サウスタウン――
古びたレンガ造りのアパートが立ち並び、やや路地にでも入れば、
かつての犯罪都市の名残を残す、暴力の臭いがする。
だがそれも残り香に過ぎず、
サウスタウンに蠢いていた闇は、すでに粉となって飛び散った後だ。
悪の柱が消え、ヒーローの噂で持ち切りの街。
空はどこまでも澄み渡っている。
そんな路地裏で、タン・フー・ルーとダック・キングが構えていた。
「Hey! じいさん! なぁんでこんな地味な場所でやんのさ?」
舌を出し、タンを押さえつけるように両の人差し指を上から翳すダック。
もっと目立つ場所でバトルしたいという思いは、
目立ちたがりの彼からすれば当然の主張だろう。
だが彼は、そのダンスとマーシャルアーツの知名度により、
タン・フー・ルーを賭け率で上回ってしまった。
場所の選択権は相手側にあるのである。
「あまり人目に付く場所で刺激することもなかろう」
せっかく平和になった街で暴れて、
良い影響があるとは思えないというのがタンの考えだった。
だが、それでもタンがこのサウスタウンを離れられなかったのは、
この街の大地が、自分に力を与えてくれると信じているからだ。
八極聖拳の奥義を世界に発信してしまうのは、今更ながら気分の良い物ではない。
彼は、この呪われた秘伝書の技を使う罪悪を一身に背負っている。
だがそれでも、タンはKOF出場を決意した。
テリー、アンディ――可愛い孫達を守るのは、ジェフ亡き今、自分しかいないと、
その命を再び彼ら兄弟のために捨てる覚悟を決めたのだ。
しかし、そんな決意や信仰など、圧倒的な力の前では何の役にも立たないと、
それを証明するかのように、黄金の鎧を纏った長身の男がこの場に現れた。
音を発さない声で、神経に話し掛けられるような不快感。
風もないのに、マントが膨らむようになびいている。
軽く広げた両手から発せられる闘気はそれだけでタンを萎縮させた。
「――タン・フー・ルー…… ギースやテリー・ボガードの師匠だそうだな」
突然現れた男の不遜な態度に、ダックが突っ掛かった。
「なんだぁ、テメェはぁ? 邪魔すんじゃ――」
ガギッ
明らかに、骨が壊れる音がした。
風に乗って飛んで来た紙を払い除けるような、自然で、考えのない動作。
しかし、それで払い除けられたダックは悲鳴を上げる間もなく吹き飛び、
そしてうつ伏せに沈黙した。
タンはその様子を、戦慄しながら眺めるしかない。
「お、お主――」
「失礼、紹介が遅れました、タン大人。私はヴォルフガング・クラウザー。
この大会の主催者を務めさせて頂いている」
萎縮を、決意で押さえ込み、タンが問う。
「わざわざ現れるとはの。何故テリー達を狙う……?」
「――ちょっとした興味、ですよ。たいした理由などはない。
言うなれば、人生の余興といった所でしょうかね」
「そんな理由でこんな大会に狩り出されてはたまらんの。
不知火半蔵の、命まで奪いおって……」
クラウザーの眉が、僅かに動いた。
「あの男はそれまでの運命だったということだろう。
さて、貴方はどうかな――?」
惨酷に笑う、クラウザーの瞳。
対峙しているだけで汗の止まらないその圧迫感を耐えながら、
タンは拳を突き出して飛んだ。
「せいっ!」
クラウザーはその腕を捻り潰すように握り止めると、抱え上げ、腹に拳を突き上げた。
「ごほぅ!」
タンの小さな身体が人形のように浮く。
血を吐き、倒れた場所には動かないダックがいた。
そこに目をやった刹那、タンは再び腹を踏み抜かれ、ついに何も出来ずに沈黙した。
「ギースという男も、所詮は表社会のクズだったようだな」
遠くへ言うクラウザーの眼には、何も映っていない。
オーストラリア、アリススプリングス――
大男を殴り倒し、大歓声を浴びる前回チャンピオンの姿がそこにあった。
「たいして効いちゃいねぇだろ? Hey!! Come on!! Come on!!」
夕陽のライトに照らされる中、キャンペーンカーやトラック、
バイクが多数集うストリートフィールドで、若者達がのせられて歓声を上げる。
膝を突いたまま殴られた頬を触っていた大男も、ニヤリと笑って立ち上がった。
途端、「ベアー!」というコールが沸く。
「さすがだ、テリー・ボガード。ビリーをやっただけはある」
「ビリーを知ってるのか?」
「ああ、昔の同僚でな。怖ぇ奴だったよ」
「――同僚?」
――ギースの……!?
