「へぇー、ここがパオパオカフェ2号店ねぇ!
なかなか雰囲気の良さそうな店じゃないか、リチャード」
「テリー!」「兄さん!」
テリーが店を見渡しながら奥へ進むと、すぐにリチャードとアンディ、舞がやって来た。
どうやらアンディと舞も今、到着したばかりのようだ。
「良かった。リチャードさん、兄さんと連絡が付いてたんですね」
「なぁに言ってんだよ、アンディ!
このパオパオカフェの新たなる門出に、義理堅い俺が顔を出さないはずがないだろ?」
一様にしれーっとした視線を受けて、「な、なんだよ」とテリーがたじろいだ。
「でも、よく2号店まで出せたもんだな。1号店の維持だけでも大変じゃないのか?」
「ああ、誰かさんが行方不明になったおかげで、
ヒーロー目当ての客がすっかりいなくなっちまってな」
リチャードの嫌味にアンディと舞がクスクスと笑う。
どうも悪役にされていることを感じたテリーも、帽子の鍔を上げて苦笑いで応えた。
「だが、金銭面よりも、むしろ人材不足の方が大変だったな」
パオパオカフェは食事も勿論だが、
あるいはそれ以上に、闘技場でのファイトが名物となっている。
その場所に立てない人間を店長には出来ない。
「それで、見付けた人材が……」
「そうだ。――おい、ボブ! お目当ての風来坊がやっと来たぞ!」
リチャードが振り向いた方向を三人して向くと、
ドレッドヘアの黒人青年が飛び跳ねるように向かって来ていた。
緑色の上着の空いた胸から見える引き締まった身体はそれだけでも格闘家だと解る。
陽気な笑顔を伴って、ボブ――ボブ・ウィルソンが現れた。
「初めまして皆さん! ワァオ! 貴方がテリー・ボガードさんですね!
貴方の噂は遠くブラジルまで届いていますよぉ!
うわぁ、この人と闘えるなんてサイコーです、リチャード!」
「ん? 闘うって何だ?」
「何言ってるんだ、テリー。彼が電話で話したカポエラ界のゴールデンルーキーだよ。
デビュー戦の相手はお前しかいないと思ってな」
本気で記憶にない、といった様子で首を傾げるテリーに、リチャードはもう呆れ顔だ。
その脇でボブが目をランランと輝かせている。
「まぁ良いや! だがな、リチャード、試合の前に確認しておくぞ」
「ん、何だ、テリー……?」
急に低い声でドスを聞かせるテリーに、リチャードが訝しげな表情をした。
「この試合のギャラだ。盛大なパーティーだからな、弾んで貰うぜ!」
今度は太い腕を叩きながら明るく言うテリーに、リチャードは笑みを浮かべた。
「解った。まずいホットドッグを腹いっぱい、だな?」
「OK!」
ハーレーが煙を巻き上げてストリートを走る。
サングラスで隠され顔は見えないが、その靡くブロンドの髪と、艶やかな唇から、
彼女が相当の美人であることが予想出来た。
その脇を一歩も引かずに犬が駆けている。
ちらりと犬に視線を向け、彼女は笑みを浮かべた。
どうやら互いに競走を楽しんでいるようだ。
だがその笑顔も一瞬、彼女は正面を虚ろに見ながら思案に暮れた。
――秦の秘伝書…… 手掛かりは山崎竜二と、フランコ・バッシュか……
仕事とはいえ厄介なことになりそうだと、彼女、マリー・ライアン、
コードネーム、ブルー・マリーはハーレーを止めた。
パーキングエリアで買った缶コーヒーに口を付けながら、溜め息をつく。
寂しげな視線は、空へと流れるだけ――
握り締めたレザージャケットは、何も答えてはくれなかった。
再びハーレーに跨って走ると、やがて風変わりだが大きな店が目に入った。
出来たばかりの店らしい。新築の良い香りを朝の風が運ぶ。
マリーは少し飲みたくなったという本音を隠すように、
情報収集だと自分に言い聞かせて店へ入ることにした。
パオパオカフェ2号店――看板には賑やかに、そう書かれてある。
「いらっしゃいませー!」
その看板のイメージ通りの明るい声がマリーに届いた。
「ちょっと訪ねたいことがあるんだけど、秦の秘伝…… ど、どうしたの? マスター、その顔」
が、マスターの黒人男性のユニークに腫れ上がった顔に、
