イタリア、ベネツィアの止められた小さな遊覧船の上に、一組の男女が居る。
美しい町並みにソフトクリームの出店が並び、
カップルのデートスポットとして人気の高いこの場所だが、
その一組からは、およそカップルとは言い難い険悪なムードが漂っていた。
と言っても、女の方が一方的にむくれているだけで、男は冷や汗を飛ばしながらの困り顔。
女、不知火舞は、まんじゅうを詰め込んだような膨らんだ頬をして、
そっぽを向いて腕を組んでいた。
それを男、アンディ・ボガードがほとほと困り果てた表情でなだめている。
「顔は女優の命なのに…… 信じられない!」
そっぽを向いたまま舞が口を尖らせて言った。
見れば舞の頬はただ空気でむくれているだけでなく、どことなく赤い腫れがある。
「いや、咄嗟で! 決して狙ったわけじゃないんだ!
その、思った以上に舞が強くて、手加減できなかったんだって、ごめん!」
その言葉で、今度はアンディへ顔を突き出して舞が怒った。
「手加減する気だったんだ! 屈辱だわ! も、さいっていっ!!」
またそっぽを向いて、頬を膨らませる。
もう何日同じやりとりをしたことか、数えるだけで気が遠くなる。
ますますアンディが困ったところで苦労知らずの能天気な大声が耳に届いた。
「よう、アンディ! 元気そうじゃねぇか…… って、うわっ! 何だ、その舞ちゃんの格好は!?」
ジョー・東の言葉を受けて、舞が毒蛇のように睨んだ。
くノ一にとって“色”は男を惑わす大きな武器であり、
その伝統は忍の意味が薄れた現代においても露出の多い正装と共に伝わっている。
今、舞の肌を包んでいる不知火流くノ一の正装は、
およそ外を歩くのに抵抗を感じる存外に露出の多いものだった。
と言っても、普段から派手な服装を好む舞は全く気にしてはいない。
「パンツ一丁のあんたに驚かれる筋合いはないわよ!」
苛立ちのままに怒鳴り上げる舞。
確かに言われてみればなるほどその通りだと、
ジョーは仰け反って他人事のように驚いた。
その後ろでテリーが立ち尽くして唖然としている。
どうも彼は舞におしとやかなイメージを持っていたらしい。
「日本の女は、ヤマトナデシコじゃなかったのか……?」
やるせない喪失感が、テリーの心に寒風を吹かせた。
「兄さん」
ジョーとやり合っている舞から離れ、アンディが寄って来た。
その隙のない足の運びだけで解る者なら彼が達人だと解るだろう。
「決勝で闘えるとはね。今日こそ勝たせてもらうよ」
「おう! どれだけ強くなったか見せてもらうぜ」
軽く拳を合わせる。
アンディの穏やかな表情はテリーには意外だった。
だが同時に、安心と共に頼もしさを感じた。
――乗り越えたな、アンディ。
それは、最後に会った兄が、
傷ついた体でソファーに横たわる姿だったアンディも同じだった。
全身を纏う闘気が、あの姿からは想像出来ないほどに芯に響く。
――さすがだ、兄さん。
互いに微笑んで眼を切り、背を向けて数歩歩いた後、振り返って構える。
いつも身近で、そして遠い目標だった兄に、全力で挑む。
アンディの闘志はかつてないほどに高まっていた。
その肌を刺す二人の闘気は、騒いでいたジョーと舞をも鎮め、静かな空間を生み出した。
船が、ゆっくりと動き出す。
この闘いで、1993キング・オブ・ザ・ファイターズの、王者が決まる。
頬に心地良い風が、二人の長髪を揺らした。
「斬影拳!」
最も得意な技で先に仕掛ける。
それはアンディが事前に、心で決めた約束だった。
肘を突き出し、兄との距離を零に詰める。
だがテリーの姿は眼前で消え、足下へと強烈な痛みが打ち付けられた。
斬影拳のスピードに反応して、足を払う。
確かに斬影拳の命はその足の瞬発力にあり、同時に足下は留守になる。
しかしそれを補って余りあるスピードがその弱点を相殺しているはずだった。
尻餅を突くがすぐに起き上がり、兄の反応に息を飲む。
「どうした? アンディ!」
その息を気合と共に吐き出し、再び駿馬の速度で間合いを詰めた。