テリーの眼つきが険しくなる。
「アイツと正気で闘える奴なんざ想像出来なかった。
だからよ、俺はアンタと闘ってみてぇと、ずっと思ってた。
夢が叶って嬉しいぜ」
だが、その巨体に似合わない屈託のない笑いは、
テリーに警戒を解かせるだけの透明感があった。
「あんた、もしかしてジョーと闘ったっていう……」
「おう、ライデンよ! 今はビッグ・ベアだがな!」
突進して来たベアを横に躱し、ハイキックを叩き込む。
だが怯まないベアはエルボーを落として来た。
2mを超える頭上からの重い落雷。
受けたテリーの腕も、きつい痺れは免れなかった。
「クゥー!」
テリーは組もうとして来たベアの手を、左手をおとりに掴ませ、
右のボディブローを浴びせた。
痺れがまだ消えず、充分に力が乗ったとは言い辛い。
耐えたベアの前蹴りを喰らって大きく間合いが離れたことは、
体勢を立て直すには良い間だった。
テリーがパフォーマンスを兼ねて大袈裟に一息つくと、
ベアが先程のお返しとばかりに、「カモーン!」と両手でテリーを誘った。
再びノリの良い歓声がヒートアップする。
テリーは両のグローブを締め、笑った。
「OK!」
一進一退の攻防。
ベアの掴み技を巧みに抜け、確実に効く重い打撃を浴びせる。
やがて伝家の宝刀、バーンナックルがベアの巨体を沈めると、
アリススプリングスはその日一番の大歓声に包まれた。
晴れやかな顔で手を握る二人を夕陽が晴れやかに祝福している。
「悪いが今日は絶好調らしい」
富士、青木ヶ原の川を、大きなイカダが流れている。
炎の一文字を刻まれた旗が流れのままにたなびく。
そこにはアンディ・ボガードと不知火舞が、
あるいは決意を、あるいは戸惑いを称えて立っていた。
「舞、KOFに出ていたとは知らなかった。退いてくれないか」
「嫌よ…… お爺ちゃんの仇は、私の手で、必ず……!」
俯き、歯を食い縛って言う舞の震えは、アンディにも痛いほど理解出来た。
二度も、同じ感情に囚われたことがある。
そして今も、それが完全に消えたわけではない。
「例えアンディでも、邪魔するのなら倒すだけよ!!」
舞は閉じた鉄扇をアンディへ向けて突き出した。
それを躱し、バク転で間合いを離す。
そこに開かれた鉄扇がフリスビーのように飛んで来た。
見れば舞は、不知火流くノ一の正装に身を包んでいる。
舞の肌を包む朱色の布は不知火秘伝の耐熱加工が施されており、
自らの焔に包まれても決して燃えることはない。
むしろ尻尾のように付いている長布はその焔の威力を上げ、
体力の浪費を抑え、女性でも存分に焔を使える霊力を与えると言われる。
その力は、不知火流忍術発祥の地――
この青木ヶ原の樹海の中で、神秘的に増大される。
少なくとも、不知火流にはそういった信仰があった。
事実、信仰が力を生み、舞の炎を一層強力にしている。
ボゥ!