今までの思案を軽く忘却してしまった。
「いやぁ、ちょっと狼とケンカしちゃいまして。まだ無謀でした」
そんなひどい顔でありながらも陽気に笑うこの男性に、マリーの顔が止まった。
古い友人に会うといつも、笑わなくなったと言われる――
そんなことはないのに、でも、もう心から笑うことは出来ないと、
彼女はどこか、矛盾する諦めを自覚している。
「“まだ”だぁ? “まだまだ”の間違いじゃねぇのかぁ? ボブ」
ボブ、そう呼ばれたマスターの肩を抱き現れた赤いジャンバーの男に、
ボブはテリーさん、と照れ笑いの言葉を返した。
ふと、頭を過ぎる。
テリーという名の、この街のヒーロー。
そして、先日会った拳法家は、アンディと呼ばれていた。
「貴方…… テリー・ボガード……?」
サングラスを取って、呟くように訪ねた。
「お! あんたみたいな美人にまで知られてるたぁ鼻が高いねぇ。
仰る通り、俺がテリー・ボガードだ。あんたは?」
「やっぱり…… 私はマリー。ちょっと話、良いかしら?」
「へっへー、悪いな、ボブ。デートのお誘いは俺の方らしい」
そう言ってボブの首をヘッドロックに捕え鉄拳を振るうこの陽気な男達を、
マリーは呆れるように、しかし自然な微笑で見ていた。
その姿にアンディも気付き、そしてまた舞に足を踏まれていた。
秦の秘伝書――
始皇帝の時代に書かれたとされる三本の巻き物だが、
その時代に紙という媒体はなく、実際の所は不明。
最強の人間の元へ自然に集い、それが三本揃った時に、何かが起こると言われる。
フリーのエージェントとして秘伝書を追っているというマリーの、半信半疑の説明。
だが、その内の二本の威力を、テリー達は知っている。
眉唾の伝説とはもはや言い切れない物があった。
「それで、ジェフ・ボガードさんの一本と、クラウザーの一本は行方不明なわけね?」
互いの事情を話し合い、マリーが確認を取った。
「それじゃ山崎竜二はこの街にそれらがあるのか、
あるいは最後の一本がここにあると踏んでやって来た、ということになるわね。
前者だとしたら、持ち込んだ人間に心当たりはない? 皆さん」
「ビリー・カーン……」
全員が考え込む中、呟いたテリーに一斉に視線が向けられた。
重い空気。
「確かに…… ビリー・カーンがギースに奪われた秘伝書を持っている可能性はある」
「それだけじゃねぇ…… クラウザーの秘伝書も、だ。
あいつはクラウザーに忠誠なんざ誓っちゃいなかった。
俺とも闘わずに、どこかへ消えた」
「ビリー・カーンが、秘伝書を集めている……?」
兄弟で、思案が巡らされる。
何の為にビリーが秘伝書を集めるのか、答えを導けば、そこにはあの男の影がある。
だが、あの男はすでにこの世にはいない。いないはずだ。
「ビリー・カーン…… ギース・ハワードの部下ね?」
マリーが言った、出してはならない男の名に、兄弟の表情が険しくなる。
震えるようなアンディの手を舞が強く握った。
そんな、気まずい空気の救い手は、仕事の合間を縫って現れたリチャードだった。
「テリー、すまん。電話で言った手紙だ」
「ん? 言ったっけか?」
即座に予想通りの反応をするテリーに顔を覆い、リチャードは手紙を差し出した。
「綺麗なレディーが1号店に直接届けて来たぞ。何をやらかしたんだ、テリー?」
呆れ顔をさらに強めて言うリチャードに、雰囲気も少し和らぐ。
落ち着いたアンディに舞もホッと安堵の息を吐いた。
「何もやらかしちゃいねぇよ」
笑顔で言い返しながら封を開けると、折り畳まれた手紙の端に、
差出人の名前が入ってあった。
「――フランコ・バッシュ…… 誰だ?」
その名に、アンディと舞、そしてマリーが、席を立って反応した。
「何て書いてあるの?」
マリーが一際身を乗り出してテリーを覗き込んだ時、今度は大事な空気を切り裂いて、
耳に響く、あの男の、地鳴りのような声が近所迷惑を考えずにやって来た。
「おい、テリー、アンディ! 居るんだろ!? チンの野郎から山崎が秘伝書で大変なんだ!