テリーの剛拳を掌でいなしながら脇へ飛び、日本刀のような打拳を浴びせる。
確かにダメージを刻んだが、それよりも兄の身体の硬さに驚いた。
気功の練度が自分と一桁違う。
八極聖拳の正統後継者は、その後、兄テリーに決まったらしい。
これだけの才能の違いを見せられればアンディにも異論はなかった。
だがそれで、アンディは絶望したわけではない。
今ハッキリと、兄と違う道を歩んだことを、不知火流と、不知火半蔵と出会えたことを、
心から喜ぶことが出来る。
同じ土俵で争えなかったことは恥ではない。
兄が一撃で倒れないのなら、さらにもう一撃浴びせれば良い。
不知火半蔵から受けた教えの全てを、この人にぶつければ良い。
拳を合わせる度に、アンディの想いが伝わって来た。
誰しも、何かしらの理由を持って闘っている。
でなければ、こんな苦痛と、血反吐と、死に彩られた狂った世界に、
足を踏み入れる者はいない。
例え何も考えず、本能だけで闘いに身を興じる者が居たとしても、
それは単に、好きだからという、どこまでも単純な理由を持ってしまった、根っからの狼だ。
理由がないのが、何よりの理由となって拳に伝わるだろう。
拳を合わせるだけで、その想いが解る。
闘う理由が、その男の形だ。
例えば、ビリー・カーンはどうだろう。
クラウザーの下に付いたらしいあの男だが、再び交えた拳からは、
以前と何も変わらない、深い想いがあった。
あの男はいつでもギース・ハワードの為に闘っている。
主が死んでしまっても、ビリー・カーンは何も変わらない想いを拳に込めていた。
ジョー・東はどうだろうか。
三度の飯より闘うのが好き。彼はただそれだけの理由なのだろう。
だが、それは闘いの中でしか生きられない、矛盾の痛みを伴っている。
不快感の残る闘いは、後に痛みしか残らない。
だからこそ、燃える闘いをしたいと願うその想いが、
誰よりも強い拳となって形になっている。
キム・カッファンは、祖国と、テコンドーという武術への忠義の為に、
透き通るほど純粋に、その信念に殉教するかのように、闘いに打ち込んでいた。
では、ギース・ハワードは、どうだっただろうか――
そこで、テリーの思考は途切れた。
その笑みには何の色もない。
生まれて初めて笑ったときと同じ、自然で、透明な笑み。
そのままアンディに、渾身の拳を打ち込んだ。
拳を合わせるだけでこれだけ相手を理解出来れば、
それ以上に幸せなことがあるだろうか。
確実に“敵”であるビリー・カーンでさえ、すでに憎しみの対象とは成り得ない。
もう、かつての自分とは違うという理解が、テリーの中にハッキリとある。
闘いの中にこそ、理解があり、安らぎがあり、幸福がある。
少年の日にジェフ・ボガードに求めた物の全てが、今は闘いの中にあった。
「テリーの奴、完全に吹っ切れたな」
腕組みをしながらジョーが言った。
その横で舞が食い入るように二人の闘いを見ている。
当然、アンディが勝つものと思っていた。
テリーが第一印象で舞を誤解していたのと同じように、舞もテリーを誤解していた。
いや、別人にさえ思えた。
あの空虚だった瞳に、今は眩しいほどの蒼い光が灯っている。
頼もしい父性と、荒々しくも鮮やかな拳光が、どこか別次元の人間のように思えた。
「すごい……」
そのテリーと互角の攻防を演じるアンディに、舞は息を飲んだ。
その二人だけの儀式が、何か高名な画家の描いた絵のように美しくて、
目が離せないでいた。
いつも一緒だったアンディをすら、どこか遠くに感じる。
この夜雨対床の絆の中には入り込めないという想いが胸を締め付け、
同時に、それを心から祝福してやりたいという衝動から体が動いた。
「アンディー! 負けたら承知しないわよぉ!!」
突然の大声にビクッとしたジョーだったが、舞の晴れやかな顔に微笑を浮かべ、
我も負けじと声援を飛ばした。
「テリー! 遠慮しねぇでガツンとやってやれよ! ガツンと!」