舞の尻尾が焔を帯び、アンディの前髪を焦がして消えた。
躱さなければ、どうなっていたか分からない。
不知火流忍術、龍炎舞。焔を宿した尾が炎龍の顎となって生者を喰らう。
「舞……」
「――本気よ……」
低く、静かな憎しみに囚われた声。
自分が一人で鬼を求めたことで、不知火舞の憎しみは行き場を失い、黒く燻っている。
アンディは深く後悔した。
何としてでも裁きを、と考えたのは、彼女の為にという想いもあったはずだ。
決して自分の満足の為だけに、鬼を求めたとは考えたくない。
彼女の悲痛な叫びに突き動かされたのは真実のはずだ。
だがそれは全て詭弁であり、欺瞞だと目の前の現実が言っている。
自分が一人になることは、彼女を一人にするということ。
巻き込むまいという想いが、彼女を巻き込んだ。
「君が闘うことはない。決着は俺がつける、舞」
「なんで!? 私のお爺ちゃんだよ! アンディこそ関係ないじゃない!」
幼き日より兄妹のように育って来た、年下の少女。
だが彼女はいつも行動的で、むしろ姉のようなイメージをアンディに持たせた。
「アンディだって、お父さんの仇のために修行したんでしょ!? なら私だって!!」
海を渡り、言語の違いで戸惑うことは何度となくあった。
通じない言葉がより一層アンディを孤独にし、
修行だけの人間へと追い詰めていったと言って良い。
そんなとき彼女は、決して流暢とは言えない英語を話し、日本語を教えてくれた。
日本の学校では英語も習うから、と彼女は言ったが、
それで会話出来るまでに達する中学生が一体何人居るのか。
修行の妨げにならなければ言葉など通じなくても良い。
そんな思考をすでに持っていたアンディに、
必死で英語を勉強して話し掛けてくれる少女は、太陽のように眩しかった。
失いかけた人間らしさを、舞が繋ぎ止めてくれた。
――言葉には出来ないほど、恩がある。
やはり彼女を、闘わせるわけにはいかない。
アンディの肘が舞の腹へと刺さった。
「アン、ディ……」
縋るような眼。
倒れ込み、肩に顔を埋める舞を腕に抱いた。
髪を縛るかんざしは、祖母の形見だと言っていただろうか。
忍の家に生まれたというだけで、背負うのが悲しみばかりではあまりに可哀想だ。
「関係ないなんて、言うなよ。俺達はいつも一緒だったろ?
想いが一緒なら、どちらが闘っても一緒だ。なら、舞の分まで俺が闘う」
――お師匠様の頼みを、守らせてくれよ。
そう言って微笑みを浮かべるアンディの顔を、舞はしっかりと見ることが出来なかった。
大好きな笑顔が水に歪むのが悔しい。
ただ、粘土を詰め込まれたように重かった心が、暖かく溶けて行くのを感じた。
舞はアンディに胸の中で、少女のように泣いた。
やがて、全て溶かしてしまえばどんなに気持ち良いだろうかと、舞は思う。
きっとぐっすりと眠れ、晴れやかな朝を迎えることが出来るだろう。
でも、半分だけ――
「半分だけよ、アンディ。半分しかあげない」
「舞?」
顔を上げて繋がらないことを言う舞に、訝しげなアンディ。
「貴方はいつも遠慮したけど、それでもいつだってお菓子は半分こだったでしょ?
だから、今度も半分。全部押し付けるのも押し付けられるのも、私の性分じゃないの!」
舞は飛び退いて離れ、大きく空いた胸元から新しい鉄扇を取り出して構えた。
だが、真っ赤な目とは釣り合わない、とびっきりの笑顔。
「ま、舞?」
「どうしたの? これは格闘大会でしょ?
