拳を握る。
徐々に篭って行く力に興奮しながらそれを行うと、
やがて指が肉に、骨に食い込み、潰れた悲鳴と鮮血が飛び散った。
その返り血を浴びて、男は笑う。

ドブネズミの溜まり場でたちまち起こった騒乱は、
この街の恐怖の象徴であった男の名を、狂ったように叫ばせた。

野生の狼を相手にしていると気付かず、病んだ眼で抵抗するドブネズミは
例外なくその男の供物となり、絶望を悟って逃げ出そうとした懸命なドブネズミは、
紅白のバンダナの男の、赤い棍で喉を突かれて命の灯を消した。

どんな拳を、凶器を浴びても、その男の肉体は揺るがない。
その感覚を確認し、楽しんでいるふしさえある。

復活の儀式。
打ち込まれる衝撃と、打ち込む感触が少しずつ今と、3年前を繋いで行く。
あの時、打ち込まれたあの男の衝撃と、あの時、打ち込んだ己の拳の感触。
どこかまだ遠かったそれが、少しずつ繋がって行く感覚を感じた。

肉体は完全だ。
後は、まだ魂の奥に燻る、餓狼の牙を完全に――

構えられた銃口を、烈風が薙いで掻き消した。


そしてまた一つ、ざわめきが消える。
サウスタウンの至る所でざわめきが起こり、そして消えた。

――ギース・ハワードのゴーストが出る。

そんな噂が街を駆けるのに、時間は掛からなかった。

ダークグレーのスーツのまま、ギースがベントレーの後部座席に腕を組んで座る。
助手席にはビリーが、運転席には右足をギブスで固めたホッパーが座っている。

重傷のリッパーが動けない今、山崎竜二の姿を知っているのはホッパーのみ。
彼は自ら、負傷の足を押して運転手を買って出た。
本人の意思が固い以上、ギースも、ビリーも何も言わない。
出来ないことを言う男ではないと、彼らは知っている。
彼が可能だと判断したならば、それは足が千切れてでもやり通すだろう。

そしてまた、ざわめきが起こる――



秘伝書を持ったビリー・カーンがもしサウスタウンへ帰って来ているなら――

その可能性を確かめに、アンディと舞はイーストアイランドへ来ていた。
かつて、キング・オブ・ファイターズが行われた場所。
この人工島のどこに居ても、あの主を失ったタワーの威光は降り注ぐ。

アンディは、一歩、また一歩とその場所へ踏み出し、
そして、ドリームアミューズメントパークへ連れ込まれていた。

「ま、舞、なんでまたアミューズメントパークで止まるんだい?」

「あらなに? アンディ。ここはギースが経営していた遊園地なんでしょ?
 手掛かりを探すならまずここに決まってるじゃない。あー、観覧車動いてなーい!」

「あ、あのねぇ、舞……」

ドリームアミューズメントパーク――
ハワード・コネクションが経営していたサウスタウン最大の遊園施設。
だが、今は空白の三年間を経て、血の供給を絶たれた施設は煌びやかだった色をなくし、
砂漠のように殺風景となっている。

「何か動いてる乗り物はないのかしら?」

前回、ジョーに言われたのが気に食わなかったのか、
今回の舞の忍服はお手製の、前とは少しばかり露出を抑えた物となった。
そしてその肝は不知火に伝わる水晶を括り付けた新しい尻尾で、
その霊力はさらに、術者の焔による消耗を抑える効果があると言われる。

「いや、だからね、舞…… ――!?」

言葉の途中、アンディが険しい眼つきで振り向いた。
それと同時に、舞が鉄扇を投げつける。
それを錫杖で弾き、異様な雰囲気を称える男が現れた。

「さすがは不知火の女方というわけか。儂の殺気に気付くとはな」

編み笠を目深に被り、顔を見せない男の声は低く、50前後の男性に思えた。
巨大な数珠を首にかけ、錫杖を立て鳴らすその姿は、
アンディと舞には日本の僧だとすぐに解る。

