ギースタワーの最上階にあるギースの事務所。
4年前に改装され、今はモニター室とは別になっている。

正面玄関から入る際には不便と言えなくもないが、
屋上のヘリポートからの出入りが多いギースにとってはこの位置取りが機能的だ。
もっとも、そんな理由は周りの推測や、後から付けられた“こじつけ”に過ぎず、
実際はこの摩天楼の頂上からの景色を、
ギース・ハワードが何よりも愛しているからだろう。

どこまでも、どこまでも高く、天へ挑戦し続けるバベルの塔。
火が灯り、そして消える。火が灯り、そして消える。
そんな風景を眺めている時間は、とても穏やかで、
超越者としての優越を感じることが出来る。

それはギースにとって、
まだ満たされない心の空洞を埋めてくれる、麻薬のような物だ。
いつもの頬を吊り上げた笑みでその風景を見下ろしている時間だけ、彼は完全になれる。
それは絶対の時間。

だが彼を埋めている物は、果たして“優越”だけなのだろうか。
あるいは、“愛”なのかも知れない。

彼は明らかに、サウスタウンを愛している。


そんな、夕闇の部屋に、一人の男がひょっこりと現れた。
その肩には黒服の男が担がれている。

「悪いな、問答無用で銃を抜かれちまったもんでな。
 まぁこっちに来ればこうなるのは解ってたんだが、
 先にあんたの家に行ったら留守のようだった」

男はそう言って、黒服――ホッパーをソファーに寝かせた。
そして自らもそのソファーに座る。

「年食ったな、ギース」

「お互い様だ。だが貴様はなかなか威厳が出て来たな。父に似ている」

「そうか? 髭のせいかもな」

男はそう言って顎の髭を撫でた。

「何をしに来た。また私に敗れに来たのか?」

「おいおい、人聞きが悪いな。一勝一敗だろ?」

「――フン」

「だが、今度は俺が勝つ」

「ほう、何か根拠でもあるのか? お前の技はもう通用せん」

「それを聞くか? なかなか小狡いな。
 まぁ良いか。――乱舞の途中で意識を保てるようになった。
 もう当て身投げは受けない」

「ほぉう、だがそんなことで私の見切りを超えられるとでも?」

「最低でも受け身は取れる」

「そう簡単に取れれば誰も死ななかったな」

「そうか? 俺は生きてるぜ?
 だがまぁ今は忙しいようだから、日を改めることにしたよ。
 あんたも随分と疲れてるようだ」

「…………」

「来る途中、狼を見たぜ」

「…………」

「あんたのお抱えの、ビリー・カーンだっけか? 棒を持った奴だ。
 あいつもなかなかヤバイ眼をしていたが、そいつはそれ以上の迫力があった。
 まさに狼だ。とびっきり飢えた、極上のな」

「…………」

「KOF、やってるんだろ? 来るぜ、あいつ」

「――構わん。怨念は私の拳で成仏させてやるだけだ」

「怨念? まぁ悪事もほどほどにしておけってことだな。
 じゃあ、俺はもう帰るとするか。また会えたら決着をつけよう」

「私と闘うのは嫌なのでは無かったのか?」

「そのつもりだったんだが、負けっぱなしというのが思った以上に寝覚めが悪い」

「――フン」



深夜、イーストアイランドのとある病院。
この街、しかもこの人工島で、
ハワード・コネクションの息のかかっていない病院などはない。

当然、この場所もギースに知られているだろう。
だが、それが解っていても、重傷のタンを運ぶには
手近な病院という選択肢しかなかった。

三つ編みの看護婦がタンの額の汗を涙ぐみながら拭いている。
肩の複雑骨折に加え、頚椎、甲状軟骨の骨折、裂傷の数は口内を含んで無数。
手術は終えたが、もうまともに口が利けるかどうかも解らないとの医者の説明があった。
医療機器の手を借りたタンの機械的な鼻の呼吸音が、
時計の秒針のように静かに響き渡っている。

テリーとアンディは、ただ重く立ち尽くすしかない。
鉛を背負っているのに、膝さえも突けず、ただ、立ち尽くすしかなかった。
看護婦の涙が粒となり、やがて嗚咽が漏れた。

「ご、ごめんなさい…… 私のお兄ちゃ、兄も、ファイターで、いつも怪我をしてくるんです……」

そう言って目を擦り、濡れた布で丁寧に、丁寧にタンを拭く看護婦に、
アンディが紳士然とした対応をしている。
だが、テリーはただ黙って、震えるように肩を落とすしかなかった。


タン先生がこんなことになってる間――
俺は何をしていたんだ――

俺が、もっと早く――
もっと――


胃液がアメーバのように心まで溶かして、いつくもの穴を作っているような感覚。
その穴に、凍るような冷風が通り抜けて、全身の神経をさんざめかせて行く。

悔いようのない、後悔――

新しく出来た友との語らいの中に、自分は安らぎを求めてしまった。
あれは強さではなく、弱さ――
餓狼には、有ってはならない、牙を溶かす存在。
自分を削る、どこまでも甘い罪悪――

心は呆然としているのに、拳だけは、血が滲むほど握り締められていた。

やがて、気配が一つ消えた。
看護婦が病室から出たようだ。
アンディが、冷たい眼でこちらを向いている。

体温を感じない――冷ややかな眼だ。


「――聞きたかったんだけど、兄さんは本気で復讐を遂げる気があるのかい?」

今は何も、答えられない。

「兄さんは最初、腕試しが出来て、ギースにも近づけて、一石二鳥だって言ったね。
 ――兄さんにとっては、ただの腕試しなのかい?」

それは違うと言い返そうと思っても、自分が安穏と“友”という存在の元で、
その居心地の良さに満たされていたのは事実としてある。
それをアンディは、決して許してはくれない。