ホホホ、それともアンディ、私に勝つ自信がないのかしらぁ?」
小悪魔のように挑発して来る舞に、やれやれ、とアンディは頭を掻いた。
毒を抜いてやろうとして、結局は自分が毒を抜かれている。
いつも通り、救われるのは自分の方だ。
そんな自分を情けなく思うと共に、彼女をやはり眩しく思う。
ゆっくりと笑って構えたアンディに、舞も微笑みを返した。
「――勝負!」
「よぉ、テリー! 待ってたぜ!」
空港に響く、無駄に元気の良いいつもの声。
それが心地良く響くことは気持ちが晴れている証だ。自然と笑みが浮かぶ。
「ジョー、次の相手はお前か? ちょっと当たるのが早くなっちまったな」
韓国、ソウル。
何故ジョーがこんな場所を指定したのかは知らないが、
前回チャンピオンという称号を背負うテリーは
あちこちの国へと連れて回られるのはもう慣れっこだった。
それにジョーの行動が不可解なのはすでに茶飯事であって不可解ではない。
世界旅行というのも楽しいものだと、テリーは自分の風来坊気質を感じていた。
「あ、ああ、そうだな! はは! お前の方はどうだ? 好調か?」
「そうだな、ビッグ・ベアってやたら強いレスラーには苦戦したんだがな。
まぁなんとかこうして勝ち残ることが出来た」
「ベアってーと…… ああ、ライデンか! 絶好調じゃねぇか!」
バシッ!と気持ちの良い音のする張り手がテリーの背を打った。
ジョーに拳を返し、互いに笑う。
「はははは……! ああ、それより聞いたか? テリー……」
「うん? まぁあっちで話そうぜ。すぐにファイトってわけでもないんだろ?」
ジョーの、珍しく着込んでいる白いシャツを見て、
テリーが備え付けの喫茶店を指差した。
「そ、そうだな! あははー!」
どこか挙動不審なジョーに首を傾げながら、移動する二人。
「半蔵さんのことなら俺も聞いてる。クラウザーとはどうしてもケリをつけないとな」
コーヒーに口を付けながら、重い雰囲気が漂っている。
「ああ、だが半蔵さんだけじゃねぇんだ、テリー。
俺のセコンドやってる、ホア・ジャイって奴がいるんだが、そいつも大会中に襲われた。
多分、クラウザーが、動いた……」
口に付けていたカップを宙に、ジョーの言葉に集中する。
――クラウザー
「それにな、これはまだ細かいことは判んねぇんだが、タンのじいさんとダックも……」
「タン先生とダックが!?」
荒く置かれたコーヒーカップの中身が揺れた。
そんな話は聞いていない。
「ああ、じきにお前にも連絡が行くと思うが、とりあえず生きてる。
それは安心してくれ」
「――そうか…… 良かった。
相手はクラウザーか、ローレンス・ブラッドって野郎ってわけだな」
前屈みに話していたジョーがオレンジジュースを飲み干し、ソファーに背をもたげた。
テリーが話し掛ける。
「にしてもジョー、お前やけに詳しいな。情報屋でも始めたのか?」
「ん? いや、一回戦でやりあったチンって野郎がな、色々とそういう奴だったわけよ。
お前も知ってるんじゃないか? タンのじいさんの弟子だったらしいが」
「いや、知らないな」
「じゃあ、秘伝書の話は?」
「――秘伝書? 父さんが持ってた八極聖拳の巻き物のことなら」
再びジョーが身を乗り出し、指を弾いた。
「ビンゴ、それだ。チンも言っていやがった。そいつの所在は?」
テリーは顎に手を置き、首を傾げた。
「ギースに奪われて、それっきりだな」
「おいおい、お前も案外マイペースだな! 普通取り返そうとか考えねぇか?
まぁ良いや。でよぉ、その秘伝書がこれまたとんでもねぇ代物らしいわけよ」
「――とんでもない……?」
八極聖拳の奥義が書かれた、タンの綴った巻き物だとテリーは思っていた。
その奥義がタンの身体に生きている以上、奪い返すほどの必要性は感じなかった。
もっとも、奪い返すつもりだったとして、
あの場でそこまで頭が回ったかどうかはテリーも苦笑せざるを得ない。
そんなテリーの様子を一目だけ見て、ジョーは置いたコップに向かって話し出した。
「ああ、その秘伝書ってのは、元々三巻に書き分けられた内の一本なんだ。
誰が書いたのかは判らねぇ。
ただ大昔の妖怪だか化物だかが書いた、というのがチンが調べたところだそうだ。
それぞれが別の性格を持ってやがってよ、
八極聖拳にあった秘伝書は、“気功”の書らしい」
目を上げ、テリーの顔を見やる。
その真剣な眼差しは、この怪奇話に付いて来ている証拠だ。
――八極聖拳の気功は、その化物が作り出した物……?
宙に浮く、疑問。
どこか気持ち悪い感覚が、テリーの神経を汚染した。
「それが最強の男の手に揃った時、何かとんでもねぇことが起こるとか――」
およそ信じ難い、オカルトめいた話だとは思う。
だが、それがただの作り話だと思えない引っ掛かりが、テリーの中にはあった。
そもそも、当たり前に使っていた“気”という物を、
何故ただの人間である自分があそこまで自在に、魔術のように使えるのだろうか。
それはすでに、人間と呼べるのだろうか……?
