「やはり貴方でしたか、ギース・ハワード」

崇秀が小さな身体から異様な妖気を漂わせて言った。
ただそれだけの言葉に、寒気のする雰囲気がある。

「やはり、だと? まだ虚勢を張るか。
 自らの身体に先祖の霊が生きていると思い込んだ哀れな人形が」

歩く振動で身に付けた肩の鎧細工が金属音を鳴らす。
物々しいカーテンのような青いマントに首から下を隠し、崇秀がギースの前に立った。

「確かに、今はそうかも知れませんね。
 まだ私は不完全な覚醒でしかありませんから。
 それを完全に出来るのは、貴方だけです」

「私が? それは無理な相談だ。生憎、私はマジシャンではないのでね」

「ええ、貴方には無理でしょう。
 しかし、貴方の肉体に秘伝書を記した父、王龍の魂が甦ればそれが可能になる。
 そして、王龍にしか不死身の完全体への道は開けません」

不死身の完全体――
その言葉にギースの表情が険しくなった。

「貴方も本望でしょう? 幼き日から望み続けた最強の力が手に入るのですから。
 我が帝王拳は千を超す騎兵をもたった一人で退けることが出来る。
 フフフ…… 何も呪術だけが我らの武器ではないのですよ。
 さぁ、秘伝書を渡して下さい。共に世界を我が手に収めましょう」

「断る」

「何故ですか? 世界が欲しいのは貴方も同じでしょうに。
 王龍の復活は同化であって、貴方の消滅ではない。肉体は残るのですよ?
 どうせ貴方はもう――」

「ただ広いだけの世界などに興味はないな。
 私の理想は別にある。それはたった一つの街で良い。
 そして、貴様等の下らんお遊びにももう付き合ってはおれんのだよ!」

「やれやれ、気の短い人ですね。仕方がない」

「千騎を屠る拳なのだろう? 力ずくで奪ってみるが良い」

「ええ、そのつもりです。さぁ、楽しみましょう!」

言いながらマントを放り投げた。
周囲を包む炎が崇秀の赤い中華服に映り込み、不気味な輝きを放っていた。
睨み合う。
やがて崇秀の身体が地を滑った。
それは、足を動かさず地面を滑る奇怪な移動。
しかも恐ろしく速い。
一瞬で間合いに入られたギースには困惑する間しか与えられなかった。

アッパーのような掌が打ち上げられる。
まともに受けたギースの身体が軽く浮いた。子供の力ではない。

――小僧……!

ギースが気を入れて身構える。
次に打ち下ろされた手刀を流し、片手で腹に掌打を入れようとした。
だが、今度は崇秀の身体が後方へ滑る。

「天眼拳!」

空振りした無防備なところへ打ち込まれた気弾が、ギースの肉体を打った。
小さいが密度が高く、そしてクラウザーもかくやというスピードがある。
瞬時に八極聖拳の硬気功で身を固めても激しい衝撃を感じた。
反撃に振り被った回し蹴りは、またしても高速移動の前に標的を失った。

「ククク…… 話になりません」

「烈風拳!」

例え秘伝書の主である帝王拳とやらが気功の本家であっても、
ギースに気功で負ける気はない。
大昔の秘伝書などすでに通過したところに自分が存在するという自負が、
ギースに渾身の烈風拳を放たせた。

だが、今度は崇秀の身体が横に滑った。一瞬前まで崇秀が存在した場所を烈風が薙ぐ。
速い。確かに速いが、しかし注意していればギースの目にはかろうじて追える速さ。
そこから高速で地表を滑り、下段を狙ったスライディングをギースは見切った。
低くなった首を捕らえ、腕を交差させるように投げ飛ばした。

「フン!」

崇秀の身体が弾む向こうで気合を入れ直す。
思い掛けないスピードとパワーに圧倒されはしたが、届かないほどではない。
いや、相手が例え本当に妖魔の類いであっても、
今のギースは負けることなど考えなかった。