「不知火…… 何で!?」

「その格好を見れば仇敵の名しか浮かぶまい」

「仇敵…… 舞!」

アンディが片手を広げ舞を制した。
舞がそれを押さえ、一歩前に出る。

互いに理解した。不知火を仇敵とする僧――

「貴方、望月流ね……!」

「如何にも、儂は望月双角」

望月流――陰の望月と呼ばれる影の流派。
かつては正伝無道流という名を冠し、不知火流と切磋琢磨した良きライバルだった。
しかし、彼らは焔を操る不知火を超えんが為に、密教に手を出した。
そこから、彼らの没落が始まった。

暗黒の理力という、人成らざる術を手に入れた彼らは迫害され、
やがて人目を避けて影に消えた。
修羅を求め、修羅を狩り、いずれ不知火に成り代わり表舞台へ――
それが、彼ら望月流が400年受け継いで来た歪んだ教え。

アンディ・ボガードが知る、
不知火半蔵から聞かされていた彼らに対する情報の全てである。

だが舞は、断片的にしかそれを知らない。
というよりも、真面目に聞いていなかった。
当然、望月の恐ろしさも、彼女は知らないことになる。

アンディは再び舞を制して、一歩前へ出た。

「不知火流体術後継者、アンディ・ボガードと申す者です。
 出来れば、無益な争いは避けたいと考えます」

「何と……! ふんっ、不知火も地に堕ちたものよ。血の通わぬ者に頼らざるを得ぬか」

「なんですって!? アンディは私の旦那になる人よ! 別に構わないじゃない!」

「ま、舞、いつ決まったんだ? そんなことが……」

「そんな細かいことは今はどうでも良いでしょ!?
 不知火流忍術後継者、不知火舞! 私がお相手するわ、望月のお坊さん!」

「不知火流の正統後継者が女だと……?
 何と下らぬ…… 望月が手を下さずとも不知火は滅びる運命であったか」

「何でそうなるのよ! 頭の固い人ね!」

「ま、待て、舞……!」

いきり立つ舞をアンディが三度制した。
今度は力強く、舞を後方へ押し戻す。

「恐らく貴方が求めて来たのであろう修羅、ギース・ハワードはもういません。
 私達はただ探し物をしているだけ…… ここで争う意味はないでしょう」

「ふん、ギース・ハワードなどに興味は無い。
 最強の格闘家を呼び寄せる秦の秘伝書。これまさに修羅の根源也。
 お主らもそれに導かれこの街に在るのならば、狩るのが我が使命じゃろう」

「貴方も秘伝書を……!」

「やはりな、もはや問答無用!」

双角の口が別の生物のように振動した。
密教の呪文。何かを降ろそうとしている。あるいはそういう幻覚を見せる術なのか。
アンディと舞の目には、双角の背後に立つ鬼が現実のように見えた。

「何あれ!?」「これが、理力拳……!?」

鬼の、巨大な鉄球のような拳が舞へ繰り出される。
受け止めたアンディの腕が軋んだ。フランコ・バッシュなど比ではない。
鬼にとってはそれはただのジャブなのか、
続いて打ち込まれた拳も同様に速く、そして重かった。

「アンディ!」

だが後ろに舞がいる以上、アンディに退くことは出来ない。

「ぃぃりやぁ!!」

アンディはクロスに組んだ腕を押し払い、裂帛の気合で吼えた。
その咆哮が幻覚を打ち消したのか、あるいは双角の呪力が切れたのか。
アンディの背後から飛び上がった舞の尾に焔が走った。
双角は先程の術の疲労か、膝を突き崩れている。

「龍炎舞!」

紅蓮の炎がまともに双角を包んだ。
だがすぐに払い除けられる。
錫杖が横薙ぎに舞の腹を打ち、軽い身体を大きく弾き飛ばした。

「くぅ!」

女人が不知火の焔か……!