「兄さんとは同じものを見ながら、この10年間、修行して来たのだと思ってたけど、
 それは僕の思い込みだったようだね」

答え――られない。

「兄さんには任せられない。ビリー・カーンは僕が倒すよ。
 無論、ギース・ハワードもだ」

そう言ったアンディの眼は、どこまでも渇いた、飢えた狼のようだった。
ジョーが言っていた“ギラついた眼”というのはこれなのだろう。
そして、テリー・ボガード自身も同じ眼をしていた、とジョーは言った。

だが今は、

どんな抜けた眼をしている、俺は――

タンは早朝には連絡を入れたチャイナタウンの人間が迎えに来るだろう。
それまでここでガードに付いていれば、ひとまずは安心出来る。
交代で休むのが合理的だったが、アンディに、そんな気はないように見えた。

――兄さんには任せられない。

その拒絶の眼が、先程の言葉を語っていた。

テリーに空いた穴から、どす黒いマグマが噴き出し始めた。
あんなに寒かったのに、今度は抑えられないほどに熱い。
神経が、焼け爛れる。

復讐に―― 身を焦がす感覚――


テリーの牙から、赤い液体が零れ落ちた。



その場所には、まだビリー・カーンが居た。

帰宅して来るギース・ハワードを、雨に打たれたままの土下座で迎えた。
リッパーの制止など耳に入っていないように見えた。
ギースはそれに一瞥もくれず、屋敷の中へと消えた。
ビリーはただ、奥歯を噛み締めて地に頭を擦りつけている。
雨の上がった早朝、ギース・ハワードが家を出るまで、地に頭を擦り続けた。

もう、何も考えられない。
ボガードをギース様に近づけず、そして殺す。
それだけが頭を支配した。

ギースタワーへと唯一繋がる橋、サウスタウン・ビレッジで、ボガード兄弟を待つ。
観客が居ようが居まいが、中継がされようがされまいが、
そんなことに気を配っていたのがそもそもの間違いだった。

ただ、ボガードを殺す。

その答えだけが、ビリーの脳で鮮明にイメージされた。

「行くぞ、リッパー……」

その眼は、血に飢えた狼のそれだった。



数時間の入れ違いで、テリー・ボガードはギースの屋敷へ辿り着いていた。
血は雨で洗い流され、今はただ残骸となった玄関の壁が痛々しいだけだ。
趣味で置かれている地蔵が、不気味に笑っているように見える。

「ギース・ハワードはもうここにはいないぜ」

後ろから気さくな声がした。
聞き覚えがある――ジョー・東。

「今現在の生き残りは俺と、あんたと、アンディ、ビリー・カーンの4人だけだ。
 俺は今日、2試合やるつもりだから、つまりKOFは本日で終わりってわけだな。
 ギースはタワーで表彰やら閉会式やらの準備がある。しばらくは帰って来ないぜ」

そうか、とテリーは低く言い、ジョーとすれ違って歩き出そうとした。
が、ジョーが両手を広げてそれを制する。

「テリー、俺とファイトしろ。俺はあんたと闘いてぇ」

「――もう大会はどうでも良い。退いてくれ」

「ダメだな」

テリーが帽子の鍔の陰から睨むように、ジョーを凝視した。

「今のあんたをギースの所へ行かせるわけにはいかねぇな。
 ダチにみすみす人殺しをさせるような真似は俺には出来ねぇ」

「――退け!」

ジョーは言葉と同時に乱暴に振り払われたテリーの手をスウェーで躱し、
重心を後ろに置きながら無理矢理威力の乗る間合いを取ったハイキックを放った。
テリーの太い腕がそれを受け止める。
ジョーは数歩下がってバランスを取った。

「中継はまだだが、バトル開始ってことで良いかい? テリーさんよぉ」

人気のないハワード・アリーナで、ジョーがマントを脱ぎ捨てた。
遠巻きの黒服は中継準備を急がせている。

「――お前と遊んでる暇はないんだ。すぐに終わらせる」

テリーが空気を取り込む呼吸音を上げ、中国拳法のような構えを取った。
八極聖拳、出勢の構え。
全身に闘気が満ちて行くのがジョーにも解った。

「パワァァウェイーブ!」

テリーの拳が、大地を殴る。
石畳に悲鳴を上げさせながら、闘気の波がジョーを飲み込んだ。

が、ジョーは腰を屈めた防御の姿勢のまま、くぅー、と感嘆するように笑うと、
そのまま身を捩り、威力、スピード共に最高に乗った突進蹴りを返して来た。

「スラッシュキィィィク!!」

「くぁっ!」

受けた腕が、軋む。
そして熱い。バーンナックルのように。

テリーが思わず間合いを離してマーシャルアーツに構え直すと、
ジョーは中腰で、唸り声のような呼吸を上げていた。

「――八極聖拳の……」

「アンディの野郎がケチケチしやがってな。
 自己流だが覚えさせて貰った。アドバンテージにはならんぜ、テリー?」

門外不出の八極聖拳の気功術を、見よう見まねで……?