崇秀が起き上がる。
有り得ないはずのダメージを受けたことで、その表情には微かな焦りが浮かんでいた。

崇秀の身体が再び地表を滑り、ギースの側面に現れる。
そこからの蹴り上げがギースの顎を狙った。
だが、それが左腕に飲み込まれる。時間が停止した。

「ドアァー!」

裂帛の気合。逆の大地へと崇秀を叩きつける。
激しい激突音がし、地面に亀裂が走った。

「が、はっ!」

血を吐く。赤い鮮血が飛び散った。
さらにギースが追撃の拳を打つ。が、崇秀の姿は掻き消え、遥か遠くへと出現した。

「僅かにタイミングが外れたか」

ギースは口の端を吊り上げて笑う。
その眼は威嚇に満ちていて、崇秀に恐怖を刻んだ。
すでに息が荒い。

「ば、馬鹿な…… 何故、私がこんな消費を受ける……」

再び気を投げ付ける。
しかしそれはギースの掌で受けられ、そのまま握られると姿を消した。

「何!?」

「2200年も前の記憶では驚くのも無理はなかろうな。
 秘伝書などなくとも、強者は常に技を進める。
 カビの生えた紙切れに留まっている貴様では一生あの男達には届くまい」

その言葉に、崇秀の顔が醜悪に歪んだ。
肘を突き立てて大地を蹴る。その技にギースは見覚えがあった。

――アンディ・ボガードの……!

滑る移動よりもさらに速く、肘がギースの腹に突き刺さる。
だが、ギースはさらに掴もうとして来る崇秀の腕を振り払い、
今度は確実に腹部への掌打を打ち込んだ。

「うぐっ!」

そこに至近距離からの烈風拳を浴びせる。
一撃ではない。二振り目の烈風は一撃目と重なり、巨大な柱となって崇秀を飲み込んだ。

「ダブル烈風拳!」

さらに拳を打ち込む。
崇秀はまた側面へと滑って躱したが、ギースの目はすでにそれを捉えていた。
足下をすくう。前のめりとなった崇秀の顔面に膝を打ち込み、裏拳で弾き飛ばす。
崇秀は今度は、横倒しのまま地面を滑ることになった。

「あ、あうぅ…… あ…… ま、まさか……」

「不知火流にまで影響を与えているとはな。
 なるほど、貴様の父とやらが本当に存在するならばその男は確かに偉大だろう。
 だが息子の貴様は所詮、ただのネズミに過ぎなかったということだ」

「か、完全に…… 覚醒さえすれば…… こんな、子供の身体に窮することなく……」

「――見苦しい……!」

ギースの掌が崇秀の頭を打ち抜く。
流れ伝った赤い血が不気味な龍の描かれた石床を彩った瞬間が、闘いの終わりだった。

「千騎を屠る拳か…… 肥大化した伝説など何の価値もなかろうに」

崇秀が座っていた玉座へ目を向ける。
それは玉座というよりも、死者が眠る棺に近かった。
そこに、巻き物が静かに置かれてある。最後の秘伝書、政治の書。

「お、おとうと……」

それに目を向けたのも一瞬、何も存在しなかったはずの場所から聞こえた声に、
ギースは驚愕を伴って視線を戻された。

「よ、よくも私のかわいい弟を……」

「何!?」

崇秀と同じ装飾の施された青い中華服。濃紺の髪に金のメッシュが入っている。
崇秀と同程度の身長、年も同程度だろう。
だが、まだ年相応のあどけなさを持っていた崇秀とは違い、
その青い少年の眼つきは刃のように鋭かった。

それが、突然に現れている。

「絶対に許さんぞ……! 生きてここから出られると思うなよ!」

少年の拳が輝き、それを振り抜く。
極限まで圧縮された気の球体が弾丸を超える速度で打ち出された。

「ぐぉ!!」

威力、いやそれ以上にスピードが半端ではない。
弾丸ですら表現に足りぬ、光の速度でそれは打ち出されていた。
二発、三発、青い少年が鬼気迫る表情で気を投げ付けて来る。

発射を確認した瞬間にはもう気が直撃していた。
崇秀のそれのように消すことなど出来ようはずもない。
ギースはただ防御を固めてそれを受け続けるしかなかった。

――こっちが本物か……!