「伊達に不知火流を継承している訳では無さそうだ……!」

アンディが飛んで来た舞を抱き抱え、弾かれるように下がる。
また双角が何事が呪文を呟いているのが見えた。

「舞、逃げるぞ……!」

「何で!? 闘いましょう!」

「俺達はすでにあの男の術中に陥れられている……!
 どういう術かは解らないが、今、この場所で闘うのはまずい!」

幻覚薬か、何かの結界か、
あらゆる可能性が浮かぶが、今導き出せる答えはただ一つだった。
舞の手を引き、アンディが後方へ駆ける。

「逃げるか! 不知火!!」

幸い、双角の術には呪文を読み上げる時間と、
どうやらそれによる疲労が瞬時に身体を襲うようだ。
逃げるのならば苦労はない。

天空から降り落ちて来る雷を飛魚のように跳ねて躱しながら、
アンディはドリームアミューズメントパークを駆け抜けた。
スピードならば圧倒している。追って来る気配はない。

望月双角、そして暗黒の理力――
秘伝書には、まだ何かの怨念が隠されている。

全力で駆けながら、アンディの頬を嫌な汗が伝った。



長身のアジア人。ツートンメッシュの髪の色が特徴。
ジョーからの情報によると、山崎竜二はそんな風貌をしているらしい。

テリーは秘伝書を探すよりも、山崎という男に興味を持った。
なかなか腕に自信のある男らしい。
秘伝書を追うより面白そうだというのがテリーの考えだった。

手掛かりは少ないが、実際、会えば何となく解る。
そんな確信が、テリーのどこかにある。

闇の中にぼんやりと浮かぶ、不確かな人影。
だが目が合う。それは闇の中でもギラついていて、獰猛な獣のようだった。
異様な存在感。人間の街に、なぜ猛獣が我が物顔で歩いているのか。

セントラルシティの西端にある、イーストサイドパークという水族館。
追い詰めたのか、誘い込まれたのか。
電気の灯らない、ただ薄暗い水槽の中を異形の魚達が泳ぐ。

この空間は深海。
見たことのない毒を持った生物が目の前に現れ、
その牙を剥き出しにして来ても、何も不自然ではない。

「――山崎竜二か?」

影が、ゆらりと動いた。

「何でよりによって今、この街に帰って来るかねぇ、テリー・ボガード……
 これも秘伝書のお導き、って奴か? てめぇもついてねぇな」

肯定。左手をポケットに入れたまま不敵に仰け反り、山崎が口を開いた。
テリーは両手のグローブをゆっくりと締める。睨み合う時間は短かった。

「そいつはお互い様だな」

「貴様みたいなガキに俺の計画を邪魔されちゃたまんねぇんだよ……!」

山崎の右の拳が飛んだ。
距離がある。思い切り腕を伸ばしても届く間合いではない。
だが、その瞬間、テリーの頬は確かに弾けていた。

「ッ!?」

何か武器を使った。
テリーはまずそう考えたが、
月の光に照らされ浮かび上がった山崎の拳は何も纏っておらず、
ブラブラと、関節が外れたようにしなっていた。

「イクぞ? イクぞ……?」

それはまるで蛇のように、軟体の動きを持つ別の生物。
山崎の声が次第に悦楽を帯びた嬌声へと変わった。

「――イクぞぉぉ!!」


シャアアアア――!!


猛毒を持った蛇の口が、有り得ないリーチで襲い掛かって来た。
それも速い。ガードするタイミングすら掴めず、テリーは再び顔を打たれた。
意識が飛びかかる。重い。

転がるように間合いを外し、テリーが吼えた。

「パワァーウェイブ!」

拳を叩き付けた地面から気の波動がターゲットへと伝う。
必殺の威を持つまで練った気功ではないが、流れを変えるには充分なはずだった。
だが、喜悦の笑みを浮かべた山崎が左手をポケットから抜くと、
それをすくうように振り被った掌で、波動が消えた。

