夕闇の押し迫る道場で、空気に掌を振るっていた。
何度も、何度も。――何度も。
板張りの床を擦る音が耳に届くが、そのリズムは決して心地の良い物ではなく、
鬼気迫る、一心不乱の舞いだった。
ただ、強くなることでしか、望みは果たせない。
決意を、迷いという松明が蝕むのを制するように、アンディ・ボガードは掌を振るっていた。
噛み締める血の苦味を美酒に、アンディの演舞は激しさを増す。
「アンディ、葬儀が始まる。お前も来なさい」
そこに、五大老の一人が声をかけた。
アンディはゆっくりと動きを止める。
そして流れるままに汗を伝わせると力無く笑い、振り向き、かぶりを振って言った。
「私が、儀式の場を汚すことは出来ません。
それは、お師匠様も喜ばれない」
「本気で言っているのなら、わしは失望することになるぞ」
すでに背を向け、葬儀の場へと歩み出している大老に、
アンディは俯き、滲む目を瞳を閉じて制しながら、師と、大老の心を噛み締めた。
「有り難うございます……!」
頭を下げ、張り上げた声は震えていたが、どこまでも通る、透明な声だった。
悲しみと、そして感嘆の声が、不知火の里に上がっている。
「私がやる」と名乗り出た舞は、半蔵の亡骸を抱きしめ、
そして、我が身ごと暖かい炎で包んだ。
不知火の焔――
女人がこれを纏ったのは何十年振りだろうか。
それも、まだ20にも満たない少女。
だが、こんなに、泣き震えるような儚い焔を、里の人間達は見たことがない。
若い焔纏いの誕生の、その喜びですら今は不純な物だと、
二つの白装束を包む嘆きの炎の表情が、立ち昇る天から咎めていた。
感嘆の声は静かに止み、一瞬、葬儀の場を包む嗚咽すらも止み、
その美しく、哀しい炎に、無言の涙が流れた。
やがて、舞が半蔵から離れると、五大老達が神木を投げ入れ、半蔵を弔った。
伝来の黄燐を浴びた神木は炎の勢いを怒りのように荒げ、
半蔵の肉体を、骨も残さずに焼き払う。
遺体の痕跡すらも残してはならない。
それが、忍の世界の、悲壮な掟だった。
アンディは、舞の背と、その向こうで燃え盛る炎を、じっと見詰めていた。
形の無く、やり場も無い感情が、拳を握り締めること収まるわけではないが、
アンディはただ、そうすることしか出来なかった。
慰めることも、抱き締めることも出来ず、ただ、そうするしかなかった。
鬼に――なる。
今はただその決意だけが確かな形となって、拳の中にある。
「名の刻まれぬ墓か…… 忍の定めにしても、悲しいな、半蔵」
山田十平衛が、菊の花を携えてその簡素な墓の前で佇んでいる。
共に遊び、共に学んできた刎頚之友の死は、その無念を風となって運び、
十平衛の涙を空気に舞わせていた。
「孫の嫁入り姿も見んで先に逝きおって…… この大馬鹿者が……」
「――十平衛先生」
ふいに、声がした。
気付かれぬように瞳を拭い振り返った先には、
かつての弟子、アンディ・ボガードの姿があった。
怒りを押し留めた、呪いを封じ込めた阿修羅像のような熱気が、
すでに彼が何を言わんとしているのかを語っている。
――目を瞑る。
生死の闘いを否定しない環境で、されど憎しみに歪まず、
それを真剣勝負として真っ直ぐに育ったと、
十平衛はアンディと、そして、半蔵の導きを羨むように見ていた。
彼が舞と、兄妹のように笑ったり、戸惑ったりしている姿は、
自分の元では決して与えられなかった安らぎだと、十平衛は半蔵に礼を言った。
だが今、不知火半蔵の非業の死によって、
アンディ・ボガードの中の負が彼を侵蝕しようとしている。
それを止める役目が誰であるのか、十平衛はすでに理解していた。
同時に決意として、その心に火を灯していた。
何も言わず、すれ違って去る。
アンディもまた何も言わずに、十平衛の消えた半蔵の墓を、滾る瞳のまま見ていた。
「どないなっとんねん、こら一体」
そんなことを呟いた男がいた。
黒いシャツに、金色に光るネックレスを付け、白の高級なスーツに身を包んでいる。
髪は青みがかった感じで、それを後ろ手に束ねている。
端正なマスクと、スーツの白の映える長い脚がどこまでも色男だ。
対して、フーフーと鼻息を荒くしている向かいの男は、
突き出た中年太りの腹を張り裂けそうな緑色のシャツで包み、
釣りズボンでかろうじて下半身の着衣を可能としている。
腹に隠れた脚は存在を疑うほどに短い。当然、身長も低い。
なんで一回戦からこんな強い人と当たるでしゅか!