「オラオラァ!」

ジョーが猛然と駆ける。
ジャブから始まり、ストレート、ミドルキック。サウスポースタイルからの受け難いラッシュ。
そのどれも重い一撃が、八極聖拳の気功壁を突き抜けて腹に響いて来る。
打ち返したパンチは軽い鉄を殴ったような感触だった。
だがジョーも苦悶の笑いを上げる。
テリーにも同じように、気功防御を突き抜ける威力がある。
しっかりとブロックしなければダメージ軽減程度にしかならない。

テリーはジョーの手数の合間を縫ってボディブローを浴びせた。
今度は笑えない。ただ苦悶するだけのハードヒットだった。
瞬間、頭の下がったジョーに、遠心力を付けたバックスピンキックを放ち、
大きく弾き飛ばした。

全く受けの出来ない人間に気を放つと、それは兵器と同様の威力を誇ってしまう。
それ故、テリーは最初のパワーウェイブは威力を殺していた。
だが、八極聖拳の並外れた気功防御を我流ながらも身に付けているジョー・東に、
そんな手加減をすれば何の意味もない、ただの熱風となるだけだ。

気功で作られた鉄の肉体と、気功技の中和力を全て呑み込む威力の闘気を、
テリー・ボガードは全力で撃てば撃てる。

二発目のパワーウェイブはまさにその、全力で放たれた、バズーカのような波動だった。

「ジョー! お前とは、生まれた場所が違うんだよ!!」



サウスタウン・ビレッジ――

セントラルシティという大陸に島を接合したような人工島、イーストアイランドに、
さらに小島を接合した場所にあるビル群へと繋がる唯一の橋。

この場所を通過しなければ祝勝会のあるギースタワーへは行けないため、
KOFの決勝はこの橋を渡る権利を賭けて、
この場所で行われるのが暗黙の了解となっている。

今回もこの橋には多くのギャラリーが詰め掛け、すでに騒然としていた。
大量に並べられた車がけたたましくクラクションを鳴らし、
気の荒い男達は番外のファイトを行っている。
露店の軽食が飛ぶように売れ、またスリや痴漢の活躍の場でもあった。
離れに置かれた医療班のテントもどこか落ち着かない様子だ。

だがそんな喧騒などまるで耳に入っていないかのように、
ビリー・カーンは狂気を押し殺した静けさを漂わせ、
橋の麓に止められた、黒いリムジンのボンネットに片足を立てて座っていた。
精神を統一するように目を瞑り、ボガード兄弟の心臓を抉り出すイメージを、
猟奇的に、何度も何度も浮かべ、繰り返していた。


が、次の瞬間、甲高い声で吼えた。

「アァァアア――――オッ!!」

棍で道路に10cm以上の穴を穿ち周囲の騒音を力ずくで消すと、
見開いた猛禽眼の先には、金色の長髪を、まだ雲の多い不穏な空に靡かせた、
アンディ・ボガードの姿があった。

「弟の方から死にに来たか、ボガード」

アンディは何も言わず、その眼を正面から見据え、そして構えた。
独特の掌打を打つ為、あるいは隙があれば棍を掴む為か、
手は拳にせず、軽く指を曲げるだけで上下に膝を動かす。
その呼吸音のリズムは、八極聖拳のそれだ。

対してビリーは右手の棍の先で地面を擦り、ピクリとも動かない。
互いに静かだが、沈黙させられたギャラリーは再び勢いを取り戻して大いに湧いた。

中継が始まる。

だが、いつでも意図的に落とせるようリッパーが手を回している。
トドメはこの場所では刺さないようビリーには言っているが、
一度スイッチが入ってしまえばあの男は止まらないだろうことを
リッパーは百も承知だった。

リーチに圧倒的な有利があるビリーが先に仕掛けた。
胸骨を突き砕くべく打ち出される突き。
が、その瞬間を狙っていたアンディの肘が、
まだ力の乗り切らない棍の先端に突き刺さった。

――あの距離を!?

強靭な足腰により生み出される並外れた瞬発力が一気に弾け、
空間を奪ったかのような高速移動が行われた。
そしてその勢いを寸分も殺さない、一切の躊躇を持たない影すらも斬る肘打。

これがアンディ・ボガードの最も得意とする、不知火流、斬影拳だった。

棍を大きく弾かれ、隙だらけとなったビリーの喉へ貫手が襲い掛かる。
首を捩ってそれを躱すが、その方向を読んでいたかのように、
鋭く遠心力を持つ、右の突き返し蹴りを打たれた。

衝撃は受けたが、重くはない。
右手側に流れたビリーはその勢いを足で食い縛り、
アンディの頭部へ棍を振り回した。

が、屈んでそれを躱されたかと思うと、そのまま伸び上がるような人差し指の中程が、
手刀となって無防備の顎へと打ち込まれ、
朦朧とした意識のままに打ち飛ばされていた。

天高く飛び上がっていたアンディが着地する。
昇龍弾と呼ばれる、八極聖拳寄りの奥義だった。
一度掴んだ間合いは逃がさない。再び飛ぶ。
中腰のビリーへ、空中から全身の体重を乗せた放物線の両足を浴びせ、
棍のガードの上から地面を引き摺る。続け様の不知火流、空破弾。
そして尚も、密着。

この間合いでの不知火流の打拳のキレを、躱す術はない。

――タン先生の、痛みを知れ!