「何!?」

いや、消えてはいない。
山崎の左手は発光したまま、それを振り下ろすとテリーへ閃光が奔った。

「ほれ、返すぜ!」

まさに光速。反応する間もなく光に打たれ、テリーの身体が地を滑る。
遠くなって行く意識の外で、耳に山崎の狂った笑いが響いた。

「ヒィーッヒッヒッ! こっちにゃそいつの専門家が付いててなぁ!
 研究済みなんだよ! ヒャーッハッハッハッハッ!!」

だが、その笑いがテリーの意識を繋ぎ止める。
拳に気を纏い、一瞬で間合いを詰めた。

「!?」

眼前に現れる、テリーの熱した拳。バーンナックル。
それが打ち込まれると山崎の長身は大きく揺らいだ。
耳に軋む音がし、鼻の形が変わった。

「トォウラァ!!」

さらにボディブローの連打が4発、鼻血で呼吸の苦しい山崎の腹に叩き込まれる。

「ぅぶ、おお……!」

トドメのバックスピンキックを喰らうと、山崎はきりもみするようにして激しく倒れ込んだ。
だがすぐに起き上がり、蛇を放つ。
寸前のスウェーでそれを躱したテリーが勢い良く踏み込んだ。

「ぃ!?」

驚愕に止まる山崎の腹に跳び上がりながらの膝が打ち込まれた。
堪え切れなかった山崎の身体が宙に浮く。
無防備の肉体が空中のテリーの前に晒された。
すでにテリーは拳に気を纏い、思い切り振り被っている。

「パワーダァンク!」

そして、振り下ろす。
山崎の身体はダンクシュートのように地面に叩き付けられ、数度バウンドして転がった。

呼吸を整える。

――並の男なら立てないはずだが……


「ケヘ…… ケヘヘヘ…… ヒヒヒヒヒヒ……」

だが、笑い声が聞こえた。
自分が嫌な汗を掻いているのが解る。
汗が泥のように重さを与える、妙な気持ちの悪さだ。
押しているにも関わらず、テリーに余裕はなかった。

――何だ、こいつ……


「フゥウウウウウウウ……」

山崎が大きく息をつき、ゆっくりと左手をポケットに戻した。
テリーが反応して構える。

「クックッ…… おもしれぇ…… これがギース、クラウザーを倒した男ねぇ……
 なるほど強ぇじゃねぇか…… こりゃ楽しくなってきたぜ、クックックッ……」

「――山崎、何様の秘伝書だか知らないが、
 そんなくだらねぇもんこの街にゃ関係ないぜ」

「くだらねぇか? ……テメェにも関係あると思うぜ、ヒヒヒ」

「関係ないね」

秘伝書の導きだと山崎は軽く言った。
それにたいした意味があるとは思わないが、
行く先々に必ず秘伝書の影があるのがテリーには気持ちが悪かった。

大昔の、人間かどうかも解らない存在が書いた紙切れに踊らされているとしたら、
こんなに不愉快なことはない。
ギースも、クラウザーもが同じ壇上で踊っているだけの人形だったとしたら、
やり場のない怒りが込み上げて来る。

そんな超自然は有り得ないと頭で理解していても、
しかし、消えない気持ちの悪さがテリー・ボガードにはあった。

そんな、有りもしない葛藤を引き裂いて、山崎の声が聞こえた。


「――ギース・ハワードは生きてるぜ」


ゾクッと、神経に電流が走った。脳に腕を突っ込まれたような反応。
考えない可能性ではなかったが、ハッキリと形にすることはなかった。
それは、自分の中の何かが許さなかった。

ギースを殺してしまったという後悔。ギースを殺し損ねたという後悔。
ギースに生きていて欲しいと願う、壊れた心――

それが今、山崎竜二という男の口をついて、テリー・ボガードの前に形として放り出された。

「ま、待て!」

背を向けて去って行く山崎を止めようと声を出すが、
本当に止めたかったのかは分からない。
今はもう、山崎などはどうでも良かったというのが、テリーの中の本心だろう。

ギース・ハワードが生きている。

ならば、もう、他のことはどうでも良い。



深夜のストリートを、激しい違和感を伴って僧が歩いていた。
この国では家の門戸を叩いても托鉢は成立しないだろう。

そもそも、発祥の日本だとて今やそんな風習は枯れ果てている。
ただ、この男が時代に取り残されているだけだ。
いや、それが暗黒の理力と引き換えの、彼らに与えられた呪いなのだろうか。

