目が覚めた後は、いつも立ち眩みがする。
死体に縋りつく少年。それを冷酷に見下ろす青年。
時が止まった感覚のまま、時間が動く。未来へは進まない。
過去へ――
遠い過去、青年が、古めかしいが広大な道場の中、地に頭を擦りつけている。
あの全てを見下したような瞳からは想像の出来ない姿。
何をそんなに必死になっているのか、自分には解らない。
さらに過去へ――早送りのように進む。
白髪の少年が正気を失った瞳でナイフを構えている。
言葉として聞き取れない叫びを上げながら走る。
そして少年は、倒れ、打ちのめされ、血反吐を吐いて芋虫のように蹲った。
それでもまだ狂ったように眼を見開いている。
面影がある。彼をそこまでさせる物が、自分には解らない。
そこから世界はゆっくりと動き出す。
ぶつ切りだが、確かな世界。それは、確実に現実として存在した夢。
青年は闘い、闘い、闘ってこの街の頂きへと駆け上がる。
それを、遠くから見ている。
だが、段々と近くなる。
ハッキリとその青年と重なるのは、夢の始まりと、夢の終わり。
死体に縋りつく少年。それを冷酷に見下ろす青年。
現実味のあるぼやけた夢はいつもそこから始まり、そこで終わる。
だが、いつか先へ進むという確信がある。
未来が見たい。そう思う心と、それを恐怖と感じる心がせめぎ合っている。
まだ早い。全てを知るのはまだ先で良い。
大事な子供は、まだ強くなる。
ロック・ハワードは目を覚ました。
今日も立ち眩みがする。まだ明け方。
本能的にテリーを探すと、彼は朝日を浴びながら静かに精神を集中していた。
そして、風を薙ぎ倒すような荒々しい拳を振るう。
何かの迷いを断ち切るように、テリー・ボガードが拳を振るっていた。
「テリー……」
ロックがテリーの元へ引き取られて、すでに半年の月日が流れていた。
「よう、ロック! 寝ぼすけのお前が、今日は早いな!」
呆っとその姿を見ていると、それに気付いたテリーに声を掛けられた。
陽気に戻ったテリーに安心する。と同時にその言い草にムッと来た。
そう言えば言いたかった抗議がある。
「こんなベッドじゃのんびり眠れないんだよ」
口を尖らせるロックにテリーは天へ仰け反り返って笑った。
ここはサウスタウンの外れにある高台で、そこにベッドなどはない。
ただ雑草が生い茂っているだけだ。
つまり、野宿である。
テリーとふらふら街の内外へ旅をしていると、度々野宿というイベントが発生する。
初めはそういうものなのだろうとそれなりに納得していたロックだったが、
半年経った今、やはりこれはオカシイと思うようになっていた。
テリーと親密になるにつれて多少のわがままも口を突く。
駄々をこねてホテルに宿泊したことも何度かあった。
だが、別に野宿が嫌という訳ではない。
無論、好きかと聞かれればYESと答えるかどうか解らないが、
ただ、草むらに転がって空を見上げるのは好きだった。
では何が気に入らないのかというと、食事だ。
テリーの食事はファーストフードが多い。というより、そればかりである。
野宿となれば尚更その傾向は顕著で、育ち盛りのロックはそこに不満を感じていた。
「さてと、ちょっくら街まで降りて朝食を買って来ねぇとな」
テリーが伸びをしながら言う。
「ちょっと待った、テリー」
「ん?」
「昨日の夜もホットドッグだったよね? その前も、その前もなんだけど……」
「そうだっけか?」
「そうだって!」
昨日の夜は気付かなかったが、街を見下ろせばそこは見覚えのある風景だった。
生まれ育った街。母との思い出のある街。
そこにはロックとメアリーが生活していた古アパートがあった。
「今日はオレが作るよ。オレん家まで行こうぜ」
ロックがキッチンに立ち、甲斐甲斐しく良い匂いを立ち昇らせている。
あまりにもファーストフードが多いのに辟易して自分で作ってみたら、
口に合ったらしくテリーは褒めてくれた。
母の手伝いをしていた頃の記憶を使っての真似事なのだが、