「セコンドに埋められない不公平があるな……」
減退していくやる気を押し留められなかったことが、
テリーのゲンナリとした表情に表れていた。
「こ、こっちだって、プレッシャーだよ」
返すアンディの顔は腫れとは別に、どことなく赤い。
互いに致命傷は避けているが、
極限まで蓄積されたダメージは上げた腕すらも重く感じさせた。
これ以上組み合ってもそのスピードでは容易に躱されてしまうだろうし、
例え躱す力さえ相手になかったとしても、それで倒せる威力を乗せるのは難しい。
つまり、あと一撃に全霊を込めて、兄を、弟を射貫かなければならない。
それを理解しているからこそ、アンディの眼は研ぎ澄まされ、
テリーの口元には不敵な笑みが浮かんだ。
「アンディ、あるんだろ? とっておきの技がよ」
それを打って来い、そう挑発するように片手で帽子の鍔を掴んで軽くかぶり直し、
もう片方で手招きをした。
「受けてくれるのかい? 兄さん」
躱されれば後がない攻撃を、先に出せというのは卑怯だとアンディは笑う。
テリーは顔を反らして笑いながら舌打ちし、両手を広げて打って来いとアピールした。
アンディは笑みを一瞬だけ深め、そして空気と一体化するように呼吸を整えた。
黙ってそれを見詰める、テリー、舞、ジョー。
只ならぬ気がアンディに収束しているのを肌で感じると、テリーも身を固めて構えた。
「行くよ、兄さん! 超裂破弾!!」
屈み込み、両手で弾くように身を浮かせ、全身に闘気を纏って両足での蹴りを浴びせる。
気功との融合により、スケールを格段にUPさせた空破弾。
山田十平衛との闘いの内に無心で繰り出したこの技を、アンディは完全にモノにしていた。
美しい――とさえ、テリーは思った。
アンディの身体を慈しむように包む金色の光は、
しかし自分には辛辣な棘となって襲いかかって来る。
それでも、眼を奪われた。
それが接近するだけで闘気の風は呼吸を奪い、肌を突き刺した。
防御のために固めた両腕を尚も押し込み、アンディの両足がめり込んで来る。
アンディの、67kgの体重からは考えられない重みがテリーの身体に圧し掛かった。
そしてついに、ガードが弾かれた瞬間、テリーは地面に引き摺られ、
船上に置かれたビア樽を叩き壊して倒れていた。
今、勢いそのままに着地したアンディの前で、
少年の日から追い求め続けて来た兄の、意識を失った体がある。
「――勝っ……た……?」
それはまるで嘘のようで、喜びも充実感もなかったが、
ただ抑えられない興奮が駆け巡るのを、呆然と感じるのは間違いなく快感だった。
そしてそれが、アンディがこの場所で感じた最後の感覚だった。
刹那、柱のように噴き出たテリーの気はアンディの身体と共に船を沈め、
アンディを抱えたテリーが石の波止場に手をかけてよじ登った瞬間に、
今回のKOFのチャンピオンが決まった。
テリー・ボガードの連覇。
それが、大会の結末だった。
パオパオカフェが大きな賑わいを見せている。
テリー・ボガード優勝祝賀会。
この大会の本当の意味も今は忘れて、パーティーは空前の盛り上がりを見せていた。
ベアが居る、キムが居る、包帯姿のホア・ジャイも、ダックも居る。
山田十平衛がリチャードの娘にちょっかいを出し、タンに窘められている。
同じ舞台で闘って来た男達が今はここに集い、再び最強となった男を賛美していた。
テリーに憧れる子供達が彼を縛り付けて離さない。
「聞いてくれよ、アンディィ。あれからずっとリリィちゃんと連絡付かねぇんだよぉぉ」
「ど、どこか引っ越しでもしたんじゃないのか?」
またしても泥酔しているジョーがアンディの肩を抱いて絡んでいる。
「あらなぁに? リリィちゃんって。ジョーにもそんな浮いた話があるんだ」
その丸テーブルの反対側から、薄手の赤いシャツに短パンという
忍服を離れてもやはり露出の多い格好で、フルーツを食べていた舞が口を開いた。
ちなみにジョーはいつものパンツルックである。
「おぉ? 聞いてくれる?