望月双角は修羅を求めて、錫杖を打ち鳴らしながら歩いていた。

「望月流の血を継ぐ者が生きていたとは知りませんでした」

ふいに、何も存在しなかった背後に声が現れた。
引っ張られたように双角が振り向く。
目の前に、赤い、中国系の物々しい装飾を施された服を着た、異様な少年が立っていた。
禍々しい妖気。それを目の当たりにしても、まだ存在感がない。

「修羅狩りを使命とし、自らが修羅となってしまったことに気づかぬ愚かな一族…… クククク」

「何者じゃ!」

少年に錫杖を振るう。すでに少年だという認識はなかった。
やはり初めから存在しなかったかのように、少年は残像となって消えた。
いや、背後に在る。
この少年は確かに存在しているのだと双角は認識を改めた。

「貴方が捜しているモノですよ、フフフ……
 こちらから出向いてあげたのに無礼な方ですね」

「秦の……!?」

「秦一族にとっては暗黒の理力などまやかしに過ぎません。
 目障りなんですよね、そんな物で人を超えたなどと謳われては」

「ならば試して見るが良い!」

双角の口元が振動する。
それを笑って待っている少年の前で、錫杖に雷が落ちた。

「いかづちの邪神は貴様の様な修羅が大好物でな!」

雷を纏った鬼が、夜のストリートを昼に変えた。
その咆哮で止まっていた車が吹き飛んで行く。
それが現実ならば、確かに暗黒の理力は人を超えた未知の力だろう。

だが、邪神の電撃は少年をすり抜け、周囲の景色だけを襲った。

「何じゃと!?」

「言ったでしょう? まやかしだって」

鬼の中へ、何事もないように少年は歩く。
その両腕は黄金に輝き、邪神の光を呑み込んだ。

「帝王漏尽拳…… 感謝して下さい。貴方の下らない力も取り込んであげました」

世界が再び、夜に戻る。
すでに少年の姿はなく、在るのは望月双角の、干からびた肉体だけだった。


(案外、気が短いな、弟)

(後始末をつけただけですよ、兄さん。父も喜んでくれるでしょう)

(暗黒の理力がこの時代まで生きているとは父も思うまい)

(私達よりはましでしょう、フフフ……)

(ナルホド…… それもそうだな)

(さて、雑用も済みました。山崎が勝手に動いているようですが、私達は待つだけです)

(アノ男ガ、現レルノヲ……)

(私達はただ待つだけで全てを手に入れることが出来る……
 全ては遥か以前にもう、決まっていることですから…… フフフ……)

(遥カ、以前ニ……)



「テリーさん! 待ってましたよ!」

数日ぶりにパオパオカフェ2号店のドアを潜ると、ボブの声が飛んで来た。
相変わらず威勢の良い声だが、ひどく慌てている様子だ。
テリーは軽く目を合わせただけで表情を変えず、奥に座る仲間達の元へ歩いた。
アンディ、舞、ジョー、別れた三人はすでに集まっている。
いずれも深刻な顔だ。