実際、彼の料理はレベルが高い。
かくしてテリーは7才の少年にキッチンを任せ、テーブルで大人しく座っているのである。
この家の門を潜ると、ここで聞いた少年の名が記憶を揺さぶり起こす。
ロック・ハワード、それが彼の拾った少年の名だ。
たまたまあの男と同じ名を持った少年――
そうは思えなかった。時間が凍りつく。殴られてもいないのに足場が歪んだ。
だがテリーは、激しく地に体重を引かれながらも笑みを浮かべている自分を知る。
運命というものは確かにあるのだろう。
それは、超常的な導きによって出会いを、時には悲劇を運ぶ。
だがそこから先を選ぶのは自分自身だ。
ふとギース・ハワードの言葉を思い出しながら、この皮肉な運命さえ微笑みで受け入れていた。
いつやって来ても、この家にはぬくもりが残っている。
彼の母の想いと、彼の母への想いがまだ暖かく残っている。
それがいつまでも残っていることをロックは不思議には思わない。
家賃を払わない家。
金という無機質な力によって容易に消えてしまうはずのこのぬくもりが
まだ残っている意味を、テリーだけが苦笑混じりに理解している。
料理が並ぶ。テリーがたくさん食べるのを知っているため量は多めだ。
三枚に重なったパンの香り。少し焦げ付かせたスクランブルエッグ。
サラダのドレッシングはロックのお手製だ。スープは暖かい湯気を上げている。
簡単なモーニングフードだが実に美味しそうに見える。
ガツガツとテリーがそれを口に運ぶ。
母のしつけの賜物か、ロックは行儀良くそれを食べている。
目が合わないよう気をつけながらテリーの様子を見る。テリーは満足そうだ。
「相変わらずやるなぁ、ロック。
んぐ、リチャードにスカウトされるのも時間の問題だな、こりゃ」
「別に、こんなの誰が作ったって味なんか変わんないよ」
「いやぁ、そう言うがなかなかのもんだぞ。あぐ」
「また食べながら喋る…… 喉につかえるよ」
野宿は多いが、別にテリーの収入が少ないわけではない。
勿論、定職についている訳ではないので安定はしていないし、多い訳でもない。
しかしこの街でテリーがストリートファイトを行うと、人の群が生まれ、金が乱れ飛ぶ。
二人で生活して行くには充分だ。
強すぎるテリーに何故、無謀な挑戦者が次から次へと現れるのかロックには疑問だったが、
闘った後の男達の表情を見ているとなんとなく解る気がした。
テリーの人気はこの街では絶対的に定着している。
簡単な大会に出た際の声援はアイドルのようだった。
そして当然のように優勝をさらって行く。
テリーはまさしくサウスタウンヒーローそのものだった。
だが、テリーへ向けられる羨望とは違った瞳に、やがてロックは気付く。
もう一度、この街を救って欲しい――祈るような瞳。
その意味を、ロックは知る。
サウスタウンヒーロー。
この言葉とその伝説に漠然とした憧れは持っていたが、
実際、彼が何をしたのかは知らなかった。
街を救った英雄。この世で最強の男。
ただそれだけで、子供の彼が憧れを抱くには充分だった。
ギース・ハワードを、もう一度殺して――
祈りの奥に鈍く光る、殺意の嘆願。
それを見る度に視界が揺れ、その場に横たわりたくなる。
テリー・ボガードとギース・ハワードは、抜き身で殺し合う敵同士なのだ。
自分がギース・ハワードの息子だとテリーに言ってはいない。言えるはずがない。
言うと捨てられる。それが怖い。もうバレているのかも知れない。気が遠くなるほど怖い。
だがその恐怖さえ許されないことだ。
ギース・ハワードの息子がこの人の側にいることがすでに許されないことなのだ。
自分が、ロック・ハワードがテリー・ボガードの側にいるだけで、
テリーを騙している結果となる。そして、人々の祈りも、枯れ葉となって消え落ちる。
ギース・ハワードの死がこの街の人々の救いならば、
ロック・ハワードは存在するだけで罪――
だが、それでも離れられないのは、テリーのことが好きだという、