アンディがナンパしてた看護婦なんだけどよ、これがまたかわいいのよ……」
「――なに?」
「な、何を言っているんだ、ジョー! だ、だ、誰がいつナンパなんてしたんだよ!」
柳眉倒豎の視線を全身に受け、アンディが両手を振り回して取り乱した。
「だ、大体、修行中の身でそんなたるんでるぞ、ジョー!」
何事かぶつぶつと呟いている舞を避けるようにジョーを指差して論点をズラすが、
もはや無駄な抵抗だったことは言うまでもない。
「アンディィ! あなた一体何しにアメリカ帰ってたのよ! 言いなさい、アンディィ!!」
「ぐぇぇ! ち、違うんだ、舞……!」
「お前ほどたるんじゃいねぇよ……」
舞に首を絞められるアンディを見ながら、ジョーはテーブルにうつ伏せて泣いた。
「よ! モテモテのアンディちゃん!」
そんなジョーの哀愁漂う背をいつものお返しとばかりにバシィ!と叩き、テリーが現れた。
尻尾を踏まれた猫のような反応のジョーは無視し、舞が手を離して向き直る。
さすがにお兄さんの前で弟の首を絞めるのはどうかと思ったらしく、
照れ顔でごまかしている。
「兄さん……」
ようやく解放されたアンディは一瞬、下を向いたがすぐに満足した笑みで、
テリーにグラスを注いだ。
「おめでとう、兄さん」
「強くなったなアンディ。次はかなわねぇかもな」
それを受け、テリーが言う。
アンディは苦笑したが、そこは賑やかな周囲から隔絶されたかのような、
穏やかな空間だった。
開いたドアから流れて来た風が二人の金色の髪を軽く揺らした。
そんな兄弟に軽い嫉妬を持ったのか、舞が身を乗り出して来る。
「ねぇ、テリー。アンディの小さい頃の話、聞かせてよ」
「OK! 良いぜ! まずはおねしょの話からだな!」
「に、兄さん!?」
何か先程から不当に陥れられているような気がして、
アンディはテリーと、きゃーと頬に手を置いて喜んでいる風の舞を
行ったり来たりに見渡した。
――そんな、等しく祝福を与えられた空間を引き裂いたのは、
一瞬、稲妻が走ったかのような閃光と、背の竦む激突音だった。
「リチャード!」
テリー達が駆けつけた場所には、倒れ、妻に支えられているリチャードと、
それの加害者でありながら、ここに集まったファイター達が誰一人として近付けない、
異様な闘気を纏った長身の男――
黄金の鎧に身を包み、赤いマントを翻すヴォルフガング・クラウザーの姿があった。
顎に包帯を巻いたダックが、あれがクラウザーだとテリーに告げる。
一歩、テリーが誰にも踏み出せなかった一歩を踏み出すと、
クラウザーがゆっくりと、穏やかでありながら冷酷な、
凍った笑みを浮かべながら主賓へ振り向いた。
ざわめきすら起こらない、水を打ったような静けさ――
「おめでとう、テリー・ボガード。君の優勝を、心から祝福させて貰うよ」
「ようやく黒幕の登場か…… クラウザー!」
開け放たれた扉から差し込んだ夜風が、二人の長髪を靡かせた。
「リチャードから離れろ!」
テリーが吼えた。
それを受けたクラウザーは無防備に両手を広げ、首を振って笑う。
「君を呼ぶのにてっとり早いと思ったのだがね。
パーティーの場に不粋だったのは詫びよう」
クラウザーが数歩下がると、彼を囲んでいた男達も押されるように下がり、
妻と共に店員達が、リチャードを抱えて二階へと上がった。
それを確認して、テリーが構える。
向かい合っているだけでスタミナを喰われて行くような圧迫感。
闘気の刃は空気を伝ってテリーの肌を切り裂いた。
――チィ!
