閑散としたサウスタウン・ビレッジにヘリの羽音が響いた。
それに気付けされたようにテリーはリッパーの肩を掻き分けて制し、
アンディの方へ数歩歩んだ。
待機のドクターに包帯を巻かれ、タンカに乗せられているのが見える。
応急処置が終わり、これから病院へ運ばれるのだろう。
「――アンディは、大丈夫だろうな」
「大会規定で最上の治療を受けられるようになっている」
「銃まで抜いておいて今更何が大会規定だ」
テリーが振り返って強い口調でそう言うと、その視線の先でドボンと音が鳴った。
車の中の黒服、ホッパーが銃を海へと投げ捨てた音だった。
リッパーも内ポケットからナイフを取り出して捨てた。
後は何も言わない。
数瞬の沈黙が訪れた。
「――あんたらも、馬鹿野郎ってわけか」
テリーは苦笑して呆れるように言うと、
リッパーにエスコートされるままに、橋の麓の車に乗り込んだ。
後部座席に座り、呼吸を整える。
八極聖拳の内功でダメージを少しでも取り除くための準備だ。
――声がした気がした。
すぐにエンジン音に掻き消されたが、
ガラス越しに黒いマントの男が、アンディの側で親指を立てているのが見えた。
ジョー……
目が合うと、ジョーは今度は自分の左腕を強く叩き、笑った。
アンディもタンカの上で拳を上げているのが見えた。
言葉など届かずとも、心に直接殴られたように通じた。
必ず、ギースを倒して、生きて帰って来る。
アンディ、ジョー、タン先生――
父さん――
閉じた瞳の中には、今までに出会った強い男達が居た。
全ての想いを背負って、テリーの体内を暖かい気が満たして行った。
溶けて行く痛みと、決して溶けないギース・ハワードの呪いが、
穏やかな精神とは別の所で、テリーの決意を昂ぶらせて行く――
「今年は随分と愉快なことになっているそうではないか」
血のようなワインが、ワイングラスの中で戯れながら波打っている。
中世の王が座るような玉座に、2mはある長身の男が座っていた。
その段差の下方に跪き、報告を行っている男もそれに劣らない身長の持ち主で、
とてもただの側近には見えない。
「は、今入った情報によりますと、ビリー・カーンも敗れたとか」
「――テリー・ボガード……
ジェフ・ボガードの息子だとか言ったな」
「はい」
「差し詰め復讐の狼、といったところか。
どうやら奴の甘さが死神を育ててしまったようだ。
さて、あの男は無事に逃げ切ることが出来るのかな?」
底が見えないほどに広い一室に、クラシックの生演奏がゆるやかに流れている。
玉座の男は額に鮮やかに刻まれた十字の傷を舐めるように触り、喉の奥で笑った。
それを見上げる男の眼は、押し殺した残忍さを持っていた。
真っ赤な絨毯が、眼に刺さるような痛みを放っている。
パオパオカフェ――
KOFの興奮を維持するように、ダック・キングが闘技場で闘っていた。
相手はダックに比べると随分、弱い男で、そこはもうダックのダンスステージになっている。
ダックはすでに三連戦となっているのだが、本人の興奮も最高潮なのだろう。
全く止まらずにステージで踊り続けている。
リチャード・マイヤが盛況する夕飯時の店で忙しく動き回っていた。
そこに一際目立つ大男が入って来てカウンターに座った。
隣りの男が、見るからに自棄酒といった具合で酒を流し込んでいる。
「相変わらず良い飲みっぷりだな、ホア」
大男が、ホア――ホア・ジャイに声を掛けた。
「――うるせぇ…… 誰だ、テメェ……」
大男はその体格に似合わないキョトンとしたコミカルな表情を浮かべると、
軽く笑って立ち上がり、両手を貫手に構え、片方をこめかみ辺りまで掲げ、
もう片方をターゲットの喉元へと向けて上下に身体を揺らす独特のスタイルを取った。
この体格でこの構えをする男は一人しかいない。
「――お前、ライデンか……
熊みてぇな野郎だとは思ってたが、素顔まで熊みてぇだな……」
ライデンは豪快に笑うと、再び座ってビールを注文した。
リチャードが益々忙しく動き回っている。
三人目もダックの勝ちで決着がついたようで、闘技場が大きく湧いている。
「ビリーが負けたそうだな。
想像出来ねぇ。テリー・ボガードってのはどんな化物だ」
「俺にはジョーの負けの方が想像出来ねぇよ。
あいつが負けるなんてな…… 有り得ないぜ」
ホア・ジャイは力無く空のグラスをカウンターに置き、項垂れた。
「中継は観てなかったのか?」
「観てても想像出来ねぇ」
ダックに四人目の挑戦者が現れたようで、再び闘技場が騒がしい。
ライデンの特大のジョッキが運ばれて来た。
零れ落ちた泡がぶくぶくと暴れている。
それを一飲みで飲み干し、ライデンは静かに言った。