さてはクラウザーしゃんはわたしを目の仇にしてましゅね!!
そんなことを、この小太りの男、チン・シンザンは思っていた。
「ホンマどないなっとんねん!」
仰向けに寝転ぶような姿勢から妙に鋭い蹴りを放ってくるチンを捌き、
スーツの色男が反撃の態勢に入る。
現在に至る事の顛末はこうである。
彼は財団のトップとして、香港の富豪、チン・シンザンと会合の場を持ったはずだったが、
握手で持て成された後、俗に言う“接待ゴルフ”へと狩り出されたところから何かが狂った。
なにしろ、彼は空手の達人ではあるが、ゴルフはおよそ得意とは言えない。
「ミスター・チン。次は格闘技で勝負しましょう」
チン・シンザンと後々の商談を見越した会合の場を持ったのは、
彼が太極拳の達人で、それを利用してこの香港で伸し上がって来たと、
そういう、同じ武道家としては興味深い経歴があったからだ。
勿論、先の言葉は罰の悪さをごまかす冗談ではあるが、
チンは現在トップが故か、この色男が空手の達人だと知らないが故か、
上機嫌で言葉を返した。
「いいでしゅよ。格闘技でも麻雀でも、なんでも結構でしゅよ」
しかし、三十路過ぎと思われながらも充分に甘いマスクが目に眩しい彼は、
ミス香港だというチンの美人妻、グロリア・リーと、
ついついいつもの癖で話を弾ませてしまった事から現在の、
意味の解らない状況へと陥っている。
その様子に憤慨したチンはすっかり平常心を無くし、終わってみれば最下位。
地団駄を踏んだチンは彼を一泊引き止めて、
そして今、この趣味の悪い龍をかたどった自前の豪華客船の通路で、
襲い掛かるように恨みの拳を浴びせているという訳である。
だが、この色男が妙に強い。
「さてはあんしゃん、わたしの対戦相手でしゅね!?」
そして、チン・シンザンの、キングオブファイターズ第一戦が始まった。
「飛燕疾風脚!」
空中を滑るような跳び蹴りがチンのふくよかな腹を襲う。
だがその脂肪にしか見えない腹は厚ゴムのような硬さで、蹴りを弾き飛ばした。
「うお!?」
バランスを崩す。
「ヤァーホゥ!」
そこに空気を吸い込み、目いっぱい腹を膨らませて、風船のように優雅に、
しかし鉄球のような圧力が重力のままに圧し掛かって来た。
それは男の顔でぼよーんと跳ねながらも、確かな肉厚で打撃を刻み、
端正なマスクを赤く腫れ上がらせた。
それにチンがニヤついたのも束の間、自慢の腹に鋭い蹴りが刺さっていた。
それも、一撃や二撃ではない。一秒間に4発もの目で追えない連脚が、
内功で固めた硬い腹の壁をこじ開けるように放たれる。
今度はチンが圧力を受ける番だった。
「ア、アーヒャー!?」
信じ難いことに身体が浮いている。
必死に地面を得ようと足をバタつかせるが、
それすら蹴りによる振動にすぎないのかも知れない。
「幻影脚!」
「アーハー!!」
トドメの、勢いが付いた蹴りを無防備に喰らい、チンは倒れた。
「ふぅー、ホンマ、シャレならんで、このおっさん」
男は顔を撫で、そう呟くと水死体のように地面に浮いているチンに一言かけ、
立ち去ろうとした。
「ほな、ミスター・チン。この場は――」
と、男が目を丸くした。
「アイタタタ…… ホントに強いでしゅね…… 怒ったタンしぇんしぇいみたいでしゅ」
「マジかいな」
チン・シンザンは汗を掻きながらも腹を撫で、すんなり立ち上がったのである。
そして、チンの両手に集まった、凝縮された気に、
さらに男の腫れた顔が驚きに歪んだ。
「氣雷砲!」
気の塊が、バスケットボールほどの球体となって投げつけられた。
勢いはなく、放物線を描く気の弾道だが、男はその密度に驚いていた。
彼の流派、極限流空手にもここまで気を凝縮出来る使い手はいない。
飛び退いて躱した先から、地面にまだ威力を持って帯電する気の塊が見えた。
――ただの太極拳使いやないな。
男の眼が本気になる。
「まだまだ行きましゅよー!」
再びチンの両手に高密度の闘気が凝縮された。
「しゃあない! 覇王――」
刹那、
「ちょおっっっと待ったぁ――っ!!」
「ほへ!?」「なんや!?」
二人はその地鳴りのような大声に一斉に上を見上げた。
龍の頭に佇む黒い塊。
黒いマントと白いハチマキが海風に煽られて激しくはためいている。
「とう!」
「飛びおったで!?」
黒い塊はマントを風に流すように投げ捨てると、
5mはあろうかという龍の頭から飛び降り、足をジーンとさせた後に煙を上げながら駆け、
一瞬でこの広場の通路までやって来た。
「はぁ、はぁ…… オイあんた! チン・シンザンだろ!