ボブが向かいの席に座ると、アンディが張り詰めた顔で口を開いた。

「兄さん、亡霊の噂…… 聞いてるかい?」

「亡霊……?」

「ボブから聞いて、その後も調べてみたんだけど、どうも噂があるみたいなんだ……
 この街の不良グループが次々と潰されてる。そしてそれは……」

言いかけて、言葉に詰まる。
その言葉の意味の重さをアンディは知っている。
俯いて歯を食い縛るアンディを、テリーはただ黙って見ていた。

「――ギースの、亡霊なんだとよ」

助け舟のように、ジョーの口が開かれた。
膝の上で組んだ手を見詰めたまま、ジョーは動かない。
他の全員は一斉にテリーの顔を見るが、テリーの表情は変わらなかった。

「ギースは生きてる…… 山崎もそう言った。だったら、生きてるんじゃねぇか?」

深刻な顔から一転、呆気らかんとテリーが言った。
そしてガツンと拳を合わせる。

「生きてるならそれで良いし、亡霊ならそれでも良い。
 ならもう一回、化けて出られねぇようにぶっ倒してやりゃあ良いだけだ。
 簡単な話じゃねぇか、な?」

重い表情のアンディを労わるように、テリーが顔を向けて晴れ晴れと言った。
この話題で一番傷つくのは兄だと思っていたアンディは、自分の弱さを感じた。
この人は知らない間に振り切って、乗り越えている。
ギースが死んだという事実に拘っていたのは自分だけだったのかも知れない。

「よく言った、テリー! それが根っからの狼の答えだぜ!」

ジョーが勢い良くテーブルを叩いて立ち上がった。

「お前みたいに骨の髄まで格闘バカってのは正直、どうかとは思うがな!」

無駄なテンションのハイタッチが交わされる。
途端、内容の薄くなった会話に割り込んだのはボブだった。

「あのぉー、テリーさん、さっき“山崎”って言いませんでしたか……?」

今度はその場の全員のポカンとした視線が、テリーに向けられた。

「あ、そうだ。山崎に会ったんだった」

「テリー…… ちょっとジョーに似てきたんじゃないの……?」

舞は心底心配そうにテリーを見やった。
ジョーから抗議の声が上がっているが、向かいのアンディはシリアスだった。

「兄さん、それで? 倒したのかい? 秘伝書は?」

「いや悪ぃ、闘うには闘ったんだが、逃がしちまった」

「んもう、しっかりしてよね、お兄ちゃん!」

「ん? いつから俺が舞の兄貴になったんだ?」

今度はテリー、アンディ、舞の三人間で脇道に逸れる。
それを押し留めたのはジョーがパチンと鳴らした拳の音だった。

「テリーが取り逃がす程の奴かぁ! ヘヘッ、燃えて来た!
 ギースはお前等に譲ってやるから、山崎は俺にやらせろよ!」

「じゃあ、早速ギースタワーに向かうということで、良いかい?」

「OK!」

「あ、そうだ! チンの野郎のヘリで行こうぜ!
 元はと言えばあいつの頼みだったんだしな」

「こんなに大勢、乗れるの?」

「チンの野郎を降ろしゃあ良い! 一番体重食ってんのはあいつだからな!
 そうと決まれば電話、電話っと! ついでにリリィちゃんにも連絡入れちゃおっかなぁー♪」

鼻歌混じりに言いながら、ジョーが備え付けの公衆電話へと消えた。

「リリィちゃん? ジョーの彼女だっけか?」

「ジョーが勝手に熱上げてるだけじゃないの?
 故郷に里帰りしてたみたいなんだけど、電話したらサウスタウンに帰って来てたんだって」

「あの看護婦さん…… 迷惑がってなければ良いんだけど……」

「ああ、アンディがナンパしてたあの三つ編みの看護婦さんか」

「し、してないよ!」

「犬、怖いくせに……」

「か、関係ないだろ!?」

そんな心配の向こうで、初めの重い雰囲気が嘘のように、
ジョーの鼻の下を伸ばした快声が響き渡っていた。

「もしもし? あはっ!リリィちゃぁん?
 貴女のホットステーション、Mr.ジョー・東さんですよぉ! なーんちゃって!」



サウスタウンの外れにある古アパートの一室に、赤い瞳の少年は住んでいた。
母と二人、決して裕福ではないが、それを不満に感じたことは一度もない。
無償の愛に包まれ、少年は何の疑問もない、幸せな日々を過ごしていた。

父は別の所で生きている。
会いたいと思わないわけではない。
だが、父のことを聞く度に母は、いつも同じ言葉を言った。

「あの人に迷惑をかけてはいけない」

父は、どこか遠い世界で生きていて、大切な仕事をやっているのだと、少年は思っていた。
ならば、父や母に迷惑をかけてまで父に会いに行く必要はないと思った。
もしかしたら、母は会いに来てくれない父が嫌いなのかも知れない。