それをタン・フー・ルーという男が一代で生み出したとは、
話を聞いた今のテリーには思えない部分があった。
タンは何も語らない。吹き抜けるように寒い鳥肌がテリーを蝕んだ。
話の続きは想像出来た。
「その内の一本を、持ってやがるんだとよ。クラウザーがな」
やがて、コーヒーを飲み終わるとテリーは立ち上がった。
「じゃ、そろそろバトルと行きましょうかね。運営委員の兄ちゃんも睨んでることだし」
テリーが指差した店の外には制服を着た男が数名集まっていた。
だが、ジョーは座ったまま、神妙な顔で手を組んで動こうとしない。
「ジョー?」
再び沈んだ空気が、それが只事でないことを示していた。
「テリー、奇跡って、信じるか?」
「奇跡? 何だ突然……」
「俺は、あると思う。いや奇跡なんて大袈裟に考えなくて良い。
偶然――そう、偶然というレベルの奇跡は確かに存在すると思うんだ」
「何言ってんだ?」
「つまり、それが起こった」
「何が……?」
「まぁそのぉ、何だ。その、偶然が起こってだな。
まぁありえないことなんだが、そこがこの偶然という奇跡の恐ろしいところで……」
「……?」
「お、俺様もう負けちゃってたりしてぇ! あははー!!」
「はぁあ!?」
「あっはっはっはっはっはは!!」
ヤケクソに笑うジョーの大声が、どこまでもどこまでも響き渡った。
顎を外したテリーがポカーンとその笑いを聞いている。
周囲の視線と、運営委員のイライラした態度が針で刺されたように痛い。
それでもジョーの乾いた笑いは、どこまでもどこまでも、どこまでも響き渡っていた。
「あは! あは! あっはっはっはっはっはは!!」
「“奇跡”とはいえジョーに勝っちまうくらいだから、
よっぽど強い相手なんだろうな、そのテコンドー使いとやらは」
運営委員に連れられ、ジョーと共に対戦相手の場所へ歩いている。
手を首の後ろで組み、少々嫌味っぽくテリーが言った。
「いやその、まぁな。確かに強ぇ。強ぇんだが、相性も悪かった」
キム・カッファンという――28才、まさにピークのファイター。
その足技のキレは韓国最強を誇り、韓国格闘界の威信をかけ、
この大会に挑んで来ている。モチベーションも最高潮だ。
「多分、お前とも相性が悪い。下手したら――」
「お前のその腕が利けば、どうだった?」
シャツで隠されたジョーの右腕に、テリーは歩きながら気付いていた。
かなり痛んでいる。
キム・カッファンとの闘いで痛めたのかとも思ったが、
慰めのカマをかける思いでテリーが声をかけた。
「気付いてたのか。ちぇ、みっともねぇな。
負傷は言い訳にはしねぇよ。ただ、その相性がな……」
清々しいほどに澄み渡った空。
瑞々しく沸く噴水の前に、青い帯を締めた道着の男の背が見えた。
たまにバイクが通り過ぎるのが気になるが、闘うには丁度良い広場だ。
「とにかく、奴のペースにだけはハマるな! 良いな、テリー!」
「ああ」
ジョーに再び背を叩かれ、テリーはグローブを締めながら歩む。
ジョーを倒すほどの使い手。
あのジョーをしてあそこまで嫌がる様子を見るに、よほどの変則ファイターなのだろうか。
――面白い。
クラウザーに仕組まれた、決してクリーンとは言えない大会。
だが、強いファイターを前にして、テリーはその緊張感を心から楽しんでいた。
血が騒ぐとは、こういう感覚だろうか。
キムがこちらに気付いた。
その後ろにまだ若い女と男の子が二人居るのが見える。
家族のようだ。妻は心配そうな顔をしている。
気持ちが昂ぶっている風の少年は兄の方だろうか。
もう一人は母親と同じような表情で、心配そうに父の道着を掴んでいる。
キムは家族を払って、爽やかな笑顔で歩み寄って来た。
真ん中で分けられた茶色がかった黒髪が太陽の熱で浮いている。
ジョーを見つけて軽く会釈し、テリーに向き直った。