「俺は、ギース様の下から抜けるぜ」
ホアは再び注文した酒を手に取ると、虚ろに正面を見たまま、ぼんやりと言った。
「――俺も、セコンドやんねぇとな……」
すでに臨戦体勢となっていたテリーだったが、
その気勢を削ぐように豪華なホテルへと入れられていた。
レセプションは明日、ということらしい。
反発はしたが、半ば強引にその部屋へと入れられると、
宿主の意思に反して、薬でも盛られたかのように身体は休息を必要としていた。
ただ――眠る。
夢の世界は、あの頃のアパートの広さしかなかった。
広がる赤い血に足を取られて、
ただ死体に寄り添っている二人の子供を見ていることしか出来なかった。
一人は泣いて、もう一人は歯を食い縛っていた。
それはもう、すでに死体なのに、泣いている少年と違って、
もう一人の少年は、何を勘違いしているのか、それがまだ生きていると思っているようだ。
歯を食い縛ったまま、声とすら呼べない、獣の雄叫びのような音を、空へと放っている。
アパートの天井はとても低くて、そんな雄叫びなど、
すぐにしゃぼん玉のように消えてしまうのに、それでも、無駄なことをしている。
その、狼の遠吠えのような音は、決して天井を突き破ることはないし、
例え突き破ったとしても、眼下の死体が生き返るわけでもない。
本当に、無駄なことをしている。
滑稽でしかない。
食い縛った歯茎から滲んだ血が、とても赤い。
それが死体の血と混ざって、また地面を汚している。
父はあまり綺麗好きというわけではなかったから、こういう汚れはよく弟が拭いていた。
無駄なことばかりをして、いつも繊細な弟に迷惑を掛ける。
本当にどうしようもない奴だ。
――まだ、歯を食い縛っている。
よくよく考えれば、少々腕っ節が強いだけで、後は何もない人間だった。
天井にある一対の眼を睨みながら、怯えながら、まだ、食い縛っている。
弟はとっくに泣き止んでいるのに、自分はまだ食い縛っている。
呪われたように、食い縛っている。
それしかないから、食い縛るしかない。
それを見ているテリー・ボガードがふわふわと浮いて、夢は終わった。
汗と共に、疲れは抜けている。
ただ、シャワーを浴びたいと思った。
「――ッ!」
アンディが、声には出さずに寝たまま跳ねた。
「ご、ごめんなさい、アンディさん! 痛かったですか? 私まだ慣れてなくて……」
包帯を巻いている看護婦は、先日の三つ編みの、
女性と言うにはまだ年幼い感じの金髪の少女だった。
隣りのベッドの看護婦がアンディに耳打ちするように、
「あの子、トロいからごめんなさいね」と、嫌味のない笑いで言った。
それが聞こえた少女はさらに慌ててあたふたと包帯を巻き直している。
苦笑いのアンディと――
どこまでもだらしない顔でヨダレを垂らしている付き添いのジョー。
「あのー、看護婦さん、実はですね。俺もこの、ちょっと腕のとことか火傷?
みたいな感じになってまして、包帯巻いてくれると嬉しいなぁ、なんて」
そんなことを言い出すジョーにアンディは心底呆れた顔をしている。
「あら、アンディさんに怪我をさせたのはあなたなんですか?」
「えっ!? いや、なんでですか!?
違いますよぉ、俺がそんな野蛮な男に見えます?
アンディをやったのはこう、こんな鬼みたいな顔したバンダナの――」
と、ジョーが顔を思い切り変形させて言っていると、ぽん、と少女が手を叩いた。
「まぁ、私のお兄ちゃんもバンダナをしてるんですよ。
ここで無理言って働かせて頂いて、そのお金で誕生日に私が買ってあげたんです。
そうしたらすごく喜んでくれて、それからずっとしてるんですよぉ」
「そうですよね! バンダナの男に悪い奴はいませんよね!
実はこれもある種のバンダナなんですよ」
そう言ってハチマキを指すジョーに、少女は初めて知ったと驚いて、
クリクリした瞳でその“ある種のバンダナ”を見ていた。
ジョーがどこまでもだらしなく赤く照れている。
「何しに来たんだ、お前……」
やがて包帯も巻き終わり、少女は次の病室へと笑顔で向かって行った。
時刻は正午を過ぎ、やや日が翳りつつある。
「――ジョー……」
「――ああ、解ってる」
二人の空気が重くなる。
「リリィちゃんの電話番号のことだろ? ちゃんと聞いておいたから安心しろ」
真顔で言うジョーを無視してテレビを付けると、KOFの映像がダイジェストで流れていた。
こうして熱が引いた世界から眺めるようにそれを見ていると、
その過酷さと、壮絶さが、目に痛いほど染み込んで来る。
何の為に、こんな苦しいことをしている――
アンディは、兄を超える為。
ジョーは、熱くなる闘いを求めて。
――なら、兄さんはどうなんだい?