もう一人の秦一族の魂、秦崇雷。
その実力は弟を遥かに凌いでいた。

肩口に直撃を喰らいながらギースが斜めに間合いを外す。
そのまま両手に気を集め、踏み込んで叩き付けた。
邪影拳。しかし、確かに捉えたはずの崇雷には手応えがなかった。

幻か、いや違う。崇秀と闘ったギースにはそれが意味するところが解っていた。
高速でどこかへ移動して躱し、そして戻って来た。弟よりもさらに速い。
意味を理解していても、何が出来るわけでもなかった。

首筋を掴まれる。
そのとてつもない握力にギースの呼吸が一気に苦しくなった。

「ううううううぅぅ…… はぁー!!」

そのまま発勁と共に弾き飛ばされる。

「――ッずおお!」

ギースの身体は信じられない速度で地表を滑り、遥か後方へ弾き飛ばされていた。
だが、すでに残像を伴って崇雷が目の前に居る。

片膝を突いたまま反応して足を掴もうと手を伸ばす。
その瞬間にはもう崇雷の姿は空にあった。両足を打ち下ろされる。
後頭部を打たれ、うつ伏せに倒れ込んだ。すぐに蹴り上げられる。
反撃に出した蹴りはやはり残像の中に消えた。
「天耳拳!」
崇雷が回転しながら上昇し、ギースは巻き込まれるように掌を浴びて倒れた。

それを見て、崇雷が首を鳴らす。

「まだ終わりじゃないぞ……!」

ギースは弾かれるように手招きする崇雷の頭上を取った。
空中で掌が光る。

「疾風拳!!」

渾身の疾風拳が崇雷の元いた場所を襲った。
後方に着地しながら移動場所へ拳を出す。
空中からの広い視野で確認すればそれは見えないものではなかった。

拳が掠った。
続けての回し蹴りを崇雷がガードする。
そこから下段を打つとまた崇雷は消えたが、
気配の方向へ放った裏拳は完璧にヒットした。

移動範囲は確認した。後は気配を見切れるか否かの一点にかかっている。
ギースはそう考えた。
この少年の気は崇秀と違って強いが荒い。
あまりにも激しいその殺気を見切れば例え見えなくとも姿を追える。

「アァー…… ハァ!」

再び宙へ飛んだ崇雷を上昇中に蹴り落とす。
弾んだところをサッカーボールを蹴るように蹴り飛ばした。
そして左拳に気を集める。

「烈風拳!」

ステージを包む炎が激しく揺れはためいた。
練り込まれた烈風拳。躱す時間はないタイミング。
崇雷は両腕を交差させて防御を固めた。

だが、それは防御の姿勢ではなかった。

「他心拳!」

気が崇雷の身体に飲み込まれる。
それが光ったのも一瞬、今度は烈風が跳ね返り、ギースに襲い掛かった。

「何だと……!」

渾身だっただけに、フォロースルーが長い。
完全に防ぎ切るには時間が足りなかった。

「がぁああ……!」

濛々と煙を上げ、自らの烈風拳に打たれる。
崇雷の姿を探した瞬間にはもう腹に肘が突き刺さっていた。

「神足拳!」

血を吐く。だがそれだけでは終わらなかった。
信じ難い力で首をロックされたギースはそのまま後方に、崇雷の体重ごと押し潰される。
受け身の取りようがない、崇雷の危険な投げだった。
脳天が地面にめり込み、夥しい流血が生まれた。

崇雷は首をポキポキと鳴らし、無表情にそれを見ている。

ギースが動いた。即座に崇雷の足を掴む。
崇雷の表情には微かな驚きが浮かんでいた。

「ズアァー!」

気合の咆哮。そのまま片手で崇雷の身体を投げ飛ばした。
いくら子供の身を超えた腕力を有していても、体重までは増えない。
その軽い身体を投げ飛ばすのは容易だった。

だが空中で消えるように身を整え、崇雷は着地する。
ギースは額を押さえて息を荒げていた。

――ネズミがぁ……!

なんとか技を見切り、当て身投げに賭けるしかない。
だがそれを行うには崇雷のスピードは速すぎた。
気を撃ち出してもいつかの忍者のように跳ね返す技がある。これも見たことがあった。
そのあまりに深い源流はすでにそれだけで強さになっていた。

頭がふらつき、膝が崩れる。
崇雷は残酷にニヤついた後、両手を練って気を収束させていた。
周囲を威圧的に包む炎がそれに恐怖したように荒れ狂う。
凄まじい闘気弾が来る。ギースの脳裏に浮かんだのは極限流の覇王翔吼拳だった。
今の消耗した状態でこれを受け切る自信はない。
動こうとしても揺れる頭が足を縺れさせた。