濛々と立ち昇る煙の中、しかし片膝を突いて、ジョー・東は笑っていた。
熱と衝撃で真っ赤に腫れた腕と足腰へのダメージは確実に重く圧し掛かっている。
立ち上がるのが嘘のように辛い。
だが、立ち上がる。根性、という物だけで、ジョーはそうすることが出来る。

その様子が何かの冗談のようで、テリーは追撃が出来ないでいた。
初めから、その後の動きなど考えに入れていない一撃だったのだ。

「――確かになぁ。俺の生まれた国は平和だったよ。
 殺したりとか、殺されたりとか、そんなこたぁ考えられねぇ平和な国だった。
 でもよ、テリー…… そんなの関係ねぇだろ。
 熱くなるファイトがよ、生まれた場所で決まるのかよ?」

今にもまた膝を突きそうなそんな足取りで、しかし強い口調でジョーは言った。

「――俺もお前も、大馬鹿野郎だよ。闘いの中でしか生きられねぇ。
 ならせめてくだらねぇいざこざは捨ててよぉ! 思い切りケンカしようぜ!
 馬鹿は馬鹿らしくよぉ!!」

ジョーは拳で無理矢理足に息吹を与え、テリーへと駆け出した。


東丈は大阪の開業医の家に三男として生まれた。

裕福な家庭だったが、上の兄二人が両親のように
優秀な頭脳の持ち主であったにも関わらず、丈はそれに恵まれていなかった。
怠ったのか、合わなかったのか、元々才能がなかったのか。
同じ様に育てられた同じ血の通った兄弟の中で、彼だけが異端だったのは間違いない。

ただ少なくとも、周囲の眼が常に“落ちこぼれ”を見る蔑んだ眼だったことは、
彼の落ち度ではないだろう。
兄や両親からすらも、彼は同じ視線を浴びせられながら育った。
彼が左利きであることさえ、蔑みの対象とされた。
自然、彼は捻くれた思考の持ち主となっていった。

ヤンキーと、その時代は呼ばれていた。
ギラギラと、野犬のように眼を滾らせて、誰彼構わずケンカを吹っ掛けては、
殴って、殴られて、殴り倒して、吹田中に東丈という名前を轟かせた。
常に満たされない思いを、拳にぶつけた。
その瞬間だけ、生を実感出来る。

さらに、肉親の蔑みは深い物となった。

闘っても、何も残らず、むしろ、削られて行く。
なのに彼は、その拳を振るうことでしか、自分の存在を認めることが、
認めさせることが出来なかった。
それが解っていても、彼には持って生まれた拳しかなかった。

そんな彼に理解を示すのは、同じく東家の中では才を持たなかった祖母だけだった。
いや、祖母は明るい気質に暖かい心という、才を持っていた。
彼女がいなければ、今の東丈の性格はなかっただろう。
丈の才がケンカであるならば、彼女はそれすら豪快な笑いで認めた。
この人の前でだけ、東丈は年齢相応の、子供になることが出来た。

だが、両親の侮蔑は彼の成長と共に酷くなる。
彼の勉強の不出来は年々明確に露呈し、
そして育ち続ける成長期の腕力は、何人もの怪我人を生んだ。

両親との口論の末、ついに彼は家を出る。
若干13才の時の出来事だった。

当然、泊まる場所もなかった丈は、場末の古びた映画館で夜露を凌ごうとした。
だがそこで流れた映像の余りの鮮烈さに、彼は全てを忘れてのめり込んだ。

その高揚感を掻き立てるメインテーマと共に、
拳ひとつで向かって行く男に、彼は心の底から身震いした。
自分と同じボロボロで惨めな男でありながらも、彼は輝いた。
そこには感動と、勇気があった。あの男のようになりたいと思った。

その映画は『ロッキー』と言った。

彼はその足でボクシングジムを探し、リングの上で人を殴りたいと思った。
だが、打ちのめされた。
自分より年上の男など何度も叩き伏せてきた自負が彼を油断させたのか、
いや、それ以前の決定的な技術の差が、
この年上ながら身体の小さい細身の男への敗因となっていた。

だがそんなことでは一度熱した気持ちは冷めなかった。
丈はその血と汗とワセリンの臭いのする場所へ、遊園地に通うかのように日参した。

金などなかったが、少々負けん気の強い跳ね返った子供は、
自身も経験のある会長には可愛かった。
タダでスパーリングパートナーを雇えたと思えば良い。
そんなことを思いながら容認していた。

が、僅か一ヶ月で、東丈は以前敗れた男を逆にKOしていた。
その男はすでにプロテストに合格済みの、列記としたプロボクサーだったのにだ。
会長に惚れ込まれた丈はそのままジム生となった。

闘って、勝てば蔑みではなく、歓声が受けられる。
いや、負けたって、引き分けだってあの映画のような闘いが出来れば、
映画のラストのように、魂の底から燃えられる。

リングの上には、全てを削られ、失っていくことを理解しながらも、
それでも拳を振るうしかなかった恨みのケンカとはまるで違った高揚感があった。
東丈にはそれが全てだった。燃えるケンカが、彼の全てだった。

やがて小さな大会から、やや大きな大会まで彼が立て続けに制すると、
周囲や家族の目も変わっていった。
何を今更と以前の彼ならば思ったかも知れないが、今の彼はそれが純粋に嬉しかった。
祖母もそれを、とても喜んでくれた。

高校に入った彼は1年生ながらインターハイと国体を圧倒的な強さで制した。
丈の最大の武器は、かつていたたまれないケンカで磨き、
ボクシングと出会って、やっと黄金の輝きを手にした、左のアッパーだった。
蔑まれた左の拳が、今の彼の宝だった。

試合で彼の左が放たれる度に、仲間や後輩達の期待の歓声が上がった。
人の痛みの解る彼は、友達や仲間には他の誰よりも優しかった。

丈はもう今までのようなケンカはしなかった。
苛立ちをぶつけるだけの闘いは、その場の渇きは潤うかも知れないが、
その代償に全てを失ってしまうことを、彼は痛烈に理解していた。

