然と受け止めている。

これが爆発すれば、どんな死体が生まれるのだろうか。
彼を睨むように見据える、一対の眼が、そんなことを考えていた。
だが、その思考はあまりに無意味。
ただスパゲティのような神経組織が、無作法に飛び散っているだけだ。

リッパーが戻って来るが、ビリーに声は掛けられない。
テリー・ボガードを、二度も取り逃がした。


【17】

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