「気が早いな、テリー。
今日はもっと良い宴の招待状を持って来ただけなのだがね」
「何?」
「チャンピオンに敬意を表して、私の城へ案内しよう。
ドイツ――シュトロハイム城で待っている」
「罠だ! テリー!」
ジョーが割り込む。
確かに罠、と考えるのが自然だ。
だが、千載一遇のチャンスであることも事実。
「クラウザー、ローレンス・ブラッドって野郎も、その城に居るのか?」
ジョーを手で制し、テリーが聞いた。
「兄さん……!」
アンディと舞の顔が強張る。
「彼には私の城の警備隊長をやって貰っている」
「――居るんだな?」
瞬間、ゾッとするような薄笑いがテリーを凍りつかせた。
肯定――しかしどこか狂気じみた、決して笑っていない瞳。
何も映さない、空になった瞳が殺意だけを宿して輝いた。
マントを翻し、踵を返すクラウザー。
背中からテリーに投げ渡された紙には、翌朝、
私用のジェット機の出発の時間と場所が記されていた。
この長身の男が歩を進めるだけで、人垣が割れる。
モーゼが海を渡るかの如く、女が、子供が、歴戦のファイター達が、
恐れのままに道を開いた。
その背を、テリーが不快な瞳で見ている。
「兄さん……」
しかし、それと矛盾するように笑っている口元は、あるいはクラウザーと同等の恐怖を、
周囲の人間達に与えていたかも知れない。
――ギース以上かもな。
ゾクゾクする笑みが、張り付いて離れない。
「ねぇジョー、アンディ――知らない?」
パオパオカフェの、玄関に近い通路で、怖々とした舞の声がジョーへ向けられた。
――舞を頼む。
最後に聞いたアンディの言葉が頭の奥で反響する。
「し、知らねぇな。腹でも壊したんじゃねぇか?」
舞の大きな目が怪訝に細まった。
そして、何かを悟ったように背を向けたかと思うと、哀しげな吐息がジョーの耳に届いた。
「行ったのね」
それがジョーには痛々しくて、いつもの軽口さえ失わせる。
「――アンディに頼まれてる。お前は行かせられねぇぜ」
次の行動は予想出来た。
ジョーは舞が向き直る前に、両手を広げて行く手を制す。
と、その脇腹に不知火流で天水の舞と呼ばれる回転蹴りが入った。
「いげぇ!」
意表を突かれたジョーは潰れた声を吹き出し、腹を押さえて屈み込んだ。
「ってぇ! いきなり何だ!」
「あら? ジョーも腹痛なのかしら? ――倒してでも行くわ」
鉄扇を取り出し、口元を覆って挑発した舞は、それを構え、真剣な眼つきになった。
本気でジョーを倒し、アンディを追い掛けるつもりだ。
「ったく、どうしようもねぇお転婆だな」
そう愚痴って、ジョーも本気で構える。
その威圧感に、舞の額に汗が滲み、やがてそれは頬まで伝った。
――強い……
こうして向き合っているだけでここまで強さが解るものなのかと、
舞は初めての感覚に狼狽していた。
殺される、とさえ本能が危険を呼び掛けて来る。
唾液を飲み込むと口の中がカラカラになり、酸素が足りずに足が揺れた。
でも、退かない。
この震える足では再び蹴りを打ち出すことは出来ないかも知れないが、
絶対に退かないと決めたからには、それはすでに退かない以外に答えはない。
心と眼光だけは決して失わずに、舞は構えたまま動かなかった。
時間だけが進む――
すまねぇな、アンディ……
緊張の沈黙を経て、ジョーがゆっくりと構えを緩めた。
――こいつは手に負えねぇや。
「――何よ……?」
「はいはい、参った! 俺の負け!」
大袈裟なジェスチャーで両手を広げ、ジョーが首を振って言った。
舞は呆気に取られている。
「グズグズすんな、行くんだろ? ドイツ」
振り返って背を向け、親指で指差すジョーの姿に、
やっと理解した舞は口を尖らせて微笑んだ。
安堵と、希望が叶った喜びに瞳が潤む。
最近どうも泣いてばかりだと自嘲するが、やはり笑みは離れなかった。
「最初からそう言えば良いのよ」