「タノシカッタゾ……」

その、口を糸で吊ったような不気味な笑いに、ギースは動きを失った。

「パワーゲイザー!!」

その時、光の間欠泉が地表から噴き現れた。

「――!?」

崇雷の身体を荒々しい光が飲み込む。
荒れ狂っていた炎が一層勢いを荒げ、吹き飛ぶ崇雷の身体をさらに上から見下ろした。
崇雷は棺へと続く石の階段に身体を打ち、髑髏の装飾の中に転がった。
髑髏の擦れ合う音が鳴り響いた後、その場所は静かになった。

「――貴様……」

「これで二発目だ…… 次は期待されても困るぜ……」

ギースの斜め前方で、テリー・ボガードが息を荒げていた。
ギースは険しい表情を緩めると、再び立ち上がった。
そして気合と共に喝を入れる。
泳いでいた足がしっかりと大地を踏み締めた。

「敗者が扉を潜るのはルール違反だな」

「そう言うな。あんたを少々痛めつけ過ぎちまったからな。心配になったんだよ」

「下らんことを……」

二人が息を切らせながら笑う向こうで髑髏が動く。

「貴様と共闘など反吐が出る」

「気が合うな、俺もだ」

転がった髑髏の口がケタケタと笑っているように見えた。
それは嘲笑。皮肉な二人と、この程度では終わらない闘いへのふざけた笑い声。

「キサマ……!」

崇雷がゆっくりと髑髏の中から這い出て来た。
睨み付ける眼光はただそれだけで針となって肌を打つ。
それが崇雷の闘気であるかのように、炎が彼を中心に立ち昇っていた。
いや、事実、青白い炎が彼の背中から噴き出ている。
そして、消える。さらに上がった、本気のスピード。

「!?」

目の前に突然、現れた崇雷にテリーの構えが遅れた。
すぐに両の拳を同時に打ち込まれた。
大熊に殴られたような衝撃。テリーは吹き飛んで倒れた。
そしてその場所へ再び崇雷が出現する。
だがそれはギースの予測の範囲だった。

「でぃやぁ!」

踏み込みながらの勢いの乗った拳が崇雷を打つ。
しかし残像。側面へ移動した崇雷は再び気を投げ付けて来た。
それに打たれ、大きく仰け反る。第二射が放たれた瞬間、今度はテリーが駆けていた。

「トゥアァ!!」

テリーの蹴りが崇雷を捉える。

「ムダダァ!」

ガードの上から押し返され、バランスを崩された。
凄まじい腕力。バランスを取り戻そうとした瞬間にはもう目の前に崇雷の姿があった。
強烈な肘が腹に打ち込まれる。テリーが身体を折って血を吐いた。
さらにそこに顎を狙った突き上げ蹴りが打ち込まれる。
顎を押さえて蹲ったテリーに崇雷は気を練り上げていた。

「漏尽拳!」

放たれた球体がテリーに接着し、崇雷の掌と餅のように繋がった。

「ぅおわああ……!」

それは、気で血管を作り血を供給させる奥義。
テリーの気を、崇雷の掌がストローのように吸い取っていた。
テリーの力が抜ける。
崇雷の全身を包む闘気がさらに巨大な炎となって燃え上がった。

「――邪影拳!」

だが、その脇から滑るように接近して来たギースの掌が打ち込まれた。
気を纏い、突進の威力をも利用した強烈な一撃。
無防備だった崇雷は地面に回転しながら転がり倒れた。
同時に、テリーも崩れる。
ギースは追撃を打つべくさらに駆けていた。

だが、僵屍のように不自然な起き上がり方をした崇雷はカウンターでギースを蹴り飛ばし、
再び尋常でない量の気を練り始めた。

「帝王宿命拳!」

それが、放たれる。
直線上に並んでいたギースとテリーが揃って転がり込むように直撃を躱した。
異形の恐竜の巨大な骨組みに、ブラックホールに飲まれたような穴が空く。
そして支えを失ったそれは崩れ去り、壁に押し当たった気弾は
また同じ空洞を残して視界の果てへ消えた。
人体に当たればどうなるのかは、二人のゾッとする神経が物語っていた。