――おい、何だ…… 何だよ……」
嵐を呼ぶ男、ジョー・東。
白い視線が、一斉に注がれた。
店の奥の小さな個室に、真剣な表情のアンディと舞がいた。
危険が、再びこの街で起ころうとしている。
それも得体の知れない、薄気味の悪い危険。
今のサウスタウンに、保証された安全などどこにもない。
「舞…… 今すぐ日本へ帰ってくれないか」
深い、アンディの声。
「な、なによ、アンディ、またそういうこと言い出して!」
「秘伝書は、僕達の父さんの問題だ。君を危険に巻き込むわけにはいかない」
「いやよ! 危険なのは貴方も一緒でしょ! なら、私は……」
だが、アンディは俯いて首を振った。
真一文字に結ばれた口からは、意思の固さが見て取れた。
「――アンディ…… そんなに私が邪魔なの……?」
その震える声に顔を上げると、涙の浮かんだ舞の、黒い瞳があった。
「アンディ…… 私ね。貴方が不知火流の後継者になってくれて、本当に嬉しかった。
貴方はお爺ちゃんの遺志を継いだだけかも知れないけど……
私はこれで一緒になれるって思ったんだもの!」
すでに頬を伝う涙を、アンディは嘆くようにしか見れない。
不知火半蔵の遺志と、舞の心、どちらも解っている。
だが、どちらが大切なのかは、今はまだ解らない。
同じくらい大切なのかも知れないし、どちらかが“ついで”なのかも知れない。
だとしたら、舞の涙が、どこまでも痛い。
「私の忍術と、貴方の体術が揃って、二人が揃っての不知火流でしょ?
違うの? アンディ…… 私のことは、どうでも良いの……?」
縋るようなその目を、アンディはもう拒むことは出来なかった。
抱き締める。それは彼女を受け入れたのか、あるいは贖罪なのか、今は解らない。
だが、彼女の体温を感じていると、答えはすぐに出るような気がして来た。
唇が、重な――
ドガシャーン!!