「――旅費はツケだぞ」
ドイツ、シュトロハイム城――
所有者の権力の象徴とも言えるその気高い城は、
今はヴォルフガング城とも呼ばれている。
軍服のような正装に身を包んだ若い男が3人、城へ戻ったクラウザーの鎧を丁寧に外す。
無表情に、人形が人形を扱うかのように、それは上品な音を立てて地に置かれた。
渡された絹のシャツを羽織ったクラウザーはそのまま進み、
ローレンス・ブラッド、アクセル・ホーク、ビリー・カーンの待つ玉座へと座った。
跪く、ローレンスとアクセル。
しかしビリーは壁に背をもたげたまま、ニヤついて動こうとはしない。
それにローレンスが非難の声を上げようと背を伸ばすが、
その前にクラウザーの方からビリーに声が行った。
「ビリー…… テリー・ボガードは、来るかな?」
「来ますよ」
迷いのない、即答。
その深めた笑みが何よりの説得力を持っていた。
それを見てクラウザーは、愚問だったと自嘲気味に笑う。
「クックックッ、そうか。お前が案内してやれ」
「クラウザー様!」
機会を奪われたローレンスがついに抗議の声を上げた。
だがそれは虫の囁きのように、彼らの耳には届かなかった。
ビリーは笑みを浮かべたまま短い返事を行い、部屋を出て行く。
ビリー・カーンとテリー・ボガードが接触すれば、何が始まるのかは解り切っている。
「――クラウザー様、よろしいので……?」
今度は怒りに震えるローレンスを庇うように、アクセルが口を開いた。
「構わんさ、それが互いの本懐だろう。
ならばその余興を阻害する方が不粋というものだ」
――ギース様の仇を討ちたい。
ビリー・カーンは遺骨を持ってギース・ハワードの死を証明すると共に、
その言葉でシュトロハイム家の闘士となった。
三闘士――抜きん出た力を持つ彼らはそう呼ばれた。
テリー・ボガードが勝つならばそれで良い。
ビリー・カーンが勝てば、それもまた物語の結末としては面白いだろう。
「フフフフフ…… ハハハハハハ!!」
こんなに、愉快だ。
広い空間に老執事だけが付いた落ち着かない飛行機で運ばれ
ドイツの地を踏んだテリーは、バイクを降ろし、それに乗って走った。
案内の車は手配されてあったが、テリーはそれを断った。
罠の可能性がある。それは当然だろう。
しかしそんな理由よりもっと大きな部分で、
何か、この町並みをゆっくりと見ながら走りたいという思いがテリーに募っていた。
風来坊が性に合う、自分の気質に従ったのか、
あるいは18年前、養父ジェフ・ボガードがこの町を走っていた記憶が、
何かの間違いでテリーに宿っていたのか――
テリーは今までの闘いをひとつひとつ回想しながら、
風を切って、根元と先で二箇所に結んだ、金色の長髪を空気に流していた。
――朝日が眩しい。
やがて地図に示された湖に辿り着くと、
そこにはテリーを歓迎するように石の吊り橋が降りていた。
バイクを降り、ゆっくりと進む。
天へ聳え立つ白銀の城が、肌にチリチリと何かを語り掛けて来た。
おかえり――
おかえり――
黒い翼の妖精達が、耳元ですれ違うように囁く。
恩讐、後悔、自責、悲哀、憎悪、慈愛、決別、希望――
それは不快なようで、どこか懐かしいようで、
ただ、この場所にたゆたったままの思念が、
目を瞑ると、誰にも見えない、無表情の涙を伝わせた。
人の感情を運ぶ風――
人の感情を食い物にする城――
――この城は俺を待っていた。
錯覚を振り切って見開いた眼の先で、テリーはそれだけを確信した。
城門の前に、ビリー・カーンが立っている。
「よく顔を会わすもんだな、ビリー」
「そう言うなよ、こっちだってうんざりなんだ」
紅白のバンダナに、イギリスの国旗をあしらったシャツを着ている。
Gパンの上から履かれたブーツの赤に棍の真紅が溶け合う。
それを肩に担ぎ直し、ビリーが顔で後方を指して言った。
「来な」
連れられるままに、城内へと歩く。