同じ物を見て来たつもりで違う物を見ていたのは自分の方だった。
もう兄が見ている物も、解らなくなってしまった。
まだ肝心の闘いが終わってもいないのに、それが終わった後は、
兄には何も残っていないようで、アンディは、怖さを感じた。
僕の知っている兄さんは、戻って来るのだろうか……?
もう、表彰式も終わった頃だ。
映像が、ギースの代理で市長からトロフィーを貰う兄の姿を映した。
そこに笑顔はない。
「――心配すんな、絶対無事に帰って来るさ。
あいつは負けねぇよ」
「――ああ……」
不安だけを掻き立てて、日は落ちて行く。
気休めにハトを探しても、どこにも居ない――
表彰式を兼ねたレセプションは巨大なホールを貸し切って行われた。
だが、ギース・ハワードは閉会のスピーチを別の場所で行っているとかいう、
安っぽい嘘のような理由で席にはいなかった。
それでも、これで終わりだとは思っていない。
ワインの一滴も飲まずに、テリーは張り詰めた緊張感を保っていた。
ホールを出たテリーの迎えの車は、あの時と同じ、
リッパーとホッパーの黒いリムジンだった。
ギース・ハワードが呼んでいる。
丁寧に頭を下げている二人に目もくれず、
ただ一点のみを見つめて、テリーはそこに乗り込んだ。
送られる先は、解っている。
あの、銀色に輝く、天界へ繋がるような巨大な摩天楼――ギースタワー。
それが近づくのが、目を閉じていても解る。
あの塔は血肉が脈打つ生き物で、ギース・ハワードが使役した魔物なのだと、
タワー全体から発せられる威圧感が語っていた。
一度体内へ入ったらグチャグチャに噛み砕かれた肉叢としてしか出ることを許されない。
そんなことを言って、タワーがテリーを脅す。
だが、ギース・ハワードが自分を呼んだということは、
ギース・ハワードが自分を待っているということだ。
こんな使い魔に怯えているようでは、あの瞳に嘲笑を浴びる。
テリーは静かに高めていた闘気をじわじわと本物にしていった。
ハンドルを握るホッパーの手がぬかるみ、リッパーの額にも大量の汗が伝う。
尋常でない熱さと、身体の芯の寒さが、汗とも冷や汗ともつかない、
ただ逃げ出したくなるような液体を生み出していた。
何かが焼け焦げたような臭いがする。
ビリーはこんな男と闘ったのか……
今になって、ギース・ハワードが自分ではなく、
ビリー・カーンを選んだ理由が、リッパーにはハッキリと解った。
俺はこんな男とは闘えない。
命乞いをしないように、心で虚勢を張るのが精一杯だ。
静か過ぎるほど静かだった。
まだ光を灯し、夕闇を押し戻そうと足掻きながらも、中には何もない、
空っぽの空洞のように感じた。
リッパーに丁寧にドアを開けられ車を降りると、
二人の黒服はその場に彫像のように立ち尽くして、中へ入る気配はなかった。
一人で行け、ということか。
そしてそれは、ギース・ハワードが一人で来いと言っているということだ。
どんな罠があるのかは解らないが、それがギース・ハワードの仕掛けた罠であるならば
全て受けてやろうと、そんな麻痺した怒気のままに無防備に歩を進めた。
だが、何もなかった。
ただ何もなく、静かなだけだった。
罠どころか、人すらもいない。
電気は明々と灯っているにも関わらずのこの静寂は、
中の人間達が全てこの魔物に食われてしまったようで、気持ち悪さがあった。
闘気が流れ出て来る。
案内などなくとも、不倶戴天の仇敵の居場所は神経が察した。
エレベーターを上がる。
最上階付近で降りて、そこからは血の匂いを追う狼のように、
ギース・ハワードの闘気へ向かって、一歩一歩コンクリートの大地を刻んで行った。
洋式のビルの造りとは明らかに相反した、場違いな襖があった。
その指で突くだけで穴の空く脆弱な扉の奥から、息苦しい熱さが流れ出て来る。
本当にこの先に居るのはギース・ハワードなのか?