「うわぁー!」「いてててて!」
ぎょっ!とアンディが背筋を伸ばして反応した。
「テリー! お前が騒ぐから見つかっちまったじゃねぇか!」
「なぁにぃ!? ジョーが押すのが悪いんだろうが! 良いところで!」
背中越しに聞こえた声は、今はハッキリと解る。
新築の扉を壊して雪崩れ込む、不粋極まりない野次馬二人。
「何が良いところなのかな? に・い・さぁ〜ん?」
「ま、待て、アンディ! 誤解だ! 偶然通りかかっただけなんだ! なぁジョー!」
「そ、そうだよ!? 偶然に偶然が重なって奇跡のタイミングになっちゃったんだよね!」
と、言い逃れする二人だったが、
見上げたアンディの眼が飢えた狼のそれになっているのを見ると、
その選択肢が間違いだったことを明確に理解した。
「――マジギレだよ……」
そう呟いたのはどちらだっただろうか、
言うや否や、テリーとジョーは疾風となって走り去った。
後、逃げ出した二人の遠い先で、斬影拳の弾ける音が2セットほど聞こえた。
「残念だったわね、舞さん」
小さな部屋に一人残された舞に、マリーが歩み寄っていた。
「マリーさんまで覗いてたんですか!?」
「ち、違うわよ!? 偶然に偶然が重なって奇跡のタイミングに……」
掘った墓穴を大きな瞳でじとーっと見られ、マリーの目が泳いだ。
「んもうっ! マリーさんだって、恋人くらいいるんでしょ?」
そのアンディと同じブロンドの髪や青い瞳が、時に羨ましくも思う。
負けられないと思う一方で、綺麗だと舞も認めていた。
だがマリーはその質問に、舞には見せずに、哀しげな表情を浮かべた。
握り締めたレザージャケットは、何も答えてはくれない――
彼に出会ったのは、20才のバースディパーティーだった。
大南流合気柔術という流派の達人だった祖父の影響で、
父は武術に、生活に、とても厳格な面を持っている。
それは、同じ様に武術の英才教育を施されたマリーにしても同じで、
そんな父を尊敬し、女性でありながら武道に身を捧げることに何の疑問も持っていなかった。
その父にしては珍しく、その日は職場の人間を連れ帰って来た。
公私混同、現場のボスとしてシークレットサービスを行っている父が、
娘のバースディパーティーとはいえただ一人を連れて来るのは不可解だった。
「マリー、誕生日おめでとう」
「ありがとう、パパ……」
やや、困惑の表情。
「マリー、紹介しよう。
こいつは今度の仕事で私のパートナーを務めることになったブッチだ。
なかなかのハンサムだろ」
そう言って笑う父は、いつになく上機嫌に見えた。
よほどこの青年が気に入っているのだろう。
ハンサムかどうかは解らないが、その柔らかい物腰はマリーにも好印象を与えた。
「ボスにこんなに可愛いお嬢さんがいたなんて驚いたな。
初めまして、マリー。気に入るかどうか分からないけど、これは僕からのプレゼントだ」
そう言って手渡された袋には、緑色の、レザージャケットが入っていた。
「まぁ素敵! みんなドレスばっかりでちょっと飽き飽きしてたの」
「シィーッ! ボスに聞こえたら怒られちゃうよ」
「ハッハッ…… 素直な奴だな、マリーは。
どうだいブッチ、うちの娘は気に入ってくれたかい?」
「はい、とても素直で、可愛いお嬢さんです」
互いに上機嫌に笑い合っている。
何か知らない所で話が進んでいるような気がしたが、マリーも悪い気はしなかった。
早速、羽織ってみたレザージャケットが、まだ冷える季節に心地良い。
このブッチという青年はとても優秀なシークレットサービスの一員で、
ロシアの軍隊格闘技、コマンドサンボを得意としていた。
マリーの父の下に配属される事になり、六ヶ月後に大統領の護衛に当たるらしい。
マリーとブッチは、その後、父親公認の仲となり、楽しい日々を過ごした。