白銀の天井が、決して人の手の届かない、天界へ通じる空洞のように高い。
塗り込められた金の弾く光が、そこに目を向けることさえおこがましいと怒っている。
耳鳴りはとうに止まった。
そしてそれで、この城からの音は全て失われたことになる。
体温とは別のところで寒さが全身を走った。
まるで音がなく、色もない城。
「なかなか良いところだろ?」
ビリーが背を向けたまま、萎縮してるテリーに言った。
その言葉には、この城への皮肉と、それを嫌悪するテリーへの嫌味が含まれている。
「お前の趣味には合いそうだな」
「冗談きついぜ」
振り向かず、ひとりごちたビリーは城の奥へと、ゆっくりと歩いている。
もうどれだけ歩いたのか、この煌びやかでありながら無表情な城の中では、
時間の感覚さえ色を失うように思えた。
「随分、歩かされるもんだな」
山の頂上を行くように息苦しく、汗が滲む。
「バテたか? クックックッ…… 見ろ」
ビリーが棍で指した遠い先には、小さく扉が見えた。
「あそこに――クラウザーが?」
「そうなるな、だが――」
突如、振り返ったビリーが無音を引き裂く棍を打ち出す。
それを避けたテリーは二撃目もバックステップで躱し、戦闘態勢を整えた。
「テメェに闘う資格があるのか、テストだ」
「なるほど、そう来ねぇとな」
テリーはグローブを締め直し、拳を握って構えた。
不敵な笑みのビリーを、同じ笑みで返す。
静かで、厳格な雰囲気を称えるドイツの町並みを蹂躙するかのように、
ジープが煙を巻き上げて爆走していた。
「オラオラオラオラオラァ! オッシャー!!」
運転席には半裸にハチマキの男、ジョー・東が、
助手席には朱の忍服を着込んだ不知火舞が乗っている。
思い切り踏み抜かれたアクセルに連動して今にもタイヤが火を吹きそうだ。
「ちょ、ちょっと! もっと安全運転には出来ないわけ!?」
「え? 何? 聞こえない!」
絶叫マシーンさながらの勢いで轟音を上げてジープは走る。
舞の非難や悲鳴はエンジン音の餌となり、やがてライン川のほとりを駆け抜け、
巨大な城から吊り橋が下りているのを確認すると、タイヤが破裂し、湖へと豪快に落ちた。
「うおわぁあああああ!!」「きゃああああー!!」
ドッボーン!
「ちょっとぉ! 何やってんのよ!!」
浮き上がった舞が、かんざしで結んだポニーテールを逆立てて当然の抗議を行った。
だが先にプカプカと浮いていたジョーは、飛沫か、あるいは汗か、
神妙な笑みにそれを張り付かせて、石橋の上の男を見ていた。
確かに、その男が放った何かによってタイヤが破裂したことを、ジョーは気付いていた。
そして、その男が誰であるのかも――
「おいおい、ありゃあアクセル・ホークだぜ」
茶色の肌に、凶悪な面構えをしたスキンヘッドの男がグローブを叩き、笑っている。
「――アクセル・ホークって…… まさか?」
アクセル・ホーク――
歴代最強と言われた、元ボクシング世界ヘビー級チャンピオン。
18才でプロデビュー後、ケンカ仕込みの荒々しいファイトでKOの山を築き、
5年、20戦目で世界チャンプとして君臨してからは、
無敗のままに30回防衛という偉業を達成した、
正しく歴代最強の名に相応しい、ファイタータイプのハードパンチャー。
だが、その圧倒的な強さは、また同時に孤独でもあった。
まともに闘える相手がいなくなった彼は、30というキリの良い防衛を最後に現役を引退。
その後はリングの外に対戦相手を求め、やがて強者を求める男の終着点、
シュトロハイム城に行き当たった。
「そのまま10カウントのほうが利口ってもんだぜ、ムエタイチャンプ」
アクセルが、橋に上がろうとしているジョーを赤いボクシンググローブで指して挑発した。
だがジョーはそんな忠告を聞くような男ではなく、
橋に手を突き、必要以上に派手に飛び上がって着地すると、
ニヤリと笑ってムエタイ独特の構えを取った。