単純にして、純粋なまた彼の祈りでもあった。
テリーの大きな手に、彼は与えて貰えなかった父という存在を感じていた。
その度、あの冷たく突き放された本当の父の背が浮かぶ。
実際、父親という存在が彼には解らない。
テリーのことを父と呼ぶことは出来ない。
だがそれでも、彼はテリー・ボガードの大らかな父性に埋められ、
その笑顔の中での生活を手放せないでいた。
それが罪と知りながらも、それでもテリーが好きだった。
「あんまり食ってばっかだと、太った狼になっちまうよ」
彼は笑顔で言う。
これからもずっと、この時間を大切にしたい。
その先に逃れられない悲しみが待ち受けていたとしても、今はただ、こうしていたかった。
6月――
釣り糸を垂らしながら波止場に座り、海を眺める。
抜けるような青い空。
呆っと、波の音とカモメの鳴き声を聞きながらテリーが海を眺めている。
遠く、今は見えないサウスタウンを見つめる。
何度もその街へ足を踏み入れ、またふらっと旅に出かけた。
目的地があるとすればその場所なのに、今は近付けない。
だが、そう遠くへも行けない。
あの街には重力がある。その重力は狼を捕らえて離してはくれない。
――貴様は逃げ出したのだ、ボガード!!
いつかギースに言われた言葉が耳を刺す。
重力を放っているのはあの男か。あるいはあの男もまた、重力に捕らわれているのか。
様々な場所へ流れながら、気がつけばいつもサウスタウンを見ていた。
――この首、欲しければいつでも私の城へ来るが良い!
あの男はこうも言った。
なのに、まだこの場所から動けない。ギースタワーへ行くことは出来ない。
その理由がハッキリと解っているからこそ、テリーはこの場所で金縛りに遭っていた。
それはやがて、苛立ちに変わる。
「随分と捜したぜ、テリー・ボガードさんよ」
「ビリーか……」
背を向けたままの返事。
「えらくつれねぇご挨拶じゃねえか」
瞬間、ビリーの三節棍が伸びた。
だがテリーは僅かに身を動かすだけでそれを躱した。
棍はテリーの帽子のみを貫き、ビリーの手元に戻る。
驚嘆すべき反応。微かな動揺が走る。
それを隠すようにビリーは空を見上げた。
青々と照り輝く、サンタフェの青い空。
「しかし、こんな空を見せつけられると、テメェの体ごと洗濯してやりたくなるぜ」
テリーは帽子を拾いながら振り向き、鋭く答えた。
「やれるもんなら、やってみな」
その眼は太陽の光を浴びてギラギラと煮え滾っていた。
グローブをきつく絞める。爆発寸前の花火のような激しさがあった。
「えらく荒れてやがるな。だが勘違いされちゃ困るぜ。
今日はギース様の伝言を持って来ただけだ」
それを聞き、ゆっくり拳を下げる。だが眼に込められた気はそのまま変わらない。
この日が来るのは解っていた。
「大体の見当はつくぜ。いつだ?」
それを考えると身体が重くなる。
「そいつは話が早ぇ。あんまりテメェが来ねぇもんで俺達も待ちくたびれちまってな。
こちらからご招待ってわけだ。
だがこっちにも色々と雑用があってな。半年後だ。
半年後のKOFで腐れ縁を終わりにする。まぁせいぜいトレーニングに励むこった」
テリーは目を閉じ、半年前の闘いを浮かべる。
自然、合わせた歯が軋み、拳が震える。
「帰ってギースに伝えろ。今度は絶対にぶっ倒してやるってな」
「おー、怖い怖い。
随分と焦ってるみてぇだが、半年後もその威勢があれば良いがね」
「何だと……」
睨み合う。互いに拳は下げたままだが、間合いは一触即発。
いつ拳が飛んでもおかしくない張り詰めた緊張感が漂った。
だが、込められた気を解き、ビリーが薄笑みを浮かべた。そのまま背を向ける。
テリーがそれに訝しげな反応を示すと、その目の前に黒いトランクが置かれた。
手馴れた手つきでビリーがそれを開く。中には大金が入っていた。
片膝を突いてテリーを見上げながらビリーはニヤニヤと笑った。
それがまたテリーを苛つかせる。
「何の真似だ……?」
「勘違いすんじゃねぇ。テメェにじゃねぇよ」