マリーは彼の男性としての魅力とは別に、コマンドサンボに強い興味を持った。
初めて見る格闘技。父に教えられた護身術とは違う魅力に満ちていた。
思えば、女性でありながら極端に武道に打ち込む
マリーの将来を心配した父が多少の後悔を抱き、
それが必要でないほどに強いボーイフレンドを探して連れて来たのかも知れない。
だが、それは逆効果となってしまった。
マリーはブッチに会う度にコマンドサンボを熱心に学び、
その素質を見る見る内に開花させていった。
もはやその腕前はブッチですら舌を巻くほど。
マリー自身は幼い頃に数度会ったことしかないのだが、周囲では、
天才と呼ばれた祖父、周防辰巳の生まれ変わり、などという声まで上がっていた。
しかし、そんな楽しい日々も長くは続かなかった。
大統領護衛の日、パレードも終わりに近づいた頃、
大統領暗殺を企てたグループの凶弾が、
マリーの愛する二人の男の命を、残酷に奪い去っていった。
父は死に、六ヶ月で彼との思い出も終わった。
抱き締めたレザージャケットは、何も答えてはくれない。
彼を忘れられないほど愛していたことを、涙と共に自覚した。
もう、どうしようもないことなのに、それでも――
彼女がその椅子に座ると、かつてブッチに頼んで作って貰った、
マリーをイメージしたオリジナルカクテルが出る。
マスターは哀しい笑みで、以前、彼女が彼と二人でやって来た時と同じように、
カクテルを作る。
――ブルー・マリー
それが、彼女が初めて飲んだワインの名前。
最近、笑わなくなったね、と、古い友人は決まって言った。
「――マリー…… さん?」
泳がせていた目が、何か違う色を帯びているようで、舞は心配そうに彼女を呼んだ。
向き直ったマリーの目は閉じられていた。
「甘えられる内に、甘えておきなさい」
開かれた瞳の青はひどく寂しげで、無理に作られた笑顔が、どこか痛々しかった。
マリーがサングラスをかけ、パオパオカフェ2号店を出ようとしている。
フランコ・バッシュからの手紙。
まず彼の息子の救出を優先しようという結論がマリーを動かした。
そこは、一番危険な場所かも知れない。
だが、敢えて危険に身を晒すように、マリーは仕事を受けて来た。
それはこれからも変わらないだろう。
舞に見送られ、手を軽く振る。
だがそのマリーを止める声がふいにかけられた。
「ちょっと待った! マリー!」
「テリー?」
振り返ると、テリーとジョーとボブがズラリと揃っていた。
そして三人が三人ともボコボコの面である。
その斜め後ろで腕を組んでいるアンディの鼻息はまだ荒い。
「俺達は洗い浚い全部話したが、まだあんたの話が終わっちゃいねぇ」
ボコボコの顔で凄むテリーには異様な迫力があった。
「何かしら? 私も知っていることは話したつもりだけど?」
「いや、肝心な話をまだ聞いていない」
不穏な空気に、舞の顔を心配が過ぎる。
今のマリーは何か危うい。
パイオニアプラザで一瞬感じた儚さは、ステンドグラスが作り上げた幻ではなかった。
そういう確信が、あの部屋で出来た。
それだけに、テリーの顔を見上げる舞の表情は、不安に満ちていた。
疑問の表情を浮かべるマリーに、ゆっくりと、テリーが口を開いた。
「――86、54、85!」
「はぁ?」
謎の数字の羅列。
シーンと静まり返った店内で、自信あり気に腕を叩き、
ファイティングポースを取るテリーの声が響き渡った。
「3サイズだよ! どうだ!?」
「ビ、ビンゴ……」
マリーの宣言を受け、テリーが「OK!」と帽子を投げ捨て、
ジョーとボブの喝采が巻き起こった。
テリーの超必殺技、3サイズ当てが炸裂した瞬間である。
「ちなみに舞は85、54、90だ! 合ってるだろ? アンディ」
「な、なな、何で僕に聞くんだよ、兄さん……!」
「白々しいぞ、アンディちゃんよぉ!」