この俺様を差し置いてなんで他の奴と闘ってんだよ!
それにそっちの兄ちゃんも! 今回のKOFは乱入ルールはないはずだろ!?」
そして二人を交互に指差しながら、この、
オレンジ色のトランクス一丁となったハチマキの男がまた大声で吠えた。
「ん? お前さん、ジョー・東とちゃうか? ムエタイチャンプの」
「お! 知ってる!? 嬉しいねぇ。でも、俺の相手を横取りすんのは感心しないぜ」
ジョーが気取ってウインクし、突き立てた人指しを揺らす。
美女がやるならともかく、その気味の悪い動作に“そっちの兄ちゃん”はゲッソリした。
「っちゅーか、KOFって何やねん。わいは出た覚えないで」
「あ――っ! まさかのまさかでしゅ――っ!!」
今度はチン以外の二人がその奇声にギョッと驚いた。
KOFこと、キング・オブ・ファイターズ――
シュトロハイム家が主催する今回は、サウスタウンではなく、世界規模で大会が行われる。
運営委員が下馬評の低い方のホームへと高い方の選手を誘導し、
そしてそこで、全世界衛星中継と共に闘いが行われるのである。
場所は問わず、出会ったフィールドがそのままコロシアムとなる
暴力的なルールは変わっていないが、
ホーム側は自己責任で場所の選択権を与えられる。
武器の使用は従来通り事前の審査で通れば可。
ただし今回は規模が広いため乱入ルールはない。
試合は随時発表されるトーナメント表の具合によって、
規則的に進行されることなっている。
逆に言えば、直前までどんな選手がエントリーされているのかは外には判らない。
医者団は両者の側に配備され、サウスタウンで行われていたそれより
全体的にややおとなしい、整備された運営体制となっていると言える。
KOFに過激さを求める層はイレギュラーやアクシデントの起き難いルールに
不満の声を上げたが、世界規模の影響を考えるスポンサーにとっては
これでも最大限の譲歩だったと言えるだろう。
事実、シュトロハイム家の圧力がなければ放送すら難しい国も少なくない。
ともあれ、新たなキング・オブ・ファイターズは、
シュトロハイム家の宣言により、ついに封切られた。
勿論、賭けによって裏で金が動くシステムは変わらない。
黒い金が、暗黒の淵で沸く――
すでに放送の体勢が整っている。
場所が場所だけに観戦者がいないのがジョーには不満だったが、
先程チラッと見たチン・シンザンの実力には大いに満足だった。
「強ぇな、オッサン。良いバトルが期待できそうだ」
ニヤリと笑って構えるジョーに対し、チンは布を取り出して汗を拭いている。
「あんまり長引かせると疲れましゅからね。さっさと終わらせましゅ」
「ん? まだ疲れてんなら休憩取っても良いぜ」
「結構でしゅ!」
言葉と同時に投げつけられた気の球は、放物線を描き、ジョーの居た場所を襲った。
チン・シンザンが気功を使うのはすでに龍の頭に昇りながら見ていたので
ジョーに驚きはなかったが、回り込んだ先にも気が投げつけられ、
地雷のように地に漂っているのを見るとさすがに焦りが生まれた。
滑稽なモーションから投げつけられる氣雷砲の嵐が
例え躱したとしても眼前にバリケードを築き、間合いを詰めさせてくれない。
これだけの気の連発はジョーにはカルチャーショックだった。
「チィ!」
業を煮やしたジョーが地雷を飛び越える。
だがその瞬間、チンのサングラス越しの眼が細く笑った。
「貰ったでしゅ! 爆雷砲!」
さらに凝縮され、電気を帯びたかのように光を弾く気の球体が、
空中で回避動作の取れないジョーへと飛び掛かった。
「ぐぉうあ!」
顔面付近へとやって来た弾を両腕でガードしても、空いた隙間から視界がスパークする。
ジョーは全身の痺れと共に弾き飛ばされ、
陸に上がった魚のように痙攣した後、動きを失った。
――さして大きいとは言えないバスケットボール程度のサイズの球に、