「テリー・ボガードさんですね。貴方の噂は聞いている。
是非、手合わせ願いたいと思っていました」
「そいつは光栄だな」
帽子の鍔を人差し指で上げ、テリーが軽く口笛を吹いた。
「力のある者が、それを私欲に使うことは許され難い悪です。
ギース・ハワードとは、いつか闘わなければならないと思っていました」
「ギースと、あんたが……?」
先程の笑顔から真顔になったキムと、その言葉に、テリーの表情も怪訝に変わる。
「ですが、私の出る幕ではありませんでしたね。
貴方の正義が、彼の悪行を止めた。サウスタウンも平和になったと聞いています」
「ちょっと待ってくれ」
再び爽やかに微笑んで言うキムの話に付いて行けず、
テリーはどうにもストップをかけた。
「俺は何も正義の為に闘ったわけじゃないし、正義でもない。
それに俺は――ギースを殺してる」
認めたくない、認めたくなかった事実。
あの瞬間の映像はいつでも悪夢というビデオで再生されるのに、
それでも、それが真実であると理解していながらも、まだ、どこかで否定していた。
罪を背負う恐怖ではない。もっと別の、黒い渇望がある。
まるで、ギース・ハワードに生きていて貰いたいと、深い底で願っているように――
どちらが壊れているのかは、今はまだ解らない。
ただ、闘う意味は、今は別にある。
「――そうですか。
確かに悲しい結末でしたが、それは、彼の悪があまりに巨大だったためでしょう。
悪の力が大きければ、正義もまた、同等の力を必要としてしまう。
ですがそれは矛盾ではないのです、テリーさん。正義なき力が――」
……
―――……
話は、延々と、いつまでも続いた。
考える部分はあったが、あまりにも長く、熱心な彼の正義観の話が
全く終わる気配のないことを理解した頃から、テリーの顔には苦笑が張り付き、
向こうを見やるとジョーが顔を覆っていた。
――な、なるほど、確かに相性悪いかも、な……
「テリーさん?」
「え、ああ! 何だ?」
「そろそろ始めましょう」
布の甲を巻いただけの素足で、キムがコンクリートの地面を踏み締めて言った。
脇をバイクが通り過ぎる。
片手を胸の前に、もう片方を腰の辺りに握って、キムが上下に身体を揺らした。
「フン! 行くぞ!」
「オ、オッケイ」
気が付くと、ダウンしていた。
躱したと思った蹴りが目の前で曲がり、まるで防御出来ずに側頭部に入った。
視界が回って、今は地面に横ばいになっている。
「テリー!」
テコンドーの、ドリャチャギと呼ばれる蹴り。
変則ではあるが、テリーに受けられないほどではないとジョーは見ていた。
だが、今、目の前の光景に、ひとつの可能性が浮かぶ。
さてはあいつ、テコンドーのこと全然知らねぇな……!
ジョーが呆れるように顔を覆ったのと、
テリーが大袈裟に跳ねて身を起こしたのは同じタイミングだった。
「ってー! 面白いキックだな。そいつがテコンドーか?」
「はい、世界最強の武術です。是非、覚えていってください」
「身体で、ってか? そいつはごめんだな!」
今度はテリーの長い足がキムの頭を襲った。
受け止めるが、それが全身に響いているのがジョーの目には解る。
続いて踏み込んでの右ストレート。再び、響く。
ガードの上からでも問題なくダメージを刻むテリーの重いパンチが復活していることを、
誰よりもジョーが知っていた。
キムが反撃に繰り出す先程受けた同じ蹴りを今度は腕でしっかりと止めた。
「あらら、何も心配いらねぇな、こりゃ」
強いテリーが、帰って来ている。
この場の対戦相手が自分でないことは残念だが、
その事実は、自分のことのようにジョーの心を燃えさせた。
ジョーは意味もなく吼え出したい衝動を歯を食い縛って押さえ込み、
痛いほど拳を握って笑った。
――良いファイトが見られそうだ!