斬影拳の復讐とばかりにアンディの首をロックし、テリーが兄の鉄拳を浴びせる。
尚も口撃を休まないテリーの冷やかしと、どさくさに紛れて拳をグリグリする
ジョーの高笑いが店内に響き渡った。
途端に吹き出す、舞とマリー。
「この街には変な人が多いわね」
「でも、退屈しないでしょ?」
「そうね、ふふふ。あのハチマキの人は何で裸でうろついてるのかしら」
「あの人はそういう人なんです」
また、笑う。
マリーは笑っている自分を、まだ自覚してはいない。
それに気付いた時、彼女の中で何かが変わるのだろうか。
だが今はただ、何も考えずに笑っていたいと、彼女の痛みが告げていた。
「フランコ・バッシュのことは任せて、テリー」
今後の行動を話し合ったテリー達は、
ジョーの話を聞き、とりあえず秘伝書と山崎の行方を追うことに決まった。
サウスタウンに散らばったテリーと、アンディ、舞のコンビだったが、
ジョーには一つの行く当てがある。
チン・シンザンと会う約束をしている、ポートタウンのドックである。
そこでチンと、チンの知り合いである
ホンフゥという香港の刑事と合流する手筈になっている。
互いの情報を交換すれば今後の道筋が通るかも知れない。
ジョーはバスを乗り継ぎ、ポートタウンへと向かった。
「ったく、チンの野郎はヘリで俺様はバス乗り継ぎかよ……
世の中間違ってるぜ」
ポートタウンドックス――
貿易港として名の高いサウスタウンを支える、労働者達の搬入作業が行われている。
重労働ではあるが、それに見合った体格の良い男達が集い、仕事に精を出す。
そんな男達の中には力自慢も多々いるようで、
かつてはここからKOFの参加者が現れることもあった。
「おい! そこの裸の東洋人!」
乗り継ぎ乗り継ぎセンターストリートを駆け、やっと辿り着いたポートタウンで、
労働者のような簡素な格好にカンフーシューズを履いた、
同じ東洋人から怒鳴りつけられるように呼び止められた。
「なんだぁ?」
「なぁアンタ、山崎っちゅー男知らんね? えれぇ背ぇ高か男やけど」
ジョーが振り返ると、男は聞いた名前を出して来た。
どうやら手掛かりは向こうからのこのことやって来たようだ。
「山崎だぁ? てめぇ山崎の知り合いか?」
「知り合いじゃなか。アンタも山崎ば知っとーとばいね!」
「訳ありでね。さぁて、山崎の居場所を教えて貰おうか!」
「それはこっちのセリフばい! 隠し事は身の為にならんけん、はよ喋らんね!」
そんな、ケンカ腰のやり取りの後に、カンフーシューズの男がヌンチャクを取り出した。
ジョーが余裕とばかりに口笛を吹く。
「覚悟はよかねぇ!? ェイヤァー!!」
男はデモンストレーションのようにヌンチャクを自在に扱った後、
電光石火の勢いで地を蹴り、天からヌンチャクを振り下ろした。
意外と速かったが、直線的だ。
ジョーは斜めに踏み込んでそれを躱し、まだ空中の男の腹にきつい蹴りを浴びせた。
重力を求めて、吹っ飛んで行く男の身体。
コンクリートに力一杯尻餅を突いた彼はすぐに起き上がり、尻を押さえて悶え苦しんだ。
「あは、あはは、あっはっはっはっはは!」
それを指差しながら腹を抱えて笑うジョー。
「アンタ! ちょっと痛めつけるだけで許してやろうかと思っとったけど、
もう徹底的に痛めつけてやるけんね!!」
涙目で怒鳴った男は膝を上げ、一瞬の軽巧で間合いを詰めた。
煙が巻き上がる。先程の空中からの一撃より格段に速い。
これはさすがにジョーも目を見張った。
一瞬で密着されたジョーにそのまま膝が入った。
さらに蹴りとヌンチャクのコンビネーションが飛ぶ。
これも速い。ジョーの眼が本気になった。
だがそれでも、余りに速いその連撃はジョーの防御の上を行っていた。
高速の後ろ回し蹴りが頭部に入り、さらに顔面に突き蹴りが刺さった。