「冗談じゃねぇな……」

「怖いか? 逃げても良いのだぞ」

「それもまた、冗談じゃねぇ」

冷や汗を伝わせながら笑う二人の先で、再び崇雷が気を収束させている。
ギースとテリーが一斉に飛び散った。
だが、崇雷の腕から吹き出たのは闘気ではなく、
血管がはち切れた両腕からの血しぶきだった。

その腕を呆然と見る。
そして、襲って来た痛みに唸った。

「ぅぬおおお……!」

――こんな、子供の身体に窮することなく……

崇秀が最後に言った言葉がギースの脳裏を走った。
崇秀が弱く、崇雷が強いのではない。
崇秀は子供の身体で扱えるだけの闘気にセーブして闘っていたのだ。
だが、崇雷はそれを行っていない。
それ故に強く、そしてやがて、限界が訪れる。

「バーンナックル!」

テリーの拳が崇雷の頬にめり込んだ。
それを喰らいながら、真っ赤に染まった腕を振り抜いてテリーを吹き飛ばす。
さらに駆け込んで来たギースに気を投げ付けると崇雷から大量の血が飛び散った。
それでも眼は鋭いまま。
その恐ろしいまでの闘志に、
確実なチャンスでありながら二人はそれ以上踏み込めなかった。

「秘伝書ヲ、ヨコセェェ!!」

崇雷がギースに向かって踏み込んで来る。
消える踏み込み。ギースのガードの上から蹴りが跳んだ。
その重さに食い縛った歯から血が滲む。

さらに腕が伸びたような俊敏な突きが一瞬で数発打ち込まれた。
その度に崇雷の鮮血が舞う。
崇雷が止めの肘を構えた。
その構えだけでバケツで放り捨てたように崇雷の血が飛び散った。

テリーが再びバーンナックルで飛び込んで来る。
崇雷は肘を止め、テリーに天眼拳を投げ付けた。
すでに重い腕。狂った照準はテリーの頬を掠めただけだった。
拳がめり込む。倒れない崇雷にテリーはボディブローを放った。

だが崇雷が消える。いや、身を屈めただけだ。
その体勢からの全身を使った足払いがテリーの足を後方から刈り取った。
血でぬめる手でテリーの首を握って起こした崇雷はそのまま発勁を行い、
自身の出血と共にその身体を大きく吹き飛ばした。

そして気を練り込む。もう一度、宿命拳。
闘気と共に血を炎として巻き上げながら、崇雷の低い唸り声が響いた。
照準はギース。激痛が走っているだろうに、すでに崇雷の眼は正気ではなかった。
闘神、それはまさに闘神そのものの姿だった。

瞬間、ギースの気が弾けた。
命を代償に、枷が外れる。
遠き日に否定した命を削っての踏み込みが、
宿命拳が放たれる前の接近を可能とさせていた。

一瞬で眼前に出現したギース・ハワードの姿に、崇雷の眼が見開かれる。
その刹那、崇雷の顎には突き上げる掌が抉り込まれていた。
そしてすぐに、気を纏った逆の掌が腹へと打ち付けられる。
さらに折れた身体を上から打った回し蹴りが崇雷の意識を一瞬、飛ばした。

腕を交差させ、振り被る。
テリーの見開かれた眼の先で、血のような、赤く、美しい閃光が走った。

――運命など……!

「レイィジング――ストォォム!!」

ギースの両腕が振り下ろされると同時に、刺々しい闘気の刃が大地から突き現れた。
それは、召喚された剣のように、崇雷の肉体を刺し貫いて漂い、そして地に還った。
大きく弾んで着地した崇雷の身体にはすでに力はなく、
この呪われた闘いに決着がついたことを物語っていた。

――――……

ギースも膝から崩れる。
起き上がって歩み寄ろうとしたテリーの足もまた途中で崩れた。
だが、二人の顔にはあるいは邪悪に、またあるいは陽気に、確かな笑みが浮かんでいた。


それが遮られたのは一条の、しかし太陽のように熱い光。


「何!?」「何だと……!」

崇雷が起き上がり、すでに動かないのであろう右手をダラリと下げたまま、
左の掌の上で巨大な光球を作り上げて唸っていた。

「ぅぅうううおおおおおおおおぁあああああ!!」

二人は動けない。
その眩い光で金縛りにあったように、引き攣った顔でそれを眺めるしかなかった。
それを防ぐ手立ても、それを止める力もすでにない。
万事休す――


だが、放とうとした崇雷の左腕はさらに血を吹き、
やがて全身から、霧のように赤が立ち上った。
霧と共に、崇雷の力が抜けていく。
全身を襲った虚脱感は意識を昏睡させ、そして、年幼い少年の身体に、休息を与えた。