そんなことを、この場まで来てテリーは思った。
あの凍るような眼のどこに、こんな熱さがあるというのか。
同じ人物の豹変とは思えない、毛穴の奥からチリチリと痛む熱気が、
襖の奥から溢れ出て来ている。
開ける。
また、次の襖があった。
襖に描かれている絵は日本の合戦のようだった。
一枚開ける度に、合戦は激しくなる。
三枚目の襖を、開ける。
板張りの地面に、阿修羅や仁王の像が威圧的に立っている。
だが、その場所にはそれ以上の威圧感を放つ、熱気があった。
金色の髪をオールバックに纏め、赤茶色の袴に白の胴衣を着込み、
白い足袋を履いてこの異様な空間に佇む男――
「ギィィィスッ!!」
蒼い双眸を炎の色に染めたまま、ギース・ハワードは無表情にその眼を見た。
間違いない――あの時の死体の子供だ。
蝿のように死体の上で飛んでいた男が、狼となって現れた。
生まれた感情を押し殺し、ギースは口を開いた。
「テリー・ボガード。何をしにこの街へ帰って来た」
「――この日の為にだ……!」
テリーは見せつけるように形見のグローブを突き立て、
眼はギース・ハワードへと突き刺したまま、右、左と、ゆっくりとそれを締め、構えた。
その仕草は、ギースの眼には痛いほどに、ジェフ・ボガードの生き写しだった。
――フン、亡霊が。
ギースが摺り足で歩幅を取り、力を抜いた掌を胸の前で構えた。
「この日を待ってた…… ギース……!」
もうテリーには痛みも、疑問も、恐怖も、何かもが弾け飛んでいた。
それを無理に抑えるように、震える唇で紡ぎ出した言葉は、
何の隠し立てもない、真実そのものだった。
テリー・ボガードはこの11年間、ずっとこの日を、
子供が誕生日を待つように待っていたのだ。
今は、それだけが答え――ならば、それに従うだけだ。
「うぅぅおおおあぁぁあああ――っ!!」
吠えた。
あの時は虚空に吠えるしかなかった咆哮を、今度は明確に正面にぶつけることが出来る。
そこには悦びをすら感じた。
そしてそのまま駆け出していた。
拳を、振り被る。
だが、その想いを見透かしたかのように、
ギースの顔面があった場所にはすでに左手が置かれていた。
すり抜けたかのようにいなされ、後頭部を掴まれると、そのまま地面へ潰された。
無様。
鼻を打ち付けないよう、首を捻り、頬で受け身を取るのが精一杯だった。
その背に重い掌打が打ち付けられるのを感じた。
「ぐぁ!」
身体が逆に折れるほどの衝撃。
そして脇腹を蹴り上げられ、痛みと共に転がるように逃げた。
呻く。
まだ、起き上がれない。
「そうやって一生、這い蹲っているがいい」
そんな声が麻痺した頭に聞こえた。
この男にだけはナメられるわけにはいかない。
テリーは地面を殴るように手を突き、そのまま跳び跳ね、
空中で回転して落とす、強烈な踵を放った。
「クラックシュート!!」
駆け抜けるスピードと、全体重が乗った重さの合わさった一撃。
だがそれに反応して身を躱したギースは、
まだ空中のテリーの顔面にハンマーを打ち込むが如き蹴りを浴びせた。
クラックシュートの威力がそのまま仇となる。
両腕でガードしたテリーだったが、再び打ち付けられた地面の味は、
最初に打ち抜かれた背中へと電流のように走った。
ギース・ハワードはゆっくりと近づいて来る。
怒りに任せて大技を振り回しても通用しない。
テリーは軽くステップし、左のジャブを放った。
払い除けるようにガードされるが、返し技までは喰わない。
すぐに右ストレートをガードの上から打ち込み、間髪居れず右のミドルキックを打つ。
上がった左腕のガードは下がり切らない。
充分に力の乗る間合いではないがダメージは刻める。
テリーの冷静な理性はそう計算していた。
が、打ち込まれたのはギースの右の中段突きだった。
ミドルキックが威力を持つ前に、
スピードの乗った拳が身体を押し飛ばすにように打ち付けられていた。
間合いが外れ、ミドルキックが空振りする。
致命的な隙だ。
見開いた眼にはすでに避けられない距離で、ギースの袴が踊っていた。
完全に力の乗り切った、後ろ回し蹴り。
薙ぎ倒されながら口の中が切れた痛みを感じた。
ギース・ハワード――強い。
並の強さではない。どこか甘く見ていた。
大技を弾かれても、堅実な打ち合いならば押せると自分は勘違いをしていた。
この男は掛け値なしに強い。
そして、ただ強いだけではない。
何か、重い。技に乗った重さが違う。