理解。
――なるほど……
「へぇ、あいつにも親心ってもんはあるらしい」
「いや、俺の独断だ」
「――何?」
「俺はギース様ほどテメェを信用しちゃいねぇんでな。
コネクションの金を横領だ。後でコッテリ絞られて来るぜ」
馬鹿にしたような笑いはこの男なりの照れ隠し――
その言葉を意外に思いながらも、毒気を抜かれたのは確かだった。
「――解った、この世でまた会えるよう祈っておくよ」
「無駄遣いすんなよ…… じゃあな」
ビリーが悪態をつきながら片手を上げて去って行く。
――そういや、妹がいるとか聞いたっけな。
「あの、歩く凶器がねぇ」
小さくなっていく背を見ながらテリーが微笑を浮かべていると、
ホットドッグを持ったロックが駆けて来た。
「テリー、買って来たよ。でもあんまり食べ過ぎるとよくないから、今日は……
って、何これ!? テリー、どこから盗んで来たの!? ダメだよ! 早く返さなきゃ!」
「おいおい、お前の中の俺のイメージはどうなってんだ?
あしながおじさんがお前にプレゼントだとよ」
「え…… オ、オレに……?」
「こわーい凶器を持ったおじさんがな」
もう見えないビリーの背を、遠くに眺める。拳に汗が滲んでいるのに気付いた。
焦ってる――言われた言葉が痛い。
金縛りの理由は、恐怖となってテリーを蝕む。
今すぐにでもギースタワーへ乗り込みたいのに、半年後と言われて安堵した。
その後に恐怖。確実にやって来る未来を告げられた事実がやがて焦りを強めた。
それが今も嫌な汗を伝わせる。
何故、すでに切符を得ているにも関わらずギースの元へ乗り込まないのか――?
理由はハッキリしていた。
――勝てないのだ。
今また闘っても、半年前と同じ結果になる。
それが解り切っていた。
何度イメージしても倒れているのはギース・ハワードではなく、テリー・ボガード。
初めて味わった、決定的な敗北。
そしてあの、秦崇雷を倒した、命が爆ぜたような瞬間の動き。
ギースはまだ奥の手を持っていた。
それを使わせることも出来ず、自分は敗れた。
もう一度闘い、よしんば追い詰めたとしても、結果は同じだ。
――勝てない……
敗北感と共に植え付けられたテリーの金縛りはまだ解けず、
ただ汗ばむ拳を軋ませるだけだった。
血を吐く。誰にも悟られぬように訪れた冷たい山奥で、一人血を吐いた。
一年前の闘いで受けた傷はまだ癒えていない。
いや、もう完全には癒えないのかも知れない。
あるいは、兄のような気功の才能があれば結果は違ったかも知れない。
傷も治り、またギース・ハワードに無残な敗北を喫することもなかったかも知れない。
だが、アンディ・ボガードの傷はすでに致命傷だった。
胸を押さえ、血を吐き出しながらもアンディは木に拳を振るった。
葉が荒々しく揺れ、雨を降らす。凍える木枯らしさえも執念の熱で飲み込むように。
血を捨てる為にこんな場所へ居るのではない。
拳を、削られた身体でありながら彼は尚、拳を高めようと修行に明け暮れていた。
――私のステージには遠いよ。
ギース・ハワードの声が聴こえる。
そして、そんな弱い弟を哀れむ兄の瞳が浮かんだ。
――強くなったなアンディ。次はかなわねぇかもな。
そう言われて苦笑しか出来なかったのは、そこには届かないと知ってしまったからか。
諦めを払拭したかった。それを埋めるのは修行しかない。
だが、限界まで自分を鍛え抜いて訪れた結末が、
呼吸をすら苦痛として信号を送って来る、この胸椎のダメージだった。
それでも拳を振るう。
そうすることでしか、彼には自分自身を信じる材料がなかった。
舞、すまない……
俺の体にはジェフやテリーと同じ血が流れているように思えるんだ……
俺はサウスタウンに戻るよ…… また、会えるといいな……
最期を予感しながら、一匹の餓狼が行く。
その瞳に、二人の屈強な男への執念を灯して――
吹き抜ける風が木々を揺らし、彼へのレクイエムのように歌った。
「なんだぁ、今日は休みかぁ?