だが、彼はいともあっさりとそのボクシングを捨てた。
それが、アンディ・ボガードとの出会いだった。
その小柄な外国人の蹴りで卒倒した丈は、彼をライバルと定め、
足技を勉強しながら飛騨の山中にある不知火の里へ何度も足を運んだ。

技を磨きたいという思いと、この同い年のライバルのいつも張り詰めた顔を、
少しでも笑わせてやりたいという、お節介な友情もあった。

やがて、高齢の祖母がその生涯を閉じると、
丈は彼女の形見の日の丸の刻まれたハチマキを手に、
彼の求める足技を持った国へ単身で渡った。


「ハリケェェェェンアッパァァァ――ッ!!」

丈の左の拳から風が巻き起こる。
パワーウェイブにも劣らない衝撃波が、地面を擦りながらテリーを吹き飛ばした。
気ではない、空気が生んだ竜巻は気功防御の中和には干渉されない。
故に、純粋な力強さがあった。

服と皮膚にナイフで切られたような細かい傷を何個も作り、
テリーは呆然と中腰で、足をふらつかせながらも笑うジョーを見ていた。


――何で、闘ってる…… こんなに楽しそうに、ジョー……




「斬影拳!!」

棍で受け続けるには変則過ぎるアンディの蹴りを
最小限のダメージでなんとか凌ぎながら、ビリーは間合いを離した。
だが、その瞬間にもう飛び掛って来る、影を斬って空間を進む肘の一撃。
何度離しても、気が付けば密着だった。

「うざってぇぇぇ!!」

棍を使わない、左の拳でのフック。
およそ素人のそれだったが、意外な攻撃にアンディのスウェーは大きな動作となった。
そこにビリーは今度は後ろ回し蹴りを放つ。
やや後方にバランスを崩していたアンディは、そのまま後ろにステップするしかなかった。

間合いが取れた。
だが、すぐにまた斬影拳が来る。

ビリーは斬影拳が打たれる瞬間に、地面に棍を穿ち、
棍を両手に、自らは逆さとなって天空へ身を浮かせた。
アンディの斬影拳が標的を失い、直立で立っている棍に突き刺さる。
何発もの銃弾を弾き飛ばして来た棍が悲鳴の軋みを上げた。
道路を抉り、棍は後方へと弾かれる。

が、ビリーはその遠心力を利用した。
後方に弾かれる棍を力技で前方まで振り回し、自由落下しながらその力も加えての、
無防備となっているアンディの背中への、強烈な一撃。

「っがぁ!」

忍は腕を斬り落とされても悲鳴を上げぬ。
不知火半蔵の教えを突き抜けて、アンディの悲鳴がサウスタウン・ビレッジに響いた。

歓声が弾け、そしてビリーの見開かれた狂眼も、殺気が弾けつつあった。

「ヒャーイァー!!」

無理な体勢からも向き直ろうとするアンディの足を、ビリーの振り回した棍が打った。
骨にダメージが刻まれる音と共に、
苦悶の表情を浮かべるアンディの額から汗が零れ落ちた。
まだ生きている両の拳で棍を受け止めようとしても、
それが敵わない、ビリーの棍打の鋭さだった。

――ただ、打たれるのみ。

リッパーがいつでも中継を落とせるように準備をしている。



殴り合っていた。
訳も解らず、このジョー・東という男と殴り合っていた。
滅茶苦茶な呼吸で、滅茶苦茶に拳を繰り出した。
戸惑いと、焦燥と、嫉妬が、テリーに防御を忘れさせた。

殴る。殴られる。殴る。
ただそれだけの、狼二匹の、子供のケンカ。
だがそれが、何よりも熱かった。

――タータカタータカタータカター

流れていた。
フットワークすら忘れた、足を止めてのパンチの打ち合い。

――チャチャーンチャーン チャチャーンチャーン

ジョーの頭の中には、ただ、ロッキーのテーマが流れていた。
あの時の想いが、あの時に知った想いが、
息を吐くだけで崩れ落ちてしまいそうな足を奮い立たせていた。

――Trying hard now!! It's so hard now!!


聞こえる。

唄が、聞こえる。
頭が繋がったように、ジョーが聞いている曲が流れて来る。
拳から、唄が響いて来る。

――どこか、繋がらなかった。
昔の自分に戻りたかったはずなのに、今の自分が昔の自分と繋がらなかった。
昔の自分を探しても、どこか遠くから、それを眺めるだけしか出来なかった。

今の自分と、ジェフ・ボガードに会う前の自分は同じはずなのに、
間に挟まった、ジェフ・ボガードとの思い出が、彼を3人に分離させていた。

――違う。

そういう思いが、テリー・ボガードの無意識にはあった。
どれが自分なのか解らずに、どんなに牙を研いでも、柳のように揺れていた。

「もっと燃えて行こうぜ! テリー!」

――違う。

俺の炎は復讐の炎なんだよ、ジョー。
俺はお前のようにはなれない。

俺は違う。

俺は俺がどこに居るのか解らない。
人は変わって、成長して行く。
でも過去の自分を捨てて、それを遠くで眺めることが成長なのか?
俺はこんな男だったのか?いつからこんな男になった?

――Gonna fly now!! Trying fly now!!

歌っている。
少年だった日の俺が、楽しそうに歌って、父さんに拳を打ち込んでいる。
あんなに楽しそうに、何で闘ってる――

ダック、リチャード、アンディ……

一度、繋がりかけたから、そこに帰りたいと思ったのか?
そこは本当に、弱さしかない世界なのか?
そこに帰ったら、俺は一人に戻れるのか?

本当の俺を、取り戻せるのか?

本当の俺は、どんな奴だ?
強いのか?やっぱり、牙の欠けた、出来損ないの狼なのか?