究極まで練り上げた気を凝縮した結果生み出される絶技。
極限流の使い手や、現在唯一の正式な八極聖拳継承者であるテリー・ボガードをしても、
このような異質な気の使い方は不可能と言って良いだろう。
ならば何故このようなことが、このチン・シンザンという男に可能なのだろうか。
その答えは、やはり魔性の秘伝書より生まれ出でた、八極聖拳にあった。
かつて、八極聖拳が多数の門下生を従え、サウスタウンで大きな権力を持っていた頃、
その中でも最強の時代には、闘神三兄弟と呼ばれる天才達が存在した。
タン・フー・ルーが、格闘家の模範となるべき男と評した、ジェフ・ボガード。
門下の中で最も凄まじい気を放った、ギース・ハワード。
そして、上の二人を超えるやも知れぬ天賦を持っていながらも、
金欲の為に香港マフィアと通じ、さらには当時、固い掟だった門外不出の禁を破って
賭け試合に出場し、八百長行為までも行うという三重の禁を犯し、破門された――
チン・シンザン。
彼こそが、かつて権勢を振るった闘神三兄弟の、実に最後の一人なのである。
その内功はまさに天才と言う他はなく、
才能という面では、ジェフをも、ギースをも圧倒していたと言って良い。
破門されず、そのまま修行を続けていれば、
どんな化物が生まれていたのかはタンをして知る由はない。
ただ惜しむらくは、彼に向上心は全くなく、
この拳をただの金儲けの道具にしか考えていなかったことだ。
破門された後のチンは繋がりのあった香港へと渡り、格闘トーナメントをプロモート。
自らもそれに出場し、時には圧倒的に勝利し、
時には八百長負けを演じてマフィアと共に金を貪り、
グロリア・リーという、今は衰退したリー一族の女を妻に娶ることで、
かつてのリー一族、黄龍幇の華僑権力の一部をも吸収に成功した。
もっとも、先のエピソードの通り彼が愛妻家であることは事実のため、
チンは妻と権力を“結果的に”同時に手に入れたと言った方が正しいだろう。
そして、彼はさらにそこから裏社会の全てを握ろうと画策したのだが、
そこには大きな壁があった。
裏の社会を中世より制し続けた家、ヴォルフガング・クラウザーが現当主を務める、
シュトロハイム家である。
普通ならば届くはずのないあまりにも巨大な組織。
だが彼の欲望は尽きることを知らず、また諦めも知らない。
そしてそこに利用しない手はない突然のチャンスが舞い込んで来た。
それが今回の、シュトロハイム家自らが開催するKOFだったのである。
彼はこの大会に優勝し、クラウザーを倒すことで彼を失墜させ、
さらなる大金を稼ぎ出すために世界最強の称号を使った道場でも開こうと考えている。
そしてそのまま裏社会の王へ――
だが、その野望の前に立ちはだかるのはクラウザーではなく、
今目の前で首をコキコキと鳴らしながら立ち上がっている、ムエタイのチャンプだった。
「な、なんで立てるでしゅか!?」
「ああ? それはお前、俺様が――天才だからよ!」
ジョーの左拳が振り上げられると竜巻が発生し、
チンの防御を突き抜けてダメージを刻んだ。
それだけでは終わらない。
同時に駆け出していたジョーはチンが体勢を立て直す前に、強烈なミドルキックを放つ。
強固なタイヤを蹴るような感覚に戸惑いはしたが、
それでラッシュを止めるほどジョーはお人好しではない。
その猛烈なラッシュを離れから見ていたスーツの色男が、何事が呟き、
苦笑しながら赤く染まった頬を撫で、客船を降りた。
ジョーの鋭くしなるハイキックに、ついに内功で身を硬めたチンが揺らいだ。
「オッシャ! 行くぜぇ!」
ジョーは咄嗟のシナリオ通り、大技、
フライングニールキックで決めようと軽く飛び上がった。
が、半回転の際に一瞬だけ目線を切った瞬間と戻した後の映像の違いは、
ジョーに空振りの尻餅と共に、驚きを与えた。