意識が飛びかける。
こういう、一瞬で爆発したようなラッシュをどこかで見たような気がした。
「ジ・エンドっちゃー!!」
白く霞みかけた意識に、ヌンチャクの軌道が光って見えた。
上半身だけを動かして、それを躱す。
男はそれを認識出来ず、ヌンチャクを振り回して決めポーズを決めていた。
「野郎、今度はこっちの番だ! オラァ!!」
男はその声に目を丸くして驚いた。隙だらけの男の顎にアッパーを打ち込む。
不意を突かれ、派手に顎の浮いたところへ続けて後ろ回し蹴り、
そして最後に遠心力を付けた足払いで足下を刈った。
また尻餅を突いた男が二度目の衝撃に悶え苦しんでいる。
「うわぁいたたた!」
その様子を見ながらジョーは今度は笑わず、真剣な表情を崩さない。
――今のコンビネーションは疾風ローリングサンダーと名付けよう。
そんなことを考えていた。
「そ、そんなんやったら尻が二つに割れるやろが! も、もう怒ったばい!」
男の前進しながらの前蹴りが来た。
だが、先程のラッシュから比べると格段に遅い。
男はそれを躱したジョーに追撃の裏拳を繰り出すが、それも遅かった。
というよりも、先程のラッシュが異常に速かったのだ。
攻め疲れかすでに息が切れている男の攻撃は、尚更遅かった。
だが、まだ終わらない。
余裕で攻撃を見切っていたジョーの顎先を、炎が走ったのである。
「うわっ! ちょ、何だ!?」
ヌンチャクから薄い煙が立ち昇っている。
どうやらあのヌンチャクは発火出来る特殊兵器のようだ。
「制空烈火棍! おんしはちょっとくらい火傷した方が男前ばい!」
「やぁろう! 俺様はぁ!」
男のヌンチャクが再び炎を発した。
それをアッパーのように振り上げて跳び、再びジョーの顎を狙う。
「いつもぉ!」
だがジョーも同じように跳び、膝でそれを受けた。
炎が混ざり合い、薄い気で包まれたジョーの膝が燃えているように見えた。
「男前だぁああ!!」
炎の燃え上がる、煉獄のタイガーキック。
「こ、この兄ちゃん、強かぁー!!」
思い切り叩き込まれた男は逆に火傷を負い、今度は身体全体で地面に跳ねていた。
そこに、ヘリの音が鳴り響いて来た。どうやらチンが到着したらしい。
ヘリのくせに俺より遅いとはと悪態を付きながら空を見上げたジョーだったが、
やがてチンが金きり声を上げてやって来ると、
何やら事態が訳の解らないことになっているっぽい気配を知った。
「ジョ、ジョーしゃんにホンフゥしゃん! 一体何やってるでしゅか!?」
「んあ? ホンフゥ? この伸びてる野郎か?」
ホンフゥ――
山崎を追って香港からサウスタウンへとやって来た、破天荒な刑事である。
「アンタやったんね? ジョー・東っちゅうんは」
「おうよ! 俺様が不敗のムエタイチャンプにして嵐を呼ぶ男! ジョー・東様よぉ!!」
ケロッと起き上がったホンフゥの言葉に、ジョーが盛大な相づちを打った。
「噂に聞く通り、恥ずかしいお兄ちゃんやねぇ」
「だ、誰の何が恥ずかしいってんだ、てめぇ! もう一戦やるかぁ!?」
「んもう、ジョーしゃんに、ホンフゥしゃんもやめるでしゅ!!」
再び一触即発のムードを止めたのは、この場では常識人に入るのだろうか、
チン・シンザンだった。
だが、止められた二人の頭には同時に、
――チンの知り合いにはロクな奴がいないな。
という言葉が浮かんでいる。
「ジョーしゃん! そのパンツルックは充分恥ずかしいでしゅよ!
ホンフゥしゃんも! その短気なところが余計だってキムしゃんも言ってたでしゅ!」
「なぁにぃ!?」「うひゃわぁあああー!!」
チンの言葉に怒りの矛先を半回転させたジョーだったが、
それ以上の勢いで震え出したホンフゥを見てその怒りの空気は抜けた。
「その名前ばァ聞いただけで、サブイボが出よるやろがァ!