だが少年は、父が何か偉い人であることを、誇りに思っていた。
いつか仕事が終わったら、父は迎えに来てくれる。
それまで自分が母さんのことを守ろう。
いつか父さんに会ったときに、褒めて貰えるように――

そんなことを、少年は漠然と思っていた。

少年の名はロックと言い、母の名はメアリーと言った。



少年は7才になった。
これからも何の疑問もなく、毎日を生きていく。
慎ましい生活には違いないが、そのささやかな幸せの中が当たり前の空間だった。

だが、それが崩れた時、自分がどうしようもなく小さく思えた。
幸せだった世界が、ほんの些細な、脆弱な張りぼてで作られていたことを知ると、
今までの7年間が全て幻だったようで、自然、涙が溢れた。

突然、母が倒れた。
彼はそう思ったが、それは突然ではなかったのかも知れない。
病院へ行く。しかし、重病であることしか、幼いロックには解らなかった。

絶望。ただそれだけが駆け抜けた。
自分の幸せの全てがこの人に集約されていることに気付いた。
他には何もない。抜け殻の自分に気付いた。

母を助けたい。
それにはお金が必要だと思った。
母が勤めていた教会へ行って、給料をたくさん貰おうとロックは考えた。

母はアメリカ中の教会を渡り歩いていた。
希望はその数だけある。
少し見舞いに来れなくなることを母に告げると、
母は元気だった頃と同じ笑みで応えてくれた。

サウスタウンの教会を巡り、やがて街を離れ、南アメリカまで南下する。
一人で旅に出るのは初めてだったが、そんな苦労など何の痛みでもなかった。

どこの教会にも、大金はない。
事情を話すとシスターが気持ちばかりのお金を渡してくれたが、
それだけでは到底足りないことは子供のロックにも解った。

何件も、教会を巡る。
やがて南アメリカの最南端まで下り、教会の多い、メキシコとの国境付近にまで進んだ。
宿代わりに教会に泊めて貰えていたが、それだけでは抜けない疲労があった。

そこで、テリー・ボガードという名前を聞いた。
小さな大会で優勝した賞金を、その教会に寄付して去って行ったらしい。

テリー・ボガード…… 人づてに聞いたことがある。
その男は自分の街ではサウスタウンヒーローと呼ばれている、伝説的な存在だ。
サウスタウンの危機に現れ、街を救った英雄。
ことさら、子供のロックが伝え聞いた話では、
その男は神話の中の英雄のようなイメージを与えられていた。

テリー・ボガードがこの町に居る。
もしかしたら、サウスタウンヒーローならば、母さんを救ってくれるかも知れない。
そんな淡く、不確かな希望に従ってロックはテリー・ボガードを捜した。

教会を渡り歩いているとその男は簡単に見付かった。
イメージとは違い、むしろ軽薄そうな、普通の青年だと思った。
お金も持っていそうにない。とても神のように自分を救ってくれるとは思えなかった。

だが、孤児達を慈しむような目で見ている。
母と同じ、暖かい目――

ロックは駅のホームで電話をかける、テリー・ボガードへと接近した。
いや、自然に吸い寄せられていた。
その青い眼を、食い入るように見詰める。
吸い込まれるような深さがあった。
逞しい両足はしっかりと大地に根を下ろしているのに、
その眼は晴れ渡った海のように、どこまでも広がる、綺麗な自由を感じた。

どれだけの時間が過ぎたのかは解らない。
電話を終えたテリーが歩み寄って来た。それが怖かった。
会ったことのない父のイメージに、目の前の青年が重なっていた。

走って、教会へと隠れる。
やがて汽笛が鳴り、テリー・ボガードは汽車の中に消えた。
サウスタウン行きの汽車。
テリー・ボガードが、サウスタウンに戻る。
ロックは故郷の街へ戻ることを決めた。