チン・シンザンは背を向けて、そそくさと逃げ出したのである。
「お、おい! ちょっと何だ!?」
離れてまだ背を見せているチンは涙ぐみながら側頭部を撫でていた。
「こんな痛い思いしたのは久しぶりでしゅ……」
戦意喪失――
とは、しかしジョーは思わなかった。
チン・シンザンの背からは、神経にまとわりつく、異様な気が立ち昇っていた。
ジョーの額から嫌な汗が滲む。
爆雷砲のダメージがないわけでは当然ない。
まだ抜け切れていない手足の痺れは確実にジョー本来のキレを奪っていた。
それでも、踏み込む。
カウンターが来ることは解り切っていたが、その場の判断、
いや本能で対応出来るという自信がジョーにはある。
天才であるが故の自信であり、同時に彼を天才たらしめている要素の一つである。
互いに天才。天才同士の才のぶつけ合い。
チンの振り向き様の裏拳が繰り出された。
だが距離がある。ジョーは振り向き故に距離感を誤ったと判断した。
瞬間、光が伸びる。
バチィ!という激突音の後に、ジョーは何かに弾かれて大きく吹き飛んでいた。
「――んだっ……!?」
膝を突いて立とうとするが、立ち上がる力がどこかから抜けて行く。
――気の拳に打たれた。
そう、ジョーは思った。
気を纏った拳ではない。気、そのものを打撃凶器として利用し、リーチを伸ばした。
近付いて突きを繰り出して来たチンをスウェーバックで躱す。
躱したはずだ。
だがまたしても伸びて来た光はジョーの頬を薙ぎ、
さらに身を屈めて連続で放たれる掌打は、やはり気でリーチを補い、
見切り難く、そして何よりも速い連撃をジョーに打ち込んだ。
――こいつ、気で殴り付けてきやがる……!
「はたぁ! はたはたぁ!!」
チンの奇声と打撃音が豪華客船を揺らす。
ダウン寸前のジョーは間合いの掴めないラッシュを受け、
苦悶の笑みを浮かべながらも、狙いを一つに絞っていた。
「なかなか倒れましぇんね! その防御法はひょっとして八極聖拳でしゅか?」
「我流なんだが、一応そうなるかな?」
「んー、でもあなた才能ないでしゅ。全然なってましぇんよ」
「あんたもスタミナがなってねぇな。そうやって休んでると勝機をなくすぜ?」
すでに激しく息を切らせているジョーの言うセリフではない。
だが、飴のように気を使う、天才、チン・シンザンの弱点がスタミナであることは、
ジョーの眼力通りの真実だった。
それだけに、チンの眉間にシワが寄る。
滑稽な体型に、滑稽な訛り。
そしてその技も華麗とは言えず実にユニークだ。
彼の欲の進む道が悪へと向いているのは紛れも無い事実だが、
そのコミカルなキャラクターは、彼をどこか憎めない存在として他者に見せていた。
だが、今、プライドを傷つけられ、屈辱に歪んだ顔は、
そのような愛嬌の入る余地のない、禍々しく邪悪な眼だった。
「ハチャー!」
練り上げられた気を振り被る。
その動きにジョーが反応し、防御に気を集中した。
だが、フェイント――
「ホー!!」
その気の飴を後方に放ったチンは今度は身を球のように丸め、
爆風に煽られるままに回転してジョーへと突撃した。
防御のタイミングをズラされたジョーを、肉の弾丸が擦り刻む。
「くおおおおおお!!」
なんとかガードで止めたジョーの腕がチリチリと焦げ臭い臭いを発し、
そのまま後方へと身体を引き摺られる。
しかし、防御に使ったのは、踏み縛った両足と、片腕一本だけだった。
回転が、止まる。
「な、なんで片手で止められるでしゅか!?」
捧げたのは右腕のみ――
ジョーの命とも言える左の拳は無傷のまま、張り裂けんばかりに筋肉を硬調させている。
「そいつは俺が――天才だからだぁ!!」
船が揺れ、海が荒れ狂うジョーの左のアッパー。
聞くだけで耳が切り裂かれるような轟音を鳴り響かせ発生した赤い竜巻は、