その得体の知れない重さがダメージ以上にスタミナを奪う。
向き合うだけで意味も解らずに息が切れた。
空洞の窓から夕陽が差し込み、阿修羅の像の影とギース・ハワードが重なった。
影に覆われ、違和感を感じた燃え滾る瞳と、
少年の日のあの凍てついた瞳までもが、すぐ近くで重なった感覚を持った。
それが神経を伝って、寒さとしてテリーに危険を教える。
飛び退いた。
拳に気を収束する。
接近しては駄目だという追い詰められた焦りをテリーは集中力に変えた。
追い詰められて崩れるほど甘い世界で生きてはいない。
渾身の――
「パワァァーウェイーブ!!」
板張りの地面を殴り付け、それを焼き焦がしながら、
それすらも力に変える気の波動。
――懐かしいな。
だが、仁王の踏み込み。
その底が抜けるような震脚は、“気”という形のない物を踏み潰して消すという、
有り得ない現象を当然のように起こしていた。
「――馬鹿な!」
かつて、極限流の男達が使っていた、気を制し、気を受ける防御法。
それに加えギースは、八極聖拳の気功で身を固めている。
二重の対気功防御。
闘い続けて来た人生の重みが、そのまま形となってギース・ハワードを無敵にしていた。
「八極聖拳などに留まっているからこの程度で驚くことになる」
ゆっくりと、獲物を追い詰めるようにギースが歩んで来る。
テリーは退かないよう足を踏み締めることしか出来なかった。
いや、身体が固まって動けないのか。
しかし、ギースは間合いには入らず、口を開いた。
「テリー・ボガード、貴様何故この街を離れた?」
「――な、に?」
「貴様は強くなりたいのならこの街に留まるべきだった。
この街は人を強くし、狼を育てる。
貴様はそれを理解していながら、敢えてこの街を離れて牙を磨いた。
何故だか教えてやろうか……?」
見開かれた眼光の奥から発せられる凍りつくような炎が、
テリーの全身に嫌な汗を伝わせた。
「それは貴様が私に恐怖したからだ!
貴様は逃げ出したのだ、ボガード!!」
ギースが初めて思い切り踏み込む。
鳩尾を打つギースの掌に思い切り身体が折れた。
「ぐっふぉ!」
下がった顎には膝が飛んで来る。
両手で防ぐが衝撃までは抑えられない。
「トゥア!」
崩れたところに威嚇するような轟音を地に与える、
ギースの不動明王が如き踏み込み裏拳が飛んだ。
また、転ぶ。
その重い一撃一撃に耐えられず、テリーの肉体は何度も重力に押し潰された。
――こんなに、強かったのか、ギース……
強いとは思っていた。
だが、自分より強いとは思っていなかったという部分が、
テリー・ボガードの本音にはあった。
ジョー・東やビリー・カーンより強い男など、
彼らを知ったテリーには、想像出来ないままに此処へ来た。
だから、何の疑いもなく勝てると思っていた。
それに、まだ限界まで力を使ったわけじゃない。
彼らに追い詰められはしたが、まだ本当のピンチにまでは至っていなかった。
本当に追い詰められればもっと力を引き出せるという不確かな思いが、
テリー・ボガードの自信となって、確かな力を与えていた。
だがそれは自惚れだった。
そんな物はなかったと、このギース・ハワードが語っている。
今、確かに恐怖している自分には、まだ使っていない力などない。
よくよく考えればあの強かったジェフ・ボガードを倒した男だ。
テリー自身、自分が強くなったとは思っていても、
ジェフ・ボガードを超えたとはどうしても思えなかった。
それを、ギース・ハワードは倒している。
――なぜ強さに気付かなかったのか。
考えている間にも、ギースの拳脚が固めた身体を確実に刻む。
正面から、強い。何のトリックもない説得力のある強さが打ち付けられている。
――そうだ。
テリーには、ジェフ・ボガードが敗れるはずがないという盲信があった。
だから、ギース・ハワードは何か汚い手を使って父を倒したのだろうと、
そんなことが当たり前の認識としてあったのだ。
彼の熱気に違和感を持ったのは、何も冷たさを感じなかったからだけではなかった。
人のいないタワーを上がる気持ちの悪さも、それを認めたくない心が生んだまやかしだ。
ギース・ハワードは、古武術の正装に身を包み、堂々とテリー・ボガードを待っていた。
――父さんは、正面から、負けた……
間合いが離れる。いや、テリーが逃げるように離したと言った方が正しい。
「――ギース、なぜ父さんを殺した?