せっかく練習生のカワイコちゃん達に稽古つけてやろうと思ったのによぉ……
おーい、アンディ! 舞ちゃーん! 誰かいませんかぁ?」
河口湖湖畔の不知火道場に陽気な声が響いた。
KOFの招待状が来る。この男、ジョー・東にとってこれほど嬉しいことはない。
例えそこにギースの影があろうとも、強い男との闘いは彼の悦びだ。
当然、招待状の来ているだろうアンディを誘ってサウスタウンへ出発する。
そのついでに“カワイコちゃん”に稽古をつけられれば尚、素晴らしい。
そんな思惑を余所に、不知火道場はひっそりと静まり返っていた。
中に居なければ外か。ジョーが道場の裏手へ回ると、舞が一人、呆っと立っていた。
その背に何の疑問もない声を掛ける。
「舞ちゃん! 居るなら返事ぐらいしてくれよぉ。寂しいじゃねぇですか」
だが、振り返った舞の目には大粒の涙が溜まっていた。
それはすぐに零れ落ち、真っ赤な瞳を際立たせる。
「ギクッ! こっ、これは『舞を泣かしたのはお前だろっ! 空破弾!』
とかなんとか言ってアンディ登場ってドッキリだな! その手にはのらねぇぞ!」
キョロキョロと周囲を見渡すジョーだが、アンディの気配はない。
只事でない雰囲気を察する。
「アンディ…… アンディがまた一人で行っちゃったの……」
「まさか……」
アンディの容態は回復に向かっているとは聞いていたが、
完全に回復したとは聞いていない。
そんな可能性を全く考えなかった自分を恥じた。
大声で彼の名を呼ぶといつもの少々うんざりした笑顔で応えてくれる。
そう信じて疑わなかったものが、脆く崩れ落ちる。
だが、一番苦しいのは、自分ではない。
「彼ね、時々、胸の辺りを押さえて苦しんでた……
私、何度か見てたんだけど、何も出来なかった……
痛みを堪えてるんじゃなくて、何だか解らないけど、とても怖い目をしてた……
私、怖くて声も掛けられなかった……」
「――あいつはボガードの名に誇りを持ってる。このままじゃ終われねぇんだよ」
「私、アンディのこと何も理解してなかったんだね……
ジョーの方がよっぽどアンディの気持ち理解してるんだ……」
泣き崩れる舞が鼻をすすりながら言う。
ジョーは大きく溜め息をついた。こういうのは、らしくない。
自分にも、舞にも、らしいやり方があるはずだ。
「そんなこたねぇよ。ウジウジしてても始まんねぇぞ。
……で、どうすんだ?」
ゆっくりと、鼻をすする音が止まった。
「行く…… どうせジョーもサウスタウンに行くんでしょ……? だったら私も連れてって」
止めるにしても、見守るにしても、行動しなければ始まらない。
涙を拭って立ち上がる舞の眼には決意が灯っていた。
――さすがは武道家の女、ってか。
アンディの野郎も幸せ者だ。
ジョーは微笑を浮かべて感心する。
舞はすぐに支度をすべく屋内へと駆け出した。
「――で、また旅費は俺持ちになんのか……?」
メキシコとの国境近くにあるこの町には多くの教会が立ち並んでいる。
その理由は町の歴史に深く関わっているらしいのだが、
テリーにそこまでの探究心はない。ただ、懐かしく思う。
教会とは孤児が集まる場所で、自分と、そしてアンディの始まりの場所。
両親に見守られながら生まれた子供が長年住まう家を想うように、
テリーの想いもまた教会にあった。
短い期間だったがアンディと二人、この教会に居たこともある。
テリーが扉を潜るとすぐに神父が駆け寄って来て両手で彼の手を握った。
テリーは大会で優勝し、大きな金が入ると決まって教会に寄付を行っていた。
そんなテリーと母を重ね、ロックは誇らしく思う。
今回もまた寄付に来たのだろう。そう思っていた。