チン・シンザンの肉体を、嵐の中へと放り込んだ。
「スクリューアッパー!!」
「パンギャゴホーホー!!」
チンは断末の奇声を発し、水しぶきをあげて海中へと消えた。
「JOE WON!!」というコールがTVの前の観戦者達に聞こえたと同時に、
ジョーは両膝を突いて座り込み、右腕を押さえながら激しく息を切らせた。
「まさか一回戦からスクリューを使うハメになるたぁな……」
だが、その顔は不敵で陽気な、いつものジョーだ。
「おっと、いけね!」
再び舞った水しぶきは、浮いて水を吹いている対戦相手をサルベージせんとする、
ジョー・東の、フェアプレイのしぶきだった。
“チャンピオン”という言葉を追い求める戦士達が、この地球上には無数に存在する。
あるいは栄誉の為。冨の為、貧困からの離脱の為。夢の為。
各々が各々の思いを背負い、“チャンピオン”という場所へ向かって、
骨身を削るトレーニングを繰り返す。
だが、その場所へ辿り着けるのは、その荒行に人生を捧げた男達の内の、何人だろうか。
才能を持ち、欲を絶ち、努力を重ねた男達もそのほとんどが夢破れ、
ボロボロとなって消えて行く。
今この瞬間にも、男達は彗星のように輝き、燃え尽きている。
しかし、あるいは誰も辿り着けないとさえ思えるその山の頂上には、
確かに頂点を極めた、神仏のような男達が存在するのだ。
ここで、そんな神域に手を掛けた男達の炎を、一人の天才が、虫けらを捻るように、
冷酷に、無造作に、何でもないように、握り潰して、消した。
「貴様等それでも世界チャンプとまで呼ばれた男達なのか?」
マイケル・マックスは、戻らない窪みを与えられた頬のまま、ロープにもたれ掛かっている。
ホア・ジャイは仰向けに倒れ、ヨダレのようにだらしなく、赤い血を垂らしている。
そのチャンピオン達を、彼らが背伸びしても決して届かない遥か高みから、
黄金の鎧の男が実に下らなさそうに見下ろしている。
「ギースの殺し屋と言ってもこの程度か。素晴らしいショーの前の余興にもならない」
そう言って去る、どこまでも遠く、高いこの男――
ヴォルフガング・クラウザーが、何を考えているのかは解らない。
ただ、KOF参加者が、二人同時に、無残に倒されたという事実だけがその場に残った。
山田十平衛という男の怪奇じみた武勇伝は、むしろ諸外国へと響き渡っている。
柔道界で、鬼――と呼ばれたその勇猛が、
第二次世界大戦中に敵兵を震え上がらせるに充分な、
悪魔的な恐怖を無条件に植え付けたのだ。
敵兵にとっては、すでに弾薬の尽きた潜伏兵を始末するだけという簡単な任務。
だが、十平衛は他数名の生き残りと共に、家族の待つ本国へ生還するため、
小柄な体格を生かして物陰に隠れ、敵兵の背後を取って一瞬で絞め落とし、
その身体を盾に素手のまま駆けた。
その貫手が突き出される度に喉の潰れる音がし、
聞き慣れない異国語の騒乱が起こった。
大柄な異国兵には丁度脛に当たる前蹴りで骨を砕き、
そのまま掴めば飛び上がり、大地に脳天を叩き付ける、大いずな落としで、
その場に死体を作った。
やがて生き残りの仲間はあるいは討たれ、あるいは餓死し、その命を失ったが、
山田十平衛だけは血だらけの両手のまま、家族の元へ帰還した。
そして、ロシア参戦の後の敗走の旅で妻を亡くし、
1945年、日本政府がポツダム宣言を受諾して、戦争は終わる。
マフィアから流された情報により、賭け率は、
前回の大会でベスト4まで勝ち残ったアンディ・ボガードと、
ほぼ互角の数字をはじき出していた。
日本、熊本――
鹿おどしの渇いた音が遠く響いている。
素足が畳を擦る優美な音。そして訪れる、激突音。
この道場で、かつて何度も柔の技を磨いた、アンディ・ボガードが倒れていた。
だがすぐに、飛ぶように起きる。
「強ぅなったのぉう、アンディ」
素足の柔道着に赤いチャンチャンコを羽織った小柄な老人、