前のめりに、崩れ落ちる。
その後、崇雷が再び起き上がることはなかった。


2200年前の伝承を信じ、遥かなる時を超えて現れた忌まわしき血族の呪縛が、
黒い霧となって消えていく――

それが真実だったのか、あるいはそう思い込んだ兄弟の壮大な茶番劇だったのか、
それは誰にも解らない。

ただ、動かない兄に縋りつく少年の年相応のあどけない涙は、
彼らが確かに被害者であったことを語っていた。
テリーは崇雷を抱え上げる。強靭な生命力、まだ死んではいない。

穿たれた空洞の向こうで黒いリムジンが止まったのが見えた。
赤い棒を持った男、ビリー・カーンがそこから足早に駆けて来る。
テリーがギースを目で探すと、ギースは棺の上に立ち、最後の秘伝書を握り締めていた。
他の二本も取り出し、ギースはその三本を片手で握り締める。

「そいつを、どうする気だ……?」

ギースは口の端を吊り上げ、やがて天へ仰け反って笑った。

「フフフ…… ハッハッハッハッ!!」

数々の悲劇を引き起こして来た呪われた秘伝書が、ギースの手を離れる。
その先には轟々と燃え盛る、火の間のシンボル、灼熱の業火があった。

「テリーよ、これでこの街は再び私の物となる!
 この首、欲しければいつでも私の城へ来るが良い!」

「OK……!」

テリーは力強く笑って、ギースに背を向け、崇秀と共に歩き出した。
ギースも同じく、テリーとは反対に歩く。
走って来るビリーに道着の上をかけられたギースはもう一度大きく笑い、
ベントレーへと消えた。

秘伝書を餌に、轟々と燃え盛るデルタパークの炎が勢いを増す。
それは、そこに在った怨念さえも、静かに焼き尽くすように見えた。

1995年、1月21日に起こった、知られざる怪奇だった。



意識の戻ったアンディは順調に回復し、やがて舞との相談の結果、
以後は日本の病院にかかることになった。

アンディのいた病室には現在、ホンフゥとフランコ・バッシュが入っている。
フランコには妻エミリアと息子ジュニアが毎日見舞いに現れ、
ホンフゥにもブレンダという美人の恋人が見舞いに現れる。
ホンフゥを見舞いに(からかいに)顔を出したジョーがそれを見てひどく荒れたらしい。
その後、リリィに会いに行って兄に燃やされたそうだ。

仕事を終えたマリーは、秘伝書は持ち帰れなかったがその全容を突き止め、
フランコの息子を救出した手腕をクライアント外からも評価された。
だが、何かに手引きされるように導かれたジュニア救出は彼女の腑に落ちず、
フランコからの礼を一切断った。
助けたのは自分ではない、というのが彼女の言い分だった。

山崎は結局行方不明のまま、現在も逃亡中。
逮捕出来なかったホンフゥは無念を募らせたが、
これで組織の勢力が弱まったチンは大喜びだ。

秦兄弟は治療が終わった後、タンの下に預けられ、
二度と魂を暗黒に染めないよう精神修行を行っている。
崇秀はテリーに会いにサウスタウンへやって来たキム・カッファンの足技に魅了され、
教えを受けているうちにやがて道場で引き取られたらしい。
超スパルタと評判のキムの道場だけに、兄崇雷は心配だ。


テリー・ボガードは、サウンド・ビーチの波止場に座っていた。
海へ目を向けると一対のヨットが波に揺られている。
強い日差しの中、潮風が心地良い。

目線を戻すと、その先には一人の少年の姿があった。
印象的な、赤い瞳。それがいつかの少年であることにテリーはすぐに気付いた。

「よぅ坊主、また会ったな」

「うん……」

「――食うか?」

小さな、ささやくようなそれを聞いて、テリーがホットドッグを差し出した。
少年は動かない。ただ、その赤い瞳でテリーを見ていた。

「腹減ってないのか?」

テリーが陽気に声をかける。
少年はゆっくりと歩いて、ホットドッグを受け取った。
それを微笑んでテリーが見詰める。

一口齧ると後は早かった。
よほどお腹が空いていたのだろう。
テリーはもう一本取り出して差し出した。
少年は首を横に振る。

「食わねぇならカモメの餌にしちまうぞ」

ホットドッグを空に投げるポーズ。
本当に投げ捨てたと思った少年は慌てて飛び上がった。
だが、パンはテリーの腕の中にある。
テリーは笑って少年の口へホットドッグ挿し込んだ。