神父に声を掛けられた。
母を失い、父に捨てられた後、ロックも一時期この教会に居たことがある。
人の良いここの神父にはロックも心を許していた。
他愛もない話に笑って応える。
だが、テリーの言葉でその笑みが凍りついた。
「――ロック、ここでお別れだ」
突然の言葉に、目の前が真っ白になった。
吐き気がし、倒れそうになる。
理由が解っていたからだ。自分が、ギース・ハワードの息子だと知られている。
そうでなければ、あの優しいテリーからその言葉を聞くなど考えられなかった。
「な、なんで……」
そうと解っていてもまだ信じられず、答えなど聞きたくないのにそう口が動いていた。
テリーは寂しそうな笑みを浮かべている。そして優しく通る声で言った。
「ロック、俺にはどうしても決着をつけないといけない男がいる」
寂しげな笑みは、次第に決意へと変わる。
独白のようにテリーが続ける言葉にロックは聞き入るしかなかった。
「その男は俺の全てだった。その男を倒すためだけに生き、拳を磨いた。
殺したいと思うほど、憎んでたんだよ。
でも今は違う。超えてみたいんだ、あの男を。
あの男は強い。殺されるかも知れない。だがだからこそ勝ちたい。
ずっと追い求めてたあの男と、俺は闘いたいんだ」
「――怖くは、ないの?」
「怖いさ」
「――それでも……?」
「ああ、俺は闘う。すまねぇな、お前に、とんだ迷惑かけちまうことなって」
テリーは大きな手をロックの頭に置き、また寂しそうな笑顔を浮かべる。
そのぬくもりを離したくないとロックの感情が弾けた。
「テリー、勝ってよ! ギースなんて死んだ方が良いんだ!
あいつは…… あいつは…… 母さんを……」
目に溜まった涙を悟られまいとやがて俯くロックだが、震える肩は抑えられなかった。
どんなに強く目を閉じても零れ落ちる涙を、憧れたもう一人の父の指が拭う。
中腰に視線を合わせ、優しく髪を撫でるテリーの目は見れない。
それがもう、別れの挨拶になるのは解っていたから、
拳を強く握って耐えられない涙を必死にこらえた。
「――色々もっと、お前と話したかったけどな」
その言葉を聞きながら、抱き寄せられたのか、自分からしがみ付いたのかも解らず、
ロックはもう、テリーの胸の中で声を上げて泣いていた。
そうすることで楽になんてなれないのに、そうしたかった。
いつか、この日が来るのは解っていたはずなのに、
テリーとの別れを、とめどなく流れ落ちる涙が拒んでいた。
それでも行ってしまうことを理解していながら、今はただこの胸の中で泣いていたかった。
「テリー…… 勝って……」
囁くようなか細い声。
「――ああ、俺は勝つさ」
それは自分に言い聞かせるように――
一匹の餓狼となって、宿敵と最期の決着をつける。
サウスタウン、因縁の地――
その先にあるのは確実に悲劇だと、彼自身が誰よりも理解しながら――
それでも――
ビリー・カーンが棍を差し出す。
それは、真っ赤な色をより真紅に染めた血塗られた凶器。
何者かの命を奪って来た証だった。
「どうだ、私を殺して来た感想は」
オフィスの椅子に背をもたげ、ギースが意地の悪い笑みを浮かべながら言った。
「似ても似つかない詐欺野郎でしたよ」
ビリーも笑う。
「そうか、奴にしては間抜けな話だな」
10時間程前、ビリー・カーンの棍はギース・ハワードの眉間を射抜いていた。
いや、ギース・ハワードと同じ姿をしただけの、全くの紛い物。
ギース・ハワードという存在は裏社会でも絶大な意味を持っている。
それを倒すことが出来たならば、その畏怖をそのまま手中に出来るだろう。
だが、それを行うのは容易ではない。