山田十平衛がボリボリと音を立てて懐から取り出したセンベイを食べている。
庭から流れる微風が彼の長い灰色の髪と口髭を揺らした。
「貴方の中の鬼を見せて頂きたく、こうして真剣勝負の場を持てて光栄です」
対して、両腕を、拳を開いたまま胸の前で構え、微動だにせずに言うアンディ。
ファイアーパターンの入った白い道着に手足の甲の赤色が眩しい。
蒼い瞳が煌々と、そのまま炎のように滾っている。
「なぁに、ちと優勝してギャルにモテモテになろうかと思うての!」
十平衛は言うと同時にセンベイを投げつけた。
アンディは掌打でそれを割ったが、眼前にはすでに両手で胸倉を掴まんとする
十平衛のダッシュがあった。
十平衛に掴まれては、アンディに返す術はない。
続けての掌打でそれを防ごうとしたがそれが空振りに終わった時点で、
アンディが地面に打ち付けられることは確定事項だった。
受け身を取り、そのまま絞めに来る十平衛に打撃を合わせて起き上がる。
背を打ち付けたことにより呼吸の乱れがあるが、まだ充分に闘えるダメージだ。
もっとも地面が畳ではなく、岩やコンクリートだったならば起き上がれた保証はないし、
ましてや次いでの絞め技を返す力があったかどうかは解らない。
それが解っていたからこそ、アンディの眼はより一層、研ぎ澄まされた。
「飛翔拳!」
今度はアンディの飛び道具が十平衛を襲う。
殺傷力を持った気の塊が、十平衛の肩口を擦って空気の中で消えた。
十平衛もよく知っている、八極聖拳の気功。
だがそれを見せ技に、ダッシュ二本背負いを受けて尚、
アンディが自分と同じ様に接近戦を仕掛けて来るとは思わなかった。
「斬影拳!!」
神速の軽巧で踏み込み、全ての勢いを凝縮した肘骨を相手に打ち付ける、
不知火流体術の基本にしてアンディの最も得意な奥義。
しかも、身長が156cmしかない十平衛には、その肘の位置はまさに顔面だった。
咄嗟に腕で直撃を避けるも、大きく弾かれる。
そこに空いた腹へとアンディの突き蹴りが刺さった。
くの字に折れ、下がった十平衛の額をアンディの遠心力を付けた肘が割る。
十平衛が後退った間合いは、アンディの蹴りが最も威力を発揮する間合いだった。
瞬間、首を刈るように、後ろ回し蹴りの動きからの踵が直撃で打ち込まれた。
畳をささめかせ、滑り倒れる十平衛。
八極聖拳と不知火流、互いに若き日のライバルだった男達。
その技を併せ持った男が、今目の前に敵として立ちはだかっている。
額を押さえ、首を振りながらも、それはとても、幸せなことだった。
――半蔵よ、不知火流は何の心配もいらん。
膝をはたいて起き上がる。
「さぁーてと、そろそろ本気でやろうかの」
アンディは黙って構えている。
「どうした? もう一度やってみぃ」
「――では!」
挑発に乗ったわけではない。
返されないスピードだという自負が、アンディに再び斬影拳を撃たせた。
だが今度は、撃ち貫いたはずの顔面がその場に存在しなかった。
それどころか、浮遊感が身体全体を包んでいる。
状況を把握したときにはすでに畳の衝撃を受けていた。
――巴投げ、勢いを利用して投げられた。
頭がふらつくのを制して、すぐに起き上がる。
「空破弾!」
地上から接近して投げられてしまうのであれば、空中から。
放物線を描きながら両足に全体重を乗せ、蹴り潰す不知火流の奥義。
だが一緒に飛び上がった十平衛は、空中でそれと組み、
そのままの勢いで再び地面へと、アンディの頭を叩き付けた。
「なぁあ!」
受け身を取らせない十平衛の一撃。
起き上がろうと意識が働きかけても、それはどこかをたゆたって神経にまでは届かない。
ただ十平衛の声のみが、テレパシーのように聴こえて来た。
「アンディ、お主はすでにわしより強い。だが今のままではわしに勝つことは出来ん」
――な、ぜ……?