お前と父さんは同門で、親友同士だったとタン先生からは聞いた。
何故だ? そんなに八極聖拳の秘伝書が欲しかったのか?」
そんなことを本当に聞きたかったのか、苦し紛れに声を出したかったのか、
それはテリー本人にも解らない。
ただ何か精神的なショックを払拭出来るキッカケを、
テリー・ボガードは無意識に探していた。
「秘伝書だと? あんな愚物は何の役にも立たん」
――実際、ギースにとっては秘伝書は無意味な物だった。
そこに記されていた物は、とうに自分が通過した場所。
せいぜいが気功の深遠に触れて、燃費が良くなる程度の物だった。
ジェフ・ボガードならばそれで強くもなれようが、
元より気の容量が八極聖拳の門下の中でも並外れていたギース・ハワードにとっては、
本当に大した意味のない代物だった。
しかし、その紙から発せられる記憶を貪るような怨気は、
その秘伝書がそれだけの物ではないと、まだ雄弁に物語っていた。
学者に解読させようと思っても、自分以上に彼らはそれの意味を理解出来なかった。
全身の血を流し込んで炙り出さない限り、秘伝書の呪縛は解けない。
だがそれを理解すればこそ、ギースには尚更意味のない物だった。
ビリー・カーンから報告を受けたタン・フー・ルーの変化も、
命を消耗しては不死身の肉体とはおよそ縁遠い。
ギース・ハワードが欲するのは不死身の完全体であって、死と引き換えの強さではない。
ギース・ハワードはヴォルフガング・クラウザーと刺し違える気などは毛頭ない。
それは、少年の日の最初の思いとまるで変わってはいない。
憎しみこそが彼の命。
簡単に殺すだけでは彼の命は渇いてしまう。
八つ裂きにしても満たされない。
引き裂いて、人形みたいに腸を引き摺り出して、それに喰らい付いて、
噛み砕いて、踏み砕いて、握り潰して、サウスタウンのドブ川に捨ててやる。
カラカラだ。どこまでもカラカラだ。
心の空洞が渇き切っている。
それを癒す血は、自分の血では有り得ない。
「――邪魔だったからだ」
ギース・ハワードはそう答えた。
「貴様も同じだろう。私が邪魔だからこの場所へ来た。
私を殺すためにな」
邪魔――?
「違う! 俺は父さんの仇を! 復讐を……」
復讐という想いすらも綺麗事だと、この男は言うのか。
他人のために闘っているという欺瞞を、この男は責めるのか。
ギース・ハワードから見た今のテリー・ボガードの眼は、
あの時の、ジェフ・ボガードと相対した時の、自分とまるで同じだった。
確かな殺気がある、憎炎を宿した毒々しい瞳。
理性か、良心かは知らないが、
それがそれを押し殺そうとどんなにもがいても、マグマのように溢れ出て来る。
かつて自分が氷でその炎を抑えようとしたような、それと同じだ。
ギース・ハワードが冷徹な支配者になりたかったのと同様に、
この男も善人だか正義だかになりたがっている。
それでも抑えきれていないのが、このテリー・ボガードの今の眼だ。
それが復讐者の眼であるならば、
自分がジェフ・ボガードを殺したのも復讐だったのだろうかと、ギースは考える。
自分を削った男に対する復讐として、ジェフ・ボガードを殺したのだろうか。
だが、くだらないという答えは、今も変わらなかった。
「貴様の父親と同じようにのたれ死ぬがよい」
間合いを詰めながら、腿を打ち付けるギースの回し蹴りが
腰の落ちているテリーの頭へと打ち下ろされた。
遠心力と、体重が乗り切った完全な一撃。
「ぬ!?」
だが、テリーはそれを両腕をクロスにガードし、押し戻すように立ち上がった。
ギースがバランスを崩している間に呼吸を整え直す。
テリーの全身から立ち昇る青白い湯気が、ギース・ハワードを威嚇した。
そのまま拳がギースの肩口にめり込む。
初めてギース・ハワードにダメージを刻んだ。
打ち返される痛みを受け入れて、テリーは尚も拳を打ち込んだ。
その拳速は光のように速く、鉛のように重く、
ギース・ハワードをして守勢に回らざるを得ないキレがあった。
歯軋りしながらも、今度はギースが下がって間を取る。
踏み込もうとしたテリーを止めたのは闘気の風だった。
「烈風拳!」
――速い。
ギースの左腕が振り上げられる度に、闘気が地を滑り、風を裂いてテリーを襲った。
テリーのパワーウェイブと同等以上の気が、それより遥かに速いスピードで連射される。
それを受け、確実に身を切られながらも、テリーはどこかすっきりとしていた。
邪魔、だから倒したい。――殺したい。
ギースのその言葉が真実に近いような気がして、
震えていた頭が思案に沈んでいたのだ。
どことなく遠くを見たまま、ギースを殴り付けていた。
代わりに恐怖が消えて、純粋に闘いに打ち込めるようになった。
それは、テリーが信仰していた、追い詰められた時の、
本当の自分の力だったのかも知れない。
烈風の波を気功で身を固めて受け止めながら、意識が繋がって行くのを感じた。
もう恐怖は感じていないから大丈夫だと思うと、何でも出来そうな気がした。
大地を殴り付ける。
パワーウェイブではない。
ただ、烈風拳のみが消えた。
テリーもまた、気を制し、気を受けたのだ。
それと同時に地を駆け、熱した拳を打ちつけた。