「ムエタイ対ボクシングのチャンピオン対決ってわけか、こいつは面白そうだ」
「命知らずめ……!」
アクセルも上に着ていたシャツを破り捨て、完全にボクシングスタイルで構える。
「ジョー!」
取り残された舞も橋に上がり、鉄扇を取り出して構えた。
だがジョーは舞を片手で制し、わざとらしく気取って言った。
「おっと、舞ちゃんよ、加勢がいるのはこの俺様とアンディ、どっちだ?」
ジョーの背から、横へと並び、舞は顔を見上げた。
「――ジョー…… 勝てるわよね?」
「あたりめぇだ。さっさと行け! そのために来たんだろ?」
すでにジョーはアクセルを見やったまま、舞に視線は向けない。
それがどれだけ危険かをジョーも舞も解っている。
それだけ、アクセル・ホークが強い。
ジョーの強さを知っている舞も、自信家のジョーでさえも、
確実に勝てると心の底から信じるには足りない、そんな威圧感があった。
だが、ジョーを信じる。
舞は無言で頷くと、アクセルの脇を駆け抜ける為に全力で大地を蹴った。
そのスピードにアクセルが驚愕の反応を取る。
舞と同時に駆けていたジョーの飛び膝蹴りがアクセルの額に入った。
「て、てめぇら!」
すでに舞は橋を駆け、城の目前まで辿り着いている。
額の出血を押さえ、それを膝を突いて見やりながら歯軋りするアクセルの耳に、
パンパン!という拳を叩く小気味良い音が響いた。
「オルァ!」
ジョーが不敵に笑い、指を差してアクセルを挑発している。
「どうやら10カウントは地獄で聞きたいらしいな……!」
駆け抜けた先には堅牢な門が立ち塞がっていた。
木製のため、焼き払えば開けられないこともないが、
正面から乗り込む愚を犯す舞ではなく、焦る気持ちを抑え、別口を探すことにした。
忍の技術を実際、侵入に使ったことはない。
しかし、駆け抜け、高速で流れていく景色を感じていると、
半蔵がすぐ隣りで教えを授けてくれているような、そんな、形のある錯覚を感じた。
厳しく指導していた半蔵の表情が緩み、風の中に消える。
舞の緊張は解れ、足が加速した。
――ありがとう、お爺ちゃん。
城の周りを跳ねるように駆けた舞は、木で出来た小さなドアを見つけた。
裏側の小さな庭。そこから中に入れる。
目的地だけを視界に踏み込んだ舞だったが、そこで足が止まった。
赤黒い薔薇が一面に、毒々しく咲き乱れている。
束縛、嫉妬、不吉、呪い――
花言葉に本当に意味があるのかは知らないが、それは確かに、
これを植えた人間の禍々しい思念を反映し、それを養分に育っている。
「……何なのよ、これ」
黒い哄笑が神経を蝕む。
気がつけば舞は声が聞こえないように頭を押さえていた。
「私は薔薇は真紅が好きなのだがね、あの方の趣味でそうなっている」
低い、男の声がした。
飛び跳ねるように振り向いた先にはマタドールの衣装に身を包んだ、
長身の男が立っていた。
――しまった!
男の煌びやかな金細工が朝日を反射し、表情を隠した。
ただ、惨忍な笑みを浮かべているのだけが舞に伝わる。
「何者!?」
舞が鉄扇を取り出して構えた。
「おやおや、それはこちらのセリフだろう、お嬢さん。
この城の警備が私の仕事でね。お前のようなゴミでも見逃せんのだよ」
――警備……?
鉄扇を握る拳に力が篭る。
青褪めていく顔には、しかし化鳥のような鋭い眼光が研ぎ澄まされていた。
「――ローレンス・ブラッド……!」
名を呼ばれたローレンスの顔が怪訝に歪んだ。
「お爺ちゃん…… 不知火半蔵の無念、晴らさせて貰うわ!」
合点のいったローレンスは手品のようにマントを取り出し、
再び口髭を歪ませて惨忍に笑った。
「なるほど、あのじじいの孫か」
風が黒薔薇を揺らし、再び哄笑を運んだ――
【24】
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