教えてくれ、ジョー……

――今の作り物の俺が、ギースに勝てるのか……?


ジョーに拳を打ち込む度に、少しずつ、少しずつ、繋がって行く。
それが不快で、どこか、浮いたように、気持ちが良くて、
テリーは夢中で、拳を打ち続けた。
その拳に、想いに応えるように、ジョーもまた打ち続けた。

大歓声が上がる。
いつの間にか集まっていた観客達が、ジョーの、テリーの名を呼びながら、
口笛を鳴らし、空気に拳を放ち、手拍子で、彼らを支えている。


繋がる――


繋がって、行く――


――Fly!!


「うおおおああぁぁああああぁ――――っ!!」

テリー・ボガードの、ジェフ・ボガードの魂の篭ったグローブが、
何人ものテリー・ボガードを重ねて、ジョーの顔面へと、最後の一撃を打ち込んだ。
どこまでも遠く響いていく打撃音が、彼らの唄だった。

よろめき、そして両手をダラリと、東丈は、棒立ちに立っていた。

「テリー…… あんたのパンチ…… めちゃくちゃ痛てぇぜ……
 もう今みてぇに何もかも忘れてよ、夢中でそいつを、ギースの顔面にくれてやれ……!
 きっとやっこさん、ヒィヒィ言って泣くと思う、ぜ……!」

大歓声に見送られながら、ジョーは前のめりに、しかし笑って、崩れ落ちた。
テリーは拳を構えたまま、呆然と、自覚しないままに伝う、少年の日の涙を、
流れるままに、流し続けた。

――背を、向ける。

ビリー・カーンの元へはアンディが行っているだろう。
追いつかなくてはならない。
ギースへの憎しみは変わらない。
殺してやりたいと思っている自分も、間違いなくテリー・ボガードだ。


でも、


――ありがとう、ジョー。

この闘いに生きて帰って来れたら、俺もお前みたいに――


テリーの去って行く背を、ジョーは仰向けに体を転がし、大の字になって眺めていた。


結局これぐらいしか言えねぇんだよなぁ……
足りねぇ頭振り回して考えてみたけどよ……

親の仇なんて俺には想像できねぇし、する資格もねぇ。
あいつらの覚悟は解ってるつもりでも、それはつもりでしかねぇよな。

もう自分が何言ってんのか、何が言いたいのかもよく解んなくなっちまってよ。
やっぱ、思い切りぶん殴るしか、思い浮かばなかった。

ただよ――

ダチに一番も二番もねぇけどさ、テリー。
あんたとは、最高のダチになれそうな気がしたんだよ。

絶対、生きて帰って来いよ。

もう、それだけで良いわ――


あーあ、負けちまったぁ。
馬鹿が頭使うと、ろくなことねぇよ、ばぁちゃん……



痛みを刻むだけになってしまった足を引き摺り、アンディは今度は意図的に、
転がるように間合いを離した。恐らく背骨にもヒビが入っているだろう。

片足で重い全身を支えて立ち、八極聖拳の呼吸法で身体中に闘気を満たす。
その無念無想の空間の中では痛みなどは声を上げない。
集中出来さえすれば、この一撃を放つことが出来る。
この場面で集中出来る精神の強さを、アンディは持っていた。

狂った奇声を上げながら猟奇的な眼をしたビリーが走って来る。
だが、その前に撃てる。
アンディは右手に収束した闘気を、咆哮と共に撃ち出した。

俺の拳は、父さんと、タン先生と、十平衛先生と、お師匠様の、
皆の想いを背負ってるんだ!

――こんなところで、負けられないんだ!!

「飛翔拳!!」

気が、塊となって空間を奔る。
意味も解らずに沸き起こる歓声を掻き消すように、ビリー・カーンの狂声が響いた。

「イヤァアア――!!」

だが、それは悲鳴ではない。
空気飲み込むほどにビリーが棍を回転させると、それに吸い込まれるように、
飛翔拳は吸収され、掻き消された。

「――な、んだと……」

それはただ、振り回した風圧だけで消されたなどという生優しい物ではなかった。
その不自然がアンディに疲労を思い出させた。

ビリー・カーンは八極聖拳にもない、気の受け方を熟知している。

突きを、脇腹に抉り込まれた。
呻く間もなく、アッパーのように棍をアゴに振り上げられた。
そして、叩き降ろす。倒れたアンディの口内を狙って、踵を打ち付けた。

血と、狂った笑いがビレッジを包んだ。
歓声は次第に、恐怖へと変わる。

飛び散る鮮血を顔に浴びて、まず最初に女が逃げる。
次に気の荒い、チンピラ達が逃げた。
最後に残ったのは日頃の鬱憤を蓄積させた男達だった。
だがその男達でさえ、この猟奇的な男の行動を直視出来るほど、狂ってはいなかった。

ビリー・カーンはいたぶっている。
何も出来ないアンディ・ボガードの骨という骨を砕き、眼も耳も削ぎ落として、
最後には腸を引き裂いて全身に返り血を浴びるつもりだ。
そして耳が破裂するような、狂乱の叫びをサウスタウン中に轟かせる。

――KOFはここまでだ。

リッパーが中継停止のサインを出す。


いや、出そうとした時には、ビリーの凶行は止まっていた。
後ろから棍を、何者かに掴まれている。
そのまま下を向いて、わなわなと震えるビリーにはもう後ろの男が誰か解っていた。
棍を掴まれたまま、振り向き様に左の裏拳を、その男の顔面に。