「バァァンナックル!!」
だが、目の前のギースは滑るような歩法で照準から消え、
逆に膝が腹にめり込んでいた。
「ぐぉ!」
また、あの重い裏拳が来る。
不動殺活裏拳と、その拳には名が付いていた。
両腕でガードしても尚も重い。
先程打たれた腹が軋んだ。
ギース・ハワードはテリーが気を受けても何の驚きもなかった。
むしろそれくらいは出来て当たり前だとどこかで思っていた。
そして、バーンナックルという技は、もう何度も我が身で受けて来た技だ。
ジェフ・ボガードの劣化コピーなどを受けるはずがない。
すでに見切りは手に入れた。
――次にバーンナックルを出した時が、貴様の最期だ。
テリーが左フックを振り抜く。ギースは屈んでそれを躱した。
この闘いで、ギースが体勢を違えてまで技を躱したのは初めてだった。
テリーの脛を、ギースの地を這うような脚払いが襲った。
だが軽く跳ぶ。そのままバックスピンキックがギースの顔面に刺さった。
ギース・ハワードが血を吐いた。
胴衣の裂けた脇腹の、爛れたような赤い線――
バーンナックルはギースの自覚の外で、僅かに掠っていたのだ。
テリーはいつになく軽い自分の身体に意識がついていかない感覚のまま、
ギースに追撃の拳を打った。
当たる。それが、信じられない出来事のように感じた。
同じ様に打ち抜かれ、自分が血を吐いていても、それが痛みには繋がらなかった。
むしろ、それが反撃の意欲になった。
どんな醜い笑みを浮かべているのか、自分でも解らない。
ただついていかない意識を、狼の野生が補っていた。
血の臭いを追って、餓狼が牙を剥いていた。
ギースはこのテリー・ボガードの強さを、
その復讐の眼を見た瞬間、闘う前から解っていても、それが許せなかった。
テリー・ボガードはこの街から逃げた男だ。
この街から逃げた男が、こんなに強くなっているのは認められない。
それは、冒涜であると同時に、この街の否定。ギース・ハワードの否定だ。
「貴様がそんなに強くてはならんのだ! テリー・ボガード!!」
テリーが打ち込んだ二度目のバーンナックルは、
全ての終わりを告げる停止と共にギースの左腕に吸収され、
地獄の底のような逆の地面へと、その勢いのままに頭蓋骨を叩きつけられていた。
刹那の瞬間を見切り、それを認識させる間もなく死地へと投げつける。
周防辰巳が必殺とし、今はギース・ハワードのみがその極意を極めている、
周防辰巳、リョウ・サカザキ、ジェフ・ボガードを次々と粉砕し、
内二名を死に至らしめた――当て身投げ、だった。
――板張りの大地に、真っ赤な血が伝う。
その血は、何かの間違いで零れてしまった絵の具のようで、
早く拭かなければまた弟に迷惑をかけるという、申し訳ない気持ちになった。
そういえば、帽子がない。
どこかへ飛んでいってしまったようだ。
でも、誰かがまた被せてくれるから、何も心配は要らない。
それを被せられると、何も見えなくなってしまうけど、
何も見なくても同じだから、見たくなんてないから、何も心配は要らない。
それより早く拭き取らなくちゃ。
「――何だと」
ギース・ハワードが、初めて驚愕した。
完璧な当て身投げを受けて、何故かテリー・ボガードが立ち上がっている。
呆けたように虚ろに、しかしライトを浴びたように光る眼光から、
真っ赤な血が、涙のように伝っていた。
互いに動けなかった。
テリーの静止はダメージ故か、それとも意識がないままにそうしているのか。
だが、ギースの静止は、足が竦んだと表現しても良い、そんな寒気を神経が与えていた。
刹那、テリーが駆けて来た。
反射的に烈風拳を放つが、威力の乗らないそれでは
もはやテリーを止めることは出来なかった。
すでに、近い。
不確かな足を踏み締めて放たれるアッパーを躱し、
ギースは直蹴りを顔面、腹部へとニ連打で浴びせた。
テリーはよろめく足で数歩後退さった。
が、そこで踏み締める。
バーンナックルが来ると、ギースは直感した。
それを再び捕り、完璧な、完璧なはずのタイミングで止め、そのまま連動して投げつけた。
再び血の池が生まれる。
そこは間違いなく地獄だったはずだ。
なのに――
「何故立てる、テリー・ボガード……」
「――父さんが、護ってくれてる」
「何だと?」
「お前は気付かないのか?」
――何を言っている。
血は止まらず、痛みは思い出したように頭から全身に伝う。
立っているのはとても辛いが、テリーは歯を食い縛って耐えた。
眼を瞑り、天を見上げれば、こんな高い場所まで来ているのに、
それでも天井が、巨大な壁のように音を遮っていた。
吠えても、吠えても、それは届かない。
ギース・ハワードという壁に反射され、咆哮を上げることも出来ない。
最初にこの男に吠えた時に気持ちが良かったのは、それで崩せると思ったからだ。
この壁を崩せば、やっと声が届いて、ずっと会いたかった人に会うことが出来る。
――そうなんだ……
やっと解ったよ…… 俺は止まったままなんだ……
俺は今でも、歯を食い縛ったままだ……
あの時、お前に父さんを殺されて、歯を食い縛ったまま、全然時間は進んでない……
だから、俺には過去の自分も、今の自分も居ないんだ……
だから…… だから……!