足先で膝を押すようなキムの蹴りが入った。
威力はさしてないが、テリーのバランスが軽く崩れる。
追撃の、脛で打ってくる回し蹴りを両手で受け止め、崩れたバランスのまま後退った。
普通の蹴りでは届かない間合いになったことがテリーの油断を呼んだ。
キムが側転で一瞬にして間合いを詰める。
そしてそのままの勢いで踵を叩き付けて来た。
まさに半月を描く、キム・カッファン必殺の半月斬。
咄嗟に外したが、右の肩口を抉られた。
低い姿勢のまま続けて放たれるキムのすくい蹴りをバックステップで躱し、
テリーは今度は意図的に、大きく距離を取った。
――強いな……
どうやらジョーに勝ったのはまぐれではないらしい。
だが、否定出来ないダメージがあるにも関わらず、
顔に張り付いた笑みは消えてはくれなかった。
なら笑えば良い。それが自然だ。
そう、何かが語り掛けて来る。
真剣な表情のキムが緩むことはない。
勿論、自分だとて緩んでいるわけではない。
だがそれでも浮いて来る笑みの正体は、今はもう、テリーの理解の内にある。
「面白れぇ!」
経絡に気を伝わせ、両手を天に翳すと拳が蒼く輝いた。
受けた右肩はもう痛まない。テリーは大地を駆け、その右拳を突き出した。
「バーンナックル!」
――速い!
元々キム・カッファンの真髄は、攻防一体の技術にある。
一方的に打ち込むのではなく、ある程度相手の技を捌いては確実にダメージを奪う、
実に順序立てたスタイルが彼の持ち味だった。
それ故、敢えて追わず、テリーが何か動きを取ったら
カウンターの蹴りを叩き込む心構えをして待っていた。
だが、その構えを打ち砕くほどにその拳は速く、
半端となった覚悟は逆に、致命的な隙を作り出してしまった。
「うおあぁ!」
ヨプチャギと呼ばれるトラースキックはテリーの体の横を通過し、
顔面には、煙を上げるような熱さが叩き込まれていた。
まるで車に跳ねられたように、キムはコンクリートで跳ねて倒れた。
凍りついた家族の表情と共に、静寂が訪れる。
だが、それでも立ち上がった。
祖国の威信と、最強を自負するテコンドーの歴史の重みが、彼を立ち上がらせていた。
感嘆の口笛を吹いたテリーが駆け、パンチを打つ。
キムはそれを屈んで躱すと、バク宙しながらの蹴りを打って着地した。
「飛燕斬……!」
咄嗟に躱したテリーだったが、白いシャツが刃物で切られたように、鮮やかに裂けていた。
怯んだテリーに充分に威力の乗った横蹴りが叩き込まれた。
腕と膝でガードしてもそれは尚も身体の芯に響いた。
だが打ち返された蹴りが、キム・カッファンにも同じように響く。
追撃のパンチが頬に入るとキムは大きく崩れた。
再び拳に気を集める。
そしてそれを放出する為に呼吸を整えた。
キム・カッファン――並の使い手ではない。
パワーウェイブを撃つ。
これで決めなければいつまた逆転されるか解らないという尊敬が、
テリーに引き金を引かせた。
発光した拳が、今度は大地に叩き込まれる。
そして伝う、気の波動。それは波となってキムを飲み込む――
はずだった。
しかし、キムは空に居た。
「何!?」
不覚――
受けを知らないであろう人間に気を放つことで勝利を確信してしまった。
波動の陰から彼が飛び上がったのを、認識するタイミングが遅れた。
「あたたたたたたた!!」
急降下して来たキムの、空中からの連続蹴りがテリーの顔を何度も踏み抜いた。
帽子が吹き飛ぶ。
テリーが無理矢理アッパーを繰り出すと、それを優雅に躱したキムは後方に着地した。
クリーンヒットを浴びたテリーの頭は確実に揺れていた。
間合いが離れ、互いに呼吸を整える。
膝が笑っているのが、互いの眼に映った。
「噂通りの強さですね、テリーさん。
半月斬、飛燕斬、飛翔脚と、技は出し尽くしたのですが」
「あんたこそ!」
テリーは血を吐き捨てて、グローブを締め直した。
「ですがテリーさん、私にはもう一つだけ、とっておきの技があります。
これで終わりにしましょう」
「予告してくれるたぁサービス良いな! OK! 来な!」
「――では!」
闘気が弾けるような前傾姿勢。
それを見てテリーが膝のリズムを止め、やや拳を下げたボクシングスタイルに構えると、
瞬間、レンズが錯覚を起こしたように、キムの姿が眼前に存在した。
「なっ!?」
テリーとジョーの、驚きの声が重なった。
「あたたた!あたたた! あたたた! あたたた!」
まず、キムが密着距離で初めて見せたパンチのキレにテリーが弾かれた。
そこに追撃の蹴りが信じ難いスピードで入り、軽く意識が飛ぶ。
ガードが下がり、棒立ちになったテリーをさらにスピードを増した蹴りが立て続けに襲った。
今までが本気ではなかったような、瞬間の爆発。
完全に計算し尽くされた脚打のコンビネーションは一撃浴びせる度に、
それを活力としているかのようにスピードを上げた。
そして、ネリチャギを頭部に浴びせ下がった顎を、
神速で空気の流れる異空間に居ながらも冷静な思考を止めないキムの脳が、
正確無比に狙い打った。
――飛燕斬!