「テリー・ボガードぉぉ!!」

テリーは手を離し屈んでそれを躱すと、ボディに重い右アッパーを打ち込んだ。

「グォウ!」

そして、もう一度、右。
ビリーの頬に抉り込むように打ち込まれたテリーの拳は、その肉体を大きく弾き飛ばした。
倒れたまま、しばし動かなくなったビリーを、
リッパーが驚愕に取り憑かれて呆然と見ている。


「――兄さん…… 僕は……」

「何も言うな、アンディ。お前はよくやったさ。
 何も間違っちゃいない」

仰向けに倒れ、首だけを動かして手を伸ばすアンディの身体を
父のように抱き寄せ、テリーはかぶりを振って言った。
アンディの目から、涙が伝う。
兄の言葉が、父からの、あの幸せだった日々の追憶の言葉のようで、
悔しさと、暖かさに、アンディ・ボガードは涙に満たされた。

「――後は任せろ、アンディ。
 俺達は同じ親父を持った兄弟だろ? 弟の面倒は、兄貴が見なくちゃな」

必死に張り詰めていた糸が切れる痛みは、
同時に常に奥歯の奥から溢れ出ていた苦味からの、解放でもあった。

アンディは、ギースへの憎しみという感情以上に、
ただ、兄を超えたいと、ギース・ハワードを倒せば、この強い兄を超えて、
何も心配をかけない、強い男になれると――
父もそれに、微笑んでくれると――

ただ、それだけの想いで闘っていたことに、その腕の中で気付いた。

その弱さをこの、いつも強かった兄が受け止めてくれるなら、
この場だけはそれに縋ろうと、アンディは力無く笑って、意識を落とした。

――兄さん……


それを見届け、ゆっくりと、闘志が全身に伝って行く感覚を味わうように、
ゆっくりと、テリー・ボガードは向き直った。
ビリー・カーンが立ち上がって、猛禽の狂眼を焚き付けていた。

「そろそろきちっと決着つけないとな、ビリー」

「――ああ、やっぱり比べらねぇな、こんなガキとはよ」

「その割には随分とヒドイ格好だな」

その言葉を聞くか聞かないかのタイミングで、ビリーは唾を、いや、血の塊を吐き出した。
そこには再び歯が混じっていた。

「二本目だぜ、テリー・ボガード。
 テメェだけはぜってぇギース様の所にゃ行かせちゃならねぇ……
 この場でブッ殺してやる。ブッ殺してやるぜ、テリィィ!!」

言うと、ビリーは何の作戦もなく、ただテリー・ボガードへ向かって棍を突き出し、
地面を荒々しく蹴った。


アンディ・ボガードは確かに強かった。
しかしその強さからは、痛みや、鋭さはあっても、嫌な臭いはしなかったのだ。
限界まで張り詰めた糸は、ともすればとても脆い。
どんなに追い詰められても、この男には負けないと、ビリーの無意識は告げていた。
最後には、自分が勝ち、相手の命を貪っているイメージしか沸かなかった。

だが、テリー・ボガードは違う。
その拳が、アンディ・ボガードとは比べ物にならないほどに、重い。
単純な威力の差ではない。
心魂まで響く、そこに込められた念の重さが、アンディ・ボガードの、
無理に作り出したそれとはまるで違う、天然の悪臭となってビリーの鼻に響いた。
何か得体の知れない物質が焼け焦げたような、そんな臭いだった。

ビリーは気付いてしまった。
この男は一皮剥けば、自分やギース・ハワードと何の変わりもない、
血に飢えた狼なのだと。
いや、自分では届かない、自分よりもずっとギース・ハワードに近い、
狼火を燻らせ続ける餓狼なのだと、ビリーは気付いてしまった。

この男だけは、ギース・ハワードに会わせてはならない。
その場合、どちらがその命を落とすのか、ビリーの信仰を以ってしても、
確実に正しい答えを導くには至らなかった。

アンディ・ボガードは所詮、憎しみという強迫観念に囚われていただけの男だ。
だがテリー・ボガードは、ただ憎しみのみで、その拳を形作っている。

我が身をも焼き焦がす諸刃の炎が、自分が三度打ち付けられた、
焦げ付いて離れない、この顔面の悪臭なのだと理解した。


「プルルルルルルゥイヤァ! アァ――オ!!」

突く、ただ、突きまくる。
誰かが止めなければ、そのまま腕が千切れるまで彼は突き続けただろう。
だがそれを止めたのは、向かい合うテリー・ボガード自身だった。

テリーは誰にも止められなかったビリーの棍を拳で掴み、
そのまま引き寄せて脇に抱え込んだ。
棍が軋み、ビリーの視界を再びテリーの大きな拳が覆う。

「くぎゃわ!」

数歩後退った間合いは、テリーの蹴りに威力が一番乗る間合いだった。
失態に気付いた瞬間には、もうハイキックが目前に迫っている。
止めた腕が限界まで軋んだ。
いや、それはもう止めたとは言わない。
それほど重い、テリーの蹴りだった。

さらに文字通り飛んで来た空中からの踵を転がるように躱すと、
ビリーは大きく間合いを取って、仕切り直しに賭けるしかなくなっていた。

リッパーが橋の麓で待機しているホッパーに連絡を取る。
もしもの時は――


ビリーの仕切り直しは成功していた。
棍が届くギリギリの間合いを取り、左右にフェイントをかけるテリーを
正確に回し抜いて打ち、そしてそのまま突き入れた。

殺せる間合いまではあと半歩足りない。
その半歩が踏み出せないが、確実にテリー・ボガードの間合いの外から
ダメージを刻んでいる感覚は、ビリーに冷静な思考を与えていた。

だが、それも狂気を押し殺した冷静さだ。
もう一度弾けられる瞬間を、血の悦楽を与えてくれる半歩を、
彼の野生が、極限まで飢えて欲しがっている。

――チィ!