もが、と、間抜けな声を出して、しかしそれに齧り付く。
テリーは缶ジュースを買って来ると少年に投げ渡した。

「なんで……?」

掠れるような声で少年が聞いた。

「あ? 一人で食うより二人の方が楽しいだろ? それだけさ」

そう言ってテリーはまた袋から取り出したホットドッグに噛り付いた。
少年はその言葉を不思議そうに噛み締め、ジュースを口にする。
炭酸が広がる。それに少し驚いた。
少年はファーストフードや炭酸の入ったジュースを口にするのは初めてだった。

「坊主、名前は?」

「ロック……」

「ロックか、男らしくて良い名前だな。父さんがつけたのか?」

ロックの表情が歪んだ。テリーの顔も怪訝になる。
それは、かつて自分が取り付かれていた、憎しみという魔物に酷似していたからだ。

「父さんはいない」

ロックは俯き、搾り出すようにそう言った。
きつく結ばれた唇と、震える身体。
テリーはそれを一目だけ見て、空に顔を向けた。

「――母さんは?」

「――死んだ」

今度は、泣き崩れそうな悲しい声。
その痛みからまだ解放されていないことが姿を見ずとも解った。

ポンッと、テリーがロックの頭に帽子を置いた。
そのまだ大きな帽子は目元までをすっぽりと覆い、
ロックは視界を失った困惑に頭を押さえて顔を上げた。
そこに、テリーの暖かい笑顔がある。

「お前も俺と同じ身の上か。
 よしっ! 今日から俺が、面倒見てやるぜ!」

背景の青と混ざり、その笑顔がロックには透き通って見えた。
その笑顔を見たくて、ずれ落ちないよう帽子を両手で押さえる。
照れくさかったのか、再びロックの口に食べかけのホットドッグを突っ込んだテリーは、
咳き込むロックを見て豪快に笑った。
その笑い声をカモメが運ぶ。

ロックは非難の声を上げようとしたが、つられるように無自覚に、
いつ以来かも思い出せない、笑顔が浮かんでいた。

もうテリーには渡さない。
そのホットドッグを勢い良く完食することがロック・ハワードのささやかな復讐。
昼食を失ったテリーの情けない嘆きにロックは屈託無く笑った。



ギースタワーに灯が灯る。命が、明々と灯って行く。
最上階に点いたその光はまるでこの城の主の眼光にように、鋭く、気高く輝いていた。
それは覇者の証。この街を再び支配した男の、王者としての威光。
巨大な柱を失い、右往左往するだけだった民を再び威圧する、
支配者が帰って来た証だった。

それは彼らにとって幸福なのか、不幸なのか。
正義なのか、悪なのか。
ただ、そんな物を超越した場所にこの男が存在することを、
三年間、主の帰還を待ち続けた男達は知っている。

葉巻を手に立ち、いつもの様に窓から街を見下ろす。
もう夜が押し寄せようとしているのに、その街は光を放って足掻いている。
必ず迫り来る闇を押し戻そうと、無駄な抵抗を続ける。
やがては呑まれると誰もが理解し、嘲笑さえ浮かべているのに、
それでも闇を押し戻せると信じ、狼達が光を放っている。

ギース・ハワードは口の端を吊り上げて笑った。

「ギース様……」

ビリー・カーンが声を発した。
ギースはゆっくりと椅子に座り、ビリーに向き直った。
その後ろには包帯姿のリッパーとホッパーが居る。
ビリーは聞き辛そうに、次の言葉を発した。

「秘伝書のことですが…… 本当によろしかったので?」

ついに三本揃った秦の秘伝書。
三本在ってこそ完全と言われるその秘伝書を
ギースがみすみす焼き捨てたのはビリーには疑問だった。

タン・フー・ルーの異様な変化はビリーの記憶に未だ新しい。
ギース自身もそこに記されていた秘孔の力により完全復活を果たした。
秘伝書の解読に成功した暁のリターンは果てしなく大きいだろう。