空中で回転し、片膝を突きながらキムが着地するのと、
テリーがその遥か前方で力無く地に弾むのはほぼ同時だった。
キム・カッファンの“とっておき”である、鳳凰脚。
鳳凰のように気高い、彼の花郎徒精神が空の身体からも死力を振り絞り、
一瞬に己の持ち得る全てを燃焼させる。
――テリーが、負けた……?
仰向けに倒れ、動かない親友を見て、ジョーは現実を受け入れた。
このキム・カッファンという男と、万全でもう一度闘っても勝てる保証はない。
追い詰められた時の精神力の異様な高まりに恐怖すら感じた。
今流れ落ちている汗は恐らくそういうことなのだろう。
何日、何十日とそれを続けても、キム・カッファンは揺るがない自尊心のままに、
闘い続けるように思えた。
信念が、ここまで人を強くする。
ならば、今、血を流し、足をふらつかせながらも、笑いを張り付けて立ち上がったこの、
テリー・ボガードの信念とは――何だ?
それはジョーにも触れられないテリーの原点なのかも知れないが、
そんな理屈以上に、今、燃え滾っている彼らの炎が、
確実に飛び火しているのは間違いない。
それはすでに理屈を超えた所にある、理解なのだろう。
「――まったくこいつら…… 燃えるぜ……!」
ジョーは後一押しで倒れる両者から一瞬たりとも眼を離さないよう、
網膜に全神経を集中して座り込んだ。
「ハァ…… ハァ…… 立ちますか、テリーさん……」
「最後の蹴りは一度見てたからな。なんとか外してたみてぇだ」
中腰のまま息を切らせ、その場から動かないキムに、テリーがゆっくりと、
まだ崩れ落ちない両足の感覚を確かめるように近付いた。
顔を逸らせばすぐそこに、彼の家族が居る。
食い入るように父を見詰める子供達の眼が彼にいつも力を与えていた。
「ギブアップでも良いぜ?」
「まさか、まだやれますよ!」
キムの最後の蹴りを避け、顎にアッパーを叩き込む。
「あんた、手応えあったぜ……!」
キムが力尽きて沈み、このコロシアムで立っている者は、勝利者ただ一人となった。
死闘の勝者は、テリー・ボガード。
ブラウン管の向こうでファンファーレが鳴り響き、
割れるような歓声もここまで届いたように思えた。
膝に手を突き、呼吸を整える。
親指を立てているジョーに疲労困憊の笑みで応えた。
「ん?」
下方から、赤い帽子が突き出されている。
少年――キムの子供。
手を精一杯伸ばし無言で突き出されたトレードマークの帽子を
テリーは微笑んで受け取り、少年の頭に手を置いた。
「強くなれよ、親父みたいにな」
妻とドクターに介抱されているキム・カッファンを親指で指差し、
テリーは満面の笑みで言った。
通り過ぎるバイクに煽られた風が闘いで熱した身体に心地良い。
ジョーと交わしたハイタッチの音が澄んだ空に響き渡った。
次が、決勝だ――
【23】
戻る