さすがにタン・フー・ルーとアンディを立て続けに倒した男。
あと半歩で命を奪われる間合いだとテリーの本能が理解すると、
踏み込むタイミングを、奮われる理性を制してそれが躊躇させる。
削られる痛みが、テリーの表情を歪ませた。

「何が復讐だ……! くだらねぇ!!」

対してビリーは、テリー・ボガードを間合いに入れるわけにはいかない。
例え半歩でも、それが自らの死に直結する可能性がある。
半歩踏み込めば殺せるが、その半歩を外せば殺される。

「テメェはこの街で、あの人の街で何を学んで生きて来た!?
 強ぇ奴が生きて、弱ぇ奴が死ぬ! この街はそれだけで、それが全てだ!!」

「――ビリィ!」

その言葉が、いやその言葉に込められた気勢が、テリーを僅かに退かせた。
だがその分、ビリーが踏み込み、一触即発の間合いを保つ。

「甘っちょろい正義ごっこであの方を惑わすんじゃねぇ! テリィィ!!」

今度は言葉が、ビリーに踏み込む勇気を与えた。
テリー・ボガードの心臓へ、狂気に取り憑かれたビリー・カーンの牙が、
空気を切り裂いて襲い掛かる。

だが、キッカケを待っていたのはテリーの本能も同じだった。
突き出される神速の棍と交差する、テリー・ボガードの、燃え滾るような拳――

「バァァァンナックル!!」

熱い、線で引いたような痛みが走った。
だが棍も、テリーの脇腹に、掠るように線を走らせていた。
威力は、半減出来た。

それでも、まるで止まらずに、野生の本能のままに続くテリーの左のアッパーに、
ビリーは魂まで焼き尽くすような死のイメージを、心魂へと打ち込まれていた。

悲鳴が、聞こえる。

もう限界だとは、闘いながら薄々感付いていた。
だが、それを理解している主人を守るかのように、
ギース・ハワードによって引き合わされたあの日から、長年連れ添い、
共に闘い抜いて来た棍は、テリーの拳を受け止めていた。

そして――砕ける。


見ない。見れない。
ただこのまま倒れてはいけないという答えだけがビリーの脳髄に走った。
視界を塞ぐように、眼前を両の腕でガードする。
そのまま泣き震えるように固まった。

「オオオオオオォォォオ!!」

ガードの上から、鉄球が如きテリーの拳が打ち付けられた。
それはもう、ガードとは言わない。
腕を砕く、クリーンヒットだ。
それを何発と喰らいながらも、ビリーは足を完全に止め、衝撃に後退すらせず、
ただ、受け止め続けた。

肉の激突する焦げ臭い臭いだけが、サウスタウン・ビレッジに漂った。

リッパーがホッパーに合図を送る。
周りが見えていないかのように拳を打ち続けるテリー・ボガードを、
ホッパーの、そのまま死を意味する銃口が捉えた。

ビリーは一歩も、半歩すらも後ろには退かない。
ただテリーが打ち込む重い拳を、その身体で受け続けている。

テリーは倒れないビリーに戦慄しながらも、ただ意地をぶつけるままに拳を振るった。

――何のために、何のために倒れない、ビリー!

心で哭きながら、テリーは拳を打ち込み続けた。
その拳の先にしか、ジョーの答えも、ビリーの答えも、テリー・ボガード自身の答えも、
その拳の先にしか存在しないことを、導かれるように悟っていた。

「ビリィィカァァン!!」


ダァン!


響いた銃声は、テリーの動きを奪い止め、世界に沈黙を与えた。
その瞳だけが、貫いた先の銃痕を、スローモーションのように追っていた。

撃ち抜かれた先に響いたのは、地を擦った火花と、
まるで遠い場所へ転がる、抜け殻となった弾の、転がる音だった。


――ホッパーが外した!?


リッパーは弾の転がった先から、弾かれるようにホッパーへ向き直っていた。
ホッパーの伏せられた顔からは、激しい疲労と、悩乱の後が見えた。

ホッパーは、ただ腕を構えて動かず、あんなに無様に、
ボロボロに打たれるままに打たれるビリーから、目を離せないでいた。
彼の覚悟を、撃ち抜くことを、理性で承諾した命令を、最後の野生が、拒否していた。

――わざと外した。

リッパーがそれを理解するのに時間は掛からなかった。
あの銃弾はテリー・ボガードを殺す銃弾ではなく、ビリー・カーンを称え、救う銃弾。

「――余計、な、こと、しやがって……」

倒れる瞬間、ビリーは最後の生きた眼で、リッパーを見据えた。

――ギース様を頼む。

その眼は、言葉にはならずとも、空気を伝わってリッパーに心を伝えていた。
リッパーが頷くと、それに安心したように険を落としたビリーは、
そのままテリーの脇へと、崩れ落ちた。

立ち尽くすテリーに、言葉はない。
ただ壮絶なビリー・カーンの覚悟を、自分の覚悟と照らし合わせて刻んでいた。
グローブに付着したこの男の血が、形のない涙と共に身体を駆け巡る感覚を感じた。

ビリー・カーンは紛れも無く、飢えて、渇いて、闘いの世界にだけに生きる、
餓狼そのものだったと、その血が伝えていた。


震えるように立ち尽くすテリーを、リッパーが車へと案内した。
ギースタワーは、もう視界で捉えられる位置にある。

【18】

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