「わしの所へ居た頃のお主はいつも体格の不利を嘆いておったが、
そんなものは言い訳にすぎん。ただの遠吠えぢゃ。
ほれ、今のお主を見てみぃ。お主より小さいわしにやられてそのザマではないか」
不確かな意識のまま、アンディは立ち上がった。
しかし、駆け出そうとした足が縺れ、膝を突く。
「アンディ、何を焦っておる?
お主の焦りが、心の歪みが、力任せの荒い拳を作っておる。
心を乱すな。心を捨てるな。人は鬼になど、成れはせん」
「柔よく、――剛を、制す……」
「かーっかっかっかっかっ! その通りぢゃ!」
再び構えるアンディを十平衛のチョップが襲った。
だがそれはアンディの払いに捌かれ、そのまま掌打が打ち返された。
スウェーし、それを躱す十平衛。
そしてしっかり重心を残したままの左足で畳を踏みしめ、右でアンディの脛を打った。
揺らぐ。
回転して遠心力を付け、打つようにアンディの道着を掴んだ。
「わしの勝ちぢゃああー!!」
再びアンディを、前とは比較にならない浮遊感が襲う。
身体から空気が抜けて行くようで、力が入らず、そして息苦しい。
道場の高い天井が視界に入った所で感覚が反転した。
酔ったような嘔吐感。
掴み上げられ、共に天へと連れて行かれたアンディは、
このまま地面へ脳天を打ち付けられると、寸での所で理解した。
もはや組んだ腕を放す十平衛ではない。
この空間の中で、力は無力だ。
――柔よく、剛を制す……
十平衛の下へ居た頃、何度も聞かされた言葉。
大柄な男を投げ捨てるのは力ではなく、流水のように相手の力を利用する柔。
柔は全てを受け流し、剛にも勝る威力を生む。
スピードと、タイミングの駆け引き。
それは、不知火流においても教えられた、不知火半蔵の、
アンディ・ボガードの極意でもあった。
必死に足掻いていた力を抜き、
十平衛の締め付ける腕の勢いが一瞬、宙へ浮いた隙を突いて、力の支点を蹴りで突く。
その刹那のタイミングは、十平衛の予測さえ超えた完璧な物だった。
着地を誤った十平衛と、充分に力を乗せ、空中で前転しながら両腕を突いたアンディ。
そのまま反動を利用し、全ての力を両足に押し込むように腕で跳ねた。
言わば地面と、両の腕を使った三角飛び。
「うぅおあああー!!」
無意識に、気が全身を包んだ。
自然に流れ出た気が、空破弾を鋭く、美しく彩っていた。
威力は、比較にならない。
着地出来ず、畳を擦りながら倒れ込んだアンディがやっと視線を十平衛へと向けると、
焦げ臭い煙を立ち昇らせたまま、片膝を突いて、穏やかに、
どこまでも穏やかに笑う、好々爺の姿があった。
「――十平衛、先生……」
「アンディよ…… 心まで鬼となったわしを救ってくれたのは、娘であり、
そして今は、二人の孫娘達ぢゃった……
お主にもおるぢゃろ……? 女神のような、ギャルがの……」
「十平衛先生!」
倒れる十平衛の背に腕をかけ、アンディが抱き抱える。
「アンディ…… 半蔵は、何と言った……?
わしには解らんが、お主が修羅道を行ったとて、奴は喜ぶまいよ。
なにより、舞ちゃんにこれ以上、悲しみを背負わせるでない…… 馬鹿もんが」
涙の滲む声に、アンディの背けた目にもまた、雫が浮かんだ。
「十平衛先生…… 私は、どうすれば……」
「決着をつけて来い。真剣勝負は忍の常ぢゃと奴も言っておったろ……?
存分に闘えばよい。ただ、それだけでよい……」
庭の木々を風が揺らし、鹿おどしの音が激闘の後を遠くへ運ぶ。
立ち上がったアンディを見上げた十平衛は、安心したように、意識を落とした。
――大丈夫…… あの子達なら、きっと大丈夫ぢゃ……
炎が、ゆっくりと微風に揺れている。
【22】
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