見んしゃいこれェ! あァ気持ち悪かァ…… ブルブル」
――ん? キム?
ジョーがポンと手を叩いた。
なるほど、あのラッシュの見覚えはキム・カッファンのそれだ。
威力も、入りの型もそっくりだった。
「お前、キムの知り合いか? 世界は狭いもんだなぁ」
「ホンフゥしゃんとキムしゃんは昔の同門でしゅよ。
キムしゃんと奥さんの仲人もホンフゥしゃんでしゅ」
「余計なこと言わんでよか!!」
ジョーはチンの口を引っ張って伸ばしているホンフゥを見るが、
思い出してもあのラッシュの威力は凄まじかった。
それこそキムのそれにも匹敵するだろう。
まだ体力が充分に残っていたからなんとか外せたものの、
あれがキムのように、充分に相手のスタミナを奪ってからトドメに繰り出されていたら、
外せたかどうかは判らない。恐らく、無理だっただろう。
自分はあの技を使って極度に消耗しているホンフゥを手玉に取ったに過ぎない。
もしかしたら、この男はキム並に強いのではないか……?
そんな疑問が、ジョーの脳裏を渦巻いた。
そして、
――この男、どうしようもなく頭が弱いんじゃねぇか……?
それ以上の疑問が、ジョーの少ない脳味噌を支配した。
ホンフゥはホンフゥでサブイボを擦りながらキムのことを思い出している。
それは、ちょっとした善意でキムに現、彼の妻、
ミョンサクとの仲を取り持ってやった後からの悪夢。
そのことを非常に恩義と感じたのだろうキムは、
何とかホンフゥに恩を返すべく、影に日向に彼の姿を見守り続けた。
そんなある日、ホンフゥが韓国の繁華街で道行くお姉ちゃんに声をかけた。
俗に言うナンパである。
軽ぅく声をかけた彼であったが、結果は失敗。
まぁ仕方がないと次のターゲットを見定めようとしたその瞬間……!
「ちょっと待ちたまえ! なぜ君は彼、ホンフゥの誘いを断るのかね?
君は彼の誠実な人柄を知らないから、
そういった態度になってしまったのかも知れないが、彼は実に気持ちの良い青年だ。
きっと貴女の人生を全力でサポートしてくれる。その彼の誘いを(略)」
鳳凰脚で煙を巻き上げて突如現れたキムに、ホンフゥは唖然と顎を外した。
そしてこれも、ただの1エピソードに過ぎない。
ホンフゥのサブイボはさらに深まった。
――話が進まないでしゅ……
「おいチン、秘伝書の手掛かりはどうなったんだ?」
絶望するチンへの救いの声はジョーからだった。
「おほ! それがサッパリなんでしゅ…… ジョーしゃんの方は山崎に会えたでしゅか?」
「なぁにぃ!? 山崎の居場所ば知っとーとか!?
教えんしゃい! 奴はどこにおるとかァ!?」
「うわいいいい、うげは! なななな、何なんだよ! 落ち着けよ、てめぇ!」
復活したホンフゥが今度はジョーの首を絞め上げた。
「ホ、ホンフゥしゃん、何やってるでしゅか!? やめるでしゅ!」
すっかり青くなったジョーの顔に大慌てでチンが止めるが、結局話は進まないのだった。
数少ない有意義なやり取りをまとめると、
ジョーは山崎の情報を持ってはおらず、チンも秘伝書の手掛かりは掴めないまま。
ホンフゥに至っては本当に刑事なのか、サッパリ何の役にも立たなかった。
結局、再び別れて、ジョーはパオパオへ戻ってテリー達と合流、
チンはヘリから情報を探し、ホンフゥは本当に刑事なのか、
何の根拠もなしに山崎を捜すということになった。
――全然、意味なかったな……
ゲッソリとそう呟いたジョーの一言が、この会合の全てを物語っていた。
【29】
戻る