だが、ギース・ハワードはそれをハッキリと否定した。

「ビリー、あの秘伝書には取るに足らぬまやかしの過去しか詰まってはおらん。
 最強の者が手にするという伝説。価値があるのはそれだけだ。
 二千年もの歴史の中で全てを揃え手にした者が、
 この私だという事実さえ残ればもう用は無い」

「は、出すぎた進言でした」

「構わん」

秘伝書を巡る数々の悲劇が、秦崇秀の言った過去からの決まりだとは思わない。
それはそこに欲望があったからだ。起こるべくして起こった悲劇を人形が思い込んでいる。
そして、秘伝書は人の願いを吸うだけ吸い尽くし、何も叶えてはくれない。

もう、必要のない物だ。
そんな物がなくても自分はジェフ・ボガードと、ヴォルフガング・クラウザーと闘った。
そう、ギースは確信する。そしてその結果はいずれかの死だっただろう。
もし本当に運命があるとするならば、それこそが他者の介在する余地のない、宿命。
秘伝書などという下らない物の出る幕ではない。

――必要ない。

そう、必要ないのだ。もう彼は何も必要としていない。
宿命は終わり、すでにクラウザーはこの世を去った。
例えシュトロハイム家がまた復興したとしても、もうギースに戦う理由はない。
対抗する組織など必要ないのだ。
ハワード・コネクションも、そしてこの街も、すでに意味を失った瓦礫の国――

だが、ギースはまたこの景色を美しいと思った。
この街にはまだ、狼の魂が生きている。
ジェフ・ボガードがいた。リー・ガクスウがいた。Mr.BIGがいた。
タクマ・サカザキが、リョウ・サカザキがいた。そして彼らはまだ、この街で闘っている。

それは、この街こそが、ギース・ハワードの心だからだ。

必要のない街へ懸けた復活への想い。己が野望を懸けた街。
ただ、自分の生きて来た証を、その手に取り戻したかった。

ズキリと、肩口に痛みが走った。
思わず苦痛に歪むが、誰にも気付かせない。
それは、デッドリーレイブを解放した反動か、あるいはクラウザーが言った、
刹那的な魔法が切れかかっているのか――

「不死身の完全体など、この世に存在せぬか……」

だが、ギースは笑う。
何故、今更デッドリーレイブなどを使ったのか。
後悔ではない。咄嗟に自分が取った行動への疑問がギースにはあった。
闘って来た男達を冒涜する、秘伝書の亡霊への怒り――それもあるだろう。
だが、もうギースには解っている。だからこそ笑う。

ただ、あの男の前で無様な姿を見せたくなかったのだ。
たったそれだけの、子供のような意地。

この街への想いも、重りにしかならないと切り捨てたそれと同じだ。
彼はまだ物語を背負っている。
だが、あの男と相対した瞬間、拳を交えた瞬間はまさしく、
何も背負わぬ、飢えた狼そのものになれた。

全てを手に入れたはずのギース・ハワードをムキにさせる男の存在が、
今は心から可笑しかった。

あの男の赤い帽子から、赤い瞳が浮かぶ。
緩やかに、ギースの笑みは醒めた。

「ビリーよ、奴はどうしているのだ?」

奴――ギース・ハワードがそう呼ぶ存在は、今は一人しかいない。
彼はその少年の名は決して呼ばず、不機嫌そうに“奴”と呼ぶ。

「それが、その……」

ビリーは言葉に詰まり、先を言い渋った。

「何だ? 言ってみろ」

ギースの口調は少し荒い。
ビリーは覚悟を決めて報告を行った。

「――ロック様はテリー・ボガードと接触、以後、行動を共にしている模様です」

ギースがゆっくりと椅子を回した。
怒りの落雷が落ちる。ビリーはそう思った。
だが、彼の目に映ったのは心底愉快そうに揺れる、大きな肩だった。

「フフフ…… そうか…… ハハハ、ハーッハッハッハッハッ!!」


運命があるとすれば、そういうことだろう。

その声が聞こえたかのように、遠く、だが近く、
テリー・ボガードがギースタワーを見上げていた。

最後の決着の時が静かに近付いている。
最強は、一人でいい。


【33】

戻る