母の病状は進んでいた。
集まった全てのお金を渡すが、医者は悲しい顔を浮かべるだけだった。

深夜の病院。面会時間はとっくに過ぎている。
しかし、誰も咎める者はいない。母と二人だけの空間。
そこには幸せしかなかったはずなのに、今は悲しみしかない。
美しく眠る母の手を握り、ロックは肩を震わせて泣いた。

うわ言が、聞こえた。
もう一度、耳をすましても、やはり同じ言葉が聞こえた。
母から聞くことは数えるほどしかなかった、その名前。
いつも心の中だけで憧れていた、その名前。

母が、父の名前を呼んでいた。

ゾクリと、震えが来た。
初めて、名前しか知らない父が本当の父になった感覚がした。
まだ一人じゃない喜びと、これで助かるという希望が胸の中を駆け巡った。
頼もしい父の姿と、あの青年の姿が重なった。
あの人ならきっと助けてくれるという想いが、ロックの足を軽くした。

すぐに、病院を飛び出す。
父がいる場所は解っている。この街であの場所を知らない人間はいない。
そして、その名前を知らない人間も、誰一人としていない。

ギース・ハワードのいるギースタワーへ、ロック・ハワードは駆けていた。

初めて来た場所。
朝もやに包まれたそのタワーの輝きは、ロックの目に神々しく映った。
灯は灯っていない。静かな、死んだ塔。
だが、ロックは父がこの場所に居ることをまるで疑いもしなかった。

開かない自動ドアを両手でこじ開けて中に入った。
エレベーターも動いていない。
息を切らせて階段を駆け上がると、袖のない、
黒の上着を来た筋肉質の男の背中が見えた。

抜き去った瞬間、シャツを捕まれた。
身体が宙に浮く。振り向くと紅白のバンダナの下に、細く、恐ろしい眼があった。
だがその眼は一瞬で、穏やかな形に変わった。
すぐに、地面に降ろされる。見上げた口元は優しく笑っているように見えた。

「最上階だぜ、頑張んな」

再び、駆け上がる。
最上階へ――何の確証もないが、男の言葉で目的がハッキリした。
初めからその場所を目指していたことを、不思議に思ったりはしなかった。

木で出来た黒いドアを開ける。
そこには、ダークグレーの大きな背中があった。
壁のように真っ直ぐに伸びた、その背中。大きな窓から、立って外を眺めている。
朝日がその男を照らして後光のように見えた。

「――何だ?」

男の、低い声が聞こえた。
無愛想に、ぶっきらぼうに、だがどこか、優しい声――
この人がギース・ハワードなのだと、ロックはもう理解していた。

「母さんが、大変なんだ……」

「そうか」

背を向けたギースの腕が動くと、口元から煙が昇った。
太い指には葉巻が挟まっている。
それだけで、それ以上は何も言う様子はなかった。

「母さんが病気で倒れたんだ! 助けてよ、父さん!」

父は、何も語らない。

「何で黙ってるんだ!? 母さんが呼んでるんだ!
 あんた父さんなんだろ!? 何か答えろよ!!」

悲鳴にも似た叫び。

「――消えろ」

届いたのは、冷たいだけの声。
振り向きもせず、父はそれだけを言った。
父との、僅か2mほどの距離が万里の絶壁のように感じた。

立っている足の、力が抜けた。
一緒に、喜びや、希望も抜けて行く。
立ち尽くしているのか、へたり込んでいるのか、もう自分でも解らなかった。
窓から美しい光が射し込んで、それに目を奪われると、そのまま視力は戻らなかった。

白いままの世界。白いだけの世界。
そこは天使が住むような純白の浄化された世界で、他には何もない場所。
母も、父もいない。自分の存在さえ、宙に浮いている。

父が、振り向いた気がした。
もう、表情は届かない。


――今すぐに消えろ。


もう一度繰り返された言葉に、感情が弾けた。


ぅうわあああああああああああああぁぁぁ――――っ!!


この世界には、自分の存在はない。

病院へ戻ると、母は腫れた我が子の目を撫で、やがてそのまま、息を引き取った。
絵本の中のお姫様が眠りにつくように、綺麗で、現実味のない光景だった。

【30】

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