ビリー・カーンがシュトロハイム家で得た情報はその矛盾を埋める妥協案だった。
シュトロハイム家の権力はすでにヨーロッパの枠を超え、全世界に及んでいる。
にも関わらず、アメリカ、北米大陸が全くの白紙だったのは、
ギース・ハワードという存在の影響に他ならないのである。
シュトロハイム家はギース・ハワードを直接倒し、
そのバリューを以ってギースシンパの無数の組織を屈服させなければならなかった。
だが、シュトロハイム家はその機会を永遠に失うことになる。
テリー・ボガードによる、ギース・ハワードの殺害である。
シュトロハイム家には新たなギース・ハワードが必要だった。
ならば用意すれば良い。ギース・ハワードの替え玉。日本で言う、影武者を。
後は影武者を傀儡に北米を支配するなり、
彼を処分してギースを倒したというバリューを得るなり、状況を見て何とでも出来る。
だが、シュトロハイム家は影武者を使う機会さえも失った。
ギース・ハワードは生きており、そして当主、ヴォルフガング・クラウザーは敗れ、
死去してしまったのである。
宙に浮いた影武者は単身、ギースに成り代わるべく命を狙い、潜伏し続けている――
だが、そんな茶番もすでに終わった後だ。
ビリー・カーンの棍は、すでにピエロの血を吸っている。
「ええ、どうにもクラウザーの手引きとは思えませんね。
あの男ならもっと――」
ビリーが言いかけて口をつぐんだ。
ギースとクラウザーの関係は知っている。
「何だ、言ってみろ」
ギースは尚も意地の悪い笑みを浮かべている。
どうやら機嫌が良いらしい。それを察して、ビリーは続けた。
「――あの男ならもっと、正面から仕掛けて来たはずです」
「随分とクラウザーの肩を持つのだな」
「いえ、そういうつもりは……
ですが、シュトロハイム家にはクラウザーの地位を狙う一派が存在していました。
奴らがどうなったのか、三闘士が散り散りになった今は消息不明です。
今になって影武者が動いたことも含めて、探りを入れてみた方が良いのでは?」
アクセル・ホークは現役に復帰し、再びプロボクシングの世界に生きているが、
反乱分子の最右翼と思われるかつてのナンバー2、
ローレンス・ブラッドは3年前の闘いの後、ライン川へ消えて消息不明。
まだシュトロハイム家の勢力には不透明な部分が残っている。
「――失礼します」
静かに、リッパーがオフィスの戸をノックした。
ギースの許可を受け、書類を持ったリッパーが入って来る。
「KOFの参加者リストです。
概ねすでにこの街へ集まっていますが、ビッグ・ベアとホア・ジャイは不参加とのこと」
「あの裏切り者共が…… ギース様、潰しますか?」
ビリーが憎々しげな表情を見せ、ギースへと振り返った。
だが、ギースはまだ上機嫌な笑みを浮かべている。
意外に思ったビリーだったが、次の言葉はそれ以上だった。
「好きなようにやれ。お前に任せる」
「え?」
ギースがデスクの上に置かれた赤い棍を握る。
宙に浮いた棍からはまだ生暖かい返り血が滴っていて、
リッパーが置いた参加者リストを赤で汚した。
ポタポタと、血の雫が添えられた写真を侵蝕して行く。
やがてそれは広がりきり、インクと混ざってどす黒い湖を作り上げた。
そこで溺れるのは、あの男だ。
「開戦の狼煙にはほど遠いがな。未来の暗示としては面白かろう。ハッハッハッハッ!」
困惑するビリーの視線の先でギースが愉快そうに笑う。
血塗られた街、サウスタウンで、4年ぶりのキング・オブ・ザ・ファイターズが始まった。
【34】
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