「お前を倒さない限り、俺の時間は進まないんだ!
お前は俺の呪いなんだ、ギース! 俺はお前を越えてやる!!」
ギィィィィスゥゥゥゥゥ――――ッッ!!
ズッ……!
――鮮血が、舞った。
胸板を貫く、よく見知ったグローブを、ギースは呆然と受け入れていた。
完全に見切ったはずだったのに、ジェフ・ボガードは確かに殺したのに、
心にまだ――生きていた。
ジェフ・ボガードという、時間を止める壁を壊した時に散った、小さな小さな破片。
それが、強く、気高い牙となって、今、突き刺さっている。
狂ったタイミングは、すでに完璧では有り得ない。
何度も、何度もその身で受けたバーンナックルは、
無意識の内に、ジェフ・ボガードのタイミングで、ギースを反応させていた。
テリー・ボガードの拳は、それよりも数瞬だけ、ほんの数瞬だけジェフ・ボガードを超え、
――速かったのだ。
ギースは戻りたかった。
ジェフ・ボガードと出会う前の、飢えた狼だった自分に、どうしても戻りたかった。
だが、そこへ戻ったはずなのに、心には、楔のように弱さが刻まれていて、消えなかった。
それがある限り、どんなに強くなっても過去にも戻れないし、
先へも進めないと解ってしまった。
思い出の場所を焼き払っても、それはまだ抵抗を続け、消えようとはしてくれなかった。
ギース・ハワードにとって、ジェフ・ボガードは間違いなく友だったのだ。
この、テリー・ボガードという男の眼と、あの時の自分の眼は、復讐などではない。
ただ、止まってしまった時計を進めたくて、泣いていたのだ。
子供のように、ただ泣いていた。
涙の熱が、炎となって焼け焦げていた。
か弱く、か細い声で――けれど泣いてしまわないように、凍らせていた。
――この眼をした男には勝てない。
最初に浮かんだ感情は、それだったのかも知れない。
さらに胸板に空中からの蹴りを打ち付けられ、ギースの肉体はビルから落下していた。
若き日に呪いを刻み込んだ男、ヴォルフガング・クラウザーに対抗するために欲し、
そして数々の男達の屍を積み上げながら辿り着いた摩天楼の頂上から、
再び、薄汚い、路地裏の地べたへと堕ちて行く――
そこは、蟻の巣のように入り組んだ迷宮で、迷っても、迷っても、光などはない場所。
ただ、どこまでも血の匂いを追い掛けた先には、誓いに届く希望があると信じ、
腐臭のする砂を噛んで、ゴミ溜めの中を這って進むしかない。
そこから再び、這い上がれるだろうか――?
ただ、這い上がることだけを考えて、
堕ちていた――
殺意がなかったと言えば嘘になる。
だが、受け入れるには重過ぎるその結末に、テリー・ボガードは膝を突いて放心していた。
互いの血で真紅に染まった拳から、悪臭が立ち込める。
それも眼で止まり、鼻にまでは届かない。やがて視界も白く霞み、暗く沈む。
彼はただ汚れた手で肩を抱いて震え、また、天へと吠えていた。
どこまでも、どこまでも――
誰に聞いて欲しいのかも解らずに、ただ、吠えていた――
時間はまた、ここで止まった。
繋がった過去を、また遠くから見ている。
終わらないのか。
復讐を遂げても、何も変わらないのか。
俺の拳からは、何も、生まれないのか――
ただ震え、吠え続けた――
飢えた狼のように、何度も、何度も――
何度も――
【19】
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